赤いボタンと消えない罪
現代日本のありふれた地方都市。閉鎖的なコミュニティの中で、人々の噂や疑念が渦巻いている。一見平和だが、水面下では人間の醜い感情が蠢いている。
工場の経営者である黒田は、不正の証拠を掴んだ幼馴染の白川と揉み合いの末、彼を殺害してしまう。パニックになった黒田の前に「人生をやり直せるボタン」が出現。彼はボタンを押し、犯行前に戻る。驚いたことに、やり直した世界では白川が別の形で黒田の前に現れ、彼を追い詰めてきた…
序章
鈍色の雲が空を覆い、九月の湿った空気が肌にまとわりつく金曜日の午前。黒田悟は、自身が経営する町工場「クロダ精機」の事務所で、重いため息を吐いた。窓の外では、古びた旋盤やフライス盤が唸りを上げ、油の焼ける匂いが立ち込めている。創業者の父からこの工場を継いで五年。時代の波に乗り切れず、経営は常に綱渡りの状態だった。
「悟、いるか」
事務所の引き戸がガラリと音を立てて開かれ、黒田の心臓が大きく跳ねた。そこに立っていたのは、幼馴染の白川雄二だった。黒田より一つ年上の三十六歳。学生時代はいつもつるんでいた親友だったが、今はその顔を見るだけで胃が収縮するような思いがした。
「雄二……。どうしたんだ、急に」
平静を装いながらも、声がわずかに上擦るのを止められない。白川は黒田のデスクまで真っ直ぐに進むと、手にしていた茶封筒を叩きつけるように置いた。乾いた音が、機械の騒音にかき消されずに響く。
「とぼけるな。これが何か、お前が一番よく分かっているはずだ」
白川の目は、かつての親友に向けるそれではない。軽蔑と怒りに満ちた、冷たい光を宿していた。封筒の中身は、黒田が手を染めてきた不正の証拠だった。品質データの改竄、下請け業者への不当な買い叩き、そして裏帳簿。資金繰りに窮した黒田が、生き残るために犯してきた罪の記録だ。経理を手伝ってくれていた白川が、その綻びに気づくのは時間の問題だった。
「……何のことだか、さっぱり」
「まだ言うか! 俺がお前のためにどれだけ心を痛めてきたと思ってるんだ。親父さんから受け継いだ大事な工場を、お前は自分の見栄と怠慢で汚したんだぞ!」
白川の声が震えている。それは純粋な怒りだけでなく、裏切られたことへの深い悲しみを含んでいた。
「やめてくれ、雄二。俺だって、好きでやったわけじゃない。守るものがあるんだ。従業員の生活が……」
「その従業員を、お前は裏切ってるじゃないか! 不正が明るみに出たらどうなる? 結局、全員路頭に迷うことになるんだぞ。今ならまだ間に合う。自首して、すべてをやり直すんだ」
「馬鹿なことを言うな! そんなことをしたら、すべて終わりだ!」
黒田は立ち上がり、白川に掴みかかろうとした。白川も一歩も引かない。二人の体格はほぼ同じだったが、追い詰められた黒田の力は常軌を逸していた。事務所の隅で、もつれ合うように揉み合いになる。棚に積まれた書類が雪崩を起こし、床に散らばった。
「離せ、悟! 正気に戻れ!」
「うるさい! お前さえいなければ……お前さえ黙っていれば、何も問題なかったんだ!」
その瞬間、黒田の目に、壁に立てかけてあった鉄パイプが映った。古い機械の部品か何かだろう。衝動が理性を焼き切る。彼は白川を突き飛ばし、その鉄パイプを掴んだ。
「悟、やめろ!」
白川の悲鳴のような声も、黒田の耳には届かなかった。振り上げた腕が、重力に加速度を加えて振り下ろされる。ゴツン、という鈍い音と感触が腕に伝わった。白川の体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。額から流れる赤い液体が、床に散らばった白い書類をみるみるうちに染めていった。
「あ……あ……」
黒田はその場にへたり込んだ。自分が何をしたのか、理解が追いつかない。目の前でぴくりとも動かない親友の姿。鉄パイプから滑り落ちた自分の手。震えが止まらない。
「違う……俺は、こんなつもりじゃ……」
囁きは誰に届くでもなく、機械の騒音に吸い込まれていく。事故だ。これは事故だったんだ。そう自分に言い聞かせようとしても、胸を締め付ける罪悪感は消えない。警察、逮捕、裁判、刑務所。破滅への道筋が、暗く長いトンネルのように口を開けていた。
絶望が全身を支配した、その時だった。
ふわり、と。
黒田の目の前の空間が、陽炎のように揺らめいた。そして、まるで最初からそこにあったかのように、一つの物体が出現した。
直径五センチほどの、滑らかな赤いボタン。
それは小さな黒い台座の上に鎮座しており、他に配線のようなものは一切見当たらない。非現実的な光景に、黒田は息を呑んだ。ボタンの表面には、白い文字でこう書かれていた。
『人生をやり直せます』
幻覚か。あまりのショックで、頭がおかしくなったのか。黒田は恐る恐る手を伸ばした。指先がボタンに触れる。ひんやりとした、プラスチックとは違う不思議な感触。
やり直せる? 何を? どうやって?
