こんな悪女で、ごめんあそばせ ~悪女と聖女が入れ替わったことで、人類滅亡フラグが立ちました~
長い歴史を持つマグメル王国の王都に、メルヴィーナ寄宿学校は在った。
国が信奉する女神の名を冠するこの学び舎には、国中の貴族の子女が集まり、王国の未来の担い手となるべく日々勉学に励んでいる。
そんな学園の中でも、一際関心と羨望を集める少女がいた。
「まぁ……! 見て、ラナ様よ」
「ああ、今日も何てお美しいのかしら。まさにこの学園に咲いた白き薔薇」
「はぁ、天使や妖精さえも平伏す、高雅さこの上なき美貌の姫君よ」
美しく剪定された広大な庭には、寮から学び舎へと移動する生徒の姿が見られる。
そして、彼らが注目するのは物々しく武装した騎士団……その中心にいる、一人の女生徒である。
ラナと呼ばれた少女は、五人の白衣姿の医師、そして三十人を超す完全武装の騎士に守られながら、人々に笑顔を振りまいて歩く。
「ぐはっ!」
「ほびゃあ!」
「ごふぅ!」
ラナが笑顔を見せる度、誰もが大量に鼻血を吹き出し、その内の何人かは赤い放物線を描きながら卒倒してしまう。
比較的軽傷なものは、慌てて倒れた学友の介抱に当たり、転移魔法を駆使して王立病院へと運ぶ。
こうして、毎日何人かはラナの魅力に当てられて大量に鼻血を吹き出し、王立病院へと運ばれることとなる。
とは言え、それはこの学園における日常なので、誰も気にしない。
彼女の正式名は、ラナ=ティクス=フラウヴィアと言い、マグメル王国筆頭貴族であるフラウヴィア公爵の一人娘にして、エリン女王の姪でもある。
肌は雪よりも白く、金糸の髪は純金よりも眩い輝きを放ち、夜明けの空のような青紫色を宿す無垢な瞳の前ではあらゆる宝石が価値をなくすと言われている。
マグメルの国宝、学園に咲く白き薔薇、千兆年にたった一人だけ生まれる奇跡の美貌、様々な賛辞を一身に浴びる少女だ。
美しいのは外見だけではなく、仕草も物腰も優美そのもの、性格は女神メルヴィーナの化身のように慈悲深く慎ましやか。文武両道にして、芸術にも造詣の深い才媛として、誰からも愛されている。
しかし、そんな彼女にもたった一つだけ欠点があった。
「う……」
皆に笑顔を振りまいていたラナだが、不意にその顔が曇った。
「ラナ様!」
彼女の様子を注意深く見守っていた医師たちが、即座に反応する。
彼らに心配をかけまいと笑みを浮かべようとするラナだが、その顔からどんどん血の気が失せていく。
「うっ……! けほっ……」
ラナが顔を歪め、小さく咳き込んだ。
同時に、その身体からくったりと力が抜ける。
「ラナ様、大丈夫ですか!」
「ああ、この調子では今日の授業は無理だ!」
「わ、私、先生に伝えて来ます!」
ラナの容態が急変したことで、いつも通りの登校風景は途端に蜂の巣を突いたような騒ぎになる。
ラナ=ティクス=フラウヴィアは、生まれ付き身体が弱い。
呼吸をする、心臓が全身に血液を巡らせる、こういった普通の人間なら当たり前に備わっている機能が極端に弱いのだ。
また、日光や外気にも非常に弱く、こうして少し春の陽射しに当たっただけで発作を起こす。
そのため、本来ならば一日の大半を寝台で過ごす必要があり、医師からも絶対安静を推奨されている。
しかしラナは、人一倍努力家だった。
「す、凄い熱……! いけない、すぐにでも医務室に……」
「いいえ、その必要はありません」
明確な声でそう答えたのは、他ならぬラナ自身だ。
彼女は、自分の身体を支えてくれた医師たちに礼を言ってから、そっとその腕を振り解いて自分の足で立つ。
そして、周りに集まった生徒たち全員の顔を一人一人見つめて微笑んだ。
……もちろん、再び鼻血を吹き出して卒倒する者続出である。
「ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありません。そして、皆様の温かいお心遣いに、このラナ=ティクス=フラウヴィアは心より感謝を申し上げます」
そう言って優雅に頭を下げるラナを前に、どよめきが起こる。
「そそそそそんな! 何という勿体ないお言葉!」
「ラナ様、どうかお顔をあげてくださいませ!」
「そうですよ! 僕らにそんなことをなさる必要はありません!」
生徒たちが慌てふためく中、校庭に小気味良い蹄の音が響き渡る。
