エピソード4 『狼と茶』
――帝国歴1650年 秋・ロウワン南街道――
西からの風が草を揺らし、ひび割れた石畳に土埃を舞わせた。午後の日差しは穏やかで、空にはまだ青が残っている。
しかし、それは外見だけの平穏だった。
その気配は、風の向こうから確かに迫っていた。
「来たな」
街道沿いの木の上からエイデン・ノアは、単発式のライフルを肩に据え、息を殺した。
現れたのは、灰色の体毛に覆われた獣――グレイパック。このロウワン周辺の森林に生息する大型の肉食種だ。
だが、眼下のそれは本来のグレイパックよりも一際大きい。
「……ありゃ魔獣化してんな」
ここロウワン周囲では、アストレア王国との国境が近いこともあってか戦争時に残った“魔素”の流れ込みが多く、魔獣化が後を絶たない。
故にここ最近、エイデンは働き詰めであった。
(まぁ魔素による魔獣化はオレら魔導師が根本的原因であるし文句は言えないが…)
そもそも魔素とは自然界には存在しない粒子だ。主に魔導師が魔法を発動した際に大気中に霧散する魔力の残滓、魔導師が自身の魔力を火や水などに変換する際に発生する不純物それこそが魔素だ。
魔素単体では生物にとって害はないが、その魔素が一箇所に集中して形成された【魔素溜り】に入った生物がその高濃度な魔素により汚染された姿が魔獣となる。
「魔素溜りの浄化もしなけりゃいけないし、今日は徹夜か…」
エイデンは悪態を付きながら眼下のグレイパックに標準を合わせる。
その殺気に気が付いたのかグレイパックは木の上のエイデンに視線を向け唸り声を上げる。
「 弾頭強化」
冷静に観察し、呼吸を整える。銃弾に魔力を流しその弾頭を更に強化する。
グレイパックが地を蹴った瞬間、エイデンの指が引き金を引いた。
銃声が空気を裂く。瞬時にして、魔力を帯びた弾が獣の前頭部を撃ち抜き破砕した。
重い音を立てて獣が地に伏す。付近の空気が魔素の揺らぎとともに静まっていった。
エイデンは木から降り、倒れた魔獣に歩み寄ると、その死骸からは魔素の塊が蒸発するように立ちのぼり、空へと消えていく。後に残った淡く光る“魔晶片”を取り出した。
魔力純度の高いその結晶は様々な魔道具や燃料などに利用されるため、売れば相応の金になる。
「これで街道は一晩は安全だが…はぁ」
グレイパックが出てきた森を見る。魔素溜りを浄化しなければ何度も同じのことの繰り返しだ。
弾の残数を確認しながら、彼は銃を背に戻した。そして、その足で森の中に消えた。
――ロウワン 交易地区・セザンヌ邸
翌日の朝、エイデンはセザンヌの住む屋敷の前に立っていた。
石造りの門をくぐると、手入れの行き届いた庭園が広がっていた。帝都風の設計様式、磨かれた石畳。
「おかえり、狼ちゃん」
執務室に入るなり、赤い唇が緩やかに微笑んだ。
椅子に腰掛けたセザンヌ・ヌレア・ガルドス――このガルドス辺境自治区の領主にして、表向きは交易都市の統治者。
「“狼”はもういないって言ったはずだぜ。今の俺はただの門番みたいなもんだ」
淡々と告げるエイデンに、彼女は肩をすくめて見せる。
「ふふ…まぁ言葉遊びはさておき、、連勤お疲れ様。大変だったみたいね」
「魔素溜りを潰して回ってた。全部で二箇所、魔獣との遭遇は四回」
「それは大変だったわね。はいじゃあ、これが報酬よ」
封筒が机の上を滑るように差し出された。エイデンが受け取ると、銀貨の重みが手の中に伝わった。
「カイルや他の連中は?何も俺一人じゃなくたってよかったろ」
「だって他の子たちは出払ってるし残ってるのが貴方しかいなかったですもの。それにしてもやっぱり、街道の出現数……ちょっと増えてるわね」
「あぁ異常だよ正直。魔獣なんて一月に一、二頭遭遇するかしないかだ。この二ヶ月で九頭、戦後を加味してもありえねぇよ」
彼女の指がティーカップを回しながら、わずかに止まった。
「原因に、心当たりは?」
「さっぱり分からん」
「そう……まぁ前回のハウスウルフの件もあるし追々、分かってくるでしょ」
「調査は進めるさ」
「お願いね。それより朝食は?」
「食ったよ。ドライフルーツとパンだけどな」
「いつも同じ。味気ない男ね。焼いた鳥があるけど?」
「……もらう」
セザンヌは立ち上がり、館の扉を開けながら言った。
皿に乗せられた焼き鳥の香り。エイデンは用意された木の椅子に座り、短く息をついた。
「……鳥、柔らかいな」
「ふふ、味付けも良かったでしょ? 帝都風よ。街道商人から買い取った香草を少し混ぜてるの」
「お前、料理もするのか」
