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エピソード4.5 『小さな願い』

――大陸歴1650年 秋 帝国領ガルドス辺境自治区 交易都市ロウワン――


 朝のロウワンは騒がしい。石畳に靴音が鳴り、街道を馬車が揺れ、通りには焼きたてのパンと煤けた煙の匂いが混じっていた。


 帝国軍の駐屯兵たちが交代で巡回し、行商人が荷を解く頃。エイデンはいつものように、静かに一軒の食堂《金鹿亭》の扉を開けた。


「やぁ、エイデン。また残り物でいいかい?」


 カウンターの奥から声をかけてきたのは、丸太のような腕をした中年女主人――モーナだ。

 ぶっきらぼうだが、面倒見のいい女で、食事代を溜めた者の皿を黙って下げるような人間だった。


 エイデンはうなずいて、隅の席に腰を下ろす。


「今朝はパン粥があるよ。ベーコン入り。食べる?」


「あぁそれでいいよモーナ」


 やがて運ばれてきた皿の上に、白い湯気がうっすらと立ちのぼる。

 黒パンと豆と脂身の少ない肉。胃に優しい味だった。


 エイデンは静かにスプーンを動かしながら、食堂の空気を肌で感じていた。石壁に染みついた油と煙。開いた窓の向こうで、隣家の子供たちが笑っていた。


 だが、次の一口を運ぼうとしたとき、不意に声がかかった。


「あの、エイデンさん……少しいいですか…?」


「リノアかどうした?」


 振り向くと、食堂の奥から顔を覗かせていたのは一人の少女。モーナの姪で名はリノア、昼間の給仕を手伝っている町娘だ。まだ十五かそこらの年頃で、赤毛を三つ編みにしてまとめ、いつも油と小麦粉の匂いをまとっている。


