エピソード5 狼と兵士 Ⅰ
お疲れ様です。
今日はたまたま休みを頂いたので投稿します
大陸歴1650年 秋 貿易都市ロウワン
昨日の酒が、まだ体の中で燻っていた。
胃のあたりに重いものが沈んでいて、頭の奥がじんわりと熱い。
帝国産の麦酒は甘くて口当たりがいいぶん、酔いが遅れてくる。飲んでいる間は気づかないが、翌朝にははっきりと“過ち”として残る。
ーー女も酒も程々にしないといざというときに戦えんぞ
昔、言われたそんな言葉が頭を過ぎる。カイルはため息交じりに、革靴のつま先で石畳の割れ目をなぞるように歩いていた。
昼の巡察。陽射しは強く、白い建物の壁が眩しい。
軒先には草花が揺れ、風に乗って果物と焼きたてのパンの匂いが漂っていた。
子どもたちの笑い声が遠くから響くたびに、どこかの回路がぴくりと反応する。意識ではなく、もっと奥の方――神経が、無意識に身構える。
通りの先、背の高い男が壁際に立っていた。エイデン・ノア。元・北部戦線の狼。
王都最後の守備隊だったカイルと、最前線で死地をくぐり『北壁の大狼』と呼ばれたエイデン。同じ地獄を見てきたはずなのに纏う空気はどこか違う。
「エイデンさん、今日もよろしくお願いします」
「おう、まぁ頑張ろうや」
声に特別な抑揚はないが、そこに冷たさは感じない。むしろ、慣れてしまえば居心地がいい種類の静けさだった。
二人は並んで歩き出した。市場の通りを抜け歓楽街へ。
日陰と日向がまだらに交互に現れる中、カイルは何となく口を開いた。
「なんか静かっすね、今日は」
「昼はいつもこんなもんだろ」
「そうなんすけど……なんか、静かすぎると落ち着かないっていうか」
「……耳が、さびしくなるか?」
「いや……まぁそうっすね」
そのとき自分がどんな顔をしていたかは分からない。ただ、エイデンが一瞬だけ横を見たのは気づいた。
あえて何も言わず、歩き続ける。カイルもそれにならった。
沈黙の時間のあと、ぽつりとエイデンがつぶやく。
「こういう何もないのは好きじゃないか?」
「いや、好きとか嫌いとかは…ほんとに。ただ……こう、違和感あるというか」
「違和感?」
「ええ。戦場から離れてもう何年も経つはずなのに、まだ夢の中にいるみたいで」
自分でも妙なことを言っていると思った。けれど口は止まらなかった。
「パンが並ぶ市場とか、子どもの笑い声とか。……砲声や怒号のない風景なんて、嘘みたいじゃないっすか?」
エイデンは、何も言わなかった。
ただ、軒先の花壇に咲いた小さな青い花を見やりながら、歩を進めていた。
「エイデンさんは……こういう場所に、もう慣れましたか?」
「慣れようとはしてる」
「しようとしてるってことは、まだ途中なんすね」
「……ああ。俺たちみたいな連中にとって、“慣れる”ってのは、少しずつ鈍くなるってことだ。俺もそれはどこか受け入れ難いものがある」
その言葉に、カイルの顔から冗談めいた色が消えた。
「……それ、ちょっと分かるかもっす」
「………」
「俺たちは兵士で…戦士で…戦うことだけが取り柄で誇りだった…それが失われていく感覚があるんです」
歩きながら、ふと右手を見下ろすと、かすかに震えていた。
それにエイデンは気づかなかったのか――あるいは、気づいても、触れなかった。
広場が見えてきた。
石の噴水。水の音。子どもたちの歓声。陽に焼けた老人がベンチで居眠りし、商人と住民が何かを言い争っている。
そのどれもが、今の平和の証だった。
「ここに来て、拾われたときは正直、信じられなかったっすよ。帝国領の都市で、亡国の敗残兵を雇うバカがいるかって」
「俺もそう思った。最初は、領主が変態趣味でもあるのかと思った」
「変な人っすよね。でも、ありがたかった役割をくれたから…」
カイルは目を伏せた。
焼けた街。崩れた壁。半分燃えた軍旗。
誰のものとも分からない腕が、瓦礫の下から伸びていた。
「……ほんと別世界ですよ」
「そうだな。あのときは必死だった」
小さく笑い合う。けれど、その笑いの向こうに、それぞれの“戦場”があった。
交わらなかった過去。同じ国でも、見ていた地獄は違う。
「俺、エイデンさんのこと、王都じゃ噂でしか知らなかったんすよ。敵を睨んだだけで撤退させたとか、討伐数百超えの化物とか」
「尾ひれが付きすぎてるな」
エイデンは小さく、肩をすくめた。口元にわずかな笑みが浮かんでいた。
その笑みに、カイルはひとつ息をついた。けれど――胸の奥にはまだ、音が響いている。
夜になると、風の音が爆音に聞こえる。影が揺れると、敵の気配を探してしまう。
そんな夜は、ただ黙って瓶を開ける。女を抱く。理由なんかいらない。ただ、それだけ。
「エイデンさん」
「なんだ」
「俺たち……このまま、この街でやってけますかね」
「やっていくしかないだろうな。まぁ今度は守ろう」
「……そうですね」
その声に、カイルの笑顔がわずかに戻る。
二人は再び歩き出した。過去を背負い、今を守る者として。
――この平和が、いつまで続くか分からなくとも。




