エピソード6 狼と兵士 Ⅱ
大陸歴1650年 秋 交易都市ロウワン
エイデンは、歓楽街から市場へと続く通りを歩いていた。歩き方も、速くもなければ遅くもない。帽子を深くかぶり、誰の目にも留まらぬようにして――だが、よく見れば、どこかしら“揃いすぎていない”装いが、彼の過去をほのめかしていた。
帽子はくたびれたニュースボーイキャップ。縁は擦り切れ、生地も色あせているが頭にぴったりとかぶり、帽子の影から覗く目は、年の割に深い皺を宿していた。
上着は古い軍用コートを仕立て直したもの。丈は短めに詰められ、胸元のボタンは市販のものに付け替えられている。だが、裏地の継ぎ目には、軍隊時代の名残――たとえば部隊番号のスタンプの薄い跡などが、まだ残っていた。気づく者はほとんどいないだろう。彼自身も、もう気にしていない風だった。
シャツは柔らかい白のコットン。少し黄ばんでいて、首元は開けっぱなし。袖をまくれば、手首には古い火傷の跡のような傷が見えたが、それも特に隠そうとはしていない。
ズボンは平凡なウールのスラックス。やや太めで、裾は泥跳ねで汚れていた。サスペンダーは伸びきっていて、何度も結び直された痕がある。足元は軍靴――と呼ぶにはもう柔らかく、形も崩れていたが、彼にとっては一番歩きやすい靴だった。靴紐だけは新しく、妙にきれいだった。そこに、ちょっとした几帳面さが垣間見えた。
この日、エイデン・ノアは休日だった。
「……焼きたてのパンくらい、たまにはな」
昼近くの市場は、近隣の住民で賑わっていた。香ばしいパンの匂い、スパイスの風、子どもたちの駆けまわる音――戦場では聞かなかった、柔らかい音がここにはあった。
こういった瞬間だけは自身が平和な時を歩いていると自覚できる。
だが…
「おおーい! おいおいおい、あれ見ろハリス! あの屋台、あれ絶対うまいぞ! オレの嗅覚が言ってる!あと三軒くらい寄ってくか?」
遠くから聞こえるやかましい声に、エイデンの眉がぴくりと動いた。
そしてすぐに見えた。
ギトギトのリーゼントに、紫のシャツ、金のチェーン。どこからどう見ても騒がしい私兵部隊の隊長――オーエン・グリムハッドだった。
その背後には、銀髪を結んだ男が腕を組んでついてくる。副官のハリス・センチ。お決まりの光景だ。
「……あれで、勤務中か」
エイデンは顔を背けた。できるなら関わりたくない。休日なのだから。
だが、そういうときに限って声が飛んでくる。
「よぉ、エイデン!!」
見つかった。
「なんでお前が市場にいんだ珍しいじゃねえか、サボりか?」
「いや、休みだ」
「よし、なら丁度いいな」
「何が?」
「この辺りで妙な噂があってな。ちょっと目を光らせとこうって巡察中なんだが……」
オーエンが言いかけたところで、エイデンの視線がある一点に向く。
市場通りの裏手、細い路地で、小柄な少年がフードの男と何かをやり取りしていた。
布包みと硬貨。目線を泳がせ、すぐに離れようとする少年。
その動きに、エイデンの目が鋭くなる。
「……もしかしてアレのことか?」
「お?」
「今の子ども。懐に何かを入れて逃げた」
「……よし、追うぞ!」
「あぁ是非そうしてくれ…じゃあ俺はこれで」
「行くぞエイデン!ハリス!出動だ!」
「は?え、おい!」
エイデンが遮る間もなくオーエンに襟首を掴まれてそのまま引っ張られた。
その光景にハリスが哀れむような目でこちらを見ていたので、もう逃げられないのだとエイデンは察した。
石畳を走る少年。その足は速かったが、彼らを振り切れるほどではなかった。
「止まれ!」
エイデンの声に驚いて振り向いた少年が、その隙に足を取られて転ぶ。
そこにすかさずハリスが飛び込んだ。
「目標 零度処理 第七式・氷封」
氷の魔法で地面を滑らせて包囲を狭めた。
「捕まえた」
エイデンが少年の腕を掴み、布包みを取り上げる。
中には数枚の銀貨と赤い粉。魔薬だ。
「……これ、お前のか?」
少年は震えながら首を振った。
「ち、違う!言われて、運んでただけで……断ったら、弟たちが……!」
「名前は?」
「ニコ……」
オーエンの顔から笑みが消えた。
「子どもを脅して運び屋か……クソだな」
「いつもそれをどこで貰ってる。場所はどこだ?」
「街外れの倉庫、赤い札が上がったら」
「チッ……よし、倉庫へ行くぞ。任務切り替えだ!」
日は傾き、倉庫には赤いランプがぼんやりと灯る。
そこには魔導炉の音と、倉庫の奥から立ちのぼる煙。
複数の男たちが警備に立ち、内部では粉を袋詰めしていた。
「見事にクロだな」
「オーエン。突っ込めるか?」
