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悪役令嬢-犬  作者: 伊阪証


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4/4

犬はキラキラが好き

旅の二日目、朝の空気はやけに澄んでいた。澄んでいるのに、喉の奥がざらつく。焦げの匂いが抜けないせいだ。屋敷はもう視界の外にあるのに、焼けた木と封蝋の甘さが、まだ鼻の奥に貼り付いている。私は外套の襟を立て、手綱の代わりに革紐を握った。紐の先では、短い脚が黙って前へ出る。クラリッサお嬢様――いまは犬の姿の主が、働き犬の顔で歩いていた。働き犬の顔、というのも妙な言い方だが、実際そうなのだ。尻尾は無駄に振らず、耳は必要な方向へだけ向け、道の端の匂いを拾い、危険の気配がすれば足を止める。可愛い。どう見ても可愛い。なのに、その動きは軍人のそれに近い。


カトリーヌは私の半歩後ろを歩き、周囲の視線の角度を読んでいた。没落した家の娘は、人の目を「好意」と「敵意」と「欲」で分解できる。欲の目が混じる場所は危ない。欲は必ず、盗みに繋がる。盗みは必ず、売りに繋がる。売りの先に、私たちの探すものがある。


奪われた三つのうち、順番を決める必要があった。書状は紙だ。燃えやすい。濡れやすい。破れやすい。印鑑は小さい。溶かしてしまえば終わる。宝剣は大きい。目立つ。目立つくせに、扱いが雑だと壊れる。つまり、どれを先に追うべきかは理屈だけでは決められない。盗人の頭の中と、盗品の「売れ方」で決まる。


だから私たちはまず、売れるものから潰す。


市場のある町へ着く頃には、日が上っていた。石畳は粗く、泥が溝に溜まり、馬車の轍が刻まれている。王都ほど整っていないが、その分、流通の匂いが濃い。荷車が入ってくる。農具が積まれている。羊毛が束ねられている。塩と麦と皮革の匂いが混じる。人が多い場所は噂が多い。噂が多い場所は、盗品が動く。


私は宿屋の前で足を止め、革紐を短く持った。クラリッサは勝手に走り出さない。だが走り出せる状況に置くのは、私の油断だ。油断は敵だ。今日は「探し当てる日」ではない。今日は「匂いを掴む日」だ。掴んだ匂いを、逃がさない日。


宿屋の中は、昼前から酒の匂いがした。労働者の朝酒は珍しくない。むしろ、労働者ほど情報が早い。彼らは市場で見たものをそのまま口にする。口にしたものが噂になる前に、私たちは拾う必要がある。


「控えめに、ね」カトリーヌが小さく言う。

「ええ。控えめに、正確に」私は頷き、腰袋の中の小銭の重さを確かめた。脅しでは動かない。正義でも動かない。ここでは、金と酒と、言葉の間合いが動力だ。


私は給仕に声をかけ、湯と薄いパン粥を頼んだ。犬を連れていることに、誰も驚かない。ここは働き犬が当たり前の町だ。驚かれないのが助かる。驚かれない分だけ、こちらも“普通”の顔ができる。


席に着くと、クラリッサが床に伏せた。伏せ方が妙に綺麗で、尻尾が椅子の脚に当たらない位置に収まっている。私は目を逸らす。可愛い。可愛いが、可愛いを見つめ続けると判断が鈍る。判断が鈍ったら死ぬ。


隣の席で、二人の男が話していた。革の前掛け。指の節が太い。鍛冶屋か、車輪職人だ。金属の匂いがする。金属の匂いがする男は、宝剣の話題に触れる可能性がある。私は耳を立てた。耳を立てると言っても、顔に出せば終わりだ。だから私は湯を飲み、視線を外へ流しながら、言葉だけを拾う。


「……冗談だろ、あんな柄。玩具みてぇにキラキラしてやがって」

「玩具? お前、目が腐ってんじゃねぇの。宝石だぞ」

「宝石にしたってだ。あんなに派手なら、どっかの家の印だろ。持ち主が黙ってねぇ」

「黙ってねぇって言うなら、余計に売りにくい。だから、あいつは削ろうとしてた」

「削る? 馬鹿か。ああいうのは削ったら割れる」


私は湯を飲む手を止めないまま、背筋だけを固くした。割れる。削る。派手で、キラキラして、玩具っぽい柄。宝剣だ。契約の証が埋め込まれた、あの致命的なほど脆い宝石部。輸送で壊れる可能性が高い、と主が書き残したもの。まさにそれだ。


カトリーヌが、私の視線の端の動きだけで察した。声を出さずに口の形で「当たり?」と問う。私は湯気の向こうで小さく頷いた。


その時、床の犬が動いた。

伏せていた体が、ぴたりと起き上がる。耳が立つ。鼻先がわずかに震え、空気を吸う。匂いを拾った時の動きだ。私は革紐をさらに短く持ち、彼女が立ち上がるのに合わせて体の角度を変えた。犬は急に走ったりしない。だが、走る前の“筋肉の溜め”が見える。溜めが見えたら止める。止めるのではなく、先回りする。


「……カトリーヌ」私は囁いた。

「分かってる」彼女も囁き返す。


男たちの会話は続く。


「昨日の夕方、荷車の横で見たんだよ。あいつ、布に包んで隠してた」

「布に包んで隠してる時点で、まともじゃねぇ」

「で、今朝はもう見ねぇ。代わりに、妙に上等な外套の男が二人、路地に立ってた」

「貴族の使いか?」

「さぁな。貴族の臭いはした。だが目がな……兵隊の目だ」


兵隊の目。厄介だ。盗人だけなら、金で動く。兵隊の目が混じるなら、金だけで動かない。誰かの指示がある。指示があるなら、こちらが動くと向こうも動く。動き合いになれば、犬は捕まる。捕まれば、笑い話では終わらない。


