Witch and the Withered Kingdom
前半章 語り継がれるはじまり
「森には魔女が住んでいる。決して近づいてはならない」
それは、まだリアムが幼かった頃、病弱な母が寝床で語ってくれた昔話だった。
夜、ランプの灯りが揺れる中、母は優しい声で話してくれた。
「その魔女は、昔この国をひとりで滅ぼしたのよ。だから森には絶対に入ってはだめ」
リアムは母の枕元で、その話を真剣に聞いていた。恐ろしい話なのに、どこか心がざわつくような、不思議な気持ちがした。
それが、物語のはじまりだった。
第一章 語り継がれるもの
時は流れ、物語は語られる。
――とある時代、まだ王と魔法がこの大地を支配していた頃の話。
当時、国の北方に広がる巨大な森には、恐ろしい魔女が住むと恐れられていた。
その魔女は、ただ一人で国を滅ぼしたという。
子供たちに語られるそれは、警句であり、おとぎ話であり、遠い昔の出来事だった。
けれども、誰も知らなかった。
その魔女が、今も森の奥で静かに生きているということを。
第二章 貧しき日常と決意
時代は変わり、かつてその国と呼ばれた土地の片隅。
少年・リアムは、貧しい家に生まれた。父はおらず、母は病に伏せ、長らく床から起き上がれない。
村で与えられる支援はわずかで、彼は幼い頃から労働に出ることを強いられた。
十歳を過ぎた頃には、すでに冒険者協会に名を登録していた。
とはいえ、その仕事は“冒険”などと呼ぶには程遠く、森でスライムや野兎を狩る日銭稼ぎだった。
それでも、リアムにとって森は恐怖の場所ではなかった。
森に入るたび、妙に静かで、誰かに見守られているような感覚を覚えた。
それが、自分にとって危険なものであるとは思えなかった。
森の空気は、母の弱った体に優しい薬草を育ててくれた。
獣の毛皮とスライムの核は、わずかながら銀貨に換えられた。
「僕が、母さんを守らなきゃ」
その言葉を胸に刻み、リアムは森へ通い続けた。
第三章 名を問うことなく
ある霧の朝、リアムは森の奥でそれまで見たことのない光景に出会う。
苔に覆われた巨木の根元、小さな泉のほとり。
そこに、白い衣をまとい、長い髪を風にたなびかせる女性が、じっと水面を見つめていた。
動物のような本能で、リアムは理解した。
――この人は、人間じゃない。
「……あなたは、森の人?」
恐る恐る声をかけると、女性はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
「……ずっと、ここにいるの。誰かにそう呼ばれたことはないけれど……たぶん、魔女と呼ばれてる」
リアムの背筋に冷たいものが走った。
でも、その顔はとても優しく、どこか寂しそうだった。
「……僕の名前は、リアム」
「そう……リアム。あなた、良い名前を持ってるのね。」
それが、彼と魔女・イーディアの出会いだった。
リアムはその日、泉にいた彼女と少しだけ言葉を交わし、帰り道で自分の鼓動が妙に速かったことを覚えている。
それが恐怖か、それとも別の何かなのか、その時はまだ分からなかった。
後半章 語り継がれる終わり
第四章 沈黙の森と約束
その日から、リアムは頻繁に森を訪れるようになった。
泉のほとりに立つイーディアは、まるで森そのものの精霊のようだった。
言葉少なく、それでいて不思議な温かさを持つ彼女と過ごす時間は、リアムにとって特別だった。
イーディアは森の薬草や、小動物の言葉、風の動きなど、まるで自然と話すように教えてくれた。
リアムもまた、村での出来事や、病弱な母の容態、冒険者協会でのやりとりを語った。
「母さん、笑ってくれたんだ。久しぶりに」
そう話すリアムに、イーディアはふっと目を細めて頷いた。
だが、ある日、彼女はぽつりとつぶやいた。
「……あなたが私に会うことで、あなたの世界に災いが降りませんように」
リアムは、ただ首を横に振った。
「僕は……君に会えて、良かったって思ってる。だから、そんな顔しないで」
その時、イーディアの瞳に光が揺れたように見えた。
「ありがとう、リアム」
ふたりの間に言葉のいらない時間が流れた。
だが、その穏やかな時間も、やがて終わりを告げることになる。
第五章 紅の令と黒い噂
それは、初夏の夕暮れ。
リアムは十六歳になっていた。 村でも屈指の若手冒険者として名を知られ、彼の腕前と人柄は多くの人に称賛されていた。 だが、同時に、それは嫉妬も生んでいた。