疑問が渦巻くが、今の黒田には選択肢などなかった。破滅か、それともこの意味不明なボタンに賭けるか。
「俺は悪くない。あれは事故だったんだ」
震える声で呟き、彼は祈るように、その赤いボタンを強く押し込んだ。
カチリ、という軽いクリック音。
次の瞬間、世界から色が消え、音が遠のいた。視界が真っ白に染まり、強烈な浮遊感が全身を襲う。まるで、高速で逆再生されるフィルムのように、散らばった書類が棚に戻り、床の血痕が消え、崩れ落ちた白川の体が起き上がっていく。そして、すべてが巻き戻った先で、黒田の意識はブラックアウトした。
第一章
ハッと我に返った時、黒田は自分のデスクの椅子に座っていた。心臓が警鐘のように鳴り響いている。慌てて周囲を見渡す。事務所は、揉み合いが起きる前の、整然とした状態に戻っていた。床に血痕も、散らばった書類もない。手に持っていたはずの鉄パイプも、元の場所で壁に立てかけられている。
「夢……だったのか?」
しかし、右手に残る鈍い感触と、全身を駆け巡るアドレナリンが、それが現実だったと告げていた。恐る恐る自分の手元を見る。そこにはもう、あの赤いボタンはなかった。
時計を見ると、午前十時四十分。白川が工場にやってくる、ちょうど十分前だ。
「やり直した……本当に?」
信じられない思いで呟いた、その時。
「悟、いるか」
心臓を鷲掴みにされるような衝撃。さっきと全く同じ声、同じタイミングで、白川が事務所に入ってきた。黒田は椅子から転げ落ちそうになるのを必死でこらえた。
「雄二……」
声がかすれる。今、目の前にいる白川は、まだ何も知らない。まだ、自分に殺されていない。
「どうした、顔色が悪いぞ」
白川が怪訝な顔で近づいてくる。その手には、あの茶封筒が握られていた。ダメだ、このままではまた同じことの繰り返しになる。殺人は避けなければならない。しかし、不正の告発も阻止しなければ。
「雄二、話がある」
黒田は先手を打った。
「実は、お前に相談したいことがあるんだ。最近、経営がどうにも上手くいかなくて……。少し、無理をしてしまった。お前の言う通りだったのかもしれない。一度、ちゃんと話を聞いてくれないか」
殊勝な態度で切り出すと、白川の険しい表情がわずかに和らいだ。
「……そうか。お前がそう言うなら、聞こう」
「ありがとう。ただ、今日は急な来客の予定が入ってしまってな。悪いが、明日にしてくれないか。明日の朝一で、俺の方から連絡する」
完璧な嘘だった。もちろん、来客の予定などない。だが、この場を切り抜け、考える時間さえ稼げれば、何とかなるはずだ。白川は少し考え込むそぶりを見せたが、やがて頷いた。
「分かった。だが、逃げるなよ。必ず連絡してこい」
そう言い残し、白川は封筒を持ったまま事務所を出て行った。
黒田は安堵のため息を漏らし、椅子に深く沈み込んだ。第一関門は突破した。殺人は犯さなかった。だが、問題は何も解決していない。明日になれば、白川はまたやってくる。どうする?
