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短編

星の彼方から君を愛す

作者: 久慈柚奈

また、私は夜寝られない。


私は横向きにかかる重力を、頬にざらつく枕カバーの布地を、体にかかったタオルケットの感触をひとつひとつ意識していく。

ああ、また私は夜寝られない。


思えばこれは、布団に入る前から分かっていたことだった。

今日はなんだか感傷的になっていたから。


大学時代からの友達が、職場の同僚が、そしてテレビの中の芸能人さえ――結婚するという。


私は「おめでとう」を言った。

実際にめでたいことだと思ってもいた。

そこに嘘はない。


ただ、自分を振り返って寂しいだけ。


もし何もなかったら。

私も誰かに結婚の報告をしていたのかな、なんて、いつまでも考えてしまうからだ。


隣に立っていたはずの影を、私は忘れることができない。

無理に忘れようとする必要もないんじゃないかと思う。

忘れるなんて悲しいことだから。


ベッドの上で膝を抱えて座る。

サイドテーブルに手を伸ばして、スマートフォンを手に取った。


カーテンを閉め切った夜の部屋。

そこにスマホの画面が眩しい光の窓をひとつ開ける。

だらだらSNSを流し見て気を落ち着けようと思ったけれど、早々に諦めた。


電話のアイコンをタップして、名前を探す。いや、探すふり。

どこにあるかなんてもう分かっていて、見失ったことなんて一度たりともないのだから。


名前を押すと展開される、君の情報。

生年月日、七月二十六日。

もう届かないメールアドレス、勤務先だった場所の名前。

それから電話番号。


押そうとする指が震える。何を話そうか考える。

私は謝らなくちゃ――。

半ば自動的に頭が言葉をひねりだそうとして、そんな自分に苦く笑う。


こんなこと、いつまでも続けてきっと病的だ。


分かっているけど、やめられない。


あってないかもしれない可能性を諦められない。

もしかすると、これは執着だ。


君の番号に電話をかけた。


壁に背中をもたせかけ、スマホを耳に当てる。

電話でおしゃべりする時に、いつもそうやっていたように。


規則正しいコール音に耳を澄ます。目を閉じて、また開く。

音の隙間に君の声を回想した。

そして、君のいない今を少しの間忘れようとする。


思い出に浸っていると、落ち着けた。

多少は緩やかな気持ちで休むことができた。

君が出なくても構わない。

機械的なアナウンスが「この電話番号は、現在使われておりません」と告げてきても、これが私の落ち着き方なのだ。


あと数コール。

それでまたアナウンスに切り替わってしまう。

私はコールとコールの隙間のわずかな静寂を楽しんだ。

ひとつひとつの隙間に君との思い出を挟みこんだ。

心が安らいでいく。でも、そろそろコールも終わり――。


不意に音が止んだ。


「――もしもし?」


心臓が凍りついたような気がした。


両肩から全身に緊張が広がる。

そのせいでスマホを耳から離せない。

通話を切ることができない。


君の番号には、もう次の使用者が決まってしまっていたんだ!


でも、でも。これは機械のいたずらだろうか? 