村の同世代や、かつて彼を見下していた者たちは、リアムの台頭を面白く思っていなかった。
「森の奥に通っているのを見た」「妙な力を使っていた」――そんな根も葉もない噂が、密やかに広まっていた。
ある者が王都の密偵に密告した。
「リアムという少年が、森で魔女と接触している」
やがて、村の中央広場に王都からの布令が貼り出された。
「王命により、魔女狩りを実施する。協力者・共謀者も例外としない」
そして、その矛先は、リアムの家にも向けられた。
「森に通うあの子の母親は、魔女と関わっている」 「薬草を扱っていたのはその証拠だ」
村人たちは恐怖に駆られ、事実よりも噂を信じた。
リアムが狩りに出ている間、母は兵士たちに連れ去られ、証拠もないまま、処刑された。
帰宅したリアムは、冷えた小屋と、母の遺品だけが残された部屋を前に、立ち尽くした。
「……そんな、馬鹿な……っ」
だが、それだけでは終わらなかった。
今度は、リアム自身が魔女の使いとして名を挙げられた。
「森に通っていた少年がいる。捕らえよ!」
リアムは走った。村を、追っ手を、すべてを振り切って――
ただ一人、信じられる存在のもとへ。
第六章 追われる森
森は深く、静かだった。
でもリアムの胸の内は、嵐のように荒れていた。
息を切らし、泉のほとりへとたどり着いたその時。
そこには、変わらず彼女がいた。
白い衣の魔女、イーディア。
「母さんが……殺されたんだ。僕のせいで……」
リアムは膝から崩れ落ち、地面に顔を伏せた。
イーディアは無言で彼に歩み寄り、そっとその体を抱きしめた。
「ごめんなさい……私のせい……また、誰かを失ってしまった……」
だが、二人の時間はあまりに短かった。
「いたぞ、こっちだ!」
森の奥から怒号が響く。
討伐隊。五人の兵士たちと、鋭い視線を持つ髭の男がいた。
ヴァルター隊長。 命令には忠実、だがその分、人間味のない冷酷さを持っていた。
「女も子供も関係ない。魔女とその関係者は、すべて処分せよ」
ボウガンが構えられた。
「イーディア、逃げて――!」
リアムが叫んだその瞬間、矢が放たれる。
風を裂く音。
「っ……リアムっ!」
彼は身を投げ出して、彼女を庇った。
鋭い矢が背中に突き刺さる。
「……どうして……そんなことを……」
イーディアの声は、震えていた。
「私なんかのために……なんで……!」
リアムは、彼女の腕の中で息絶えそうな声で笑った。
「僕は……君のことが……」
彼の言葉は最後まで紡がれることなく途絶え、イーディアの表情が歪んでいく。
「……あ……あぁ……あああああああああああああああああッッ!!!」
あたり一帯の空気が重く、焼けるように熱くなった。
森が揺れ、空が裂け、大地が震える。
「だめ……やめて……私……こんなこと、望んでない……っ!」
彼女は自らの力を抑え込もうとした。 だが、悲しみは炎よりも速く、怒りは雷よりも深く広がった。
王国は、その日を境に、地図から消えた。
最終章 語り継がれるもの
森は燃えた。空が裂け、山が崩れ、王国は一夜にしてその姿を失った。
イーディアの魔力は、彼女自身の意志を超えて暴走し、森を、村を、そして王都すらも飲み込んだ。
討伐隊の兵士たちは一人、また一人と声を失い、逃げ惑うことすら叶わず、土へと還った。
けれど、魔力の渦の中心で、彼女はただ一人、リアムの亡骸を抱きしめていた。
「リアム……私、あなたを……守りたかった……」
その声は、もはや誰にも届かない。
すべてが焼き尽くされたあと、静寂が訪れた。
かつて国を滅ぼし、また同じ過ちを繰り返した魔女は、ただ静かに、リアムの墓を築いた。
風化した石に刻まれた、たったひとこと。
「リアム――ein sanfter Mensch」
彼女はその墓の前から離れることなく、幾千の季節を見送った。
時は流れ、森は再び芽吹き、鳥がさえずり、小さな命が戻ってきた。
やがて別の人々がこの地に訪れ、新たな村が築かれ、国が生まれた。
そして、こう語り継がれた。
「森には魔女がいる。国を滅ぼした魔女だから、決して近づいてはならない」
それは、再び子供たちに語られる、ただの“昔話”となった。
ある教室で、ひとりの先生がそれを読み聞かせる。
子供たちは笑いながら耳を傾ける。
その中に、ひとりだけ、遠く窓の外を見つめる少年がいた。
彼の目は深く、どこか懐かしさを宿していた。
風が吹き、森がざわめく。
その奥深く、今もなお、白い衣の魔女が、静かにひとつの墓の前に座っているとも知らずに。
物語は、終わらない。 語り継がれる限り。