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悪役令嬢-犬  作者: 伊阪証


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犬は紙貰うと取り敢えず散らかす。

石畳の広場、クラリッサは太い麻縄の端を深く噛み締めた。 首の筋肉が鋭く強張り、短い四肢が地面の隙間に爪を立てる。 縄の先には、役所へ運ばれる途中の、書類が詰まった重い木箱が繋がっていた。 顎にかかる荷重に対し、頸椎を固定し、重心を数刻前と数ミリずらして負荷を分散させる。 鼻腔から、熱を帯びた短い呼吸が断続的に漏れた。

通りかかった書記官の男が足を止め、眼鏡を押し上げた。 「おや。そんなにその縄が気に入ったのかい?」 男は屈み込み、木箱の横を軽く叩いて笑った。 「綱引きのつもりかな。元気な犬だ。」 男の手がクラリッサの頭に伸び、耳の付け根を乱暴に掻いた。 クラリッサはさらに深く縄を噛み、喉の奥から低い振動を響かせた。 「ははは! 怒った。これほど必死に遊ぶ犬は珍しいな。」 男は満足そうに立ち上がり、同僚を呼んで指を差した。

クラリッサは男の笑い声を背に、さらに強く縄を引いた。 視界の端で、前脚の筋肉が細かく痙攣している。 一歩。 石の凹凸を肉球で掴み、後ろへ身体を倒す。 木箱が数ミリ、乾いた音を立てて動いた。 唾液が縄を濡らし、顎の関節に鈍い痛みが走る。 それを無視し、次は反対側の筋肉へ意識を移した。

「…お嬢様。」

ミレーユが影のように隣に立った。 彼女の視線は、クラリッサの足元の震えと、木箱の移動距離を正確に捉えている。 「…ワン!」 短く、鋭い鳴き声。 犬は縄を離すと、荒い息を吐きながらその場に伏せた。 舌がだらりと横に流れ、胸が大きく上下する。 ミレーユは無言で水を入れた皿を差し出し、汚れた前脚の泥を布で拭った。

「遊び疲れたようですわね。…カトリーヌ、交代を。」 「ええ、もう十分だわ。見ているこっちまで楽しくなるもの。」

カトリーヌが笑いながら、クラリッサを軽々と抱き上げた。 犬の心拍は依然として速く、肋骨の奥で激しく打ち鳴らされている。 クラリッサはカトリーヌの腕の中で、視線だけを役所の尖塔へと向けた。 あそこには、次なる標的である印鑑が眠っている。 言葉を奪われ、遊んでいるようにしか見えないこの身体を、次はどの角度で、どの重みに抗わせるべきか。 犬は一度だけ、カトリーヌの指を甘噛みした。 そこには湿った熱と、明確な拒絶の意志が混ざっていた。

行政区を覆う霧は、石造りの建物の輪郭を曖昧に削り取っていた。 通りの両脇には、湿った羊皮紙と乾いたインク、そして地下溝から逆流する泥水の匂いが滞留している。 クラリッサは、役所の裏口に停められた荷車の車軸に結びつけられた、太い麻縄を奥歯の間に滑り込ませた。 縄の表面を覆う細かな繊維が、歯茎と舌の粘膜を刺激する。 彼女は顎を垂直に固定し、重心を数センチメートル後方へと移動させた。

首筋の筋肉が、皮膚の下で一本ずつ引き絞られるように硬化する。 四肢の爪が、石畳の継ぎ目にある苔の生えた土へと食い込んだ。 呼吸は、鼻腔の奥で熱を帯びた音を立て、短い間隔で断続的に繰り返される。 視界の端で、荷車の鉄製の車輪が、石畳の凹凸に抗って微かに震えた。 重力による下方向の負荷に対し、頸椎の角度を固定することで、分散されていた張力を前方へのベクトルへと収束させる。

「おい、あの犬を見ろ。またやっているぞ。」 役所の通用口から、灰色の法衣を纏った男が二人、廊下の塵を掃き出しながら現れた。 一人が箒を止め、クラリッサの震える背中を指差す。 「あの縄を噛んで、荷車を引くのがお気に入りらしい。この数日間、朝から晩まであの調子だ。遊んでほしいのか、それとも単に愚かなのか。」 男は笑い、足元に落ちていた石ころを、クラリッサの横へ向かって軽く蹴り出した。 石は石畳の上を転がり、クラリッサの前脚に当たって止まった。