私は粥を口に運び、何でもない顔で給仕を呼んだ。小銭を一枚指で弾き、湯のおかわりを頼むふりをして、さりげなく言った。


「今朝から路地に立っているお方がいるとか。物騒ですね」


給仕は肩を竦めた。

「この町はいつも物騒ですよ。火事も盗みも、貴族の喧嘩も」

「……喧嘩」

「ええ、喧嘩。派手な喧嘩じゃない。言葉の喧嘩。値段の喧嘩。奪い合いの喧嘩」


私は頷き、湯を飲み、視線を窓へ流した。窓の外、確かに路地の入口に男が立っている。外套が上等。足元が綺麗。泥を嫌っている。町の人間ではない。町の人間ではない者が、町の路地を見張っている。ここで何かが動いている。


床の犬が、私の足首に鼻先を当てた。ぴと、と。短い。だが強い合図だ。視線を上げるな、と言っている。私は上げない。代わりに、足首の感触だけを受け取る。犬は犬のまま、主として命令している。


私は席を立つ準備をした。立つ前に、クラリッサの方を見る。犬は私を見返し、口を開けずに床を叩いた。


とん。


一回。

――「行く」。


分かっている。分かっているが、私の中で一つだけ引っかかりがあった。宝剣を最初に追うのは合理的だ。目立つ。壊れやすい。時間がない。だが、話を聞けば聞くほど、その宝剣は「玩具みたいにキラキラ」しているらしい。私は不意に思う。もし盗人が宝剣を“価値の分からない物”として扱っているなら、最初に壊されるのは宝剣だ。なら最初に追うのは正しい。正しいが――。


犬が、窓の外の光を見て首を傾げた。宝石店の飾り窓、ガラスの向こうで光る硝子玉。そこへ視線が吸い寄せられている。私は息を止める。まさか、とは思う。まさかとは思うが、思ってしまう。


「……お嬢様」私は小さく呟き、すぐに口を閉じた。

カトリーヌが横目で私を見る。

私は首を振る。今は言わない。今言えば、空気が崩れる。崩れた空気は、犬の可愛さに飲まれて判断を鈍らせる。判断を鈍らせるのは禁物だ。


私たちは宿を出た。外の風は冷たい。路地の男がこちらを一瞬だけ見た。見て、視線を外した。外したのが怖い。こちらを見続ける者より、見た上で興味がないふりをする者の方が怖い。興味がないふりは、準備ができている証拠だ。


私は革紐を短く持ち、犬を“普通の犬”として歩かせた。普通の犬は、道端の匂いを嗅ぐ。普通の犬は、石畳の隙間を覗く。普通の犬は、時々立ち止まる。だからクラリッサも立ち止まっていい。立ち止まるたびに、私の心臓が嫌な跳ね方をする。だが跳ねた音は外に出さない。出せば終わりだ。


路地の入口を曲がると、魚と油の匂いが混じる。小さな露店が並び、古道具が積まれている。貧しいが活気はある。活気がある場所は、物が動く。物が動く場所は、盗品が混ざる。


犬が、ふいに足を止めた。鼻先が地面に落ちる。匂いを追っている。私は止まる。止まったまま、犬の首の筋肉が引く方向を読む。読むだけ。引かれるままにはならない。引かれるままになると、こちらの意図が外に漏れる。


犬は右へ、短く首を引いた。

私は右の露店を見た。錆びたナイフ、割れた銀食器、古い飾り紐。――その奥に、布で包んだ細長い形がある。長い。細い。妙に丁寧に巻かれている。丁寧に巻かれているものは、売り手が「中身を見せたくない」ものだ。見せたくないのは、価値があるからか、問題があるからか。だいたい両方だ。


私は露店の男に声をかけた。

「その布包み、何ですか」

男は肩を竦めた。「さぁね。拾いもんだ。中身は木片かもしれねぇし、金かもしれねぇ」

「開けて見せても?」

「見るだけならな。買うなら、先に銅貨二枚」


私は銅貨を出した。見せ金だ。彼は布を少しだけ緩めた。布の隙間から、光が覗いた。わずかな光。だが、光の質が違う。硝子玉の軽い光ではない。硬く、冷たく、腹の底に落ちる光。


その瞬間、犬が小さく唸った。

低く、鋭く――それなのに。


……きゅぅ。


男が噴き出しそうになり、咳払いで誤魔化した。私は眉ひとつ動かさない。動かさないまま、布の隙間を覗く。キラキラしている。長くて、ジャラジャラした飾りが柄に絡んでいる。玩具みたいだ。玩具みたいだが、玩具ではない。これが宝剣の柄なら、持ち主が黙っていない。持ち主――つまり私たちだ。


私は布包みを見つめ、喉の奥で静かに笑いそうになった。笑ってはいけない。だが笑いそうになる。理由は一つだ。


“これを最初に追う”と決めた理屈は正しい。正しいが、もし主が犬になってから、この光に引っ張られているのだとしたら。もし「玩具みたいにキラキラ」しているからこそ、最初の標的になっているのだとしたら。


