Episode43/3.フレア
ユタカは膝上に腰かけた状態から、ぬるりと僕の身体に重なり収まる。
「ふぅぁーーんッ!」
いまだかつて感じた事のない感覚が、全身を隈無く舐めるように走り、思わず変な声を出してしまう。
『豊花さん?』
「豊花、今の声エロいじゃん。どしたの急に、発情なんかしちゃって」
「発情なんてしてないから!」
ーー無駄に反抗的な態度を示した豊花への罰だぞ。ーー
……。
ーーいや、気持ちよかったのか? いけないいけない、これじゃ罰にはならない、むしろご褒美じゃないか。ーー
エロマンガの竿役みたいな台詞、わざわざ脳内で語りかけないでよ……。
フレアは立ち上がると、僕に体を傾け、重なろうとする。
『この光景ーー“火”の凄さだけじゃなくって、いずれ、わたし個人の存在価値を理解してもらえるよう、頑張りますっ!』
フレアはそれだけ言い残すと、僕の身体に重なるように入り姿の一切を消した。
ユタカが重なるときのような不可思議な気分にならないか身構えたが、フレアの場合はならないようで安堵した。
いや、今まではユタカ相手でも重なるときは気配くらいしか感じられなかった筈なんだけど……。
ユタカの言い方だと、わざと不気味で不可思議で……ちょっと気持ちいい感覚を味わわせてきたのか。
ーーやはり気持ちよかったのではないか。このスケベ!ーー
……。
ーー……。ーー
…………。
ーーいや、すまない。謝ろう、すまなかった。意地悪しすぎてしまったな。ーー
「はぁ……」
思わずため息が溢れる。
「さて、と。もうフレアとかいう精霊の目的は終わった? 結局、なにがしたかったのそいつ」
瑠奈はショートパンツとそれに重なるオーバーサイズのパーカーの尻部分を叩き、背伸びしながら立ち上がる。
「うん。やりたいことは達したと思う。瑠奈の部屋に帰ろう」
……本当は、もう少しこの光景を見ていたい気持ちもある。
いつまでも見ていたいーーそんなふうに惹かれる魅力をまだ感じる。
けど、フレアの目的は、この“火”が織り成す幻想風景を見せて、火の素晴らしさを僕にも認識させたかったのだとわかる。
なら、疾うに目的は果たせた筈だ。
瑠奈が近場に立つと、ふわりと少し浮かび、二人で上空へと一気に飛翔した。
そのまま来た道、いや、来た空に戻るため、瑠奈は僕を連れて飛行を始める。
やがて、瑠奈の住む居城に窓から侵入すると、室内の床の上で一旦ふわりと浮かび、二人で着地した。
と、ちょうど朱音が戻ってきた。
半透明になっていき、やがて姿がハッキリすると共に、朱音の両サイドに四つもの大きな紙バックが置かれていることがわかった。
しかし、赤羽さんの姿はどこにも見られない。
完全に姿を現した朱音は、紙バックを魔法円から持ち出すと、僕に手招きする。
「ナイスタイミングだ。豊花、あちらの時間はもう21時を回る頃合いだ。御薬袋の力で自宅前に飛ばしてもらうといい」
「えー? わたしは? もしかして、わたしはまた? もうマナの貯蔵は十分なんだよ?」
瑠奈の愚痴を「悪いけど、また直ぐに来るから、瑠奈はそこで待っててくれ」と言い、朱音は宥める。
「あ、はい……わかりました。瑠奈、またね?」
思わず疑問符が語尾に付くような挨拶をしてしまう。
愛のある我が家の家族になった認識が、僕はまだ薄いようだ。
「じゃあね。一緒に働くの楽しみにしてるよ、豊花ちゃん。いや、豊花」
ーー家族にちゃん付けは不要だもんね。
と、瑠奈は今さら言い出す。
呼び方安定していなかったじゃないか……別に家族でも歳が離れていたら“ちゃん”付けくらいするだろうし。
魔法円の内側に入る。
紙バックーーおそらく着替えの衣服や日用品が詰まっているーーを魔法円の外側に運び出すと、朱音は僕に近付く。魔法円に並んで入るために……。
次第に視界がぼやけていく。
やがて、異世界に来たときとは真逆ーー視界が純白じゃなく漆黒に塗り潰されていき思わず焦ってしまう。
「あ、朱音さん?」
「安心してくれ。現世に行くときは視界が黒に支配されるんだ」
僕の疑問を訊かずとも理解していたのか、赤羽さんに似た疑問を呈されたのか、朱音はスムーズに教えてくれた。
黒より暗い闇に呑まれた末、徐々に視界が開けていく。
少しずつ、異世界に行くために立ち入った銀羽夢の私室が視界へと広がる。
異世界へ行ったときを思い出し、朱音が許可するまでは身動きしない。
目眩や吐き気が襲いかかるが、口許を手のひらで覆い悪心をただ耐える。
(96.)