クラリッサの視線は、その石にも、男たちの嘲笑にも動かない。 心拍数は一分間に百八十回を超え、肋骨の隙間から胸壁を打つ鼓動が、外部の音を遮断するように耳の奥で鳴り響いている。 肺胞の奥まで冷たい霧が入り込み、血液中の熱と混ざり合って、吐き出される息を白く染める。 右後ろ脚の筋肉が激しく痙攣し、肉球が石の上で数ミリ滑った。 彼女は即座に重心を左前へと移し、骨盤を捻ることで摩擦係数を維持した。

ギィ、と乾いた金属音が響いた。 荷車の車輪が、一度だけ回転した。 移動距離は、三センチメートル。 その三センチメートルのために、クラリッサの全身の毛は逆立ち、唾液が縄の繊維を茶色く濡らして地面へと滴り落ちている。 彼女は、縄を放さなかった。 顎の筋肉が限界に達し、視界の隅が赤く明滅し始めても、首の角度を維持したまま、地面を蹴る力を緩めない。

「…お嬢様。そこまでに。」

霧の向こうから、ミレーユの声が届いた。 彼女は、革製の買い物袋を腕に下げ、その重みを均等に分散させた歩調で近づいてくる。 隣にはカトリーヌが立ち、周囲の建物の窓、屋根の上の角度、そして路地の奥にある影を、視線だけでなぞっていた。 ミレーユがクラリッサの首筋に手を触れる。 指先から伝わる振動が、犬の身体を覆う過度の緊張を認識する。

クラリッサは、麻縄を口から放した。 顎の関節が、解放された衝撃で小さく音を立てる。 彼女はその場に崩れるように伏せ、地面の冷たさを腹部で受け止めた。 舌が口の端からだらりと垂れ下がり、泥の混じった唾液が石畳に広がる。 胸部が大きく上下し、排熱のために開かれた口腔から、湿った空気が吐き出される。

「随分と熱心な遊びですこと。」 カトリーヌが、腰の袋から濡れた布を取り出し、クラリッサの顔に付着した泥を拭った。 「石畳が削れていますわ。これでは、役人に器物損壊で訴えられてしまいますわよ。」 カトリーヌの指が、クラリッサの耳の付け根を、儀式的な動作で撫でる。 犬は目を閉じ、ただ呼吸を整えることだけに全神経を注いだ。

広場の向こう、役所の正面玄関に、一台の黒塗りの馬車が停まった。 扉が開くと、上質な外套を纏った男が三人、無言で降りてきた。 彼らの靴底が石を叩く音は、周囲の役人たちの不規則な歩法とは異なり、正確な一定の間隔を保っている。 男たちは、周囲を見渡すことなく、役所の奥へと消えていった。

クラリッサは、薄く目を開いた。 伏せた姿勢のまま、視界の下方で男たちの足跡を観察する。 一番左の男の右足、その踵の磨り減り方が、重心を外側に逃がしている。 腰に下げられた重量物のせいで、右半身の揺らぎが数ミリ大きい。 それは、かつて彼女が書類の上で精査してきた、「暴力」を職能とする者たちの身体的特徴そのものだった。

「…行きましょう。」 ミレーユが、革紐を軽く引いた。 クラリッサは、震える四肢に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。 関節の節々に、鉛のような重みが沈着している。 だが、その痛みは、彼女の意識をかつての空虚な沈黙から、現在の明確な輪郭へと繋ぎ止めていた。

石畳の上に残された、荷車が動いた跡。 削られた石の粉。 そして、役人が投げた肉片。 クラリッサは、それらすべてを一瞥することなく、ミレーユの影に従って歩き出した。 霧はさらに深まり、行政区の尖塔を完全に飲み込んでいった。

