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悪役令嬢-犬  作者: 伊阪証


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3/4

犬はいつでも急ぎ足

翌朝、屋敷の空気は少しだけ違った。

霧の匂いは同じ。冷たさも同じ。けれど、床板の軋みが昨日より確かに「生活」に寄っていた。沈黙が薄れたというより、沈黙の中に“作業音”が混じった。沈黙は死ではなく、準備になった。


私は夜明け前に書斎へ入り、机の上を空にした。余計な装飾も、余計な紙束も置かない。置けば散らかる。散らかれば倒れる。倒れればインクがこぼれる。犬は犬としての体で動くのだから、人間の机に合わせれば必ず事故る。事故が笑いになるのはいい。だが、笑いに紛れて壊れるものが増えるのは困る。私たちは今、壊れる余裕がない。


机の高さを変える代わりに、床に厚い敷物を敷いた。ペンが転がりにくい織り。紙が滑りにくい繊維。インク壺を置くための小さな盆。盆の縁を少し高くして、倒れても流れ出しにくくする。

カトリーヌが横で見ていて言った。


「……本気で“工房”作るつもりね」


「ええ。主が言葉を持つなら、ここは工房です」


ノエルは布を抱えたまま頷き、布の端をちぎって小さな紐を作っていた。紐は、ペンを固定するためだ。口で咥える位置がずれると線が暴れる。暴れると文字にならない。文字にならないと外へ出ない。外へ出ないと、私たちは次の段へ上がれない。


「……これ、噛みやすいように巻くんです。痛くならないように」


ノエルの声はまだ震える。だが震え方が違う。昨日までの震えは恐怖だった。今の震えは集中だ。

守りたい。だから手が動く。動く手が彼女を守る。


爪の音がして、犬が現れた。

とと、とと。

昨日より足取りが軽い。気のせいではない。犬の体は、決断が明確になると動きが軽くなる。クラリッサが犬になってから気づいたことの一つだ。人間の頃より、感情を隠せない。隠せないのに、外にはバレない。矛盾が増えていく。


犬は敷物の上へ座り、ペンを見た。

ノエルが巻いた紐を咥える。

噛む位置を調整するために、口を小さく動かす。

それから、紙へ向けて首を下ろした。


線が走る。

昨日の線より安定している。

真っすぐではないが、目的が見える線だ。

一画、二画。

途中でペン先が引っかかり、犬の頭がびくりと跳ねる。インクが点になる。点が紙を汚す。犬は一瞬固まり、次の瞬間――舌を出し、鼻先についたインクを舐めて、さらに黒くする。

