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エピソード8 狼と兵士Ⅳ

 1650年 冬 貿易都市ロウワン


 夜の闇が名残を留める時間帯、街の空気はしっとりと冷えていた。


 まだ昇り切らぬ陽が霧を白く照らし、石畳の道は露を吸って黒々と濡れている。市場に続く通りでは、早起きの商人が屋台を押しながら木箱を積み、馬車の車輪がきしむ音が霧を割った。


 この街は、戦場から遠く離れた場所にあるはずなのに、朝のざわめきには妙な緊張があった。魔薬組織の捜査権を帝国軍に奪われた数日後、人々の間に見えない波紋が広がっているのだ。


 その宿屋もまた、霧に煙る一角に佇んでいた。質素ながらも堅牢な木造二階建て。宿の看板は夜露で湿り、扉の隙間から温かな灯が漏れている。


 宿の前に、小柄な影が立っていた。

 白衣を羽織り、長い袖をきちんと折り畳んだ姿は、兵士というより研究者のように見える。


 ネル・クレスト。彼女は壁に背を預け、両手を白衣のポケットに突っ込み、淡く光る霧の向こうを眺めていた。表情は相変わらず無機質で、何を思っているのか読み取りづらい。


 やがて、軋む音を立てて宿の扉が開く。


 鉄製の胸当てを締め、肩から小銃を下げた男が姿を現した。


 エイデン・ノア――ネルを除く私兵の中で最も実直で、冷酷、血に濡れた戦場を生き延び敵対する者には躊躇わず刃を突き立てることを厭わない戦士。レポートから読み取れるのは彼が優秀な兵士だったということ。