電話の向こうの声に、聞き覚えがある気がするのは。


「もしもし。元気だった?」


「……え?」


電話の主が、私の動揺と電話の理由を知るよしもない。

私のことを知り合いだとでも思っているんだろうか、親しげに声をかけさえした。


聞けば聞くほど……いや、でも、そんなはずは。

高まる確信を、自分がいちばん信じられない。


「そんな、こと」


まさか。否定してしまいたかった。同時に分かっている。

きっと、これは私の思い違いじゃない。


君が、電話の向こうで話している。


「久しぶり。僕だよ」


「え……あ、うん。……で、でも。でもどうして。だって君」


上手く言葉が出てこない。

だって、の後をどうしても口に出せない。君は今電話に出ている。それで良いじゃないか。


尋ねれば、君はきっと認めてしまう。

私は認めたくない。

だから、聞かなくても良いことなのに。


「うん。僕は死んだはずなのに、だよね」


君はあっさりと認めてしまった。


都合よく避けて通ろうとした、私の虚しい努力が崩れ去る。

分かっていたけど、分かりたくない。

君がもうこの世にはいないこと。


あの日、私が駆けつけた時にはもう、すべて遅かったから。



でも、それならどうして。


「確かに、僕は『死ん』だ。でも、それは肉体だけの話なんだ。

僕の精神――いや、魂と言った方が的を射ているかな――は、昔も今も、ずっと生き続けている」


また抽象的な話。張りつめていた心がふとゆるんだ。


久しぶりに聞いた。まぎれもない、君の話し方だ。


君の話を聞いているのが好きだった。

抽象的だけど、物事の本質を見極めようとしているような言葉選び。

ほとんどの人は気にしないような深みまで見抜こうとする目。


こんな特性のせいで、僕には友達がいないんだ。みんな離れて行っちゃうんだよね。

そう言って笑う君と、私はもっと仲良くなりたいと思った。

私にとっては、まったく違う視野を持つ君といて楽しかったから。

自分が表層しか見ていなかったこと、そのせいで上手く言葉にして捉えきれていなかったことを、君は的確な言葉でくるんで表現してくれる。まるで魔法みたいだった。


生前から不思議な雰囲気を纏っていた君は、今新たに、もっと不思議なことを話しはじめようとしている。


君の話を疑ったことなんてなかったから、私は今も、まず君の言葉を信じた。

そもそも信じなければ、君が出てくれたこの電話をどう説明したら良いんだろう?


「――じゃあ、君は今、魂だけの存在、ってことなの?

それで魂だけの君は、今どこにいるの?」


「シリウス」


飛び出したのは、地球から何光年も離れた星の名前。

さすがに、えっ、と声が漏れた。

私は星に詳しくないけど、この状況の特異性は分かる。

私は今、宇宙人と電話しているとでもいうの?


君は言う。


「こっちに戻ってから、思い出したんだよ。僕はこの星の住人だったんだって。

地球で生きていたのは、しばらくの間、別の星の暮らしを体験するためだったんだ。

本当に、純粋に地球生まれの魂って案外少ないよ。

君にも地球以外の、魂の生まれ故郷があるんじゃないかな」


「ちょ、ちょっと待って。

ってことは君は今、そのシリウスから電話してきてるってこと?

……君、宇宙人だっていうの?」


「地球外生命体って意味なら、宇宙人ということになるかな。

地球を基準に考えるのは、あまりにも狭量だよ。

人類はまだ他の星で生命体に出会っていないだけさ。

この宇宙にはそれこそ数えきれないほどの存在たちが生きている。

みんな周波数が違うから、互いに姿を見せ合わないだけ。

超音波は人間の耳には聞こえないけど、確かに音として存在しているでしょ? それと同じことだよ」


思わず、ああ、と納得させられてしまう。

君は私にとって分かりやすいたとえを分かっている。


「今はちょっと地球の回線を借りてるんだ。君の声が聞きたくなって」


「……」


私だって話したかった。いろんなことを……。

胸の中で言葉がいくつも浮かぶのに、どれも口に出すことができない。


代わりに涙ばかり溢れた。

携帯を握りしめたまま止まらない嗚咽は、きっと君にも聞こえている。


君の声は優しかった。


「ごめんね。寂しい思いをさせて。

君がここまで深く悲しんでしまうなんて、思わなかったんだ」


「当たり前だよ。悲しむよ。好きな人が急にいなくなったら、悲しいよ」


ふっと、君が笑う息遣い。

あのいつもの照れ笑いをしているんだろう。

思い出して、胸がしめつけられる。


「どうやら僕は、自分で思っていたよりもずっと君に愛されていたみたいだ」


「そうだよ。知らなかったの?」


「ありがとう」


「――ねえ、時間制限ってある?」


「この電話かい? 特にはないよ。どうしたの?」


「それなら、今の君がどんな風に暮らしているのか教えてよ」


未知の世界への関心も、もちろんあった。

でもそれ以上に、君の声を聞いていられるなら、なにについてでもいい。

私にまだ謝る勇気はない。


「いいよ」


君は語った。


「まず、目が覚めたら、僕は背の高い本棚が並ぶ空間に倒れていた。まるで図書館みたいなところ――いや、実際に図書館だった。通路は奥深くて、薄暗いもやの中に消えていた。見上げると、書棚もずっと高いんだ。梯子もなくて、どうやって本を取るんだろう? って思ったのを覚えてる」