私は一瞬だけ、カトリーヌを見る。彼女も同じことを考えた顔をしている。言葉にすると全部が崩れる。崩れるが、今は崩す必要がない。今は取る。取ってから考える。


私は露店の男へ、平坦に言った。

「それ、買います。値段は?」


男の目が光った。欲の目だ。欲の目は扱いやすい。扱いやすいが、欲の目の背後に“別の目”が混じっていないかが問題だ。私は布包みの奥、路地の影を見ないまま見た。見ないまま見て、息を整えた。ここから先は交渉になる。交渉は言葉の戦。言葉の戦では、沈黙の犬が一番強い。


犬が私の足首に、もう一度ぴと、と鼻先を当てた。

短く、強く。

――「取れ」。


玩具みたいな光の中に、国の骨格が埋まっている。脆い宝石の奥に、契約の紙が眠っている。雑に扱われれば砕ける。砕ければ終わる。終われば、王位継承の鍵が半分死ぬ。


私は銅貨の袋を握りしめ、露店の男の目を真っ直ぐに受け止めた。

可愛い犬を連れた、ただのメイド長として。

そのふりをしたまま、国の頂きへ続く刃を取り返すために。


露店の男は、布包みを半分だけ開いたまま、こちらの顔色を窺っていた。

値段を吊り上げる前の目。自分が握っているものの正体を確かめる前の目。欲の目は分かりやすい。だが分かりやすい分、裏で誰かが糸を引いている時ほど危ない。私は声の高さも表情も変えずに、ただ一段だけ“慣れた買い手”の顔を作った。買い慣れた顔は相手を安心させる。安心した相手は口が軽くなる。口が軽くなれば、どこから来たものかが出る。


「値段は?」


男は咳払いをして、指で布包みの端をつまんだまま言う。


「……銀貨で三枚」


高い。相場より高い。

だが“高い”のは、物の価値ではなく、私の反応を試しているからだ。私は即答しない。即答したら、もっと上がる。渋っても、時間がかかるだけだ。時間がかかると、影の男が動く。動かれたら詰む。

だから私は、交渉の形だけ作って、結論は短く出す。


「二枚」


男が鼻で笑う。

「二枚? 冗談だろ。宝石が見えたんだぞ?」


私は肩を竦めた。

「宝石に見えるだけです。硝子かもしれない」


ここで、床の犬が動いた。

布包みの匂いを嗅ぎ、鼻先で布の端をほんの少しだけ押し上げる。

押し上げた瞬間、柄の飾りが光を拾って“じゃらり”と鳴った。

音が悪い。金属の薄い音。装飾が玩具みたいに軽い。

露店の男が一瞬だけ目を細めた。軽い音は、価値がないと判断させる。

私はその一瞬を逃さず、畳みかける。


「音が軽い。刃も見せない。――玩具ですよ」


男は唇を歪めた。

「玩具がこんなに重いかよ」


重い? 私は内心で舌を噛んだ。

重いなら、中身がある。中身があるなら危険だ。宝石部に契約書が入っている可能性が高い。扱い方を間違えれば砕ける。砕ければ終わる。

だが私は顔に出さない。

代わりに、“持て余している売り手”を演じる。


「重い玩具もあります。子どもを黙らせるために」


男が笑いかける。笑いかけて、途中で止まる。

犬が男を見上げ、目を細めていた。

灰金の瞳の沈黙は、笑いを殺すのが上手い。


「……二枚でいいから、さっさと持ってけ」


男が吐き捨てるように言う。

私は銀貨二枚を出し、布包みを受け取った。

受け取る瞬間、布包みの奥が妙に硬いのが分かった。硬いくせに、脆い気配がある。陶器に似た感触。

宝石の奥に紙が入っている。紙が入っているなら、宝石部は構造が複雑だ。複雑な構造は衝撃に弱い。

私は腕の中で布包みを“抱く”ように支えた。抱くのが一番揺れない。人目には滑稽でも、今は滑稽を選ぶ。


カトリーヌが、露店の背後の影を読んでいた。

口を動かさずに言う。


「……右。二人。こっち見てる」


私は頷かない。頷いたら合図になる。

私はただ、布包みを抱えたまま犬の革紐を引き、普通の買い物を終えた顔で路地を抜けた。犬も合わせて歩く。歩き方が“普通の犬”のそれになる。石畳の隙間を嗅ぎ、足を止め、尻尾を一度だけ軽く振る。

可愛い。

可愛いが、ここで可愛いのは盾だ。盾で時間を稼ぐ。


路地を出る直前、背後で足音が一つ増えた。

増え方が嫌だ。軽い足音。慣れた足音。

カトリーヌが私の半歩後ろから、さらに半歩下がった。背後を見ない。背後を見ると負ける。背後を見ると相手が“当たってる”と確信する。


私は町の雑踏へ入る。

人が多い場所へ。

人が多い場所は動きにくいが、追跡もしにくい。

雑踏は壁になる。壁があれば一息つける。

だが壁は味方も敵も同じように隠す。油断はできない。


「……どこへ向かう?」


カトリーヌが囁く。

私は視線を前に置いたまま答えた。


「鍛冶屋」


「何で」


「宝剣なら刃がある。刃があるなら、錆びや欠けの相談に行く。――自然な導線になる」


嘘だ。

自然な導線などどうでもいい。

私が鍛冶屋へ行く理由は、もっと現実的だ。

宝剣の構造を“触らずに”確かめたい。

重いと言った。重いなら、内部に何かがある。なら、柄の宝石部を不用意に動かすな。今すぐ持ち主である私たちが確認しなければならない。確認すれば、守り方が決まる。守り方が決まれば、運び方が決まる。