生徒たちの何人から振り返れば、溜息が出るほど美しい白馬が駆けて来るのが見えた。
鬣を靡かせ、朝の陽光を受けてキラキラと毛並みが煌めくその白馬を駆るのは、俗に言う白馬の王子様を体現したような美男子だ。
「ラナー!」
その端正な貌には、不安と焦燥が浮かんでいる。
彼の姿を目にした途端、生徒のみならず騎士団や医師たち、つまりラナ以外の全員が即座に頭を垂れた。
「ローウェン殿下!」
「マグメル王国の若き太陽!」
そう。
彼はマグメル王国第一王子ローウェン。
ラナとは従兄妹同士になる。
「お従兄様……!」
「ラナ! 大丈夫か!」
「はい。私は平気です」
他の者には目もくれず、従妹の心配をするローウェンにラナは微笑みかけた。
相変わらず血の気の失せた顔で、額には薄らと汗が浮かんでいるが、その声は気丈そのものだ。
「ああ、やはりお前が学園に通うのは無理があったのだ。学びたいことをいくらでも学べるよう、最高の環境を用意してやる。どうか、王城へ……」
「いいえ、お従兄様。私はここで、皆様と一緒に学びたいのです。そう決めたのです」
「ラナ……」
「ああ、ラナ様! 何と気丈で、そして健気な……!」
「私っ、恐れ多くも感動いたしました!」
「ラナ様は素晴らしいお方です! お身体が弱くとも、そのお心は鋼よりも強い!」
「ラナ様!」
「ラナ様!」
********************
(ちっ。朝っぱらから騒がしいこって)
フラウヴィア公爵家のラナを囲い、盛大な歓声が上がる校庭を横切りながら、アグリは心の中で毒づいた。
ラナと同い年のアグリは、当然ながら彼女と同時期に入学した。
貴族の子女ばかりが集まるメルヴィーナ学園において、王族に連なるラナとローウェンは一際抜きん出た特別な存在だが、アグリもまた他の生徒とは異なる立場にある。
しかし、悪い意味でだ。
誰もがラナに気を取られていると思いきや、目敏くもアグリに気付いた者がいた。
アグリの燃えるような赤毛、そばかすの目立つ顔はこの学園において目立つ。
マグメル王国では抜けるような白い肌が美しさの象徴とされており、そばかすは忌み嫌われているのだ。
「あ! 見て! 煤かぶりの悪女よ!」
「本当だ! うげぇ、朝から嫌なもん見ちまったぜ」
「消えろ! ここはお前なんかが足を踏み入れていい場所じゃねぇんだよ!」
先ほどまでラナへの賛美を口にしていた者たちが、今度は口汚くアグリを罵り始める。
いつものこととは言え、いつまで経ってもこの屈辱に心が慣れてくれそうにはない。
唇を引き結び、罵倒して来た相手を順に睨み付ける。
しかし、それもすぐに追い付かなくなる。
何故なら、この場に居合わせた者が次々と、申し合わせたかのように罵倒に参加し始めたからだ。
「死ね! くたばれ! お前みたいな奴は生きてるだけで百害あって一理なしだ!」
「なぁ、お前、何のために生きてんの?」
「くっせぇ! くせぇよ! 豚小屋の臭いがする!」
四方八方から囃し立てられてしまえば、誰を主犯と見做して不快感を示せば良いかわからなくなってしまう。
「ふっざけんなよ」
思わずそう毒づいた時、厳かな声が響いた。
「相変わらず見苦しい女だ」
ラナに寄り添うローウェンである。
この国の王太子が言葉を発したことで、周囲は水を打ったように静まり返る。ローウェンはラナを医師に預けると、数歩歩み出た。
他の生徒は自ら道を開け、アグリと王子の間には何の遮蔽物もない。
ローウェンは、侮蔑と不快感を隠そうともせずにアグリを睨み付けている。
「貴様のような塵をこの学園に置いてやっているのは、王家の温情だ。入学早々、魔法の鏡を惑わせ嘘偽りの神託を吐かせた悪女め。挙げ句に我が従妹を前にしても頭を下げることもなければ、心配する素振りさえない。何だ? 文句があるなら申してみよ」
アグリは喉を鳴らした。しかし、口の中がカラカラで上手く言葉が出てこない。
いや、そもそもアグリは元より口が重い。
加えて、王太子の清冽な怒り、多くの生徒たちの悪意を一身に受けた状況とあれば、どんなに饒舌なものでも言葉を紡ぐことは困難だろう。
口籠もるアグリを、ローウェンはせせらわらった。
「はっ、惨めだな。一般生徒、それも少人数を相手にすれば悪態をつき、時に暴力を振るうと聞いている。その割に、私を前にすれば言いたいことさえ言えないとはな」
周囲から嘲笑が巻き起こる。