「当然だ!俺の固有魔法を見せてやる」
魔法にはおよそ二種類が存在する。
ひとつは"一般魔法”。これは理論と術式によって成り立つ魔法。火、水、風、土。これら四大元素を基にした術式を、言語、印、魔力で構築するもの。
そしてこれを極めればハリスのように水からの派生系である氷のような魔法も使えるようになる。
そしてもう一つが"固有魔法"。それは、“発現”する力。血統、資質、生まれ持った何か。
訓練では手に入らない。意図して手にすることもできない。いわば、“選ばれた力”だ。
そして固有魔法は魔導師の奥義とも言える。それを安々と他に公言するなど愚の骨頂だ。
エイデンが私兵になる前からオーエンとハリスはセザンヌの私兵だった。今まで巡察や街道の魔獣退治を何度かやってきたがエイデンはオーエンの固有魔法を見るのは初めてだった。
故にエイデンは固唾を飲んでオーエンを見やる。
「いや、アンタ使えないでしょ」
「んむ…今ならできそうな気がしたんだがな」
ーー杞憂だった。
「まぁ何にしろ突撃だーーッ!! 悪党ども、震えて眠れェェェ!!」
持ち直したオーエンが魔法で強化された拳でシャッターをぶち破った。それと同時にハリスが氷の柱が側面から展開し、敵の逃げ道を潰しエイデンは後ろから銃で援護に入る。
そしてそれは短い戦いだった。
オーエンが暴れハリスは逃げる者を氷漬けにし私兵三人だけで、違法魔薬の精製組織は壊滅した。
オーエンがひとしきり暴れ破壊された倉庫の中を見渡していたとき。
物陰から、ひときわ小さな影が音もなく現れた。
「…………やっぱり、出てきたね。予想通り」
「……うおっ!? ネル!? お前どっから出てきた!?」
「天井裏。君たちの魔力の振動が気になって……」
小柄な体、白衣のようなコートの裾。
フードを深くかぶったその姿は、セザンヌの私兵の一人、ネル・クレスト。私兵隊の中でも異質な存在だ。
「ってかお前、今日は街道の警備じゃなかったのか?」
「カイルに押しつけてきた。こっちに興味があったから」
「お前……」
オーエンがぼやきながらも、ネルが拾い上げた魔薬の包みをのぞき込む。
ネルはその赤い粉を指先で掬い、淡く魔力を通して観察した。
「……やっぱり。これは“改造されたアジッド・レッド”。通常の魔薬じゃない」
エイデンが眉をひそめる。
「どう違う?」
ネルは淡々と答える。
「本来、アジッド・レッドは魔力の一時的な増幅剤。一般的には戦闘時の補助に使われるレベル。だけどこれは違う」
指先で小さな術式を展開し、魔薬の反応を可視化させる。
「増幅値が異常。基準の7倍以上。魔力の制御領域を超えてる。……だから“溺れる”それが快楽になってる」
「溺れる?」
エイデンが短く聞き返す。
「……使い続けると魔力に意識を乗っ取られる。自分が自分でなくなる。使い続ければ、暴走するか、焼き切れる。最悪、廃人」
ネルの声に感情の揺れはない。ただ、事実だけを淡々と告げていた。
「特に魔導師は危険。制御に自信があるほど、“深く”行けてしまう。そして、そこから戻って来られなくなる」
「……非魔導師が使った場合は?」
「……体が耐えられない。大半は魔力の暴走で内側から崩れる。心臓か、脳。……死ぬよ」
倉庫に一瞬、沈黙が落ちる。
「……子どもに、こんなもん運ばせてたのかよ」
オーエンが低く呟いた。
ネルは少年・ニコの方に一瞥をくれる。
「さっき、あの子の魔力構造も見た。影響を受け始めてる。直接使用してないのに……反応があった。危険な状況。精密検査が必要」
「……お前、引き取る気か?」
エイデンの問いに、ネルは静かに頷いた。
「うん。調べたい。体内の変化、魔薬の残響、神経伝達の影響……」
「……興味本位か?」
「それもある。でも、こういう子を放っておくと、次は“兵器”として使われる」
ネルの言葉に、オーエンとハリスは何も返さなかった。
「……お前が見るなら、文句は言わん。ただ――」
エイデンがニコを見ながら、ゆっくりと言った。
「そいつを“実験体”じゃないからな」
ネルは少しだけ間を置いてから、静かに頷いた。
「わかってる。……ちゃんと“人”として扱う」
「なら任せる。ついでにこいつの弟たちも見てやれ」
「わかった」
倉庫から出ると既に日は傾きつつあった。
せっかくの休日だったがエイデンの心には影だけが落ちた。
森の異変、魔薬の流通、このロウワンで何かが起きているのは明白だった。
今度こそ守ると誓った街だ。この黒幕を突き止めてきっちりと処断する。
秋の風がその頬を掠め硝煙の匂いが鼻腔をくすぐった。