鍛冶屋の前は熱かった。

鉄の匂い。炭の匂い。汗の匂い。

熱は嘘を剥ぐ。熱い場所では人は本音を吐く。吐かない者は、余計に怪しく見える。

私は布包みを抱え、入口へ立った。


「すまない。少し、見てほしいものがある」


鍛冶屋の親方は、腕を組んだまま私を見る。

メイド長の服。犬連れ。布包み。

怪しい。怪しいが、町ではそれくらい普通だ。普通に見せることが目的だ。


「刃物か?」


「刃物……のようなものです」


私はわざと曖昧に言った。

曖昧に言うと、人は勝手に補完する。補完した内容が相手の本音だ。

親方が鼻を鳴らす。


「盗品じゃねぇだろうな」


ここで否定すると怪しい。

ここで肯定すると終わる。

私は第三の道を選ぶ。


「拾い物です。……ただ、壊れやすい気配がする。壊したくない」


親方が一瞬だけ目を細め、布包みを見る。

壊れやすい。壊したくない。

その言葉は、盗品の匂いを消す。盗品は売りたい。売りたい者は“壊したくない”とは言わない。

私は意図してそう言った。


親方が顎で示す。


「開けろ。だがここで抜くな。人が来る。裏で見てやる」


裏へ通される。

雑踏の音が薄れ、炉の音だけが響く。

犬が足元で座り、じっと私の動きを見ている。

私は布包みを机に置き、ゆっくりと布をほどいた。

光が漏れる。

キラキラ。

じゃらじゃら。

玩具みたいに派手。

派手なのに、どこか古い。古いのに、嘘っぽい。嘘っぽいのに、重い。

矛盾の塊。


親方が鼻を鳴らした。


「……なんだこりゃ。柄だけ豪華で、刃は……」


刃がない?