ノエルが小さく「だめ……」と呻き、カトリーヌが肩を震わせ、私も目元だけを緩めた。


笑ってはいけない。

けれど、笑わないと折れる。

私たちは折れないために、少しだけ笑った。


犬はそれを見て、耳を伏せた。

恥ずかしいのだ。

恥ずかしいのに、止めない。

止めないのが、クラリッサだ。


しばらくして、紙の上に形ができた。

形はまだ歪だが、私は息を呑んだ。

文字だ。

短い文字。

それも、命令ではなく、意思表示。


――「行」


一文字だけ。

だが一文字で十分だった。

“前へ”の具体化。

屋敷の外へ出る。働く。隠れる。探す。

動く合図。


カトリーヌが言った。


「……で、どこへ?」


私が答える前に、犬が床を叩いた。

とん、とん。

二回。


合図は決まっていた。

二回は「今」。

今、行け。迷うな。

迷えば外が先に動く。


私は頷き、袋を用意した。中身は最小限だ。紙、インク、赤鉛筆、そして今日書けるようになった“署名の癖”を残すための練習紙。それから――銀の計量札。

犬はそれを見て、鼻を鳴らした。

肯定。

“必要だ”と言っている。


屋敷の裏から出る準備を整えると、ノエルが前へ出た。


「私、ついていきたい」


カトリーヌが即座に言う。


「だめ。屋敷を空けるな。あなたは“屋敷が動いてる証拠”になる」


ノエルが唇を噛む。

私は柔らかく言った。


「ノエル。あなたが残ることが、今は一番強い」


ノエルの目に涙が溜まる。

犬がノエルの足元へ行き、短く尻尾を振った。

褒美。

褒美が可愛い。

可愛いが、ここでは“命令の代わり”だ。ノエルは泣きながら頷き、犬の頭を一度だけ撫でた。甘やかしではない。送り出しの撫で方だった。


私は犬の首に細い革紐を結び、袋を咥えさせた。

カトリーヌが外套を羽織り、私に目配せをする。


「私も行く。あなた一人じゃ、外の舌に勝てない」


それは正しい。

私は頷いた。

外では、言葉が刃になる。刃を受けるには、刃を知る者が必要だ。没落を経験したカトリーヌは、刃の振る舞いを知っている。


私たちは垣を越え、裏道へ出た。

舗装されていない土の道。王都の華やかな石畳とは別世界だ。ここには馬糞の匂いがあり、羊の鳴き声があり、働く者の汗がある。クラリッサが守ろうとしてきたのは、この匂いだ。