考えろ。考えるんだ。白川を黙らせる方法。殺さずに、告発を止めさせる方法。買収か? 脅迫か? いや、あいつの性格からして、そんな手は通用しないだろう。
考えがまとまらないまま、時間だけが過ぎていく。昼休みになり、従業員たちが休憩室へと向かう喧騒が聞こえてきた。黒田は一人、事務所で頭を抱えていた。
その日の夕方、黒田のスマートフォンが鳴った。非通知の番号だった。気味が悪かったが、無視するわけにもいかず、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『……黒田悟さんですね』
知らない男の声だった。低く、感情の読めない声だ。
『単刀直入に言います。あなたの会社の不正に関するデータを、ある人物から預かりました』
黒田の血の気が引いた。
「誰だ、お前は」
『名乗る必要はありません。私はただのメッセンジャーです。データを私に預けた人物は、あなたに明日までに自首するよう伝えてほしい、と。もし自首しなければ、このデータを警察とマスコミに送ると言っていました』
最悪の事態だった。白川は、黒田が時間稼ぎをしていることを見抜いていたのだ。自分に万が一のことがあった場合に備え、第三者に証拠を託していた。やり直した世界では、白川の行動パターンが微妙に変化していた。これは、黒田が未来を知っていることによって生まれた、新たな分岐だった。
「待ってくれ! 話し合おう!」
『話し合いは不要だそうです。選択肢は、自首するか、破滅するか。それだけです』
一方的に告げられ、通話は切れた。黒田はスマートフォンを握りしめたまま、愕然とした。追い詰められた。殺人を犯さなくても、結局は同じ結末に行き着くのか。
いや、まだだ。まだ、手はある。
もし、白川雄二という存在が、最初からこの世にいなければ?
そんな悪魔的な考えが頭をよぎった。もし、今日の午前中、彼が工場に来る前に、事故に遭っていたとしたら? 例えば、工場へ向かう途中の道で、不慮の事故が……。
黒田の目の前に、再び、あの赤いボタンがふわりと現れた。
『人生をやり直せます』
その白い文字が、甘美な誘惑のように黒田の目に映る。今度こそ、完璧にやる。誰にも疑われず、すべてを終わらせる。
彼は躊躇わなかった。今度は、計画的に。冷静に。
ボタンを押す。再び世界が白く染まり、時間が巻き戻っていく。
意識が戻ったのは、またしても白川が来る十分前の事務所だった。黒田はすぐに行動を開始した。工場のトラックに乗り込み、白川がいつも通る道を先回りする。見通しの悪いカーブ。ここしかない。スピードを上げ、カーブの向こうからやってくる白川の自転車を待つ。心臓が早鐘を打つ。これは事故だ。あくまでも、不幸な事故なんだ。
やがて、見慣れた人影が角を曲がってきた。黒田はアクセルを踏み込んだ。
しかし、その瞬間。
対向車線から、猛スピードでパトカーがサイレンを鳴らしながら現れた。黒田は慌てて急ブレーキを踏む。キィィィッという甲高い音を立ててトラックが停止し、白川は驚いて自転車ごと転倒した。パトカーは黒田のトラックには目もくれず、走り去っていく。
「大丈夫か!」
黒田は思わずトラックを飛び降り、白川に駆け寄った。
「悟……? お前、ここで何を……」
転倒して膝を擦りむいた白川が、訝しげな目で黒田を見上げる。最悪だった。事故を偽装しようとした現場を、当の本人に見られてしまった。
「いや、その、たまたま通りかかったら、お前が……」
しどろもどろの言い訳は、白川には通用しなかった。彼の目が、危険なものを見るように細められる。
「お前……まさか、俺を……」
********
その日の午後、県警捜査一課の刑事が二人、クロダ精機にやってきた。
一人は、赤嶺響子と名乗る、四十歳くらいの女性刑事だった。鋭い三白眼が印象的で、化粧気のない顔には、一切の隙が見当たらない。
「黒田悟さんですね。今朝方、白川雄二さんが交通事故に遭われそうになった件で、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
赤嶺の声は、丁寧だが有無を言わせぬ響きを持っていた。
「はあ……事故、ですか。俺はただ、転んだ彼を助けようと……」
「白川さんは、あなたが意図的にトラックで自分を轢こうとした、と主張されていますが」
赤嶺は、黒田の目をじっと見つめて言った。その視線は、心の奥底まで見透かそうとしているかのようだ。
「滅相もありません! 彼とは幼馴染なんですよ? そんなことするわけが……」
「ええ、存じています。だからこそ、おかしな話だと思いましてね。何か、お二人の間にトラブルでもあったのですか?」