君は図書館を強調した。

それは無論、図書館という場所が私たちふたりにとって思い出深い場所だからだ。


私たちは図書館で出会った。というより、私が行った図書館に、君がいた。


君に気づいたのは、図書館に通い始めて3回目のこと。

文芸書のコーナーに、いつも同じ人がいることに、急に思い至ったのだ。


文芸書のコーナーは奥まっていて、気軽に見て回るだけの人はなかなかやってこない。

君は相当な読書好きなのかな、というのが私の勝手な印象だった。

私たちは好きな作家の傾向が似ているらしく、隣り合った棚を眺めることが多かった。

そのうち君も時々やってくる私を認識したようで、目が合うと会釈を交わす間柄になった。


ある時、いつものように本を眺めていた君が、ふとその中から一冊を抜き出した。


「あっ」


思わず声を上げてしまう。目が合って、気づいたら私は話しかけていた。


「それ。私前に読んだですけど。すごく良い話で」


「あっ。そうなんですか」


「はい。おすすめです。あの、よく文芸書コーナーにおられますよね。小説が好きなんですか?」


来るたび見かけるものだから、勝手な親近感を抱いてしまっていた。

好意的な反応が重なるうちに、どうやら君もそうかもしれないと思えてくる。


私たちはその場で少し立ち話をして別れた。

次に会った時は館内のカフェでおしゃべりをして、その時間がどんどん長くなって――どちらからともなく、お付き合いが始まっていた。


そんな君がシリウス星にある図書館で目覚めたというのは、なんだかありそうな話だ。


「僕が初めて見る図書館を見回していると、気づいたらそばに男の人が立っていて、僕を待っていたと言った。

彼は僕の兄で、シリウスから、地球で暮らす僕を見守っていたそうなんだ。

その言葉を聞いた時、僕はすべてを思い出した――病院、地球で生きていた僕の死、そして何より、残してきてしまった君のことを。

同時に分かったんだ。僕の本当のルーツはここにあったんだって。

この碧い、星空を固めたような世界にね」


君の口から語られるシリウスは魅力的だった。

1日中頭上に広がる碧い星空。

地球人より背が高く、ほっそりしているシリウスの人々。

果てしない世界に広がる、想像もつかないほど広大で幻想的な風景――夜空を流し固めたような大都市、見渡すかぎりの草原、空との境界も分からないような海。


君の言葉が、私の想像力をかき立てる。

まるで私も、君と同じように星空の中を飛んで、じかに未知の世界を体験しているような気がした。


「水に触れても体が濡れることはなくて、まさに星空の中を泳いでいるみたいなんだ。

星をかきわけて進むんだよ。

それから僕の部屋はマンションの高層にあってね、すごく見晴らしがいいんだ。

友達を招いて一緒に遊んだり、思い浮かべるだけで遠くに移動することもできる。

そう、友達もできたんだ。

ここではみんなお互いの考えていることが分かるんだけど、ひとつのことについて深く考えたり、互いの意見を話し合ったりすることが、楽しみのひとつになっててね……」


私は君の熱っぽい口調に安堵する。


君は、ようやく自分の居場所を見つけたんだね。


時々さ、自分がまったく違う世界の住人だって思うことない? 僕はあるな。


いつか夜道を送ってくれながら、君が呟いていた言葉が思い出される。あれは付き合い始めたばかりの頃だった。


私は君のすべてを肯定していた。

むしろ批判したり、否定したりする必要のあるところなんて何ひとつ見つからないと思っていた。

その思いは今も変わらない。だから君も心を許して、思ったことをそのまま私に話してくれていたのかな。


君は私に出会うまでを振り返って、ずっと周りに馴染めなかった、誰からも理解されなかったと言った。

それは君自身の深い視点や、鋭い指摘を口に出してしまう欠点のせいなんだと。

けれど私は、まさに君のそういうところが好きだった。

誰とも違うところを見ている、静謐な雰囲気が。


「そうだ。こっちの本はすごく不思議だよ。もちろん、ページには文字が書いてあるんだけど、文字を目で追わない読み方もできるんだ。見開きのページをざっと眺めて、そこに込められたエネルギーから物語を『読む』やり方。目で文字を読むよりずっと臨場感があって、まるで自分も本の中に入りこんでしまった感じがする。