犬は少しだけ立ち止まり、鼻を鳴らした。

懐かしいのかもしれない。

あるいは、これが自分の戦場だと確認したのかもしれない。


目的地は、領地の端にある牧草地。

地主の娘――エレオノールの家だ。

クラリッサの古い友人。

貴族でも庶民でもない。土地と数字に忠実な女。王都の噂から距離がある分だけ、現実に強い。


道中、村の入口で二人の男に呼び止められた。

粗末な服。けれど目が鋭い。

ただの農夫ではない。噂を嗅ぐ者の目だ。


「……メイド長さんじゃねぇか。どこ行く」


私は足を止め、顔を上げた。

嘘は盾。嘘は刃。

今の私たちは、嘘を“先に出す”。


「薬草を求めております。御令嬢の病は長い。領内の薬師では足りないので」


男が犬へ視線を落とした。

「犬も連れて? 犬は治療に効くのか」


カトリーヌが口を開いた。


「効くわよ。人が黙るから」


男が笑いかけた。

犬が目を細め、低く唸る。


……きゅぅ。


男の笑いが途中で止まり、咳払いに変わった。

犬の“可愛い”が、ここでも刃になった。

可愛いのに、こちらが優位に立つ。

相手の言葉を奪う。

それは犬の力ではない。クラリッサの沈黙の力だ。


男は不満そうに唇を歪めながらも、道を空けた。

私たちは進む。

進みながら、私は思う。

犬になったことが、主を弱くしたわけではない。

むしろ、“言葉の届かない世界”で戦うための武器を与えた。

言葉が届かない世界――それは、噂の世界だ。群衆の世界だ。政治の世界だ。


昼過ぎ、牧草地が見えた。

羊の群れが白い点のように散らばり、柵の向こうで草を噛んでいる。

風が強く、草が波のように揺れていた。

その中で、一人の女が立っていた。


背は高くない。

けれど姿勢がまっすぐだ。

手には杖。服は実用的で、袖口が擦り切れている。

目がこちらを捉えた瞬間、女の顔が強張った。


「……ミレーユ?」


私が礼をすると、彼女は視線を犬へ落とし、眉をひそめた。


「冗談でしょう。あなたが、犬を連れてここまで来るなんて」


カトリーヌが口元だけで笑う。


「冗談だったら良かったわね」


エレオノールが一歩近づき、犬の灰金の瞳を覗き込む。

犬は逃げない。

ただ、じっと見返す。

その視線の圧に、エレオノールの呼吸が一瞬止まった。


「……その目。……まさか」


彼女は言いかけて、言葉を飲み込んだ。

賢い。言葉にした瞬間、現実になる。現実になった瞬間、責任が生まれる。

責任を背負う覚悟がいる。

エレオノールは覚悟の前で、足を止めた。


私はその止まった時間の中で、低く言った。


「お願いがございます。犬を――牧羊犬として雇ってください」


エレオノールの目が大きく開いた。

「雇う? 犬を?」


私は頷き、続けた。


「ええ。犬は働けます。働きます。……そして、ここなら噂が届きにくい。屋敷より、ずっと安全です」


“安全”。

その言葉を言った瞬間、胸が痛んだ。

屋敷が安全でないと認めたことになる。

けれど認めなければ、守れない。

守るためには、主を屋敷から切り離す必要がある。主が屋敷に縛られている限り、屋敷が燃えれば主も燃える。


犬が前へ出て、柵の手前で座った。

背筋が伸びる。

尻尾が揺れない。

まるで「面接」を受けるように、エレオノールを見上げた。


エレオノールが喉を鳴らし、ゆっくりと笑った。


「……分かった。分かったわよ。変な犬ね。変すぎて、逆に信用できる」


カトリーヌが囁く。


「信用の基準が雑ね」


「雑じゃない。……あの目は、嘘を嫌う目だ」


エレオノールがそう言い、杖で地面を軽く叩いた。

羊が一斉に顔を上げる。

風が強くなる。

草が波打つ。


「じゃあ試す。あんた――羊をまとめてみなさい」


犬が立ち上がった。

短い脚が草を踏み、すぐに走り出す。

速い。意外なほど速い。

そして動きが“賢い”。

羊の後ろへ回り込むのではない。横へ回り、角度を切り、羊が自分で群れに戻るように誘導する。

吠えない。吠えないのに、羊が動く。

沈黙で動かす。

まるで人間社会の扱い方だ。


エレオノールが息を呑む。


「……何よ、その動き。牧羊犬の教育なんて受けてないでしょう」


私は答えなかった。

答える必要はない。

彼女が見たものが答えだ。


羊の群れがまとまり、柵の内側へ誘導される。

犬が最後に自分の位置を調整し、ピタリと止まった。

完了。

完璧。

そして――犬が少しだけ舌を出し、息を切らした。

その瞬間だけ、普通の犬だった。

普通の犬になった瞬間、ノエルがここに居たら泣いただろうと思った。


エレオノールが笑い、私を見た。


「雇う。……雇うけど、条件がある」


私は身構えた。

条件は刃になる。


「この犬のこと、私は“犬”として扱う。

 でも――あなたたちが嘘を吐くなら、私も嘘を吐く。

 守るための嘘なら、協力する。

 けれど、私の土地で血の匂いがしたら、追い出す」


合理的だ。

彼女は土地を守る者だ。

守る者は、守るために切る。


私は頭を下げた。


「感謝いたします。……必ず守ります」


犬がエレオノールを見上げ、尻尾を一度だけ小さく振った。

褒美。

契約成立。

犬の可愛さが、ここでは“契約印”になった。


その夕方、私たちは屋敷へ戻る準備をした。

カトリーヌは帰路の途中で、私の耳元に囁いた。


「これで主は外に出られる。働ける。隠れられる。……そして探せる」


私は頷いた。

探すべきものがある。

屋敷が燃えた時に奪われたもの。

王位継承に関わる書状。公爵家の印鑑。公爵家の宝剣。

それを探すには、屋敷の中で沈んでいては駄目だ。

犬が外を歩く必要がある。

犬が犬として可愛がられる必要がある。

そして、犬が犬の口でペンを持てる必要がある。


屋敷へ戻る途中、私は一度だけ振り返った。

牧草地の向こうで、犬が羊の群れを見張っている。

風が吹き、草が波打つ。

犬の小さな影が、その波の上で揺れない。


あの姿は、少しだけ“自由”に見えた。

自由は救いだ。

しかし自由は同時に、孤独でもある。


私は胸の奥で、静かに誓う。

主を外へ出した。

次は、外が主へ牙を剥く。

その前に――主は必ず“見つける”。

奪われたものを。

奪われた未来を。


屋敷へ戻る道は、来た時より短く感じた。

短いのではない。私の中で時間の尺度が変わった。主を牧草地へ置いてきたことで、屋敷はもはや“中心”ではなくなった。中心がずれると、人は怖くなる。中心がずれると、守るべきものが増える。守るべきものが増えると、急ぐ。私は急ぎたくなかった。けれど足は勝手に速くなった。


