表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢-犬  作者: 伊阪証


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/8

ちなみに柴犬は大半が中号由来。

修道院の残骸が、重力から解放された石材と共に霧の中へ沈んでいく。クラリッサは、凍土の上に四肢を投げ出したまま、急速に冷却されていく大気を肺の奥まで吸い込んだ。口腔内に残る鋼鉄の味は、唾液と共に泥の上へと吐き出される。吐写物の中には、剥がれ落ちた歯茎の粘膜と、黒い鋼鉄の板から削り取られた微細な金属粉が混ざり合っていた。

右肩の傷口は、魔女の書庫から持ち出した三つの鍵が放つ青い燐光に曝され、異常な速度で肉芽を形成し始めている。皮膚の下で筋肉の繊維が蠢き、断裂した血管が接合される際、焼灼されるような熱が神経を逆流した。クラリッサは、その生理的な拒絶反応を、前脚を泥に深く沈めることで押さえ込んだ。彼女の身体を覆う白い毛並みは、血と泥、そして修道院の塵によって灰色に汚れ、ところどころが衝撃波によって焼き焦げている。

ミレーユは、泥の上に並べられた三つの鍵――宝剣、印章、そして書状を、無機質な手つきで革製の袋に収めた。金属同士が擦れる高い音が、沈黙の森の入り口に響く。 「止血を確認しました。体温、依然として平時より三度高い状態を維持しています。」 ミレーユが、クラリッサの首筋に手を当てて告げた。彼女の指先には、荷車を牽引し続けたことによる微かな震えがあったが、声のトーンは一定の周波数を保っていた。

カトリーヌは、森の外縁に広がる荒野を見据えていた。彼女の視界の先、地平線から数キロメートルの位置に、砂塵の帯が形成されている。それは、風による自然現象ではない。数千頭の軍馬が同時に大地を蹴り、行軍の際に生じさせる人工的な土煙だ。煙の中には、朝日に反射する銀色の光が点在している。レオニード王子が率いる、王都近衛騎士団の槍先だ。

「…距離、約五キロ。この歩調であれば、三十分以内に先遣隊がこの森の入り口に到達しますわ。」 カトリーヌが、短剣の柄を叩いてリズムを刻みながら言った。彼女の瞳には、霧の中に潜む熱源を捉えるための鋭い焦点が結ばれている。 「ミレーユ。ここを抜けるルートは? 正面突破は、この犬の身体では不可能ですわよ。今の彼女は、立っているのが精一杯だわ。」

クラリッサは、カトリーヌの言葉に応じるように、震える四肢に力を込めた。 関節が軋む音が、外部の静寂に混ざる。 彼女は、自らの身体の内側で起きている構造変化を、物理的な事実として観測していた。 心臓の鼓動が、かつての倍以上の容積で脈打っている。 骨格が、犬という愛玩用の規格を無視して、より強固な、より殺傷に適した形状へと組み替えられようとしている。 それは、人への回帰ではない。 魔女が呪いと共に植え付けた、愛憎の均衡点にのみ顕現する、異形の捕食者への進化だ。

「…ワン。」

短く、低い鳴き声。 それは助けを求める甘えではなく、現状の分析を要求する指示だった。 クラリッサは、鼻先を北西の方向へ向けた。そこには、森から続く深い断崖と、かつて公爵家が密輸ルートとして使用していた古い地下道がある。

ミレーユが、クラリッサの視線の先を確認し、頷いた。 「ノエル、荷車を捨てなさい。必要な物資は背嚢へ。お嬢様を歩かせます。」 「えっ、でも、お嬢様の傷が…!」 ノエルが、包帯を握ったまま声を上げた。彼女の頬には、火災の灰と涙が混じった黒い筋がついている。 「お嬢様は、もう『運ばれるもの』ではありません。」 ミレーユは、ノエルの言葉を遮り、クラリッサの首輪に指をかけた。 金具を外し、地面に捨てる。 真鍮のプレートが泥に沈み、名前も地位も持たない一匹の獣が、そこに残された。

クラリッサは、解放された首筋を一度だけ振り、周囲の空気を深く嗅いだ。 軍勢から漂ってくるのは、馬の汗、磨かれた鉄、そしてレオニードが好んで纏う香油の匂いだ。 その匂いは、かつての彼女にとって、平穏な日常の象徴であった。 しかし今は、獲物が放つ不快な異臭に過ぎない。