行政区の路地裏は、表通りの喧騒を石壁が遮り、湿った空気と古い紙の匂いだけが滞留している。建物の隙間から漏れ出す日光は霧に乱反射し、濡れた石畳を不規則な白に染めていた。ミレーユは、買い出しの袋を左手に持ち替え、右手でクラリッサの革紐を短く握った。犬の歩調は、数刻前の牽引訓練の影響により、通常よりも数センチメートル短く、後ろ脚の運びには微かな揺らぎが生じている。

クラリッサの視界は、地上から三十センチメートルの位置にある。石畳の凹凸、泥炭の混じった水溜まり、そして行き交う役人たちの靴底。彼女は鼻腔を広げ、空気中に浮遊する微細な粒子を嗅ぎ分けた。石炭の煙、安価な葉巻、そして役所の深部から漂う、加熱された封蝋の甘い匂い。その中に、異質な金属の臭いが混じっている。油で磨かれた鉄、あるいは真鍮の冷たい硬度。

前方から、三つの影が近づいてきた。黒塗りの馬車から降りた、上等な外套を纏った男たちだ。彼らの歩法は、一般の事務官とは明確に異なる。足裏全体で地面を捉え、膝の屈伸を最小限に抑え、上半身の揺れを殺している。外套の裾が翻るたび、腰の位置に吊るされた重量物が、大腿部の生地を内側から叩く。それは剣の鞘ではなく、より短く、より質量のある円柱状の物体。鉄の棒だ。

「…あら。随分と急いでいらっしゃること。」

カトリーヌが立ち止まり、壁際に身を寄せた。彼女の視線は男たちの顔ではなく、彼らの靴の動きに固定されている。男たちのうち、中央を歩く大柄な者が、クラリッサのすぐ横を通り過ぎた。男の靴底が水溜まりを叩き、泥水がクラリッサの白い毛並みを汚した。

男は一度だけ足を止め、視線を下ろした。灰色の瞳が、犬の姿を網膜に映す。 「…邪魔だ。家畜を街中に連れ出すな。」男は吐き捨て、右足の先をクラリッサの腹部へ向かって突き出した。

クラリッサは、後ろ脚の筋肉を即座に収縮させた。重心を三センチメートル右斜め前方へスライドさせ、四肢を同時に浮かせる。男の靴先は、クラリッサの腹毛を僅かに掠めただけで、空気を蹴った。クラリッサは着地と同時に、頭を低く下げ、喉の奥から振動を漏らした。それは威嚇の吠え声ではない。筋肉の緊張によって生じる、物理的な振動音だ。

「申し訳ありません。この子は、少し遊び疲れておりまして。」

ミレーユが静かに頭を下げた。その動作には、卑屈さも恐れも含まれていない。ただ、障害物として認識されないための、機能的な謝罪だ。男は舌打ちをし、クラリッサに興味を失ったかのように歩き出した。彼の歩幅は八十センチメートルで固定されている。クラリッサは伏せた姿勢のまま、男の背中を見送った。

男たちの外套の背中、肩甲骨のあたりに、微かな皺が寄っている。それは内部に仕込まれた鎖帷子の重量によるものだ。さらに、先ほどの男が蹴り出した際、右腰の外套が大きく膨らんだ。そこには、アルノー公爵家の「印章」が収まる、円筒形のケースに酷似した突起があった。

クラリッサの瞳孔が収縮した。彼女は、かつてその印章を、白磁のような手で扱い、無数の書類に押し当ててきた。その時の手の感触、印面が紙を噛む感触、そして朱肉が放つ特有の龍脳の香りが、今の鋭敏な嗅覚によって再構成される。男からは、古い書類の匂いと、新鮮な龍脳の香りが漂っていた。

「…お嬢様。行きますわよ。」

ミレーユの声に応じて、クラリッサは立ち上がった。泥の付いた腹部を一度だけ震わせ、汚れを弾く。彼女は男たちの去った方向――役所の裏手にある、旧式の大書庫へと視線を向けた。大書庫は、巨大な石造りの塔のような形状をしており、窓は上部にしか存在しない。入り口には二人の衛兵が立ち、長槍を交差させている。男たちは衛兵に何らかの木札を提示し、迷いのない足取りで内部へと消えていった。