門が見えた時、空気の匂いが違った。

焦げ臭い。

湿った土に混ざる、甘く不快な匂い。火の匂いだ。火は消えても匂いは残る。匂いは残っているのに、煙が見えない。つまり火は“今”ではなく“さっき”だ。

私は息を止め、門前の影を数えた。人がいる。役人ではない。騎士でもない。――近所の者だ。野次馬だ。野次馬がいるということは、何かが起きたということだ。


私が門へ駆け寄るより早く、カトリーヌが私の腕を掴んだ。


「走るな。……走ったら“当たり”になる」


正しい。走る者は、心の中に“確信”がある。確信は噂の餌になる。

私は歯を食いしばり、歩調を落として門へ向かった。門番はいない。門が半分開いている。嫌な開き方だ。丁寧に開けたのではなく、乱暴にこじ開けた開き方。誰かが“入った”。


「ミレーユさん……!」


ノエルが門の内側から飛び出してきた。顔が真っ青だ。目が腫れている。泣いたのだろう。泣いた上で、泣き止んだ顔だ。泣き止んだ顔は危険だ。人は泣き止むと、現実を飲み込んでしまう。


「……火が」


ノエルはそれしか言えなかった。

私は頷き、門をくぐった。


庭の白薔薇は無事だった。

無事なのが、逆に不気味だった。

火が庭を舐めていない。つまり狙いは庭ではない。屋敷の“中”だ。

屋敷の外壁は黒ずんでいない。つまり大火ではない。局所的な火。局所的な火は、事故より“意図”が多い。

私は階段を上がり、廊下へ入った。

そこから先の光景で、喉の奥が冷たくなった。


書斎の扉が、壊れていた。

壊すほど急いだのだ。

急いで探した。

急いで――奪った。


床には焦げた紙片。封筒の破片。割れた硝子。インクが黒い海のように広がり、乾きかけている。

昨日整えた“工房”は、踏み荒らされていた。敷物はめくれ、盆はひっくり返り、インク壺は粉々だ。

だが火は、ここにない。

火はもっと奥。主寝室側の廊下に、焦げた匂いが濃くなる。


私は走りそうになった。

カトリーヌが、また腕を掴んだ。


「走るな。……走るなら、最後まで走れ。途中で止まるな」


私は頷き、今度は意図して走った。

止まらないために走る。

止まらなければ、崩れない。


公爵の執務室の前で、足が止まった。

扉が焼けている。

燃えたのは扉だけだ。中は黒い。煙の跡が天井に筋を引いている。

そして、床に水が溜まっている。消火したのだ。誰かが。間に合った。間に合ったが、間に合わなかった。


ノエルが後ろで震える声を出した。


「……火は、夜明け前でした。誰かが裏から入って……ここだけ、燃やして……」


「誰が消した」


私の声は、知らない音になっていた。

ノエルが言う。


「……近所の人が。煙を見て。……でも、消す前に、誰かが出ていく影を見たって」


影。

影は、盗人の影だ。

政治的な暗殺者なら、影を見せない。

影を見せる者は、手が荒い。荒い者は、目的が単純だ。

単純――金。宝。派手なもの。

だが、ここで燃やすのは派手すぎる。火は目立つ。目立つのにやる。やる理由がある。

理由は一つ。

早く見つけたいものがあった。

見つけられなかったから、燃やして隠す。

燃やせば、証拠が消える。燃やせば、誰が何を見たか分からなくなる。


私は部屋に入った。

家具が倒れ、書類棚が崩れ、床に灰が積もっている。

灰の中に、溶けた封蝋がある。

封蝋は焼けると甘い匂いを出す。あの匂いだ。

私は膝をつき、灰を指先で押し分けた。

紙の端が残っている。

文字は読めない。

読めないが、封の形で分かる。王家の封だ。

王家からの何かが、ここにあった。

そして、狙われた。


「……何が、あったの」


カトリーヌが低く言った。

私は答える代わりに、ノエルを見た。ノエルは震えながら、懐から小さな布包みを出した。

布包みの中には、焦げていない紙が一枚。