軍勢の先頭が、森の入り口へと差し掛かった。 先遣隊の騎兵が、長槍を水平に構え、霧の中を警戒しながら進んでくる。 彼らの装備は、対革命用の暴徒鎮圧用ではなく、明確に「特定の個体」を抹殺するための重装備へと換装されていた。 レオニードは、クラリッサが鍵を揃えることを予見していた。 そして、その完成の瞬間に、すべてを消し去るための準備を整えていたのだ。

「…来るわよ。」 カトリーヌが、低い姿勢で茂みに身を潜めた。 クラリッサもまた、腹部を泥に密着させ、周囲の苔と同化するように呼吸を殺した。 肺を巡る酸素が、再構築された筋肉へと優先的に供給される。 視界が鮮明になり、数百メートル先を走る軍馬の瞳の動きさえもが、スローモーションのように網膜に映し出された。

一騎の騎兵が、クラリッサたちが潜む茂みの数メートル前で足を止めた。 馬が不安げに鼻を鳴らし、前脚で地面を掻く。 騎兵は、森の深部から漂ってくる、修道院崩壊の際のオゾン臭に眉を潜めた。 「…報告。魔女の書庫に崩壊の兆候あり。対象は捕捉できず。」 騎兵が、背後の部隊に向かって叫んだ。 その瞬間、クラリッサは泥を蹴った。

彼女の動きは、もはやコーギーのそれではない。 低く、鋭く、地面を削り取るような加速。 騎兵が長槍を振り下ろすよりも早く、クラリッサは馬の脚部を掠めるように通り抜け、その背後にある死角へと入り込んだ。 彼女は跳躍した。 目標は、騎兵の喉元ではない。 馬の首に巻かれた、手綱の接合部だ。

奥歯で革を噛み切り、首のひねりを利用して、馬の頭部を強引に右側へと旋回させる。 馬は平衡感覚を失い、大きく嘶いて転倒した。 騎兵が地面に叩きつけられ、金属の鎧が石にぶつかる鈍い音が響く。 クラリッサは着地と同時に、倒れた騎兵の腕を踏みつけ、その視線の先に自らの顔を突きつけた。

泥に汚れ、血に染まり、灰金の瞳に殺意を宿した獣。 騎兵は、その姿に、かつての公爵令嬢の面影を見出したのか、恐怖に顔を歪めた。 「…あ、悪魔…!」 クラリッサは吠えなかった。 ただ、騎兵の喉の数センチメートル先で、牙を剥き出しにしたまま、短い振動を漏らした。 それは、言葉を奪われた彼女が、かつての部下に送った、最後の手向けだった。

「お嬢様、深追いは無用ですわ!」 ミレーユの鋭い指示が飛ぶ。 クラリッサは騎兵から離れ、影のように森の深部へと引き返した。 背後では、後続の騎兵たちが抜刀し、森に向かって一斉に突入を開始していた。 鉄の蹄が大地を打ち、静寂を完全に踏み潰していく。

クラリッサたちは、断崖へと続く獣道を全速力で駆けた。 ノエルは必死に足をもつれさせながら走り、カトリーヌは最後尾で、追跡者の足を止めるための罠を仕掛けていく。 クラリッサの身体からは、熱と共に、新しい命の脈動が溢れ出していた。 肩の傷は既に塞がり、そこには黒い紋様のような瘢痕が形成されている。

地下道の入り口は、巨大な倒木の影に隠されていた。 ミレーユが古い石の扉を押し開き、全員を内部へと誘導する。 クラリッサが最後に滑り込むと、カトリーヌが仕掛けていた爆薬が作動した。 轟音と共に森の斜面が崩落し、地下道の入り口は数千トンの土砂と岩石によって完全に封鎖された。

外部の音が、遮断される。 地下道には、冷たく湿った空気と、数百年放置された塵の臭いが満ちていた。 ミレーユが松明に火を灯すと、石壁に刻まれた古い公爵家の紋章が浮かび上がった。 それは、王国の裏側を支え続けてきた、陰の支配者の証。

