エピソード1 彼が軍靴を履いた日Ⅲ
本当にお待たせしました。
エッセイ書いたりして自分のマインドリセットして、書いていたので随分と遅くなりました。
本当にすみません。
雪の森にしばらく誰も言葉を落とさず白い息だけが、規則正しく空に溶けていく。
カイルは俯いたまま、銃を抱えて立っていた。
先ほどまでの戦闘の熱はすでに抜け落ち、代わりに残っているのは、言葉にできない重さだけだった。
エイデンはそれを横目で見て、何も聞かなかった。
問いただせばいい。理由を、過去を、なぜ撃てなかったのかを。
だが――彼は聞かなかった。
聞かずとも、分かってしまったからだ。
沈黙が長すぎる。
恐怖だけでは、ここまで深く沈まない。
「……オーエン」
エイデンは視線を外し、短く言った。
「カイルにお前を任せる。二人で街まで戻れ。俺はこのまま追撃する」
そう言って踵を返し、森の奥――黒い化物が消えた方角へと歩き出そうとした、そのとき。
「……待て」
低く、しかしはっきりとした声が背中を止めた。
振り返ると、オーエンが雪に膝をつきながらも、こちらを睨んでいた。顔色は悪いが、目だけは死んでいない。
「一人で行く気か。冗談じゃねぇ」
「動くな。お前は重傷だ」
「違う」
オーエンは歯を食いしばり、カイルを見る。
「……カイルを置いていくな。あいつは今、一人にしたら折れる」
カイルの肩が、わずかに震えた。
「二人で行け。これは私兵隊長としての命令だ」
一瞬の沈黙。
エイデンは小さく舌打ちをし、深く息を吐いた。
「……厄介な奴らだ」
そう呟いてから、カイルに視線を向ける。
「来い」
命令口調だったが、そこに責める色はなかった。
カイルは一瞬だけ迷い、それから無言で頷いた。
――こうして二人は、雪を踏み分け、森の奥へと進み出す。
木々の間を吹き抜ける風が、足跡をすぐに消していく。
静かだった。
あまりにも静かで、かえって重い。
しばらく歩いた後、エイデンがぽつりと口を開いた。
「……過去に何があったかは、俺は知らない」
カイルは反応しない。
だが、その背中がわずかに強張る。
「知ろうとも思わん」
エイデンの声は淡々としていた。
責めも、慰めもない。
「ただな」
彼は立ち止まり、振り返らずに続ける。
「今は任務中だ。目の前の敵を追う。それだけ考えろ」
雪が軋む音が、やけに大きく響く。
「それが今のお前の務めだ。生き延びるためじゃない。――仲間のためだ」
カイルの喉が、かすかに鳴った。
あの言葉が、胸の奥で疼く。
生きて――
逃げる理由として、呪いのように絡みついてきた言葉。
だが今、別の言葉がそれを押し留める。
務め。
「……はい」
小さく、だが確かに、カイルは答えた。
エイデンはそれ以上何も言わず、再び歩き出す。
雪は音を奪い踏みしめた足音すら、白い地面に吸い込まれていく。
夜の森は深く、木々の影は互いに重なり合って、どこまでも続く暗闇を作っていた。月明かりは枝葉に遮られ、わずかに零れ落ちる光だけが、二人の背中を淡く縁取っている。
カイルは、エイデンの半歩後ろを歩いていた。
距離は近い。だが、その背中はひどく遠く感じられた。
銃の重さが、やけに腕に残っている。
つい先ほどまで、引き金を引くことすらできなかった手だ。
雪を踏むたび、脳裏に別の音が重なった。
砲声。悲鳴。骨の砕ける音。
――そして、あの声。
生きて。
その言葉は、今も胸の奥に居座っている。
祈りのようで、命令のようで、呪いのようだった。
生きろ、と言われた。
だから逃げた。
生きるために、背を向けた。
それが正しかったのかどうかを、カイルは今も知らない。
ただ一つ分かっているのは、その選択が、彼の中の何かを決定的に壊したということだけだった。
視界の端で、エイデンがわずかに足を緩めた。
木々の間、雪の上に残る黒い染み――血の痕跡を確認しているのだろう。
その背中を見ていると、不思議な感覚に襲われる。
この人は、前に進むことを疑わない。
傷を負っても、腕を失っても、恐怖に足を取られても、それでも前に出る。
自分とは、決定的に違う。
――いや、本当にそうなのだろうか。
カイルは、ふと立ち止まりそうになる自分の足に気づき、慌てて踏み出した。
雪が軋む。
その音が、やけに大きく響いた気がして、心臓が跳ねる。
「……」
言葉が喉まで上がりかけて、消える。
聞きたいことがあった。
ずっと胸の奥に引っかかっていたこと。
だが、それを口にするのが怖かった。