端が折れている。インクの匂いが残っている。


「……これだけ、隠しました。燃える前に。私、何が大事か分からないけど……お嬢さまの字っぽいのがあって……」


私は紙を受け取り、目を走らせた。

短いメモ。

しかし内容が重い。


――王位継承に関して、監督官より。

――アルノー家の承認の鍵は、二つ。

――王(前か現、いずれか)の書状と、公爵家の契約の証。

――印鑑と、宝剣。

――宝剣の宝石部に契約書がある。


私は息を止めた。

これは、主の“設計図”だ。

そして、この設計図が残っているということは、設計図そのものを狙われたということだ。


カトリーヌが紙を覗き込み、目を細める。


「……つまり、盗まれたのは“金”じゃない」


私は頷いた。


「金はついで。狙いは“鍵”。……王位継承の鍵」


その言葉を口にした瞬間、屋敷の空気が変わった。

火事は火事ではなくなる。

盗難は盗難ではなくなる。

これは、ただの家の被害ではない。国の骨格に触れる。

触れた瞬間、もっと大きな手が動き出す。

王宮。貴族。民衆。革命の芽。全部が、今の火事を“理由”にできる。


ノエルが泣きそうな声で言った。


「じゃあ……お嬢さまが居ない今、これ……誰が……」


私は答えかけて、止めた。

答えは一つしかないからだ。


――犬。

外にいる犬。

牧草地の犬。

口でペンを持つ犬。

沈黙で人を動かす犬。

クラリッサ・アルノー。


私は立ち上がり、背筋を正した。

悲しみは後だ。怒りも後だ。

今は順番がある。順番を間違えると死ぬ。

順番はこうだ。

①被害の確定

②外への情報統制

③主への報告

④探索の開始


私はカトリーヌに言った。


「今すぐ、屋敷の出入りを閉める。近所へは“火事場泥棒”で統一。政治の匂いは出すな。王位継承なんて一言も漏らすな」


カトリーヌが即座に頷く。


「分かった。噂の舵を握る」


私はノエルに言った。


「あなたは屋敷に残る。泣くなとは言わない。でも、泣きながらでも手を動かして。今日からあなたは“屋敷が生きてる証拠”そのものになる」


ノエルが唇を噛み、頷いた。

その頷きが、昨日より強い。


最後に私は、焦げた部屋を見回した。

ここは公爵の部屋だ。

公爵が残したものが、また燃えた。

燃えたのに、まだ匂いが残っている。

匂いは、まだ終わっていないと言う。

終わらせないといけない。終わらせるには、取り戻すしかない。


私は外套の襟を立て、裏口へ向かった。

外へ出ると、冷たい風が頬を叩いた。

空は曇っている。

曇りは、火を隠す。

火を隠す日は、盗人が動く。


「……お嬢さまのところへ」


私が呟くと、カトリーヌが短く答えた。


「走るわよ」


私は頷いた。

今度は、途中で止まらないために走るのではない。

間に合うために走る。


主が外で働いている間に、屋敷が燃えた。

大事なものが奪われた。

そして、奪われたものは“国の鍵”だ。


この瞬間から、主題ははっきりした。

牧羊犬としての平穏は、仮の幕だった。

幕が落ちた。

ここからが本番――探索だ。


走ると、世界は単純になる。

息を吸って、吐いて、足を前へ出す。

それだけで、頭の中の余計なものが削れていく。悲しみも、怒りも、後回しにできる。後回しにしなければ、足が止まる。足が止まれば、終わる。私は終わらせたくなかった。終わらせるのはまだ早い。公爵が残したものは燃えた。燃えたなら、取り戻すしかない。


牧草地へ続く道は、昨日より風が強かった。

風は草を倒し、草はまた起き上がる。起き上がる草を見ていると、妙に腹が立つ。草は何度でも起き上がるのに、人は一度倒れると二度と戻れないことがある。公爵は戻らない。主は――今、犬として戻っている。戻っているのに、戻っていない。