「豊花、もう動いていいよ」
「は、はい……」
ふらふらとした足取りで、魔法円が床に書かれた電気に灯された部屋を歩く。
視界の端に、電気で明るいのにも関わらず、穏和な笑みを表情に浮かべたまますぅすぅ寝息をたてて安眠している夢の姿が映る。
現世に戻って自然と体が察する。
空気が何処か重く、居心地が悪いーーと。
冷房で冷えているのに、向こうの冷房のない瑠奈の部屋、ましてや外の空気は軽くて清潔で居心地が良いものだった。
向こうに行った当初はそれどころじゃなかったし、あまり気にしていなかったけど……やっぱり空気の旨さっていうのはあるみたい。
朱音は「一階に下りて沙鳥の指示に従ってくれ」と言い残し、再び魔法円のど真ん中に佇んだ。
僕は頷くと、部屋から出て言われたとおり一階へ下りた。
あの異世界の街並みに当てられたせいか、未だにどこか意識がぼーっとしている。
僕はふらふらとした足取りでリビングに顔を出す。
そこには、沙鳥と知佳、そして怠そうな格好をした御薬袋の三人が居た。
「ご苦労様です、豊花さん」
「あ、えっと……はい」
どうしてもーーソファーに凭れるようにうつ伏せになり、顔だけ横を向け、死んだ瞳で虚空をただただ見つめているーー御薬袋が気になってしまう。
ええ……?
御薬袋は、どこかモルヒネあへあへバージョンとも、覚醒剤パキパキバージョンとも違う様相を呈している。
「鬱だ……死にたい……」
「あの、沙鳥さん? 御薬袋さんこんなんなってますけど、朱音さん曰く僕を自宅前まで送ってくれるって……」
こんな惨状の御薬袋が、僕を自宅前に転移させられるんだろうか?
沙鳥は暫く僕を見つめると、こほんと一度咳をする。
「ご安心ください。覚醒剤のキレ目で弱い希死念慮は見受けられますが、自殺念慮ーーさらには自殺企図まで発展したことはありません」
沙鳥は言葉をつづける。
「本来なら、バルビツール酸系の強力な睡眠薬を飲ませて早く寝かせたほうがいいのですが……本日最後の仕事として、豊花さんを自宅前に送っていただかなければなりませんからね」
沙鳥は軽く笑う。
「あの……」今更ながらの疑問を沙鳥に問う。「僕は愛のある我が家の一員にーー家族になったんですよね?」
「ええ。訊きたいことはわかっています。貴女の為すべき事ですね?」
僕は頷く。
「豊花さんは平日の指定された日は、放課後、異能力者保護団体の異能力特殊捜査官見習いとしてーー実は直ぐに4級に昇格させますがーー働いてもらいます」
ですがーーと沙鳥は説明をつづけた。
「休日には愛のある我が家に顔を出してもらいます。土日のどちらか、あるいは二日間かは、その日になってみなければわかりませんが……休日は異能力者保護団体に行けない日があることは、刀子さんを通じて異能力者保護団体の上層部には連絡が行っている筈です。貴方が愛のある我が家になったことも、です」
仕事の詳しい内容はわからない。
けど、僕の“直感”を求めて仲間に引き入れたのだ。その異能力に関わる仕事の筈。
「ううっ……薬中で……老い先真っ暗……死にたい、いや、死んだほうがマシだ……」
とうとう御薬袋は泣き出した。
……いや、その苦しみ、自業自得じゃない?