答えを聞くのが、ではない。
自分が、その答えをどう受け止めるのかが分からなかったからだ。
それでも、口は動いた。
「……エイデンさん」
声は思ったよりも掠れていた。
エイデンは歩みを止めず、短く返す。
「なんだ」
一瞬の沈黙。
雪が舞い、風が枝を揺らす。
「……アリシア、って名前を……ご存知ですか」
言った瞬間、胸が締め付けられた。
後悔が、遅れてやってくる。
エイデンの足が、止まった。
森が、凍りついたように静まり返る。
風すら止んだかのようだった。
「……ノルム城塞にいた、俺の副官だ」
ややあって、エイデンはそう言った。
振り返らない。だが、声は低く、確かだった。
「軍学校を出たばかりのヒヨコでな。剣の癖が真っ直ぐですぐに無茶をする。止めても聞かないタイプだった。一年という短い付き合いだったがよく憶えてる」
カイルの喉が鳴る。
「……覚えてるんですね」
「ああ」
短い返事。
だが、それだけで十分だった。
覚えている。
彼女は、確かにそこにいた。
戦場の片隅で、名もなく消えた存在ではなかった。
それだけで、胸の奥に溜まっていた何かが、わずかに形を変える。
カイルは、それ以上何も言わなかった。
過去の話をするつもりはなかった。
あの夜を、言葉にする準備など、できていない。
だが、エイデンは察していた。
沈黙が、雄弁すぎた。
再び歩き出す。
森は次第に深くなり、雪は足首を埋めるほどに積もっている。
木々の間に残る爪痕。折れた枝。踏み荒らされた地面。
化物は、確かにこの先にいる。
「……さっき言ったこと、覚えてるか」
不意に、エイデンが口を開いた。
「過去に何があったかは知らない。今も聞かない。聞いても慰めの言葉なんて俺は言えない」
淡々とした声。
責める色はない。
「だがな、カイル」
エイデンは歩きながら、前だけを見据えて続ける。
「一つだけ言えるのは、お前のなかに燻ってるそれは呪いじゃない」
その言葉が、雪よりも重く胸に落ちる。
生きることだけを選び続けてきた自分に、向けられた言葉。
カイルは、銃を握る手に力を込めた。
震えは、まだ止まらない。
だが、逃げ出したい衝動だけは、わずかに後退していた。
生きて。
その言葉が、今も胸の奥で囁く。
だが、それだけでは足りないのだと、ようやく理解し始めていた。
生きるだけでは、終われない。
生き延びた者には、果たすべき務めがある。
「……はい」
小さな声だった。
だが、それは確かな意思だった。
エイデンは何も言わず、わずかに歩調を落とす。
それが、返事だった。
雪の森の奥で、何かが動く気配がした。
低く、湿った音。
黒い影が、木々の間を滑るように進んでいく。
雪の森の奥で、空気が一段冷えた。
それは肌の感覚ではなく、もっと内側――骨の奥を撫でるような、嫌な冷えだった。
カイルは無意識に足を止め、呼吸を殺す。
いる。
視界には何も映らない。
風に揺れる枝、積もった雪、月光に白く染まる地面。
それだけだ。だが、確信だけがあった。
心臓が一拍、遅れて強く打つ。
耳鳴りのような音が頭の内側で広がり、指先から感覚が抜けていく。
――まただ。
脳裏に、あの夜の光景が重なった。
炎。叫び。骸の山。
そして、振り返った彼女の笑顔。
「生きて」
その言葉が、今もなお胸の奥に突き刺さっている。
逃げろ。伏せろ。生きろ。
理性がそう囁くたび、足が重くなる。
銃を握る手が震え、引き金までの距離がやけに遠い。
視線の先、雪がわずかに沈んだ。
喉が鳴る。
肺が、うまく空気を取り込めない。
全身が「ここは死地だ」と理解しているのに、それでも身体は前に残ろうとする。
何故なら傍らの男の存在を、背中で感じていたから。
エイデン・ノア。
怪物みたいな男だ。
剣を振るい、魔法を使い、血を流しながらも立ち続ける。
自分とは違う。
あの夜、逃げ出した自分とは。
カイルは、奥歯を噛みしめた。
怖い。
今も、どうしようもなく怖い。
それでも――
このまま、また背中を向けるのか。
「生きて」という言葉に縋って、何も守れないまま、ただ息をするだけの生を選ぶのか。
違う。
違うはずだ。
胸の奥で、何かがきしむ音がした。
恐怖と同じくらい強い、別の感情が浮かび上がる。
――せめて、今度は。
雪の向こうで、影が動いた。
黒い輪郭。
月光を拒む、異形。
奴だ。
喉の奥が引きつる。
視界が狭まり、音が遠のく。
だが、逃げたい衝動と同時に、奇妙な冷静さが湧き上がってきた。
あれは強い。
正面からやっても勝てない。