カトリーヌが歩き出し、大書庫の周囲にある建物の配置を観察し始めた。 「…ミレーユ。あそこの排水溝、格子が外れているわ。それに、二階の荷揚げ用の滑車。あそこは夜間、固定が解かれるはずよ。」 「ええ。ですが、内部には猟犬が配備されているとの情報があります。」ミレーユは、買い物袋の中から、市場で購入したばかりの生肉の包みを取り出した。 「準備は、整っています。」

クラリッサは、二人の会話を聴きながら、自分の前脚の爪を確認した。訓練で削れた石の粉が、指の間に残っている。彼女はそれを丁寧に舐めとり、唾液で汚れを落とした。言葉を失った彼女にとって、今の世界は、音と匂い、そして温度の集積だ。レオニード。その名が、かつての記憶の底から浮かび上がる。彼が望むのは、この国の秩序を象徴する証をすべて破壊し、焦土の上に新たな「作品」を築くことだ。クラリッサは、かつて彼を繋ぎ止めるための「鎖」だった。だが、その鎖は今、四つ足で大地を踏みしめ、自分の意志で呼吸を整えている。

行政区の時計塔が、正午を告げる鐘を鳴らした。十二回の重厚な振動が、石畳を通じてクラリッサの肉球に伝わる。ミレーユたちが、大書庫の影に位置する安宿へと足を進める。クラリッサは、革紐を引かれるままに従いながら、背後の大書庫を再度振り返った。冷たい風が、霧を切り裂いていく。男たちが隠した印章。それは、公爵家が民に誓った責任の証だ。クラリッサは、自身の自我の希薄さを、今の身体の重厚な疲労感によって上書きした。守るべきなのは、国ではない。家門でもない。この足で奪い返し、この口で咥え、この身体で運び抜く。その事実だけを、彼女は求めていた。

宿の入り口で、ノエルが手を振っているのが見えた。彼女は新入りのメイドらしく、顔に不安の色を浮かべながら、手元のバケツで犬の足を洗うための準備を整えている。 「…おかえりなさい! ミレーユさん、カトリーヌさん。お嬢様、たくさん遊んだんですか? 泥だらけじゃないですか。」ノエルが駆け寄り、クラリッサの前に膝をついた。温かい湯気がバケツから立ち上り、石鹸の香りが鼻を突く。ノエルの手が、クラリッサの前脚を優しく掴み、お湯の中に浸した。

「ほら、じっとしていてくださいね。綺麗にしましょう。」ノエルは、クラリッサの指の間にある泥を、柔らかい布で丁寧に取り除いていく。クラリッサは、その無垢な手の動きを黙って受け入れた。ノエルの視線には、かつての公爵令嬢としての畏怖も、今の獣としての侮蔑も存在しない。ただ、目の前にある「汚れたもの」を「綺麗にしたい」という、単純な欲求のみが投影されている。

「ノエル、準備はできているかしら。」ミレーユが、部屋の扉を閉めながら問いかけた。 「はい。書庫の周辺地図、市街地の避難経路、それと…お嬢様のための、特製の首輪です。」ノエルが取り出したのは、厚手の革で作られた、頑丈な首輪だった。その内側には、真鍮製の小さなプレートが縫い付けられている。そこには名前も家紋も刻まれていない。ただ、一筋の深い傷のような模様が刻まれている。それは、クラリッサ自身が、祠の石を爪で削って描いた図案だった。

「これを付けて、今夜、行きましょう。」ミレーユの声が、部屋の温度を一段下げたように響いた。クラリッサは、ノエルに拭き上げられたばかりの前脚を、床に強く押し当てた。筋肉の痛みは、熱に変わっている。視界の端に、窓の外で揺れる霧が見える。あの中には、鉄の棒を握り、印章を隠し持つ男たちが潜んでいる。クラリッサは、短く一度だけ、自分の喉を鳴らした。それは、誰にも理解されない、彼女だけの決意の音だった。

夜の帳が降りるまで、あと数刻。行政区の灯火が、霧の中に一つずつ灯り始める。クラリッサは、部屋の隅で丸くなり、目を閉じた。耳を澄ませば、遠くで民衆の怒号と、軍靴の音が混ざり合っているのが聞こえる。革命は、すぐそこまで迫っていた。だが、今の彼女にとって重要なのは、次の一歩でどの筋肉を動かすべきか。それだけだった。