柵が見えた。

羊の群れが白い点ではなく、白い塊になっている。まとまっている。まとまっているのは良いことだ。だが良いまとまり方ではない。まとまり方が“守り”だ。羊が守りに入るとき、そこに必ず外の気配がある。


私は息を止め、柵の内側を探した。

犬の影を。

灰金の瞳を。


いた。

柵の高い位置、わずかな土の盛り上がりの上。

クラリッサお嬢さまはそこに座り、風上を見ていた。

尻尾は動かない。

耳は立っている。

その姿は、可愛いの形をしていながら、完全に“警戒”だった。


エレオノールが家から出てきた。顔色が悪い。

彼女は私を見るなり、短く言った。


「……今朝、王都から変な連中が来た。犬を見せろって」


胸が冷たくなる。

早すぎる。

早すぎるが、筋は通る。

屋敷が燃えた。噂が動く。貴族が嗅ぎ回る。王宮が沈黙する。沈黙の隙間を埋めるのは、いつだって“勝手な正義”だ。


「追い返したの?」


「追い返した。――でも、完全には追い返せてない。何人かは“村に残った”。見張ってる」


私は頷いた。

外はもう主を追い始めている。

主が犬として働けば、働くほど、犬が“普通の犬じゃない”ことが匂いになる。匂いがすぎれば、嗅ぎつけられる。嗅ぎつけられた時に必要なのは、弁明ではない。先手だ。


私は柵を開けて中へ入った。

犬がこちらを見た。

灰金の瞳が、一瞬で私の顔を読み取る。

“起きたな”。

“悪いことが”。

それが分かる目だ。


私は膝をつき、犬の視界の高さに自分の顔を合わせた。

言葉を選ぶ時間がない。だが、順番は守る。順番を守らなければ、主は誤る。誤れば、私たちは死ぬ。


「お嬢さま。屋敷が燃えました」


犬の耳が一度だけ動いた。

それだけ。

驚きはない。怒りも見えない。

ただ、呼吸が少しだけ深くなった。


「局所火災です。消火は間に合った。……しかし、入られました。書斎と、公爵の執務室に」


犬の前脚が、地面を軽く掻いた。

苛立ちだ。

苛立ちが可愛い。可愛いが、ここでは刃だ。

草が削れる音がする。

その音が“許さない”と言っている。


私は続ける。

ここからが本題だ。


「奪われました。三つです」


私は指を折らずに言う。指は犬には見えない。言葉で数える。


「王位継承に関する書状。公爵家の印鑑。公爵家の宝剣」


その瞬間、犬の目が細くなった。

人間の頃の癖。

考える時の顔。

一瞬で、盤面が組み替わる。


犬が地面を叩いた。

とん。

一回。


――“誰が”。


私は答える。

答えは確定していない。確定していないことは、確定していないと伝える。曖昧にすると主は余計な仮定で動く。余計な仮定は死を呼ぶ。


「分かりません。政治の者とは限らない。火事場泥棒の可能性が高い。――価値を知らずに奪った可能性もある。けれど、狙いは執務室でした。だから“何か”は嗅いでいる」


犬の前脚が、二回、地面を叩いた。

とん、とん。


――“探す”。

短い。

短いが、結論はそれしかない。


私は頷き、袋を開けた。

中から焦げずに残った紙――ノエルが命を張って隠したメモを出す。

私は犬の前に置き、指で示した。犬は紙を見た。読む。理解する。

読めるのが救いであり、残酷だ。読めるから、分かってしまう。


犬は紙を見終えると、立ち上がり、羊の群れの方を一度だけ見た。

それは“契約”を確認する目だった。

働き犬としての立場。

隠れ家としての牧草地。

ここを捨てるべきか、使い続けるべきか。

犬はエレオノールを見た。

エレオノールも、犬を見た。


「……行くのね」


エレオノールが言う。

その声には恐怖より、諦めが混じっていた。

土地の女は、嵐が来ると分かると早い。早いから生き残る。


私は頭を下げた。


「ご迷惑を――」


「言うな。迷惑は嫌い。でも、貸しは嫌いじゃない。……返せる形で返しなさい」