私は喉が冷たくなる。

刃がないなら宝剣ではない。

宝剣でないなら、これは囮かもしれない。

だが親方は続けた。


「いや、ある。刃が“収まってる”。鞘の内側に固定されてる」


固定。

つまり分解式。輸送のため。

――王家が契約の証として“壊れやすい”形を選んだ理由が、ここにある。派手なのは目印。分解式なのは運搬。硬いのに砕けやすい宝石部は、契約書を守るための箱。

守るための箱が、今は最大の弱点になっている。


親方が柄の宝石部に指を近づけた。

私は反射で手を出し、止めた。


「触らないで」


声が強く出た。

親方が眉を上げる。

私は息を整え、言い訳の形に戻す。


「……そこが壊れそうで。割れたら困る」


親方が口を尖らせた。


「じゃあどうしろってんだ」


「音と重さだけでいい。中身があるかどうかだけ」


親方は舌打ちして、柄を布の上からそっと持ち上げる。布越し。衝撃が少ない。

彼は耳を近づけ、軽く揺らした。揺らし方が上手い。熟練の手だ。


――かす、……かす。


紙の擦れる音がした。

私は目を閉じた。

中にある。

紙がある。

宝石部の奥に、契約書がある。

つまりこれは本物だ。

本物が、露店に転がっていた。

露店に転がっていたということは、盗人は価値を知らないか、価値を知っていて“急いで換金したい”か。

どちらにせよ、時間がない。


親方が言う。


「中に何か入ってるな。固い殻の中で、薄いもんが擦れてる。……割れたら終わりだ。運ぶなら、揺らすな。落とすな。温度差も避けろ」


温度差。

熱で膨張して割れる可能性がある。

最悪だ。

最悪だが、助かる。助かるのは情報だ。情報があれば守れる。


私は頭を下げ、銀貨を一枚置いた。

親方は受け取らず、顎で出口を示した。


「礼はいらねぇ。……それ、命に関わるもんだろ。余計な騒ぎは起こすな」


私は頷いた。

外へ出る。

雑踏に戻る。

戻った瞬間、背中が冷える。

追跡の気配が、消えていない。

むしろ濃くなっている。


カトリーヌが囁いた。


「……付いてきてる。さっきの二人じゃない。増えた」


増えた。

増えたということは、情報が回った。

露店の男が売った。

売った先が喋った。

あるいは、最初から糸が繋がっていた。

ここから先は、“逃げ”ではなく“持ち逃げ”になる。持っているのは宝剣。壊れやすい契約の箱。走ってはいけない。走れば揺れる。揺れれば割れる。割れれば終わる。


私は布包みを胸に抱き、歩調を変えずに言った。


「……犬を使う」


カトリーヌが即座に理解する。


「わざと可愛く暴れさせて、人の目を集める?」


「違う。……犬は犬であるふりをして、相手の足を止める。沈黙で言葉を奪う。――そして、私たちは角を曲がる」


犬が私の足首に鼻先を当てた。

ぴと。

合図。

“やれ”。


私たちは市場の中央へ向かった。人が多い。視線が多い。視線が多い場所は、追跡者にとってやりにくい。

そこで私は、わざと布包みを抱えたまま、露店の果物籠に肩をぶつけた。籠が揺れ、林檎が転がる。

私はわざと声を上げた。


「あっ……! すみません!」


人が振り向く。

その瞬間、犬が林檎を追って走り出した。

走り方が“完璧な犬”だ。

短い脚で、無駄に可愛い速度で、しかし確実に林檎を咥えて戻る。

周囲が笑う。笑いが広がる。

笑いが広がると、追跡者の視線が分散する。分散した視線の中で、追跡者は“今、手を出すと目立つ”状況になる。

目立つのを嫌う者は、仕掛けがある者だ。仕掛けがある者は、正体を隠したい。

隠したい者は、足が止まる。


犬が戻ってきて、林檎を私の足元に置いた。

置き方が妙に丁寧で、周囲から可愛い歓声が上がる。

私は笑顔を作り、林檎を籠に戻し、布包みを抱えたまま一歩下がる。

カトリーヌが私の腕を軽く引き、角を曲がる。

角の向こうは細い路地。

路地の先は荷車の集まる裏通り。

裏通りなら、人の流れを切れる。


走らない。

揺らさない。

息を切らさない。

ただ、角を増やす。角を増やせば、追跡は遅れる。遅れた分だけ、私たちは町を出られる。


そして、町の端へ出る直前――

背後から、声が飛んだ。


「おい! そこの女!」


私は止まらない。止まったら終わる。

だが足取りを変えずに、耳だけで拾う。

声は荒いが、官の声ではない。兵の声でもない。

“雇われた声”だ。

雇われた声は、金で動く。金で動く者は、道理では止まらない。


カトリーヌが低く言った。


「……来る」


私も低く返す。


「……割らせない」


犬が、今度は唸らなかった。

唸らず、ただ、立ち止まり、振り返った。

尻尾を振らない。

目を細める。

灰金の沈黙が、相手の足を一瞬止める。


その一瞬で十分だった。


私たちは町の境を抜ける。

抜けた瞬間、風が強く吹いた。

布包みを胸に抱え直す。

中の紙が擦れる音がしないように、呼吸まで浅くする。


宝剣を得た。

得たが、まだ安心できない。

宝剣は“鍵”の半分だ。

鍵のもう半分――書状と印鑑がまだない。

それに、宝剣を取り返した瞬間から、こちらの存在は濃くなる。

追われる。

追われながら探す。

犬の旅は、ここで「可愛いお仕事」ではなく「国の骨格を抱えて走る地獄」になる。


私は布包みを抱えたまま、犬を見た。

犬は一度だけ瞬きをして、前脚で地面を叩いた。


とん。


一回。

――「次へ」。



町を抜けた瞬間、風が露骨に冷たくなった。

石畳の音が消え、土の道の音に変わる。土の道は吸う。吸うから足音が軽くなる。足音が軽くなると、追う者の足音もまた聞き取りにくくなる。つまり“見えない追跡”が始まる。私は布包み――宝剣を胸に抱え直し、呼吸を浅くした。胸で抱くと揺れが減る。揺れが減れば宝石部の衝撃が減る。衝撃が減れば、契約書が生きる。


カトリーヌは横を歩きながら、背後を見ないまま背後を読んでいた。

「まだいる」

声は小さい。小さいが断定だ。

「……距離は?」

「近すぎない。遠すぎもしない。慣れてる。嫌な慣れ方」


慣れている者は、焦らない。焦らない者は、こちらを壊す方法を知っている。

宝剣を奪うなら、奪う必要はない。割ればいい。

割れてしまえば契約書は濡れる。濡れればインクが滲む。滲めば“承認”が死ぬ。承認が死ねば、公爵家はただの「金持ちの家」に落ちる。

それを狙っているのなら――追跡者は“買い取り屋”ではない。破壊屋だ。


私は布包みの端を少しだけ締め、あえて腕をだらりとさせた。抱えている姿は目立つ。目立つと狙われる。だから“重い布切れを運んでるだけ”に見せる。

その代わり、落とせない。落とした瞬間に終わる。終わるのが先か、割られるのが先かの勝負になる。


足元で、とと、とと、と短い足音がする。

コーギーの主が、道端の匂いを嗅ぎ、普通の犬のふりをして歩いている。

普通の犬のふりが、上手すぎて腹が立つ。腹が立つほど可愛い。

可愛いのに、今の可愛さは“武器”だ。可愛いが武器になる世界は、たいてい地獄だ。


道が分かれた。

左は橋へ向かう近道。右は畑の間を通る遠回り。

橋は人が通る。人が通る道は安全に見える。だが人が通る道は、待ち伏せもしやすい。

私は右へ行きたかった。だが右へ行けば時間がかかる。時間がかかれば追跡者は距離を詰める。

迷いが生まれた瞬間、犬が足を止めた。


尻尾は振らない。

耳が少しだけ立つ。

そして、地面を叩いた。


とん。


一回。

――「右」。


私の迷いが、切れた。迷いは敵だ。主が決めたなら従う。従うことが今は最も合理的だ。

私たちは右へ進んだ。畑の間の道は狭く、ぬかるみもある。ぬかるみは滑る。滑れば揺れる。揺れれば割れる。最悪だ。

だから私は歩幅を小さくし、膝を柔らかくして衝撃を吸った。馬車の御者の歩き方だ。主を運ぶときの歩き方。今運んでいるのは刃ではなく“国の骨格”だと思えば、歩き方も変わる。