呼吸が深く、安定していく。眠りの中ではない。覚醒したまま、彼女は闇を待っていた。石畳の上で、爪が微かな音を立てて動いた。それは、かつて社交界のダンスで見せたステップよりも、はるかに正確で、鋭利な予動だった。

大書庫の衛兵が交代し、重い鉄柵が閉じられる音が風に乗って届く。クラリッサの耳が、その音を正確に捕捉した。彼女は目を開け、暗闇の中で白く輝く自分の毛並みを見つめた。愛らしい、小さな獣。それが、今夜、王国の正統性を奪い返す唯一の「刃」となる。

ミレーユが、クラリッサの新しい首輪を手に取った。金属の金具が噛み合う、カチリという音。それが、第二の鍵を奪還するための、正式な開戦の合図となった。クラリッサは立ち上がり、背中を大きく反らして、筋肉の柔軟性を確認した。足音は消えた。匂いは研ぎ澄まされた。あとは、ただ、事実を積み上げるだけだ。

部屋の灯りが消された。月明かりさえ届かない霧の街へ、一匹の犬と三人のメイドが、音もなく滑り出していった。彼らが踏み締める石畳には、もはや「遊び」の形跡はどこにも残っていない。あるのは、泥と血、そして冷徹な意志が刻んだ、深い爪跡だけだった。

役所の尖塔が、暗闇の中に黒い牙のように突き出している。クラリッサは、ミレーユの影と重なるようにして、路地の奥へと姿を消した。背後で、風が一度だけ強く吹き、溜まっていた霧を大きく攪拌した。そこに、かつての公爵令嬢の面影はなかった。ただ、目的を見据えた一頭の捕食者が、静かに獲物との距離を詰めていた。

大書庫の北側、地上から十センチメートルの位置に、石造りの通気口が口を開けていた。縦横二十五センチメートル。鉄格子の隙間は、長年の腐食により中央が僅かに撓んでいる。クラリッサは、その格子の前に立ち、首を傾けて内部の空間を測定した。内部からは、乾いた紙の塵と、動物の排泄物の匂いが混ざり合って流れてくる。湿度は表通りよりも高く、石壁の奥で結露した水滴が、断続的に床を叩く音が反響していた。

ミレーユが、革紐の金具を音もなく外した。 「…お嬢様。十五分です。」ミレーユは腕時計を見ることなく、街の時計塔の余韻を基準に時間を提示した。カトリーヌは、通りを横切る衛兵の背中を確認し、壁の影に深く沈み込む。クラリッサは一度だけ、前脚を交互に地面に叩きつけ、爪の掛かりを確認した。彼女は頭を低く下げ、肩の関節を内側へ畳み込むようにして通気口へ潜り込んだ。

鉄格子の隙間に、耳の付け根が擦れる。硬い金属の感触が皮膚を圧迫し、毛並みが逆方向に逆立つ。クラリッサは後ろ脚で地面を強く蹴り、抵抗を摩擦熱に変えて身体を押し込んだ。肺が圧迫され、呼吸の度に肋骨が石の縁を叩く。数秒の停滞の後、身体は狭い通路へと滑り落ちた。

内部は完全な暗闇だった。クラリッサは視覚を捨て、肉球に伝わる振動と、鼻腔に届く気流の変化に全神経を集中させた。通路は奥へ向かって緩やかに下り、幅はさらに数センチメートル狭まっている。彼女は前脚を交互に突き出し、爪を石の継ぎ目に掛けて身体を前へと運んだ。背中が天井を擦り、古い石灰の粉が眼球に降り注ぐ。瞬きを繰り返し、涙液で異物を洗い流しながら、彼女は前進を止まなかった。

十メートルほど進んだ地点で、通路は直角に右へと折れていた。そこから、強い龍脳の香りが漂ってきた。朱肉の匂いだ。クラリッサは鼻先を床に密着させ、空気の層を嗅ぎ分けた。金属の重冷たい臭い。そして、その奥から近づいてくる、別の生き物の熱量。