きっと君も気に入るんじゃないかな。


誰でも物語を書いて、図書館に収めておくことができるんだ。

町にひとつある大図書館に、すべての本が収められている。僕が目覚めたのもここなんだ。すべての本が集まっていれば、誰でも借りて読むことができるでしょう。

図書館の真ん中には特別な端末があって、他の惑星の芸術にも触れられるんだ。

地球の小説を読み直したりとか。

ここでは芸術がすごく大事にされていてね。

僕は本が好きだから特に本にフォーカスしているけど、絵画でも、音楽でも、彫刻でも……何かを作ることに関しては、全部に同じことが言えるんじゃないかな」


「うん」


相槌を打つ声が震えそうになって、全身がぎゅっとこわばる。相反する感情が一気に押し寄せてきて、どうすれば良いか分からなくなった。


君の声から伝わってくる。

君は今、健康で幸せだ。

もうなじめない感覚に悩むこともなく、好きな本を読み続けている。

君の幸せが、私にとってもすごく嬉しい。


同時に、寂しい。


何光年かも私には分からないほど、君は遠く離れてしまった。

私はもう元気な君の隣を歩くことができない。

一緒に笑うことも、肩を寄せ合う感覚も、未来を一緒に生きていくことも。

この電話だって、切れてしまったら次にいつ繋がるか。

それとも、この一度きりで終わりなんだろうか。


思い至ると、寂しさばかりが大きくなる。


――謝らなきゃ。

唐突に使命感にも似た感覚が湧いた。


「それで、そっちはどう? 最近はなにしてた?」


君は無邪気に問いかけてくる。私は答えに窮してしまった。

謝らなきゃ。その気持ちに嘘はない。


でも、怖い。


もしも、「実はまだ怒ってる」と言われたら? 