エイデンなら、あるいは――だが、今の消耗具合では厳しい。
なら、どうする。
自分ができることは何だ。
答えは、皮肉なほど明確だった。
胸がひくりと跳ねる。
想像しただけで、背筋に冷たいものが走る。
分かっていて、なお――その選択肢を思い浮かべた自分に、カイルは苦く笑った。
「……はは」
小さく漏れた声は、吐く息に紛れて消えた。
怖い。
死にたくない。
それでも。
エイデンは立ち止まり、周囲を警戒していた。雪に溶け込むような佇まい。
それは狩る側の目だった。
その背中を見て、カイルは決めた。
逃げるために生きるのは、もう終わりにする。
喉を鳴らし、声を絞り出す。
「……エイデンさん」
その声に、エイデンが一瞬だけ視線を向ける。
短い、鋭い眼差し。
カイルは震える指を握り込み、一歩前に出た。
「俺に、考えがあります」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
恐怖が消えたわけじゃない。
ただ、それを押さえつけるだけの覚悟が、ようやく形になっただけだ。
エイデンは何も言わない。
ただ、その目で続きを促す。
カイルは息を吸い、ゆっくりと吐いた。
雪の森の奥で、化物が嗤った気がした。
まるで、こちらの選択を歓迎するかのように。
それでも、カイルは視線を逸らさなかった。
今度こそ――
逃げない。
雪の森は、音を拒んでいた。
吐く息だけが白く浮き、すぐに闇へ溶けていく。
カイルは拳銃を握りしめ、化物を正面に捉えていた。
指先が冷たい。
いや、冷たいのは指だけじゃない。背中も、喉も、心臓の奥も凍りついている。
それでも――逃げなかった。
撃てば、こっちを見る。
それが分かっているからこそ、引き金に力を込める。
一発目。
乾いた銃声が森を裂く。
弾丸は化物の肩口で弾かれ、火花を散らした。
だが、それでいい。
化物の顔が、こちらを向いた。
黒い外皮の奥で、眼が光る。
「……よし」
二発、三発。
弾は通らない。それでも撃つ。
化物は嗤った。
獲物が吠えている――そんな風に。
化物は完全にこちらへ意識を向けた。
それでも引き金を引き続けた。
――カチリ。
空虚な音。
弾切れ。
一瞬、時間が止まったように感じた。
化物が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
雪を踏みしめるたび、地面が低く唸る。
怖い。
正直な感情が、喉元までせり上がる。
それでも、銃を投げ捨てた。
金属が雪に沈む音。
それが、決別の合図だった。
「……まだ、終わってない」
掠れた声で呟き、肺に空気を押し込む。
魔力が、身体の奥で揺れ始める。
冷え切った血流の中に、微かな熱が灯る。
「《風よ》」
言葉が、空気を掴む。
化物が、跳んだ。
距離を潰す獣の速度。影が覆いかぶさる。
「《我が意志に従い》」
恐怖で詠唱が乱れそうになる。
それでも、噛み締める。
逃げるな。
今は――やるべきことやれ!
「《刃となれ》」
風が、集束する。
雪が舞い上がり、視界が白に染まる。
化物の影と、カイルの身体が、交差する――その瞬間。
「《――裂けろ》!」
解き放たれた風の斬撃が、不可視の刃となって走る。
同時に。
――轟音。
それは拳銃でも、魔法でもなかった。
重く、鋭く、すべてを貫く一撃。
潜伏していたエイデンが、
カイルが手放したライフルを構え、引き金を引いた音だった。
強化された一弾が、
風の斬撃が生んだ僅かな“隙”を正確に撃ち抜く。
化物の身体が、大きくのけぞる。
嗤い声が、途中で途切れた。
雪煙が舞い、森が震える。
その中心で、カイルは立っていた。
息は荒く、足元は覚束ない。
それでも、視線だけは前を向いていた。
――勝った。
そう理解したとき、
ようやく、力が抜けた。
雪の冷たさが、やけに近く感じられた。
――当たった。
引き金を引いた瞬間、反動とともにそれは確信へ変わった。
弾道、衝撃、そして雪煙の向こうで何かが壊れる感触。
数え切れない死線を越えてきた身体が、迷いなくそう告げている。
エイデンは呼吸を整えながら、銃口を下げなかった。
雪が落ち着くのを待ち、視線を一切逸らさず、化物の影を睨む。
黒い巨体は、倒れ伏したまま動かない。
痙攣もない。呼吸の兆しもない。
「……終わったな」
呟きは、独り言に近かった。
確かな手応え。疑いようのない終止符。
そこで初めて、エイデンは振り返った。
――カイル。