…ハァ、ハァ。

短い周期の、湿った呼吸。クラリッサは足を止め、重心を低く落とした。前方の闇の中から、二つの小さな光が浮かび上がった。獲物を捉えた捕食者の、網膜の反射。相手は、テリア種の小柄な猟犬だった。首には太い革の首輪が巻かれ、そこから短い鎖が床を引きずる金属音が聞こえる。猟犬は低く唸り、牙を剥き出しにした。

クラリッサは吠えなかった。彼女は首の筋肉を硬化させ、頸椎を真っ直ぐに固定した。狭い通路内では、回避の動作は不可能だ。あるのは、前進か、後退か。猟犬が飛び出してきた。狭い空間に、爪が石を掻く鋭い音が反響する。

クラリッサは頭を左へ僅かに傾け、相手の頭部が右肩を通過する瞬間に、自らの体重を左前脚に預けた。衝突。鈍い音が通路に響き、クラリッサの肩に猟犬の歯が食い込んだ。彼女は痛みを感じるよりも早く、顎を開いた。相手の喉元ではない。相手の左前脚の付け根、関節が露出している部分を、奥歯で深く噛み砕いた。

猟犬が悲鳴を上げ、狭い通路内で激しくのたうち回った。クラリッサは噛み締めた力を緩めず、逆に首を左右に大きく振った。石壁に猟犬の身体が叩きつけられ、衝撃でクラリッサの視界が白く濁る。彼女は噛んでいた足を放し、即座に相手の顔面へ向かって頭突きを見舞った。骨と骨がぶつかる硬い音がし、猟犬の動きが止まった。

クラリッサは荒い息を吐きながら、猟犬の横を通り過ぎた。肩からは温かい液体が溢れ、毛並みを濡らして床へ滴り落ちている。彼女はそれを顧みず、香りの中心へと鼻を向けた。通路の突き当たり、古い木箱の破片が積み重なった場所に、真鍮製の筒が転がっていた。クラリッサはそれを口に含んだ。冷たい。重い。そして、間違いなく、彼女がかつて支配していた権威の重みがあった。

大書庫の廊下。衛兵が一人、足元を気にしながら歩いていた。 「…なんだ、今の音は。」彼は壁の通気口を指差した。 「また鼠が暴れているのか。それとも、あの番犬が何かを見つけたか。」壁の奥からは、ズズ、ズズ、という、何かが重いものを引きずるような音が聞こえてくる。 「放っておけ。あの隙間に入れる人間はいない。それに、あの犬は一度噛み付いたら死んでも離さない性質だ。」衛兵は笑い、長槍を担ぎ直して角を曲がった。

クラリッサは、筒を咥えたまま後退を開始した。前進よりもはるかに困難な動作だ。後ろ脚の爪を石の僅かな凹凸に掛け、全身のバネを使って身体を押し戻す。咥えた筒が顎を圧迫し、呼吸がさらに困難になる。肩の傷が石壁に擦れるたび、火に焼かれるような鋭い痛みが走った。彼女は意識の焦点を、口の中にある金属の冷たさだけに絞り込んだ。

鉄格子の隙間から、霧を含んだ外気が入り込んできた。クラリッサは最後の力を振り絞り、身体を反転させた。頭を通気口の外へ突き出す。冷たい風が、血の匂いを薄めていく。

「…お嬢様!」

ノエルが駆け寄り、クラリッサの脇腹を支えて外へと引き出した。クラリッサは石畳の上に倒れ込み、咥えていた筒を放した。真鍮の筒が乾いた音を立てて転がり、ミレーユの靴先で止まった。ミレーユは無言でそれを拾い上げ、布で血と泥を拭き取った。蓋を開け、内部にある石の印面を確認する。公爵家の紋章が、月明かりの下で鮮明に浮かび上がった。

「二つ目ですわ。」カトリーヌが、クラリッサの傷口を布で固く縛りながら囁いた。クラリッサは四肢を投げ出し、激しく上下する胸の動きを抑えようとした。視界が揺れている。だが、その揺れの中で、彼女は確かに感じていた。かつて他者の悪口の間で、存在を消すように生きていた自分は、もうどこにもいない。この傷の痛み、この喉の渇き、この冷たい石の感触。それらすべてが、彼女という一匹の獣の、確固たる存在の証明だった。