 街道巡察の任務を控え、出立の準備を整えたその姿は、早暁の空気に馴染みながらも異様な存在感を放っていた。


「……ネル?」


 彼は足を止め、宿前の影を認めて僅かに眉をひそめる。


「おはよう」


 ネルは短く挨拶をする。声に感情の波は少ないが、その静けさは逆に、彼女が意図してここに立っていたことを告げていた。


「どうした。こんな時間に」


 問いかけるエイデンに、ネルはわずかに視線を上げる。


「少し、聞きたいことがあって」


「なんだ藪から棒に」


 淡々とした声音。だがその瞳は鋭く、霧の中の光を受けて深く輝いていた。


「貴方は、なんで戦うの?」


 思いも寄らぬ問いに、エイデンは一瞬言葉を失った。


 市場に向かう人々のざわめき、朝の鳥の鳴き声、遠くで馬のいななきが響き――その中で彼の心臓だけが妙に強く打ち始める。


「俺が戦う理由か…」


 彼は目を伏せた。そしてゆっくりと口を開いた。


「俺は戦場で生きてきた16のガキの頃から。血と鉄と、怒号ばかりの地獄みてぇな場所で。だから今さら銃を手放すような生き方はできないってのもある」


 エイデンの脳裏には、かつての戦場の記憶が甦っていた。


 火に包まれる村。倒れ伏した仲間の呻き声。血に濡れた土の匂い。


 戦場には笑顔など存在しなかった。あるのは怒りと恐怖、そして生き延びるために牙を剥く人間の姿だけ。


 ――その中で彼がどれほどの命を奪い、どれほどの声を聞いたのか。数えることはもうできない。


 だが今。

 この街の片隅で、子どもたちの笑い声が聞こえる。


 夫婦がささやかな言葉を交わし、商人が明日の取引を語り合う。


 その何気ないやり取りこそ、彼には何よりも尊いものに思えた。


「そんな地獄にいたからだろうな、俺には人が笑い合ってるこういう街が……ただ温かくて愛おしいって感じる。だからこそ、今度は守りたい。それだけだよ」


 そう言って少し微笑むエイデンを見てネルのなかで認識が変わる。


 この男は冷酷な兵士ではない。血と死と喪失を経て、それでも「人の笑顔」を求める姿。そこにあるのは職務や利害ではなく――優しさ。


「温かく…愛おしい…」


 その言葉を反芻しながら、彼女は宿の軒先の影に視線を落とした。


 心の奥で何かが微かに共鳴するのを感じつつも、それを表には出さない。ただ静かに、自分の関心へと話を移す。


「……魔薬についてひとつ、気づいたことがある」


 声を潜める。まるで霧の中に秘密を溶かすように。


「最近出回っている魔薬――あれが異常に強力なのは、魔晶片が混ぜられているから」


 エイデンの目が細くなる。


「魔晶片、だと?」


「うん。ただ……奇妙なことに混ぜられている魔晶片は、ロウワン周辺で討伐された魔獣のものに限られてる」


 ネルは一歩前に出て、ポケットから小さな瓶を取り出した。


 瓶の中には、砕かれた魔晶片の細片がきらめいている。光を反射し、青白い輝きが霧を切り裂くように煌めいた。


「街で流通している一般的な魔晶片とは、輝きが違う。こちらはどこか濁りを帯び、まるで内側から脈打っているように見える」


 エイデンは瓶を凝視する。

 言われなければ気付かない些細な濁りが確かにあった。


「森の異変……動物たちが魔獣化している件とも、何らかの関係があるかもしれない」


 ネルの声は冷静だった。だがその瞳には抑えきれない光が宿っている。


 未知を探ろうとする純粋な好奇心。危険を承知で近づくことを躊躇わない探究心。


「……つまり、森と魔薬は繋がっている、というわけか」


 エイデンは低く呟く。喉に苦味が残るような実感があった。


「可能性の話…だけど」


 ネルは肩をすくめる。


「なので、魔薬の大元を断つなら森をどうにかすればいい」


 エイデンはしばし沈黙し、彼女を見つめた。

 この少女は、ただの研究者か、それとも……。


 だが彼の中に疑念より先に浮かんだのは、妙な敬意だった。


「お前、凄いな。普通の奴はこんなことに気づきもしない」


「………」


 ネルは沈黙で答える。だがその奥底では、言葉にできぬ何かが小さく灯っていた。


 エイデンは小さく笑い、銃のおい紐を握り直す。


「ともかく助かった。礼を言うよネル」


「……いえ」


 ネルはその背を見送る。

 霧の中にその姿が消えていく。


 そしてひとり残された彼女は、小さく囁いた。


「ごめんなさい。私もすぐそっちに行くから」


 白衣の裾を整え、ネルは先日の出来事が頭を過ぎる。


 魔薬の捜査権が私兵隊からアゼル率いる帝国軍に渡ったその日、ネルはある地下の一室に通されていた。


 薬品の匂いで充満したその一室は研究室として稼働しているようだった。

 静まり返った研究室の奥、木製の棚には無数の小瓶とビーカーが並び、淡く赤色に光る魔薬が幾つも揺らめいていた。


 ネルは白衣の裾をそっと撫で、棚の影に映る自分の影を一瞥する。彼女の指先は自然に細い試験管を握り、無意識に中の液体を揺らしていたが、その目は完全に観察の対象に向けられていた。


 頭の中では絶えず思考が巡っていた。目の前に広がるこの研究室にそしてそれを後ろから眺める私兵たちの雇い主ーーセザン・ヌレア・ガルドス辺境伯について。


「ネル、今日はよく働いてくれたわね。アゼルへの橋渡し役、ご苦労さま」


 背後から響く独特の、少し鼻にかかった甘い調子は、聞く者の注意を引きつける。ネルは振り返らず、試験管の中の液体を軽く回しながら答える。


「できる仕事をしただけ」


「ふふ、謙遜しても無駄よ。今日は貴女のおかげで事がスムーズに運んだのだもの。でも最初は驚いたわね。まさか貴女から一枚噛ませろと言ってくるなんて、しかもこんな脅迫材料まで持って」


 そう言ったセザンヌの手元には数枚の書類が握られていた。それはとある帳簿だった。


 私兵隊に関する支給物資は標準。弾薬、医療品、食糧、どれも規定通り――表面上は何の問題もない。


 しかし、同じ週に書かれた「補填支出」の内訳だけが妙に多い。


 消耗品が通常の三割増しで計上されている。

 それだけなら戦闘の激化と言い訳も立つが、さらに裏の控え帳には“差分”として処理された曖昧な数字が載っていた。


「補填金自体は領地運営上から出た予算内、でも帳簿に書かれた物品数と実際の物品数では大きな隔たりがあった」


 領主の私設部隊などは会計監査によって目を付けられやすいがここのように少数だけの部隊ならばその限りでもない。 

 少し多く見積もっても怪しまれないのはその為である。


「我ながら上手くやってると思ってたんだけどね。外からの目は誤魔化せても内からは弱いってわけね。まぁ帝都に報告するでもなく、忠を尽くしてくれたネルには何かご褒美あげないとね」