「あの時は傷ついた」と言われたら……。

私はどうしたら良いか分からなくなりそうだ。


いっそ何もなかったことにして、他愛ない話だけでこの電話を終わらせてしまおうか。


「……」


迷っている間にも、刻々と無言の時間が過ぎていく。


「あれ、どうしたの?」


君の不思議そうな問いかけ。


迷っているのが苦しくなって、私は詰めた息を吐き出すように口を開いた。


「ごめんね。最後に嫌な思いをさせるようなことを言って」


「……」


唐突な言葉に、さすがの君も黙りこむ。

私はさらに言い募った。


「本当はあの時、あんな話題を出されて嫌だったんじゃない。

だから私を帰したんでしょう。

私は私のせいで、君にお別れも言えなくて……。

申し訳なかったと思ってるのに、どう伝えたら良いか分からなくなっちゃった。

君に謝れなかった。

それがすごく、すごく気がかりで、自分が許せなくて」


「そんなこと……」


「ごめんね。ごめんなさい」


涙が出て止まらない。

思い出すだけで、息が詰まりそうな記憶。

ひとつ蘇ると止め方も分からなくて、私は吞まれるように過去へと運ばれていった。



あれがたった8ヶ月前のことなんて、まだ信じられない。

もし何もなければ、私たちは婚約するところのはずだった。


君から連絡がきたのは、もうすぐ定時という頃のこと。


「入院することになった」


「え!?」


自分のデスクで大声を上げてしまい、周りから何事だという目が集まる。

とっさに身を縮めた。

なんで。どうして。詳しく聞きたいのに、動揺に震える手では、返事を打つのにさえ苦労する。


「どうして。どこの病院?」


何度も間違えて消してを繰り返し、ようやく返事を送る。

君の返信は早くて、教えてくれた病院は通勤電車の沿線だった。


「終わったらすぐ行く」


私は実際にそうした。


職場と駅のざわめきを駆け抜けて病院に入ると、開いた静寂が私を包みこむ。

清潔すぎる静けさが、速まった鼓動を強調して落ち着かない。

案内された3階の病室に、君はいた。


「ああ。来てくれたんだ」


君は窓の外を見ていた。

私と看護師さんが近づく気配で振り返り、いつもの、目じりをきゅっと細める笑い方をする。

今は、それが痛々しい。


いつもの笑顔。

見慣れない入院着。

白い腕に刺さった点滴の針。

君のいつもが周りの非日常を際立たせるから、私は一緒に笑えない。

君は努めて明るく、決して楽観できない病名を告げた。大丈夫、何も心配することはないよと言いながら。

私には何の効果もなかった。むしろ、君の明るさがただの空元気に見えて、私の方が虚しくなる。


どうしていつも通りでいられるの? 怖くないの? 怖がってる私の方が不自然なの……?


とっさに、何も言えなかった。


いつも何か言い残したことがあるような気がして、私は毎日見舞いに訪れた。

君は元気な日もあれば、検査や処置で疲れきっていることもあった。


そして毎日顔を合わせていても分かるくらい、急速に痩せていった。


「……私の他に、誰かお見舞いに来たりはしたの? 職場の人とか……。ご家族、とか」


あるとき、つい気になって尋ねてしまった。

私が来る時、いつも君はひとりで窓の外を見ている。それがたまらなく孤独に見えて、不安にも似た思いに駆られてしまったのだ。


一方の君はこれが当然であるかのような口調だった。


「職場の人が1回来ただけだよ。儀礼的にね。家族は、きっと来ないよ。連絡は、いってるのかもしれないけど」


君が家族と距離を置いているのは、今まで一緒にいて知っていた。

計画しようとしていた実家への挨拶や両家顔合わせも、君はどことなく気乗りしない雰囲気だったから。


「どうして……。子どもが入院してるのにね」


それも、とても深刻な症状で。


私は君が家族を避けていることを尊重していた。否定も批判もなかった。


ただ本当の意味では、君が距離をおいている理由を理解していなかったのだ。


君は遠い目をする。


「彼らにとって、僕はどうでもいい存在なんだよ。馴染み方が分からなかったんだ。失ってきた友達と同じでね。少し上手くなった時には、もう僕たちは決定的に違っていた」


私に目を戻す。いつか話題にした時と同じように、君は困ったように笑った。


手を伸ばして、そっと私の袖を撫でる。


「今日は検査つづきで、疲れてて。……眠くなってきちゃった。

少し寝かせてもらっても良いかな」


言外に、今日の面会はこれで終わりにしようと言っている。

私は素直に席を立った。


「こちらこそ。気づかなくてごめんね。ゆっくり休んで」


忘れ物がないか確かめる私を、君はいつになくじっくりと見つめている。


今思えば、私の姿を脳裏に焼きつけようとしているみたいに。


「今日は、来てくれてありがとう」


「やだな改まって。

そうだ、明日は新刊の発売日だよ。買って持ってくるから」


「楽しみにしてるね」


私は病室を後にした。



結局、君が新刊を読むことはなかった。


病院から電話がかかってきたのは、よりにもよって、本屋でまさにレジに並ぼうとしていた時。

私は本を台に戻して、慌てて電車に飛び乗った。


それでも間に合わなかったのだ。


君がいた病室の前で、看護師さんと女性が立ち話をしている。

近づいていくと、この2ヶ月間で顔見知りになっていた看護師さんが私に気づいてくれた。


「あっ。この方が、いつもお見舞いに」


言葉を受けて、立ち話の相手が私の方を振り向いた。


眉が気が強そうにつり上がった、50代後半くらいの女性。くすんだ赤い口紅を引いた唇が、不快そうに歪んだ。


「あなたが、あの子と付き合っていたっていう子?」


投げかけられた問いで私は悟る。

この人が、きっと君のお母さんだ。

無意識に目が泳いで、君の顔立ちと似ているところを探してしまう。

一方、社会人としての私は礼儀正しく頭を下げていた。


「初めまして」


名前を名乗ると、その人はますます不快そうに鼻を鳴らす。


「あなた、人を見る目がないのね」


「え?」


予想もしなかった言葉を投げつけられた。


驚いて顔を上げる。刺すような言葉。

ぶつかった視線は、私を透かして君に投げかけられているようにも見えた。

吐き捨てるようだった。


「あんな変な子のどこがいいのよ。死んでくれてせいせいしたわ。

いつも人の心を読むようなことを言って、気味が悪い。

家を出て行ってせいせいしたと思っていたら、こういう時の手続きには親が駆り出されるんだもの。面倒ったらありゃしない」


理解できなかった。


「……それ、本当に言っているんですか?」


「は? そうだけど」


脳が追いついていかない。

どうして、この人は君のことをこんなに悪く言うの? 