畑道の先で、荷車の音がした。

ガタガタと木が鳴る。

私は立ち止まり、道の端へ寄る。荷車を避けるためだが、理由はそれだけではない。荷車は“隠れ場所”になる。

荷車の荷が何かで、今日の生死が決まる。


荷車が近づき、積荷が見えた。

羊毛だ。

束ねられた羊毛が布で覆われ、ふわふわの山になっている。

私は喉の奥で、神に感謝しそうになった。羊毛は衝撃を吸う。温度差も緩和する。宝剣にとって理想の棺だ。


荷車を引く男は、日焼けした農夫だった。目は疲れているが、悪意はない。

私はすぐに声をかけた。悪意のない者には、悪意のない言葉が効く。


「すみません。王都へ行く途中で、足を痛めた者がいて。少しだけ荷車に乗せていただけませんか。……犬もいます」


農夫は犬を見た。

犬が農夫を見上げた。

灰金の瞳が、言葉の代わりに礼をした。

農夫が一瞬だけ固まり、次に肩を落とす。


「……変な犬だな。いいよ。だが羊毛は売り物だ。汚すなよ」


「汚しません。命にかけて」


冗談の形で言ったが、内容は冗談ではない。


荷車に近づき、私は羊毛の山の端に手を入れた。ふわりと沈む。沈むのに、底がある。ここに宝剣を入れれば揺れは減る。

ただし問題は――布包みの中身を見られることだ。見られたら追跡者は確信する。確信した追跡者は、次に“壊しにくる”。

私は布包みを抱えたまま、背中で荷車の影を塞ぐように体を動かし、羊毛の中へ滑り込ませた。羊毛が宝剣を飲む。飲む瞬間、内部の紙が擦れる音がした気がして、私は心臓が止まりそうになった。

だが音はすぐに消えた。羊毛が吸った。吸ってくれた。ありがとう、羊。


カトリーヌが農夫に軽く会釈し、荷車の横に歩いた。

私は荷台の端に腰を下ろし、犬を膝に乗せた。乗せた瞬間、犬が少しだけ不満そうな顔をした。働き犬は“抱かれる犬”ではない。だが今は抱く必要がある。犬が歩くと目立つ。目立つと追跡者が読みやすい。読まれたら、犬は捕まる。捕まれば終わる。


犬が私の腕の中で、こっそり首を伸ばした。

羊毛の山の方へ。

キラキラした柄の方へ。


「……お嬢様」


私は小声で釘を刺した。

犬は耳だけ動かして知らん顔をし、次の瞬間――羊毛の端から覗く飾り紐に鼻先を近づけた。

じゃらり。

ほんの小さな金属音。


私は固まった。

農夫は前を見ている。カトリーヌは外側を見ている。追跡者は――。


背後の畑道の向こうに、影が二つあった。

歩いている。歩き方が軽い。農夫の歩き方ではない。

町の兵の歩き方でもない。

雇われた歩き方だ。


影の片方が、こちらを一瞬見た。

見て、視線を外した。

外したのが怖い。

見た上で「確認が取れた」顔だからだ。


私は息を吸い、顔を崩さず、犬の口元をそっと押さえた。

押さえながら、囁く。


「今は玩具じゃありません」


犬が私を見上げる。

灰金の瞳が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ“きょとん”とした。

その“きょとん”が、純粋な犬の表情で――私は内心で頭を抱えた。


――あれ?