 いつもは笑顔の絶えない少女だったが、今はその表情に影が差していた。


「……頼みごとか?」


「はい。あの……うちの猫が、昨夜から帰ってこなくて……。裏の倉庫から出てったまま、林の方へ行っちゃったみたいなんです」


「なんだ猫の捜索か」


「……モーナおばさんには仕事に身がはいってないって怒られるけど、あの子は、家族なんです」


 家族。


 その言葉に、エイデンの中で何かが疼いた。


 胸の奥。戦争の記憶に埋もれて、長く忘れていた感覚が顔を覗かせる。


 彼には兄がいた。ジーク・ノア。

 物静かで、少しだけ抜けていて――けれど、誰よりも優しく頼れる男だった。


 アストレア王国の北部高原。薄く氷の張る湖が光を反射していたあの村で。

 二人は、いつも一緒だった。


 戦火が迫った日。同じ兵士として兄と別れたのは、それが最後だった。


「生きて必ず会おう」それが兄との最後の会話だった。


 その後、兄の安否はわからない。遺体も、名前も、記録さえ残っていない。


 それでも、エイデンはずっと探していた。


 生き延びてしまった自分が、それでもなお歩き続けられたのは、あの日交わした約束が、どこかでまだ生きていると信じているからだ。


「……だから、お願い。助けて」


 リノアの声が震えていた。

 その声音は、かつての自分に重なっていた。誰かを失う恐怖を、どうしようもなく知っている声だった。


 エイデンはパンの耳を口に運び、黙って立ち上がった。


「……場所を案内しろ。五分で準備する」


「えっ、ほ、本当に?」


「領主の私兵に依頼するんだ。あまり褒められたことじゃないのは覚えておけよ」


「……はいっ!」


 リノアの顔がぱっと明るくなった。

 エイデンは黙って帽子を目深にかぶり、食堂の裏手へと向かった。



 林の中は、昼でも薄暗かった。


 ロウワンの南に広がる伐採区域の外れ。そこは帝国軍もまだ手を付けていない、鬱蒼とした森だった。


 エイデンは短銃を携え、腰には懐中灯と干物の入った布袋を結びつけていた。


 猫捜しの装備としては過剰かもしれない。

 だが、彼はいつだって用心深かった。


 草むらをかき分け、足元に目を凝らしながら進むと、やがて地面にわずかな血の跡を見つけた。

 小さく、新しい。すぐ傍には、白い毛が一房、風に揺れていた。


「……いたか」


 静かに跪き、痕跡をたどる。

 だがその先に残されていたのは、猫ではなかった。


 ぬかるんだ土に、歪な足跡――人のものではない。まるで、這いずるように引きずられた形跡が残っていた。


 エイデンは銃の安全装置を外す。森の奥から、かすかな鳴き声が聞こえた。


「ミャ……」


 鳴き声を頼りに木々をかき分けると、倒木の影で、小さな白い猫が蹲っていた。


 全身泥だらけで含めて脚を怪我しているらしく、動けずに小さく鳴いている。


「……無事だったか」


 干物を取り出して差し出すと、猫は一度だけ警戒するように首を引いたが、やがてぺろりと舌を出して舐めた。


 エイデンが猫を抱き上げようとしたとき、背後で草の擦れる音がした。


 振り返ると、そこにいたのは痩せ細った一匹の狐だった。片目が潰れ、毛並みは乱れている。


 その瞳に、獲物を狙うような光はなかった。むしろ、同じように飢え、彷徨っているだけの生き物の目だった。


 エイデンは銃口をわずかに下げた。

 狐は彼を見つめたまま、一度だけ低く鳴き、そして林の奥へと消えていった。



 日が落ち始めたロウワンの街で、リノアは猫を胸に抱えて泣いていた。


 エイデンは一言だけ「よかったな」とだけ告げ、食堂を後にしようとする。


 だが、背中に小さな声が追いかけてきた。


「明日……お礼に、焼きたてのパイ出しますから……!」


「……なら、明日の朝な」


 エイデンは片手を軽く上げ、街の夕暮れの中へと消えていった。


 その背に、猫のか細い鳴き声と、あたたかな食堂の明かりが、静かに寄り添っていた。



 翌日、ロウワンの昼はやけに静かだった。湿った風が丘の方から吹き下ろし、屋根の煙突を通り抜けて、やけに遠くまで音を運んでいく。


 セザンヌ・ヌア・ガルドスの邸宅はいつも通り静まり返っていたが、居間の扉の前には妙な緊張感があった。


「……入るぞ」


 そう言いながら、エイデンが扉を開けた瞬間、室内にいたセザンヌはごく自然な仕草で、書類を机に置き、顔を上げた。


 だが、その表情はいつもの陽気さとは違っていた。


 笑っている――が、目が笑っていない。


「昨日、カイルと巡察じゃなかったかしら狼ちゃん」


「…まぁそうだな」


「でも不思議ねロウワン南部の監視塔から報告があったわ。私の私兵が、"許可なく市外に出た"ってね」


「……あぁ」


「質問は三つだけ。命令は誰から受けた? 何のために動いた? 誰の許可で?」


 エイデンは迷いなく答えた。


「命令は受けていない。目的は猫の捜索。許可は……取っていない」


 セザンヌはぴたりと沈黙し、椅子の背に身を預けた。


「……ふうん」


 長い脚を組み替えながら、机の上のグラスを軽く傾ける。中の葡萄酒がゆっくり揺れた。


「ねえエイデン、私たちの関係って何だったかしら?」


「……雇い主と私兵だな」


「そうよ。貴方は私の剣であり、私の盾。その代わり、私は貴方を守るし、飢えさせない。……それが『役目』というものよ」


「……」


「猫を拾っている暇があったら、受けた仕事をこなしてもらえるとありがたいわね、私としては?」


 声色はやさしく、言葉は柔らかい。


 だが、空気が妙に重たい。


「……次からは、報告してから動く」


 エイデンは短く言い、帽子のつばを軽く指で押さえた。


 セザンヌはそれを見て、口角をほんの少しだけ持ち上げた。


「まあ、いいわ。報告もせずに勝手に動くなんて、軍だったら軍法会議ものだけど……」


「……私兵で良かった」


「ほんとよ。私のかわいい狼ちゃんだから、許してあげる」


 そして、手元の書類に目を落としながら、ふと漏らすように続けた。


「――でもね、エイデン。勝手に街を出ていいのは、"拾ってきたものが私にとって得になる"ときだけよ」


「……猫じゃ足りないか」


「猫はまあまあ。でも、町娘の笑顔が報酬なら……今回は見逃してあげるわ」


 そう言ってセザンヌは指をくるくると回し、扉の方を指した。


「じゃあ、搬入チェックに行きなさい。三時間、汗を流してきなさいな」


「……了解した、ボス」


「セザンヌって呼びなさいよ!」


「……セザンヌ」


「いい子ね、狼ちゃん♪」


 そう言って満足げに微笑んだ彼女の声には、ほんの少しだけ、からかうようなやわらかさが混じっていた。


 エイデンは無言で部屋を後にしながら、肩越しに小さくため息をついた。


 ――自由ではない。だが、不自由すぎるわけでもない。


 それが、セザンヌの私兵であるということだった。


 



今回は日常譚です。


本編はちょっと書き足しなどあり遅れます

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