彼女は杖で地面を叩き、続けた。


「それと、村の見張りは私が散らす。犬は“仕事があるから”って言って、堂々と連れていけ。隠すな。隠すと怪しい。堂々とすると、ただの犬に見える」


合理的だ。

嘘の使い方が上手い。

私は深く頷いた。


犬は最後にもう一度、羊を見た。

羊たちは不安げに鳴く。

犬は鳴かない。

鳴かずに、羊の群れの周りを半周し、柵の内側へ押し込む。

“ここに残る者”の安全を確保する。

主は主だ。犬の姿でも、順番を守る。


準備が整った。

私たちは村の道へ出た。

エレオノールは犬の首に、粗い麻縄の首輪をつけた。上品ではない。だが上品である必要はない。上品だと目立つ。目立てば奪われる。

首輪の麻縄は、犬を「働き犬」に見せる。

見せるために付ける。

見せる嘘だ。


村の入口で、昨日の男たちとは別の者がいた。

外套が上等で、靴が泥を嫌っている。貴族の使いだ。

彼は私を見るなり、口角を上げた。


「おや。公爵家のメイド長殿。今日は随分と“軽装”ですな」


私は笑わない。

礼だけをする。


「領内の用事です」


男の視線が犬へ落ちる。

興味の目。

値踏みの目。


「ほう。犬まで? 珍しい。……噂では、公爵家は火事に遭ったとか。物騒ですな。犬が居れば安心ですか」


カトリーヌが一歩前へ出た。

彼女の笑みは柔らかい。柔らかいが、刃がある。


「犬が居れば、黙る人が増えるでしょうね。――例えば、余計な噂を口にする人とか」


男が笑った。

笑いながら、犬を見下ろす。

その瞬間、犬が目を細め、低く唸る。


……きゅぅ。


男の笑いが、喉で詰まった。

彼は咳払いをし、体面を保つように肩を正す。


「……失礼。では、ご武運を」


去っていく背中が、こちらを探る背中だった。

見ている。

嗅いでいる。

もう始まっている。


村を抜けると、風が強くなった。

草原の風は遮るものがない。

遮るものがない風は、噂と同じだ。

一度吹けば、止められない。


私は犬の横で歩きながら、喉の奥に溜まった言葉を吐き出した。


「お嬢さま。私たちは、これから“取り戻す旅”に出ます」


犬は前を見たまま、短く鼻を鳴らした。

肯定。


「取り戻すのは、物だけではありません。……公爵の名誉。あなたの未来。民の明日。全部があの三つに繋がっている」


犬の尻尾が、ほんの少しだけ動いた。

自嘲でもない。慰めでもない。

ただ、理解の合図。


私は続ける。

ここで逃げ道を作らないために。


「そして、見つければ終わりではありません。宝剣は壊れやすい。輸送で砕ける。契約書が宝石の奥にあるなら、扱いが雑な者ほど危険です。……時間がありません」


犬が地面を叩いた。

歩きながら、前脚で軽く。

とん。

一回。


――“急げ”。


私は頷く。

急ぐ。

だが急ぎ方にも筋がある。闇雲に走れば、犬は“犬”として捕まる。捕まれば終わる。

だから私たちは、堂々と進む。働き犬として。領内の仕事として。嘘を纏って、本物を探す。


夕暮れが近づく。

西の空が赤くなり、雲が紫に沈む。

その色を見て、私は思い出した。

あの朝に赤い封蝋が滴り落ちた音。

あの音から始まった崩れが、今ここで“旅”になった。


犬は歩く。

短い脚で。

だが足取りは迷わない。

迷わないのが怖い。

迷わないのが頼もしい。


私たちは、愛され、憎まれ、その両方を踏んで人へ戻るための道へ入った。

その道の最初の標は、明確だ。


――王位継承の書状。

――公爵家の印鑑。

――公爵家の宝剣。


取り戻す。

取り戻すために、私たちは明日から、領内を歩き回る。

犬のように。

犬として。

そして、主として。

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