名前を呼ぼうとして、言葉が喉で止まる。
そこにいたのは、倒れるカイルの姿。
胸元。
コートと装備が、抉り取られたように削がれている。
裂けた布の隙間から覗くのは、赤黒く濡れた下地。
雪が、そこだけ溶けていた。
「……おい」
声が、思ったより低く出た。
カイルはゆっくりとエイデンの方を向く。
その動きはぎこちなく、どこか遅れている。
表情は、不思議なほど穏やかだった。
恐怖も、混乱もない。
あるのは、やり遂げた後の空白に近い顔。
「……倒、しました……?」
確認するような声音。
「ああ」
エイデンは即答した。
その一言に、余計な感情を混ぜる余裕はなかった。
「完璧だ。もう立ち上がらない」
その瞬間、カイルの肩から力が抜けた。
膝が、わずかに揺れる。
「……そ、うですか……」
息が、白く長く吐き出される。
まるで、張り詰めていた何かがようやく解けたかのように。
エイデンは駆け寄った。
雪を蹴り、距離を詰める。
近づくほど、状況ははっきりと見えた。
胸部装甲は裂かれ、下の衣服も深く削がれている。
致命に届いていないと断言するには、あまりに危うい損傷だった。
「……馬鹿野郎」
低く吐き捨てる。
怒りでも叱責でもない。
それは、抑えきれなかった本音だった。
「囮になるにしても、加減ってもんがあるだろ」
カイルは、かすかに笑った。
「……撃ってくれた、じゃないですか」
「当たり前だ」
即座に返す。
「お前が作った隙だ。無駄にするわけない」
――覚悟を終えた人間の目だ。
エイデンは、そこでようやく理解する。
この男は、恐怖を克服したのではない。
恐怖を抱えたまま、前に出たのだと。
それが、どれほど重い選択かを。
「……よくやった」
短く、しかし確かな言葉で告げる。
カイルは何も言わず、ただ一度だけ、ゆっくりと頷いた。
雪が降り続けていた。近くに残置された壊れた小屋を見つけてエイデンはカイルをそこに運んだ。
壁も屋根もまともに残っていない小屋のなか。
それでも風は、なぜか中で音を立てていた。
ひゅう、と細く、唸るような音が。
カイルの呼吸はすでに浅く、目はうっすらと開いていた。
その瞳に映るのは、膝をつく一人の男。
外套の裾に血が滲み、雪に塗れている。だが、その姿には一分の乱れもない。
エイデン・ノアは、無言でカイルの胸元を確認していた。
裂けた装備の隙間から覗く傷。
触れずとも分かる。魔力で無理に閉じた血管はすでに限界で、内側では臓器が崩れている。
助からない。
それは願望でも諦観でもなく、経験に裏打ちされた判断だった。
だから、彼は迷わなかった。
カイルの視線が、かすかに揺れる。
「……アリ……シア……」
呼吸と同じように、声も細く崩れそうだった。
だが、その言葉には確かな意志が込められていた。
エイデンは一瞬だけ、目を伏せる。
ノルム城塞。
雪に覆われた北壁。
剣を握り、歯を食いしばっていた一人の少女の姿が、記憶の底から引き上げられる。
――覚えている。
だが、それを口にすることはなかった。
今、必要なのは過去ではない。
「……俺は……あなたと、共に戦えて……光栄でした……」
その言葉に、エイデンは小さく息を吐いた。
返す言葉は、もう決まっている。
「お前はいい兵士だった」
低く、揺れのない声。
評価でも慰めでもない。事実だけを告げる言葉。
続けて、彼は唇を動かした。
誰に教わったわけでもない、短い文句。
詠唱のようでもあり、祈りのようでもあり、あるいは――約束のようでもあった。
だが、外の風が強まり、言葉はすべてかき消される。
カイルはわずかに目を見開き――そして、微笑んだ。
言葉はない。
頷きも、もうできない。
それでも、そこに答えがあった。
エイデンは拳銃を抜いた。
金属の冷たい感触が掌に伝わる。
照準を合わせる距離は、あまりにも近い。
だが、彼の呼吸は一切乱れなかった。
戦場で何度も下してきた、最も重い決断だ。
乾いた音が一つ、降る雪の中に沈んでいった。
カイルの身体から、力が抜ける。
苦痛はない。
その表情は、眠る直前のように穏やかだった。
エイデンはすぐには立ち上がらなかった。
小屋の中で、ただその場にとどまる。
肩に雪が積もり、外套が白く染まっていく。
時間が、静かに流れる。
やがて、彼は誰にともなく呟いた。
「……くそったれな冬だな」
返事はない。
あるのは、風の音だけ。
だがエイデンは、確かにそれを背負って立ち上がった。
生きている者の責務として。