ーーいや、断れない立場で先輩に誘われて……という可能性もなくはない。なら、こいつだけの責任ではないだろう。薬物乱用は被害者なき犯罪と云われているが、本当の被害者は薬物依存の当事者だ。ーー
「あの、異霊体さん、口を挟んで申し訳ありませんが……御薬袋さんは自ら好奇心で積極的に薬物と関わったのですよ?」
ーー……なるほど?ーー
「当然です。でなければ、覚醒剤や大麻はともかく、日本では殆ど検挙されていない麻薬類の売人と接触して入手するなんて実質不可能です」
沙鳥曰く、日本には覚醒剤、若い人に乱用者が増えてきている大麻。次点でLSDやMDMAなどの法的な“麻薬”が目立ち、カテゴリー的な麻薬ーーヘロインやモルヒネ、アヘンなどの違法薬物を扱う売人はほとんど存在しないらしい。
アメリカなどではフェンタニルなどヘロインより強い麻薬が蔓延しているが、日本では市販薬乱用以外、麻薬の乱用はほとんど見かけない。
一説では、日本人の気質に合っていない、ユーザーが少ない、密輸が厳しいなど、他の薬物と比べ徹底的に蔓延していない理由は様々な考察がなされているが、確たる根拠はないという。
「死にたい……でも死にたくないよぅ……」
「御薬袋さん、御薬袋さんっ」
「へ……あ、はい……」
沙鳥に肩を叩かれ、御薬袋はピクッと体を震わせる。
「豊花さんのマンション前へ転移させてください。座標は間違えないように。以前、一緒に飛びましたよね?」
「は、はい。わかりました」
「それを終えたら、睡眠薬でも飲んでキレ目対策して、さっさと寝てください」
一向に立ち上がらない御薬袋を見て、僕は転移させやすいように近場に歩み寄る。
ふとリビングにある時計に目をやると、ちょうど21時を過ぎたところだった。
「緊急の用事で連絡をする際はベルベル経由で送ります。そちらもなにかあればベルベル経由でお願いします。しかし、犯罪に関係ない急ぎの用があれば、直接電話してください」
「はい、わかりました」
知佳のほうをちらっと見るが、視線が交わった瞬間、向こうは無言のまま視線を逸らしてしまった。
「操霊術に関しては、今週の土曜迄に朱音さんたちと相談して決めます。私には姿は見えませんが、豊花さんの想像から姿は把握できます。よろしくお願いしますね、フレアさん?」
沙鳥にそう言われたところで、景色が歪み左右に揺れる。
直後、僕の自宅があるマンションの前に転移した。
ーーあの御薬袋という輩……端から見るぶんには笑えるな? 今までの宿主の周りにも、違法薬物乱用者はいなかった。しかも、麻薬類、覚醒剤、大麻、睡眠薬と網羅している。ーー
面白がるには不謹慎な気がするけど……。
『ここが豊花さんの自宅ですかっ! 大きいですね!』
いつの間にかフレアが隣に抜け出て居り、マンションを見上げていた。
「この建物のなかの一室だよ。我が家はこんなに広くない」葉月宅が羨ましくなる。「まだ操霊術も扱えないけど、これからよろしくね? フレア」
『はいです! 豊花さんっ!』
元気の良いフレアの返事を耳にして、僕はーーいや、僕らは自宅へと向かうのであった。
※嵐山沙鳥は作中で『希死念慮』と『自殺念慮』を別と認識していますが、実際には殆ど同じ意味です。実際に違う意味を持つ用語は『希死念慮』と『自殺企図』です。簡単に言えば、希死念慮・自殺念慮は死にたいと願望を抱く・苦悩する状態で、自殺企図は実際に自殺するために行動する状態を指します。