――最初に宝剣を選んだ理由……まさか。


私はその考えが口から漏れそうになり、喉を噛んで止めた。

カトリーヌが横目で私を見る。

私は首を振った。

今は確認しない。今は追跡を切る。

そして、その小さな疑問は――後で笑えばいい。今笑うと死ぬ。


荷車は橋へ向かわず、畑道を抜けて小さな集落へ入った。

集落には納屋があり、農夫が荷車を止める。


「ここで一息だ。犬も水飲め」


私たちは礼を言い、荷車から降りた。

私は羊毛の山に手を入れ、宝剣を“抜かずに”位置を直した。抜くと光る。光ると目立つ。目立つと刃が飛ぶ。

犬が私の足首に鼻先を当てた。ぴと。

――「早く」。


納屋の影が深い。影が深い場所は隠れやすい。隠れやすい場所は、襲われやすい。

案の定、影が動いた。納屋の入口で、上等な外套の男が二人、さりげない顔で立っていた。さりげない顔が逆に不自然だ。

片方が笑う。


「いい犬ですね。……その荷は?」


私は笑わない。

「羊毛です」

「へぇ。羊毛にしては大事そうに抱えてましたが」


大事そうに抱えたのは剣だが、今は羊毛の話だ。

私は肩を竦めた。


「売り物ですから。汚したら怒られます」


男が一歩近づく。

泥を踏まない足取り。

踏まない足取りは、暴力に向いている。暴力は汚れるからだ。

男の視線が、膝元の犬へ落ちた。


「……犬、吠えないんですか」


犬が男を見上げ、目を細めた。

そして、唸った。


……きゅぅ。


可愛い。

可愛いのに、空気が凍った。

男の笑いが止まる。喉が鳴る。

犬の沈黙は、男の言葉を奪う。


その一瞬で十分だった。

カトリーヌが農夫の横へ回り、普通の調子で言う。


「この犬、変に勘が良くて。怖い人が近づくとこうなるんです」


男の眉が動く。

“怖い人”と言われた。

だが怒れない。怒ると正体を晒す。晒したくないからさりげない顔をしている。

さりげない顔を維持するために、男は笑うしかない。


「はは……犬に嫌われるのは心外だ。失礼しました」


男は引く。

引きながら、納屋の中を覗こうとする。覗こうとする視線の角度が、羊毛の山へ向いている。

私は即座に、納屋の隅に置かれた水桶へ歩き、桶の前で“わざと”つまずいた。


ガタン。

水桶が揺れる。水が跳ねる。泥が混じる。

農夫が「おい!」と声を上げる。

男たちの視線が、水桶へ逸れる。逸れた瞬間、カトリーヌが羊毛の山の前へ立ち、体で隠す。


私は顔を上げ、申し訳なさそうに言った。


「すみません、手が滑って……」


謝罪は盾になる。盾は時間を稼ぐ。時間を稼げば、こちらの勝ち筋が増える。

男たちは「気にするな」と言い、場の空気を保ったまま去っていく。去り際に、片方が小さく呟いた。


「……“割れ物”だな」


私は背中が冷たくなった。

割れ物。

知っている。

知っているから、ここにいる。

つまり、相手は偶然の追跡者ではない。宝剣の脆さを知っている。契約書の存在を知っている可能性が高い。


カトリーヌが農夫に礼を言い、男たちが見えなくなった瞬間、私の耳元で囁いた。


「……組織。雇い主がいる。しかも“壊す狙い”」


私は頷く。

農夫に余計な不安を与えないよう、声は出さない。

出さないが、決断は固まる。

宝剣を回収した瞬間に、こちらが“見えた”。

見えた以上、次は追われながら探す段に入る。


夜、農夫の納屋を借りて、私たちは羊毛の山の中で宝剣の位置だけを確認した。抜かない。開けない。触らない。

その代わり、犬の工房の“道具”を出す。紙と赤鉛筆。

犬は床に伏せたまま、口で鉛筆を咥え、ゆっくり線を引いた。


最初は歪む。

次は少し整う。

そして、短い文字が出る。


――「印」


一文字。

それだけで十分だった。

次の目標は印鑑だ。

印鑑は小さい。小さいほど隠せる。隠せるほど、見つけにくい。

だが犬は、続けてもう一文字を書こうとして止まった。鉛筆が転がる。舌が出る。焦りが可愛い。

私は鉛筆を立て直し、犬の口元を支えた。


犬が、ようやく二文字目を押し付けるように引いた。


――「紙」


書状。

印鑑。

宝剣は確保した。確保したが、確保したせいで追われ始めた。

追われる中で、次の二つを奪い返す。


私は鉛筆の線を見つめ、ふとまた思った。

宝剣を最初に選んだのは、合理だから。壊れやすいから。目立つから。

全部、筋が通る。

筋が通るのに、さっきの犬の“キラキラへの吸い寄せ”が頭から離れない。


――あれ?

――選んだ理由……まさか犬が好きなものの……。


私は喉まで出かけた笑いを飲み込み、隣のカトリーヌを見る。

カトリーヌも同じ顔をして、眉だけ上げた。

そして二人同時に、何も言わずに目を逸らした。


……まぁいいや。


今は笑う段ではない。

笑うのは、主が人に戻ってからでいい。

その時に、宝剣の初動が「国の鍵」でもあり「犬の趣味」でもあったと分かったら――たぶん私は、泣きながら笑う。


納屋の外で、風が鳴った。

遠くで犬の遠吠えが聞こえる。うちの主は遠吠えしない。遠吠えしないのに、世界を動かす。

私は羊毛の匂いの中で目を閉じ、次の段を組み立てた。


印鑑はどこへ動く。

書状は誰が握る。

宝剣を割らずに運びながら、追跡を切るには何が要る。


そして明日――私たちは“普通の働き犬”の顔で、次の町へ入る。

犬の可愛さを盾にして。

犬の沈黙を刃にして。

追われる地獄の中で、残り二つの鍵を奪い返すために。


ここで完全に形を変えてしまった。

回収が成功したからこそ、失敗が始まる。

成功が見えたからこそ、敵が見えた。

敵が見えたからこそ、次が“戦い”になる。


夜明け前の納屋は、息をするたびに羊毛の匂いが肺に絡んだ。

暖かい匂いだ。暖かいのに落ち着かない。暖かい毛の山の中に「国の鍵」を隠しているからだ。私は眠っていない。眠れないのではない。眠るべき順番が来ていない。追われる時は眠らない。眠らない代わりに、手順を磨く。


羊毛の山の奥、布包みの位置を最後にもう一度確かめる。

手を入れると、ふわりと沈み、底に硬さがある。硬い。重い。硬いのに脆い。矛盾が腹立たしい。

私は指先で布の端を押さえ、揺れないように固定した。固定は力ではない。角度だ。角度を間違えると、力が必要になる。力が必要になった瞬間、物は壊れる。壊れたら終わる。


外がうっすら明るくなった頃、カトリーヌが目を開けた。彼女は私のように眠っていない。眠ったふりをして、耳だけ働かせていた。没落の経験がある者は、寝るのが上手い。寝るのが上手いのに、起きている。羨ましい能力だ。