アグリは怒りと羞恥に真っ赤になりながら、立ち竦むことしかできない。
そこに、「アグリ様」と鈴を振るような声が響いた。
「おはようございます。今日はお天気でよろしゅうございますね」
医師の介助をやんわりと断り、従兄の隣に並んだラナがスカートの裾を持ち上げて挨拶をした。
その優雅な仕草に感銘を受けたか、周囲からは感嘆の溜息が漏れ、やはり鼻血を噴いて倒れる者もいた。
「ラナ」
ローウェンが困惑を含んだ声で呼び掛ける。
「お前が、あのような者と言葉を交わす必要はないのだ」
「お従兄様、アグリ様も私の大切な学友でございます」
この学園で、たった一人、ラナだけはアグリを蔑んだりしない。
彼女の優しさ、寛大な心に触れて、ローウェンは鼻白む。
アグリを侮蔑する気持ちは当然あるが、ラナの綺麗な心を無碍にするわけにはいかない、そんな葛藤を覚える。
いや、彼だけではなく、この場に居合わせた生徒や医師、騎士団の者、誰もが同様に感じた。
「アホくさ」
アグリはぼそりと呟いて、その場から歩き去った。
非難の言葉があらゆる方向から飛んで来たが、歩みを止めることなく、また立ち止まることもなく、校舎へと向かう。
その道中、チッ、と舌打ちをした。
王太子の冷たい怒り、生徒たちの罵声、様々な場面が脳裏に浮かぶが、何よりも鮮明なのがラナのあの貼り付いたような笑顔だ。
自分を唯一罵倒しないあの女が、何よりも誰よりも気に食わない。
アグリに笑いかけながらも、従兄を初めとする他の者を決して窘めようとしないラナのことを、アグリは偽善者だと思っている。
「そんなに身体が弱いなら、学校なんか来んじゃねーよ。いったい、どこまで本当なんだか」
と、独り言ちた。
アグリは、王都の片隅にあるとある小さな修道院で育った。
物心付く前に預けられたらしく、当然ながら親の顔を知らない。
気難しく癇癪持ちのアグリは、修道院の中でも他の子供たちに馴染めず、いつも孤立していた。
やがて、修道院の取り壊しが決まり、アグリはとある下級貴族に引き取られることになった。
ロベールという名の四十近い独身の男で、引き取り手の詳細を知った時、アグリは自分の運命を悟った。
おそらく、「そういう目的」なのだろうなと漠然と考えていたが、実際に対面したところ、想像とは掛け離れていた。
ロベールは朴訥とした男で、アグリにも気さくに接し、読み書きや算術、この国の歴史を教えてくれた。
正直、彼との静かな暮らしは修道院にいた時よりずっと心地良かった。
それから数年が経過し、アグリが十五の誕生日を迎える頃、銀翼鳩が王家の刻印で封蝋した手紙を運んで来た。
銀翼鳩というのは、王宮魔術師が行使する魔法生物で、最も重要な文書を届ける役目を担っている。
開けてみると、そこにはメルヴィーナ寄宿学校への入学決定通知書があった。
もちろん、アグリ宛てである。
それだけでも十分に驚愕すべきことだが、アグリの所属先は何と白鳥寮だった。
メルヴィーナ寄宿学校。
それは、マグメル王国内で最も長い歴史を誇る名門校で、教育水準も極めて高い。
故に、誰でも入学できるというわけではなく、毎年の入学者は神託によって選ばれる。
王国で最高峰の魔術師でもある学長が、魔法の鏡と対面して神託を受け取るのだ。
本来、アグリはこの学園に入学できるような立場ではない。
下級貴族の養子、しかもその出自はただの孤児だ。
メルヴィーナ学園には五つの寮があり、それもまた神託によって選別される。
深紅の獅子寮には勇猛果敢な者、人を率いることに秀でた者が集う。
群青の賢狼領には、知性があり判断能力に優れ、穏やかな気質を持つ者が集う。
翡翠の穴熊寮には、他とは異なる個性や、他の寮の者にはない感覚の持ち主が集う。
そして、最後は純白の白鳥寮である。
この寮に選別されるのは、出自も能力も特別に抜きん出た者だけで、監督生を務めるのはローウェン王太子その人である。
この年、白鳥寮に選ばれたのはたった二人。
ラナと、そしてアグリだ。
白鳥寮に選別されることは、全ての生徒にとっての誉れであり、それ故にアグリがその対象となったことは、前代未聞の珍事だった。
もし、物語の世界のように、アグリが特別な才覚を見せたなら皆を納得させられたのかもしれない。
しかし、アグリは座学も剣術も人並み程度で、特別に秀でた技能もない。
それでいて必死に努力するわけでもない姿勢が、彼らに更なる攻撃材料を与えることとなった。