黒田は冷や汗が背中を伝うのを感じた。この刑事は、手強い。下手に嘘をつけば、すぐにボロが出る。
「いえ、特に何も……」
「そうですか。では、今朝、黒田さんはなぜあの道を通っていたのですか? 工場とは逆方向ですが」
「……急な用事を思い出しまして」
「ほう、どんなご用事で?」
矢継ぎ早の質問に、黒田は言葉に詰まった。まずい。完全に疑われている。このままでは、殺人未遂で逮捕されかねない。
その夜、事務所で一人、赤嶺の尋問を反芻していた黒田の前に、三度、赤いボタンが現れた。
もう後戻りはできない。完璧なアリバイ。完璧な偽装。それを作り上げるまで、何度でもやり直す。黒田の心は、いつしか焦りから奇妙な万能感へと変質し始めていた。彼はためらうことなく、ボタンに指をかけた。
第二章
何度、時間をやり直しただろうか。五回か、あるいは十回を超えたかもしれない。黒田は赤いボタンの力を使い、白川殺害の完璧なシナリオを構築しようと躍起になっていた。
ある時は、白川を工場の機械の事故に見せかけて。
ある時は、夜道で何者かに襲われたように偽装して。
またある時は、自殺に見せかけようとさえした。
しかし、その度に予期せぬ綻びが生まれた。やり直すたびに、世界のディテールが微妙に変化するのだ。前回はいなかったはずの目撃者が現れたり、作動するはずのない防犯カメラが動いていたり、あるいは白川自身が警戒して、黒田の計画を回避したり。まるで、世界そのものが黒田の犯罪を拒絶しているかのようだった。
そして、その綻びを、赤嶺響子という刑事は決して見逃さなかった。
白川が「行方不明」になった世界線で、黒田は完璧なアリバイを主張した。失踪当日、彼は隣県の取引先と会っていた、と。しかし、赤嶺は冷静にその嘘を暴いた。
「黒田さん、あなたの車のETC記録を調べさせていただきました。あなたが主張する時刻、高速道路を利用した形跡がありませんね。どうやって隣県まで行かれたんですか? 空でも飛んだんですか?」
皮肉の滲む口調で問い詰められ、黒田は顔面蒼白になった。
またボタンを押し、今度はETCの記録も完璧に偽装した。しかし、赤嶺は別の角度から攻めてきた。
「取引先の社長さんにお話を伺いました。黒田さんと会ったのは午後からで、午前中は姿を見ていない、と。午前中、あなたはずっと一人で行動されていた。その間のアリバイを証明できる方はいらっしゃいますか?」
赤嶺は、黒田が提出した証拠の裏を、一つ一つ丹念に潰していく。彼女の捜査網は、黒田が時間を巻き戻すたびに、より強固に、より緻密に張り巡らされていくようだった。
黒田は焦燥感に駆られながら、何度もボタンを押し続けた。もはや、白川を殺すことへの罪悪感は薄れ、赤嶺という難敵を出し抜くためのゲームのような感覚に陥っていた。
だが、ループを繰り返すうちに、黒田の身に新たな異変が起こり始めていた。
最初は、気のせいだと思った。工場の機械の騒音に混じって、誰かの囁き声が聞こえるような気がしたのだ。
『……ゆるさない』
それは、紛れもなく白川の声だった。
やり直しの回数を重ねるごとに、その幻聴は明瞭になっていった。事務所で一人、書類仕事をしていると、背後から不意に声がする。
「お前だけは許さない」
振り返っても、そこには誰もいない。だが、声の主が誰なのか、黒田には分かっていた。殺したはずの、幼馴染の声だ。
やがて、幻聴だけでなく、幻覚も見るようになった。
工場の薄暗い片隅に、人影が立っている。よく見ると、それは血まみれの白川だった。額から血を流し、虚ろな目でじっと黒田を見つめている。黒田が目をこすり、もう一度見ると、人影は消えている。
「くそっ……疲れているだけだ……」
黒田は自分に言い聞かせた。眠れない夜が続き、隈は深くなる一方だった。鏡に映る自分の顔は、日に日にやつれ、生気を失っていく。温厚な経営者という仮面は剥がれ落ち、そこには罪の意識に苛まれる犯罪者の顔が浮かび上がっていた。
ある日の事情聴取で、赤嶺は黒田の憔悴しきった顔を見て、ふっと口元を緩めた。
「黒田さん、最近よく眠れていないのではありませんか? 何か、悪い夢でも見るとか」
核心を突かれ、黒田は動揺を隠せなかった。
「……余計なお世話です」
「そうですか。まあ、嘘を重ねるのは疲れるものですからね。あなたの話には、どうも一貫性がない。最初は事故だと言い、次は行方不明、今度は第三者の犯行を匂わせる。まるで、何度もシナリオを書き直しているみたいだ」
赤嶺の言葉は、ナイフのように黒田の胸に突き刺さった。この女は、どこまで気づいているんだ。まさか、赤いボタンのことまで……?