本質を見抜くのは、君の良いところだと思うのに。

気味が悪いなんて、考えたこともなかった。


私が驚きで声を失っている間にも、その人の目はますますすがめられていく。まるで私も「変な子の同類」であるかのように。


「じゃ、そういうことだから」


「……ちょっと待ってください!」


食い下がって、せめてお葬式とお通夜の日付と場所を尋ねようとする。


まだ決めていないと言うので、半ば押し付けるように私の連絡先を渡した。

最後に君とお別れがしたかった。


連絡は、来なかった。



半年前のことなのに、細かいところまではっきりと、見ようとすればするほど詳細に思い出せる。

あの苦々しい1回きりの邂逅は、私にとってあまりに大きすぎる衝撃だった。


自分の子供のことを、あんなに悪く言う人がいるなんて。


君はあの人が言うような、不気味な人間じゃない。

あの場ではっきり言ってやれなかったことが悔しい。

自分もあの人に無言で同意してしまったような、煮え切らない苛立ちと自責。


家族の話をしたときの、君の寂しそうな笑い方を思い出す。

今さら君の感情に思いを馳せて、苦しくなった。


君は小さい頃から、ああやってあからさまに否定されて育ってきたの?

君が悪いと言われ続けて、それがセルフイメージとして染み付いてしまって、だから誰とも馴染めなかったの?


もし、そうだとしたら……。

想像もつかないほど、悲しすぎる。


呆然と電車に乗って、なんとか家に帰り着いた。

暮れていく街を歩きながら、私は同じ場面を何度も何度も思い返す。

つまり、困ったように笑った君の顔。


最後に見た君の顔。


私の記憶に残る最後の君が、あんなに寂しそうだなんて。

もしかして君は、家族の話も友達の話も、本当はしたくなかったんじゃないの?