その日の正午過ぎ、アグリは小さな図書室にいた。
図書室、というよりは古い資料置き場といったほうが適切だろうか。
体調が悪化したため、ラナは特別室で療養することとなった。
それに伴い、多くの職員が彼女の世話と治療に当たるため、今日の授業は殆どが自習となった。
アグリが入学してから、同様のことが既に何度もあった。
本来ならばこの学園で休講など有り得ないことなのに、ラナのためならば誰もが異を唱えようとしない。
本当に迷惑な女、と内心で呟く。
ある日の昼休み、とにかく人の気配から逃れたくて、校内を彷徨っている内にここに辿り着いた。
以来、ここはアグリにとって密かなお気に入りの場所である。
「……はぁ」
古ぼけた、それでもアグリが手ずから掃除したためそれなりに清潔さを取り戻したソファへと身体を投げ出し、溜息を吐く。
午前中だけで疲れた。
心身共に疲弊した。
ラナと違い、どこにも異常のない健康体にも関わらず、昔から疲れやすい体質だ。
この学園に通い始めてから、余計に悪化したのは気のせいではない。
人目と喧噪から離れた場所に身を置き、多少は落ち着きを取り戻したものの、ムカムカと腹が立ってくる。
あいつらのあの目、自分には何をしても許されると信じ切った態度、それでいてラナに対して見せる過剰なまでの優しさ。
この学園に所属する全ての者が憎くて仕方ない。
いや、学園に限ったことではない。
アグリは昔から、誰も彼もが大嫌いだった。
アグリの憎悪に被さるように、鳥の囀りが聞こえた。
小さな窓から外を眺めれば、青々と生い茂る木の葉の間に愛らしい小鳥の姿があった。
その遙か向こうには抜けるような青い空が広がり、白い雲がその青さを更に引き立てる。
世界は確かに美しいが、そこに済む人間はどいつもこいつもクソッタレだ。
例外が存在するとすれば、養父ぐらいしか思い付かない。
「くそっ……! どいつもこいつも……」
誰も彼も、皆死んでしまえばいい。
呪詛を込めて毒突き、目に付いた本を手に取り壁へ向かって投げ付けた。
ところが、頭に血が上りすぎていたせいか、目測を誤って積み上げた資料へと衝突した。
紙の束が崩れる音が響く。
それだけでも十分に忌々しい出来事だが、更に悪いことが重なる。
ギィ、と音を立てて扉が開いた。
ぎくりと身を竦めるアグリとは対照的に、この場へ現れた人物はおっとりと呟く。
「あらあら、凄い音がしました。何か倒れたのでしょうか……?」
この学園で、いや、世界中で最も憎らしい人物、即ちラナの声に顔を顰めるアグリ。
ラナは、とてとてと足音を立てて図書室内に入り、崩れた資料を拾い上げ始める。
この女、寝ていたのじゃなかったのか。
「あら?」
息を止め、気配を殺して無機物になろうと試みたアグリだが、すぐに気付かれてしまった。
この女は、こちらが露骨に舌打ちしても意に介した様子もなく、顔を綻ばせる。
「まぁ、アグリ様! いつもお昼休みの時にお姿が見えないと思って、前から探していたのですよ。こんなところにいらしたのですね」
「……」
「ここで何をしておられたのですか? お一人ではお寂しいでしょう?」
「……全然寂しくなんかない。むしろ、さっきまでは快適だったけど?」
無視しても、皮肉で返してもラナは全く動じない。
それどころか、アグリが会話に応じたのがそんなに嬉しいのか、破顔した。
「そうでしたか。確かに、ここにはいっぱい珍しい本がありますものね。私も時々、本を探しに来るのです。今も寝てばかりでは退屈で、何か本を読みたいと言ったのですけど、安静にしているように言われて……だから、皆の目を盗んで自分で取りに来ることにしました。アグリ様も、読書がお好きなのですか?」
「別に。誰にも会いたくないから、ここに隠れてるだけ。あんたも目障りだから、さっさと出てってくんない?」
「まぁ……」
ここまで率直に言えば、さすがのラナも悪意に気付いたようだ。
眉尻を下げる彼女を見て、少しだけ溜飲が下がる思いだった。
「アグリ様は、もしかしてお友達と上手くいっていないのですか?」
「はぁ?」
斜め上を行く言葉に、怒りを通り越して呆れた。
毎日毎日、容赦なくアグリへと向けられる侮蔑と嘲笑をラナ自身も知らない筈がない。
にも関わらず「上手くいっていない」で済ませるとは、いったいどういう神経なのだろう?