「実験のあいまにね息抜きよ」
「……実験?」
「まぁただの植物の育成よ」
言葉を濁したが、エイデンは特に追及しなかった。セザンヌにはよくあることだった。
「それで狼ちゃん。食後のお茶はいかが?」
「茶なんて飲む柄に見えるか?」
「まあまあ、いいじゃないの。人間らしい時間って大事よ」
エイデンは苦笑しながらテーブルに置かれたカップを手に取った。中にはほんのりと金色に染まった液体が揺れている。
「……何だこれ」
「甘くしてみた。帝都風よ。最近は薬草と柑橘を混ぜるのが流行らしいの」
「変なもん入ってないよな」
「疑い深い男。だったら毒味する?」
セザンヌは自分のカップを持ち上げ、一口飲んでからウィンクした。
「安心したかしら?」
「……ああ」
短く返して、エイデンも口をつけた。意外にも、微かに香る果実の酸味が疲れた喉に心地良かった。
しばし沈黙。風が吹き抜ける。
「……お前、何かあったか?茶なんて出すなんて珍しいだろ」
「あれのおかげかしらね」
隣のテーブルに置かれた陶器の壺に目をやる。
「また変なもん増えたな」
「 新しく仕入れたお香よ。帝都でも珍しいやつ」
「何の匂いだ?」
「深海藻と月の樹の樹皮を乾かしたやつ。精神安定の効果があるんですって」
「お前が一番必要そうだもんな」
「それ、誉め言葉と受け取っていいかしら?」
ふ、とエイデンの口角がわずかに上がる。セザンヌも目を細め、同じく笑った。
「……なあ」
「なに?」
「たまに、お前が領主に見えなくなる」
「失礼ね。一応、真面目にやってるのよ? 街の予算も計算してるし、治安の報告にも目を通してる」
「ほう。じゃあ、街娼の取り締まりは?」
「それは寛容策。生きる手段があるなら、それでいいのよ。……貴方も、夜が寂しいなら紹介してあげましょうか?」
「いんや遠慮しとくさ」
「ふふ、真面目ね。“狼”ちゃん」
カップを一つ、エイデンの前に滑らせると、セザンヌも隣の椅子に座った。書斎の空気は、いつもの冗談混じりのやり取りよりも静かで、重みがあった。
しばらく、湯気だけが二人の間で踊っていた。
「なあ、セザンヌ」
「何?」
「……なんで俺を雇った?」
唐突な問いだったが、セザンヌは一切驚かなかった。
むしろ、その時を待っていたかのように、微笑みを浮かべる。
「強いから。使えるから。何より、あなたが“壊れてた”からよ」
「……壊れてた?」
「信じるものを全部失って、それでも死ねなかった。そんな人間はね、“何かに縋りたい”って本能的に思ってしまうの。命令をくれる誰か、存在理由を与えてくれる誰かを」
エイデンの手が一瞬止まる。
「……随分とご立派な分析だな」
「違う?」
「……否定できんのが癪だ」
セザンヌはカップを口元に運び、静かに続けた。
「けれどね。私は“使い捨ての兵士”なんて欲してないわ。もしそうなら、もっと忠実でおしゃべりしない男を選ぶ」
「じゃあ、俺は何なんだ?」
「文字通り“狼”よ。孤独なままじゃ危険な獣。でも、正しく使えばこの街を護る力にもなる。だから私は飼っているの」
エイデンは視線を落とす。熱い飲み物を一口飲み、喉の奥が熱くなった。
「……お前、俺がいつか牙を剥くって考えたことはあるのか」
その問いに、セザンヌの瞳が一瞬だけ鋭さを増した。
「あるわ。だからこそ、あなたに背を向けたことは一度もない。私はいつも、あなたの“牙”の方向を見ている」
「じゃあ聞くが、お前は俺を信用してるのか?」
「してるわよ」
「敗残兵でもか?」
「私はあなたの“過去”を信じているわけじゃない。“今のあなた”に期待してるの」
セザンヌの言葉は、まるで乾いた夜の空気の中にだけ響くように、静かだった。
「……狼ってね、賢いのよ。人と交わることもできる。でもね、時々“獣”が顔を出す。その瞬間こそ、本当に信じられるかどうかが試されるの」
「…………」
セザンヌはエイデンを信頼している。それはどこかエイデンの心を溶かすようだった。
まるで戦友のようだった。
「茶…ありがとう。もう行く」
エイデンは椅子から立ち上がり部屋の出口へと向かった。
「あら、まだお代わりもあったのに」
「他の奴らに見られた贔屓してるみたいに見えるだろ」
「まぁ実際、貴方には期待してるもの」
「そらどうも」
セザンヌはフフッと笑いながら執務室から出ていくエイデンの後ろ姿を見送った。
「……本当に期待してるんだから私の狼ちゃん」
ただ小さくセザンヌは微笑みながらエイデンには聞こえないようにそう告げた。