クラリッサは、床に伏せて呼吸を整えた。 心拍が徐々に落ち着き、異常な熱が引いていく。 だが、一度組み替えられた肉体は、もう元の姿には戻らなかった。 前脚の爪は長く鋭利になり、筋肉の隆起は、愛らしさを完全に削ぎ落とした捕食者のシルエットを形作っている。

「…お嬢様。これからは、歩く距離が長くなりますわ。」 ミレーユが、革の袋から三つの鍵を取り出し、それをクラリッサの目の前に並べた。 宝剣、印章、書状。 これらを手にした一匹の獣は、もはや誰にも操られることのない、真なる意志の主体。

クラリッサは、暗闇の中で鍵を見つめた。 レオニードとの決戦は、もう避けられない。 彼は、この地下道の存在も、彼女がここを通ることも、すべて計算に入れているはずだ。 だが、彼が予測できていないことが、一つだけある。

それは、言葉を失い、姿を奪われたこの犬が、愛を捨て、憎しみを抱えたまま、それでも王としての「責任」を全うしようとしているという、その事実だ。

クラリッサは、ゆっくりと立ち上がった。 首の筋肉を固定し、視線を地下道の奥へと向ける。 松明の火が揺れ、彼女の影が石壁に巨大な魔獣の形となって投影された。 一歩。 二歩。 爪が石を叩く音が、迷いのないリズムを刻んでいく。

「…行きましょう、クラリッサ様。」 カトリーヌが短剣を収め、その横に並んだ。 ノエルは涙を拭い、ミレーユは無言で先頭に立った。 王国の滅びを背負い、獣となった令嬢の行軍が、暗闇の中で静かに始まった。

地上の森では、レオニード王子の軍勢が、土砂崩れの跡を無機質な瞳で見つめていた。 王子は馬を降り、泥の中に落ちていたクラリッサの古い首輪を拾い上げた。 「…逃げたか、僕の可愛い小犬。」 彼は、真鍮のプレートに刻まれた傷跡を指先でなぞり、薄く笑った。 「それでいい。すべてを揃え、すべてを背負って、僕の前に現れてくれ。」 彼は首輪を握り潰し、屑を風に散らした。 「その時こそ、この国という作品の、最後の筆跡を書き込もう。」

王子の言葉は、風と共に消え、夜の帳が再び大地を覆っていった。 地下道を進むクラリッサの耳に、その声は届かない。 ただ、彼女の足裏に伝わる冷たい大地の感覚だけが、次の戦いへの唯一の確実な道標となっていた。

地下道の空気は、進むにつれて重厚な沈殿物のような気配を帯びてきた。壁面には、かつての公爵家が財力を誇示するために塗り込んだ金箔の剥落跡が点在し、松明の火を不規則に反射させている。足元には、数世紀分の塵が厚く積もり、クラリッサの肉球がそれを踏み締めるたびに、微かな粉塵が宙に舞い上がった。 彼女は、自らの身体から放たれる熱が、地下道の冷気と混ざり合い、白い水蒸気となって視界を遮るのを観測していた。

肩の傷跡に刻まれた黒い紋様が、拍動に合わせて微かに脈打っている。その振動は、身体の深部にある骨格を震わせ、彼女の意志とは無関係に、筋肉を最適な戦闘態勢へと固定し続けていた。クラリッサは、内耳の奥で鳴り続ける高周波の音を聞き流し、壁の向こう側から伝わってくる、地上の微細な振動を分析した。 軍馬の蹄の音。 土砂を掘り返す金属の音。 それらは、上方の岩盤を通じて、一定の減衰を伴いながら彼女の感覚細胞に届けられている。

「…ミレーユ。あと一時間ほどで、王都北部の外壁付近に到達しますわ。」 カトリーヌが、壁に耳を当て、地上の音を聞き分けて言った。 「ですが、地上は既にレオニードの軍勢によって完全に封鎖されているはずよ。出口を一つでも間違えれば、蜂の巣にされますわね。」

ミレーユは、手に持った古い地図の羊皮紙を指でなぞった。 「地下道の出口は三箇所。一つは兵舎の裏、一つは中央広場の噴水下、そして最後の一つは…かつてお嬢様がレオニード様と過ごされた、王立庭園のガゼボの下です。」 ミレーユの声には、感情の起伏が一切含まれていない。ただ、目的地の座標を提示する、ナビゲーターとしての機能だけがそこにある。