話を打ち切りたくて、疲れたことを言い訳にして、私を帰らせたんじゃないの。

私は実態を何も知らないで、君を悲しくさせる話題を続けてしまったんじゃ……。


最低だ。


私は最低だ。これは私への罰だ。

君とちゃんと話せなかったことも、お別れが言えなかったことも。


ごめん。

ごめんね。


今さらのように沸き上がった罪悪感は、もはや一生誰にも許されないものになってしまった。

重い。

眠れない。


君に謝りたい。


どうにかして、君に謝りたい。


叶うはずのない一方的な願いが、今日も私を離さない。

それで私はまた電話をかけようとしてしまう。


眠れないから電話をかけるのか、電話をかけたいから眠れなくなっているのか、いつからか分からなくなっていた。



「――僕は、怒っていないよ」


君のまるい言葉が耳を打つ。

え、と思ったのがただの息遣いか、言葉になったかも定かではない。


君は言い聞かせるようにはっきりと、また言った。


「僕は何も怒っていないよ。だって怒る理由がないじゃないか。

あれは全部、僕が選んだことだったんだから。

君に詳しいことを話さなかったのも、君のいないところで終わることも。

君がいたら、悲しませてしまうと思ったから。

『行かないで』と嘆かれながら逝くなんて、僕にはとてもできない。ただ死ぬよりもっと痛ましい。

ある意味、これは僕の都合だね。僕のほうこそ、君に謝るべきかもしれない。

でも、だからね、君は何も謝らなくて良いんだよ。

君は、何も悪くない。

言うなれば彼らのもとに、僕らしさを隠さず生まれようと決めたのも僕なんだから」


「……どういうこと?」


「君が想像した通り、僕は1人で居ることが多かった。

家族は皆、僕とはまるっきり違う。

友達も、先生も、だれも。

だから僕は本を読むことを覚えた。

本を開けば僕と同じように、深い洞察を重ねた人たちが大勢いる。

現実の友達が多くて多くても少なくても良い。

僕には本があればよかったんだ。」


「でも、どうしてわざわざそんな生まれ方を……?」


もしもいつ、どこに、どんな風に生まれるかを自分で決められるなら、わざわざ悲しい場所と個性を選ばなくても良いんじゃないだろうか。


意図をはかりかねる私に向かって、君は一片の後悔も感じさせずにこう言った。


「君と出会うため」


心臓が跳ねて、キスでもされたみたいに何も言えなくなる。


君と出会うため。


君の声で語られたそれが本心なのだと、声を聞けば悟ってしまえた。


「僕は君と一緒に過ごしてみたかったんだ。

同じ本を読んで、面白かったと笑い合いたかった。

君の幸せそうな顔をそばで見たかった。

僕の肉体の手放し方のことで、君には悲しい思いをさせてしまったかもしれないけど……。

今まで話してきた通り、僕は元気だ。

ここから君の人生を見守って、いつでもそばにいることができる。

単に、姿が見えづらいだけさ。

見ることだけが、存在を感じるための手段じゃない。

君の肩に手を置いたときのかすかな重さ、隣を通った時の空気の揺らぎ――他にも方法はたくさんある。

君が1人じゃないと感じられるように、あらゆる手を尽くすつもりさ」


部屋にとどまる夜の空気がゆるく動いて、隣に誰かが座るときの気配を感じたように思う。

君が言ってるのはこれのことなのかな。

君は今、私の隣に座っているの? 

遥か遠い星空を超えて、私たちは隣り合っているのだろうか。


景色が良いというマンションの壁によりかかって座り、スマホに似た電話機を耳に当てる君を想像する。


「だから、どうか悲しみすぎないで。

僕は何も怒ってないよ。

むしろ君の幸せを願っている。

君を1番近くで見守り続ける。

僕たちは遠くて近いんだ」


カーテンの隙間から、碧い光が漏れてくる。

刻々と明るくなる。

近づいてくる朝の足音。


私はごく自然に悟っていた。


いつも目を覚ます時間になったら、きっとこの電話は切れてしまう。


君との会話が終わってしまう。

もうこの形では繋がれない。


どうしても言っておきたいことがあった。


「ねえ」


「うん?」


「この先、私には幸せがあるのかな。今は想像もできないよ。

でもね、これから先どんなことが起きても、これだけは確かなこと。

君ほど好きになれる人なんて、きっと他にいないよ」


ふふ、息を吐く音。

君は、きっとまた照れ笑っている。


「ありがとう。僕も、そうだよ」


そうして私たちは黙りこむ。

世界が目を覚ましていく、気配にも近い音に耳を澄ます。

もう1番伝えたい事は言ってしまって、心もいっぱいなのに、名残惜しくって手放せない。


君は今、遠い星でどんな景色を見ているの?

私にやってくる幸せってどんなだろう。

君といる以上の幸せなんて、今はその存在さえ信じられない。

もしそれを信じられ、次に私が「幸せだ」と感じるようになるのはつまり、君を失った痛みが和らいで、次第に忘れていってしまう前触れなんだろうか。

いや、違う。

君は終わってない。

私の幸せを願ってくれている、私をずっと見守ってくれている。

飲み下した情報が少しずつ消化されていくように、1秒が積み重なるごとに、私は理解していく。

変わっていくことと、変わらずそこにあるもののことを。


次第に心が安らいで、肩から力が抜けていった。


カーテンの外は、どんどん移り変わって朝に近づく。

青みがかっていた光は白を増して、きっと今にも黄金色の太陽が強い光を投げこんでくるだろう。


思い出したように、携帯を耳から話す。電話はいつの間にか切れていた。


とっさに身構えたけれど、私は寂しさを感じなかった。

それどころか、満ち足りている。

遠くて近い場所にいる君は、そばにいてくれているはずだから。


立ち上がってカーテンを開ける。白い光が部屋から夜を洗い流す。

この星で見つかるかもしれない、私の幸せと未来を探しに行こうと思った。




終わり

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