その夜、黒田は自室で酒を煽っていた。少しでも眠らなければ、精神が持たない。だが、アルコールは彼の神経を昂らせるだけだった。
目を閉じると、鉄パイプで白川を殴った瞬間の感触が、まざまざと蘇る。
『痛いよ、悟』
耳元で、白川の声が囁いた。黒田は悲鳴を上げて飛び起きた。部屋の隅、暗闇の中に、白川が立っている。今度の幻覚は、これまでで最も鮮明だった。
「来るな……あっちへ行け!」
『なぜだ? 俺たちは親友じゃなかったのか?』
幻覚の白川は、ゆっくりと黒田に近づいてくる。その顔は、怒りではなく、深い悲しみに満ちていた。
「俺は悪くない! あれは事故だったんだ!」
黒田は狂ったように叫んだ。それは、幻覚の白川に向けているようで、実は自分自身に言い聞かせている言葉だった。
『嘘をつくな、悟。お前は俺を殺した。自分の罪から目をそらすな』
「うるさい! 消えろ!」
黒田は手元にあったグラスを、幻覚に向かって投げつけた。グラスは壁に当たって砕け散り、けたたましい音を立てた。しかし、白川の幻覚は消えない。ただ静かに、悲しげな目で黒田を見つめ続けていた。
完璧な隠蔽など、不可能だ。
黒田は、その事実を認めざるを得なかった。時間を戻し、アリバイを作り、証拠を消しても、自分の記憶と罪悪感は決して消えない。そして、やり直すたびに鮮明になる白川の幻覚が、それを許してはくれない。このループは、彼を救うためのものではなく、彼の罪を永遠に問い続けるための、無限地獄だったのだ。
床に散らばったガラスの破片の中で、黒田は力なくうずくまった。もう、疲れた。何もかも、終わりにしたい。
その時、彼の目の前に、いつものように赤いボタンが現れた。
『人生をやり直せます』
その文字が、今は悪魔の囁きにしか見えなかった。
第三章
精神は限界だった。眠ろうとすれば白川の断末魔が聞こえ、目を開ければ血まみれの彼が部屋の隅に立っている。食事は喉を通らず、水さえも砂を噛むような味がした。黒田は、生きながらにして亡霊になったような気分だった。
これ以上、嘘を塗り固めて生きるのは無理だ。
赤いボタンは、確かに時間を巻き戻してくれた。だが、それは物理的な時間を戻すだけで、黒田の心に刻まれた罪の記憶を消してくれるわけではなかった。むしろ、やり直すという行為そのものが、罪をより深く、より醜く彼の魂に刻みつけていた。
もう、逃げるのはやめよう。
白川の幻覚から、赤嶺の追及から、そして何よりも、自分自身の罪悪感から。
黒田は、震える手でスマートフォンを掴んだ。画面に表示された自分の顔は、まるで別人のように老け込み、やつれていた。彼は一つの決意を固めた。
翌朝、クロダ精機の事務所に、赤嶺刑事が一人で訪れた。おそらく、逮捕状を手に、最後の詰問に来たのだろう。黒田は、不思議と落ち着いた気持ちで彼女を迎え入れた。
「黒田さん、いくつか最終確認をさせていただきたいことが」
赤嶺が切り出そうとしたのを、黒田は手で制した。
「赤嶺さん。もう、結構です」
「……どういう意味です?」
怪訝な顔をする赤嶺に、黒田はゆっくりと頭を下げた。
「俺が……俺が、雄二を殺しました」
赤嶺の目が、わずかに見開かれる。しかし、彼女はすぐに冷静さを取り戻し、厳しい表情で黒田を見据えた。
「詳しく、聞かせてもらいましょうか」
彼女の言葉には、勝利の響きも、安堵の色もなかった。ただ、真実を求める刑事としての、揺るぎない意志だけがあった。
その時、黒田の目の前に、またしても赤いボタンが現れた。
『人生をやり直せます』
これが、最後だ。
黒田は、赤嶺に一言断りを入れると、そのボタンを強く押し込んだ。目的は隠蔽ではない。偽装でもない。犯した罪を、最初からやり直すためだ。いや、正しく終わらせるために。
世界が白に染まり、時間が逆流する。
黒田の意識が戻ったのは、すべての始まりの場所。白川を殺害してしまった直後の、事務所だった。
床には血だまりが広がり、白川が倒れている。手には、ずっしりと重い鉄パイプ。絶望とパニックが、再び黒田を襲う。
しかし、今度の彼は、以前とは違っていた。
彼は鉄パイプをそっと床に置くと、震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、110番をダイヤルした。
「……もしもし、警察ですか。……人を、殺しました。場所は、緑町3丁目の、クロダ精機です。……俺が、やりました」
お読みいただき、誠にありがとうございました。
「もし時間をやり直せても、犯した罪の記憶は消えないとしたら」という着想からこの物語は生まれました。
無限ループの中で苦悩する主人公を通して、真の償いとは何かを問いたかったです。
彼の最後の選択が、皆様の心に少しでも響くものであったなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。