広場の向こう、役所の鐘が再び鳴った。それは深夜の到来を告げる合図であり、同時に、潜んでいた革命の足音が街全体に響き始める予兆でもあった。クラリッサは、ミレーユの手の中で静かに目を閉じた。泥と血に塗れた第二の鍵。彼女はそれを、自らの意志で奪い取った。

行政区の石畳は、深夜の冷気と湿った霧によって黒く光り、鏡のような光沢を帯びていた。クラリッサの肩から滴り落ちる血は、その黒い鏡の上に不規則な赤い斑点を描いては、雨水に溶けて消えていく。ミレーユは、真鍮製の筒を懐の奥へ深くしまい込み、クラリッサの身体を両腕で抱え上げた。犬の体温は、過度の運動と興奮により、通常よりも数度上昇している。ミレーユの薄い制服越しに、激しく打ち鳴らされる心臓の鼓動が、振動となって伝わった。

「カトリーヌ、背後を。ノエル、足元を照らさないで。影を殺して。」ミレーユの声は、霧の中に溶け込むほど低く、平坦だった。カトリーヌは短剣を逆手に持ち替え、大書庫の通用口から漏れる光の動きを注視した。背後では、衛兵たちの叫び声と、鉄格子の閉まる金属音が重なり合い、街の静寂を暴力的に引き裂いている。 「…追撃は来ませんわ。彼らは、中に入ったのが『犬』だとは夢にも思っていない。ただの獣の喧嘩だと思い込んでいるはずよ。」カトリーヌが言い、影の中へと滑り出す。

クラリッサは、ミレーユの腕の中で視線を宙に向けた。空は低く、垂れ込めた雲が行政区の尖塔を押し潰している。その雲の端が、微かに赤く染まり始めていた。それは黎明の兆しではない。街の南側、貧民窟と市場が隣接する境界付近から、火の手が上がっている。火は、乾燥した木造家屋を舐め取り、黒い煙を夜空へと吐き出していた。風に乗って届くのは、火の粉が爆ぜる音と、数千人の人間の喉が同時に震えるような、地響きに似た怒号だ。

革命が、始まった。

クラリッサは、その光景を瞬きもせずに見つめた。かつての彼女であれば、この状況を「統治の失敗」や「経済的損失」という数字の羅列として処理しただろう。あるいは、レオニードが放った破壊の火種が、どれほどの速度で行政中枢へ到達するかを、冷徹な方程式で算出したはずだ。だが今の彼女は、ただその火の「熱」を、鼻腔を焼く煙の「臭い」を、そして腕を包むメイドの「体温」を、直接的な事実として受容していた。彼女を支えるミレーユの腕には、微かな震えがある。それは恐怖ではなく、極限まで張り詰めた筋肉が放つ、物理的な反動だ。

路地の奥、古びたレンガ壁の影に、ノエルが手配した小型の荷車が隠されていた。ノエルは、クラリッサのために用意した厚手の毛布を広げ、その上に脱脂綿と消毒液の瓶を並べた。 「…お嬢様、すぐにお手当をしますから。動かないでくださいね。」ノエルの声には、隠しきれない動揺が混じっていた。彼女は、クラリッサの肩にこびり付いた泥と血を、震える手で拭い去っていく。クラリッサは、消毒液が傷口に染み込むたびに、四肢を細かく強張らせた。神経が鋭い痛みを脳へと伝達し、視界が白く明滅する。彼女は呻き声を上げず、ただ前脚の爪を荷車の床板に深く食い込ませた。

痛みは、かつての彼女が持っていた「空虚」を埋めるための、唯一の確かな充填物だった。誰かのために耐えるのではない。誰かの悪口を避けるために黙るのではない。自分の目的を達するために、自分の肉体が損傷し、その結果としてこの痛みが存在する。その因果関係の明快さが、彼女の希薄だった自我を、硬い石のように形作っていく。

「…ミレーユさん。街の様子が変です。」ノエルが、傷口に包帯を巻きながら、通りの先を指差した。行政区の目抜き通りに、松明を持った群衆が流れ込んできていた。彼らが掲げているのは、かつての自由を謳う旗ではなく、ただ憎悪を形にしたような、無骨な鉄屑や農具だ。彼らは役所の門を叩き、窓ガラスを砕き、保管されていた羊皮紙を街路へと投げ捨てていく。空を舞う紙片に火が燃え移り、街全体が巨大な火葬場のような様相を呈し始めていた。