 セザンヌの声には微かな含みがあった。ネルの心拍がわずかに上がる。褒美……。小さな胸が期待で少し弾むのを感じながらも、ネルは冷静を装った。


「……では、教えて。何のため横領や違法魔薬製造(こんなこと)を?」


 その声は淡々としていたが、内心は鋭く針のように研ぎ澄まされている。セザンヌはしばらく沈黙し、ゆっくりとネルの横に立つ。淡いろうそくの光が、長い指をゆっくりと棚の上の魔薬に滑らせる。


「前にエイデンにも言ったことがあるけれど寛容策というものよ。この街をより循環的に回すためには綺麗事だけじゃいけないの」


 ――口調の甘さの裏に潜む微かな緊張。それだけで、ネルは確信する。これは嘘だ。セザンヌは何かを隠している。


 ネルは小さく息を吐き、次の手を考える。言葉を選び、あくまで好奇心からの質問のように振る舞う。


「そう。ではもう一つ。薬の精製で使用してる魔晶片あれはなに?」


 セザンヌが微かに首を傾げるのを見逃さず、ネルは続けた。


「魔晶片?何の…」


「別に隠す必要はない。押収した魔薬と保護した子どもたちの体内からは微力な魔素が検出された。通常の魔薬(アシッド・レッド)にはそんなものは入ってない。だから調べた」


「……それで?」


「私が市場で購入した魔晶片と、検出された魔晶片では、効力に差がある。これは単なる品質の違い?それとも魔薬精製に使っている魔晶片には、何か特別な秘密があるの?」


 その瞬間、部屋の空気がわずかに凍ったかのように感じた。セザンヌは片眉を上げ、口元に薄い笑みを浮かべる。


「……あら、そこまで知ってるのね」


 声には驚きよりも、むしろ興味が含まれていた。ネルは軽く肩をすくめ、無垢な好奇心の表情を崩さずに返す。


「ただの観察結果。効力の差異は、単なる偶然ではないと思った」


 セザンヌは手を伸ばし、棚の一つの小瓶を指先で軽く回す。中の液体は薄く光を反射し、ゆらりと揺れた。


「ふふ、ネル……貴女って、本当に観察眼が鋭いわね。普通の者なら、ここまで細かい差異に気づかない。……それとも、貴女のその小さな手で私を掻き回して遊んでるのかしら?」


 その声の甘さと軽い嘲笑。ネルはわずかに唇を引き締める。だが、心中は冷静そのものだった。全てはデータ収集、観察、そこから導き出された結果に過ぎない。


「掻き回す……というより、理解したいだけ。どうして、効力に違いが出るのか――それが知りたいだけ」


 セザンヌは短く息を吐き、片手で額に触れた。柔らかい光がその長い指をなぞる。


「ふふ、貴女のその探究心……嫌いじゃないわ…」


 軽く肩をすくめるセザンヌ。その笑みには確かに秘密を隠す狡猾さが混ざっていた。


 しかし、ネルはそれに動じない。好奇心と冷静な観察が、心の中で完璧なバランスを保っていた。


 セザンヌの瞳が細く光った。何か思案するように、部屋の奥を見渡し、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。そのまま小瓶の一つを手元に引き寄せた。その中の魔晶片は、微かに光を放ち、見る者の心を不思議と惹きつける。


「この魔晶片……ただの魔獣から採取したものではないの。これはね、このロウワンの周辺の魔獣からしか採取はできないの」


 ネルは小さく頷き、眼差しをさらに鋭くする。全ては情報の収集、そして次に何が隠されているのかを探るための布石だ。セザンヌの言葉の裏にある本当の意味を、微細な仕草や呼吸の変化から探る。


「なるほど……それは森の異変と関係が?」


 その声には驚きや疑念はなく、ただの好奇心が混じるだけ。セザンヌはその態度に少し目を細め、思わず笑みを漏らす。


「ふふ、あんたって、やっぱり面白いわ。私の秘密を解き明かすその探究心、感服する」


 部屋の奥で微かに揺れるろうそくの炎が、二人の距離と心理の駆け引きを静かに映し出す。知的な探究心と秘密を隠す狡猾さ――その間で、微妙な緊張が張り詰める。


「いいわ、教えてあげる。でもね知ったからにはもう後戻りできない。私と一緒に地獄まで来てもらう。その覚悟が貴女にある?」


 ネルは視線を落とし、また試験管を手に取る

 知的好奇心が導く先に何が待つのか、彼女自身もまだ知らない。


 しかし、その瞳の奥には確かな決意と、鋭い探究心が光っていた。

いや、本当に遅くなりました。ごめんなさいm(_ _;)m


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