クラリッサは、その地名を聞いた瞬間、喉の奥で短い振動を漏らした。 王立庭園。 そこは、彼女が「バランサー」としての役割を完璧に演じ、レオニードの狂気を愛という名の皮膜で包み込んでいた場所だ。 彼が初めて、自分以外の人間に対して、明確な殺意ではなく「執着」を見せた場所でもある。 そして、彼が彼女を犬に変えるための呪文を紡いだ、終焉の舞台だ。

「…庭園は、今や要塞化されている可能性が高いですわ。」 カトリーヌが、短剣の刃を鞘で擦りながら言った。 「あそこは視界が開けている。犬の姿で突入するには、あまりに無謀だわ。」

クラリッサは立ち止まり、ミレーユの背嚢を見つめた。 そこには、三つの鍵が入っている。 彼女は、前脚でミレーユの足を軽く叩いた。 「…ワン。」 低い、しかし確固たる意志を持った鳴き声。 彼女は、ミレーユから三つの鍵を取り出すように要求した。

ミレーユは無言で袋を開け、宝剣、印章、書状を床に並べた。 三つの鍵は、暗い地下道の中で、以前よりも強く、不気味な青い光を放っている。 その光は、クラリッサの肩にある黒い紋様と共鳴し、地下道の石壁に複雑な幾何学模様を投影した。 光が強まるにつれ、クラリッサの身体に激しい激痛が走った。 骨が再び組み替えられ、皮膚の下で何かが弾けるような音が響く。

「お、お嬢様…!」 ノエルが悲鳴を上げ、後ずさりした。 クラリッサの背中から、黒い霧のようなものが噴出し、それは徐々に、巨大な獣の輪郭を形作っていく。 それは人への回帰ではなかった。 愛憎の極致、三つの鍵を手にした者だけが到達できる、超越的な「人狼」の姿。 かつての令嬢の美しさと、犬としての愛らしさを残しながらも、その本質は、一国を滅ぼし、あるいは救うための、純粋な暴力の具現化だ。

クラリッサは、二本の足で立ち上がった。 指先には、鉄をも引き裂く鋭い爪が備わっている。 全身を覆う毛並みは、月光のような銀白色に輝き、その下で鋼鉄のような筋肉が躍動していた。 彼女は、自らの大きな手を見つめた。 かつて筆を握り、茶を淹れ、レオニードの手を引いた、その手だ。 今は、敵の息の根を止めるための、完璧な武器となっている。

「…あ…あ…。」

クラリッサの喉から、掠れた音が出た。 それは、数ヶ月ぶりに発せられた、人間の言葉の欠片だった。 「…レオ…ニード…。」 その名は、愛の言葉ではなく、呪詛のように地下道に響き渡った。

ミレーユは、その姿を目の当たりにしても、眉一つ動かさなかった。 彼女は、変貌を遂げたクラリッサの前に膝をつき、最後の一礼をした。 「…王としての完成、おめでとうございます。クラリッサ様。」 カトリーヌも、その隣で深く頭を下げた。 「…行きましょう。地獄の底から、あの王子を迎えに。」

クラリッサは、床に並べられた三つの鍵を、その大きな手で掴み上げた。 宝剣を腰に差し、印章を拳の中に握り込み、書状を背に負う。 三つの正統性をその身に纏った獣の王は、地下道の天井を突き破るかのような咆哮を上げた。 咆哮は、石壁を震わせ、地上のレオニードの耳へと届いた。

王立庭園のガゼボ。 レオニードは、燃え盛る王都を眺めながら、その声を聴いた。 彼は、手にしたワイングラスを石床に叩きつけ、歓喜に震えた。 「…来たか。僕の、最高傑作。」 彼は、傍らに置かれた巨大な両刃の斧を手に取り、立ち上がった。 「さあ、踊ろう、クラリッサ。君が僕を殺すか、僕が君を完成させるか。…その答えを、この炎の中で見せてくれ。」

地下道の最果て、王立庭園へと続く石の扉が、内側から粉砕された。 暗闇の中から、銀色の毛並みをなびかせた獣が、月明かりの下へと飛び出す。 背後には、死を恐れぬ三人のメイドが、影のように付き従っていた。 崩壊する王国の中心で、美女でも野獣でもない、一人の「王」が、自らの過去と対峙するために大地を蹴った。

革命の炎は、最高潮に達しようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