「レオニード様の計画通りですわね。…彼は、この国を治める気など毛頭ない。」カトリーヌが、暗闇の中で冷たく言い放った。 「彼は、ただ壊したいだけ。クラリッサ様がいなくなったこの場所を、跡形もなく。…自分の『作品』として完結させるために。」

クラリッサは、荷車の中から街を見渡した。群衆の波の中に、一際異彩を放つ一団が見えた。彼らは他の暴徒とは異なり、組織的な動きを見せている。黒塗りの鎧を纏い、顔を鉄の仮面で隠した騎兵隊。彼らが振るう長剣は、民衆を守るためではなく、混乱を加速させるために、逃げ惑う役人たちの背を斬り裂いていく。その中央に、一頭の白馬がいた。跨っているのは、金色の髪をなびかせた、レオニード王子だ。

彼は、燃え盛る役所の庁舎を見上げ、満足そうに口角を上げていた。その瞳には、救済も正義も宿っていない。ただ、自らが設計した破壊の連鎖が、予想通りの軌跡を描いていることへの、純粋な歓喜だけがあった。彼は一度だけ、クラリッサたちが潜んでいる路地の方角へ、視線を投げた。距離にして数百メートル。霧と煙に遮られ、互いの姿は確認できないはずだった。だが、クラリッサの肌に、氷を押し当てられたような鋭い寒気が走った。それは、かつて婚約者として隣にいた際、彼が時折見せた、底知れぬ「虚無」の感触だった。

レオニードは、白馬の首を叩き、火の海へと消えていった。彼の背後で、役所の時計塔が轟音と共に崩落した。巨大な石の塊が石畳を砕き、衝撃波が霧を吹き飛ばしていく。瓦礫の山から舞い上がる灰が、雪のようにクラリッサの白い毛並みを汚した。

「…行きましょう。ここも長くは持ちません。」ミレーユが、荷車の取っ手を握った。彼女たちは、暴徒の波を避け、入り組んだ裏路地を縫うようにして街の外縁へと向かった。クラリッサは、揺れる荷車の中で、懐にしまわれた二つの鍵——宝剣と印章の存在を、身体に伝わる重みとして再確認していた。

一つは、家門の誇り。一つは、民への責任。そして最後の一つ、王国の正統性を示す「書状」は、さらに北の辺境、魔女アーシュラが支配する「沈黙の森」に眠っている。

荷車が街の外門を抜け、未舗装の泥道へと入った。背後を振り返れば、行政区は赤い光に包まれ、巨大な焚き火のように燃え続けている。クラリッサは、傷口の痛みを堪えながら、前脚を毛布の上に乗せた。彼女はもう、誰かのためにバランサーを演じることはない。言葉を奪われたこの身体で、吠えることも、説明することもせず、ただ目的を達するまで歩き続ける。その意志が、彼女の瞳の中に、レオニードの火よりも熱い、小さな光を灯していた。

夜が明けようとしていた。東の空が、重い灰色から薄い紫へと移り変わる。クラリッサは、冷たい朝の空気を取り込み、深く、静かに呼吸した。前脚の爪には、まだ石畳を削った際の感触が残っている。肩の傷からは、新しい血が滲み出していた。だが、彼女は一度も振り返らなかった。

二つの証を奪還し、王国は崩壊の極致にある。残された時間は、もはや誰の目にも明らかだった。ミレーユたちが押す荷車は、深い霧の中、次なる目的地へと進んでいく。一匹の犬と三人のメイド。その足跡は、泥濘の街から、真実の森へと続いていた。

クラリッサは、微かに震える尾を、一度だけゆっくりと振った。それは、失われた過去への決別でもあり、これから始まる未知の戦いへの、静かな肯定でもあった。世界がどれほど壊れようとも、彼女は、彼女自身として、この大地を踏みしめていく。泥に塗れた印章が、懐の中で冷たく、重く、存在し続けていた。

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