「……動く?」


「動く」


私は短く答えた。

短く答えないと、言葉の端に不安が滲む。不安が滲めば犬が拾う。犬が拾えば、主が余計な盤面を描く。盤面が増えると時間が増える。時間が増えると追跡者が寄る。

今、時間は敵だ。


納屋の入口へ行き、隙間から外を見る。

薄い霧。畑の上に白い膜。人影は――ない。

だが“ない”が安全ではない。雇われた者は、目に見える位置に立たない。目に見えない位置で、道の分かれ目を押さえる。

私は戻り、声を出さずに手で合図した。カトリーヌが頷く。犬も起き上がる。犬は伸びをした。伸びが可愛い。可愛いが、可愛いを眺める時間はない。


私は羊毛の山から宝剣を“抜かずに”取り出す。

抜くと光る。光ると目立つ。目立つと割られる。

だから私は布を二重に巻き、布の外側にさらに粗い麻布を巻いた。麻布は目立たない。麻布は貧しい。貧しいものは盗む価値がないように見える。

見える、だけだ。中身は国の骨格だ。


「……お嬢様」


私は犬を見下ろし、声を落とした。

「今日から、あなたは“もっと犬”でいてください」


犬が瞬きをする。

理解している。

理解しているが、不満そうだ。

不満が可愛い。可愛いが、ここで可愛いのは盾だ。


犬は床を叩いた。


とん、とん。


二回。

――「今」。

“今、行け。言い訳は後”。

主の合図はいつも正しい。正しいから腹が立つ。腹が立つほど頼もしい。


農夫に礼を言い、私たちは納屋を出た。

農夫は眠そうな目でこちらを見て、言った。


「……昨日の外套の連中、朝も見たぞ。橋の方にいた」


橋。

分かれ道の左。

つまり、私たちが右へ行ったのは正解だった。主が一回叩いて決めた右が、命を繋いだ。

私は笑わず、頭を下げた。


「教えてくださってありがとうございます」


農夫は犬を見た。

犬が農夫を見上げた。

農夫が鼻の下を掻く。


「……変な犬だ。だが、悪い犬じゃねぇ」


その一言で、胸が少しだけ軽くなる。

民の言葉は、重い。

貴族の言葉より、ずっと重い。

主が守ろうとしてきたのは、この重さだ。


集落を抜けると、道は丘へ向かって緩やかに登った。

丘の上には、古い小さな祠がある。石でできた、誰のものでもない祠。

私はそこで足を止めた。理由は単純だ。ここなら見通しが利く。見通しが利けば、追跡の影が見える。

見えた影は、対処できる。


カトリーヌが祠の陰に立ち、耳を澄ませる。

私は犬を祠の石段に座らせ、麻布の包みを足元に置いた。置くときはゆっくり。ゆっくりは命だ。


犬は、包みを見た。

見て、首を傾げた。

そして――鼻先を包みに近づけた。


私は反射で手を伸ばし、止めかけた。

止めかけて、やめた。

止めると主は不満を溜める。溜めた不満は、どこかで爆発する。爆発が可愛くても困る。

だから私は、代わりに“許可された範囲”を作る。


「……嗅ぐだけ。噛まない。引っ張らない」


犬がじっと私を見る。

灰金の瞳が、子どもみたいにまっすぐで――胸が痛い。

気高い主が、犬になった途端にこういう目をするのが、呪いの嫌なところだ。

犬はゆっくり鼻を近づけ、包みを嗅いだ。

そして、満足そうに――小さく息を吐いた。


私はその仕草で、確信する。

宝剣を最初に追った理由。

合理。脆さ。目立ち。時間。

全部正しい。全部筋が通っている。

それでも“もう一つ”あった。


――キラキラしてて、長くて、じゃらじゃらで。

――犬が好きなやつだ。


私は喉の奥で笑いを噛み潰した。

カトリーヌが視線だけで「気づいた?」と聞いてくる。

私は視線だけで「気づいた」と返した。

そして二人して、何も言わない。

言えば主にバレる。バレたら主は恥ずかしがる。恥ずかしがる主は可愛い。可愛い主は――追跡者を招く。

だから今は黙る。


祠の向こう、丘の下の道に人影が二つ現れた。

外套の男たちだ。

遠い。だが近づいている。

歩調が一定。焦りがない。焦りがないのが怖い。

怖いが、こちらも焦らない。焦らないために、手順を持つ。


私は麻布の包みを抱え直し、犬の革紐を握った。

カトリーヌが囁く。


「追跡は切れてない。……でも、切る必要はないかもね」


「ええ。――追跡者がいるなら、追跡者を使う」


「使う?」


「印鑑と書状へ繋がっている可能性がある。宝剣を壊すために来ているなら、残り二つも“どこかに動かした者”がいる。……その線を引き出す」


カトリーヌが口元だけで笑った。

没落家門の娘の笑み。

滅びの音を知っている者の笑みは、切れ味がある。


「じゃあ、次の町では“わざと”見せる?」


「見せる。ただし――壊させない距離で」


私は言った。

そして、犬を見下ろした。

犬は私を見上げ、地面を叩いた。


とん。


一回。

――「行け」。

主の合図で、また世界が単純になる。


丘を下り、私たちは次の町へ向かった。

町は小さい。だが役所がある。役所があるなら印鑑の匂いがある。印鑑は、行政の匂いを好む。盗人は印鑑の価値を知らなくても、「紙に押すと偉そうに見える」くらいは知っている。偉そうに見えるものは、役所で売れると思う。役所で売れないなら、偉そうな誰かが買うと思う。

つまり印鑑は、権威へ寄る。

権威へ寄るなら――町の役所、教会、地主の屋敷。

そして、そのどこかに、追跡者の雇い主がいる。


私たちは町の入口で立ち止まり、呼吸を整えた。

ここから先は、また言葉の戦になる。

私は心の中で手順を思い出そう。


まずは「働き犬」として自然に入る

印鑑の噂を拾う

追跡者を視界に置きつつ、彼らが誰に報告するかを見極める

報告先=次の標的

宝剣は割らせないことが最優先目標。


私は革紐を短く持った。

犬が私の足元で、小さく尻尾を振った。

ほんの一度だけ。

可愛い。

そしてその可愛さが、今日の盾になる。


「……これで終わり」


私は心の中でそう結んだ。

宝剣は確保した。

確保したが、敵が見えた。

敵が見えたから、次は敵を使って残りを奪い返す。


そして最後に、私はもう一度だけ、麻布の包みに目を落とした。

玩具みたいなキラキラが、その中で眠っている。

主は犬になっても、やっぱり主だ。

合理で動く。冷徹で動く。

……その上で、ちょっとだけ犬だ。


私は唇の端をほんの少しだけ上げ、すぐに戻した。

笑うのは後。

今は前へ。

“前へ”の先に、印鑑と書状が待っている。



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