アグリは、改めて目の前にいる忌々しい女を見た。
大した顔じゃない、というのが率直な感想だった。
殿下の白鳥、学園に咲く白き薔薇、睡蓮の君、王国随一の美姫……彼女を賞賛する言葉はそれこそ掃いて捨てるほどあるが、アグリにはどれも過剰表現に思える。
(どいつもこいつも、本当に馬鹿ばっか)
この女の何が、それほどまでに人を惹き付けるのかアグリには全く理解できない。
まるで、「かくあるべき」という設定でも存在しているかのようだ。
「アグリ様、私にできることはありませんか?」
今すぐ死んで、どうぞ。
「さっさと出てってよ」
「いえ、そういうことではなく……失礼ですけれど、私にはアグリ様があまり幸せに見えないのです。アグリ様が幸せに過ごせるよう、私に何かお手伝いできることはないでしょうか?」
「何を言い出すかと思えば……」
はっ、と鼻で笑ったアグリだが、不意にある知識が脳裏を過った。
それは、この図書室で見つけた資料に記された禁呪だった。
読んだ時は荒唐無稽だと思ったものだ。
いや、今だってあんなことが可能だと心から信じてはいない。
しかし、だからと言ってその可能性を考えなかったわけではないが、仮に実現するにしても自分自身の全てを手放すことには抵抗がある。
「アグリ様?」
鈴を振るような声が、アグリの思考を中断させた。
視線を持ち上げれば、一点の曇りもない青紫色の瞳が見えた。
善意と愛情だけに包まれて、負の感情を知らずに生きて来た者の目だ。
そう、この世の全ての人間を憎み、怒りと苦悩を抱えて生きるアグリとは正反対の。
この瞬間、アグリの心は決まった。
同時に、未だ嘗てないほど心が凪ぐのを感じた。
「ラナ様」
初めて彼女の名を口にした。
その声音は、自分でも嘘のように優しい響きで放たれた。
「一つ、提案があるのですが」
********************
遠くから声が聞こえる。
聞き覚えのなる声なのに、別人のそれのように思えるのは、怒りを含んでいるからだと気付いた。
「んんぅ……」
口から漏れた声は、まるで自分のものではないかのようだった。
どうにもこうにも、名状し難い違和感がある。
しかし、どこがどう、と上手く言語化することができない。
「起きろ!」
今度こそはっきりと聞こえた。
ぱち、と目を開けるとよく見知った顔があった。
「あら、お従兄様、おはようございます」
ラナを見下ろしているのは、敬愛する従兄にして第一王子であるローウェンだ。
目を吊り上げ、酷く怒っているようだが、いったいどうしたのだろうか。
彼は、ラナの言葉にますます顔を歪めた。
「貴様のような女に、お従兄様などと呼ばれる謂われはない。口を慎め」
「お従兄様?」
そう口にした瞬間、ローウェンの怒りが更に膨れ上がるのを感じた。
怒鳴られる、そう思った時、自分とは別の声が「お従兄様」と言った。
ラナは仰天した。
何と、ローウェンの側に寄り添い、彼に呼び掛けたのは他ならぬラナ本人だった。
「あまり怒らないであげてください。アグリ様は可哀相な身の上なのですから」
「ラナ……」
ローウェンは眉根を寄せ、「ラナ」の顔を覗き込む。
「お前は本当に心優しい娘だ」
ラナ本人はと言えば、二人のやりとりをぽかんとして眺めるばかりだ。
そういえば、と、ここに至って先ほどまでアグリと交わしていた会話を思い出す。
あたしと入れ替わり、健康な肉体を手に入れてみませんか。
それが、アグリが持ち出した提案だった。
何でも彼女は、古の呪法の心得があり、それによってお互いの魂を入れ替えることができるそうだ。
ただし、それには互いの同意が必要となる。
ラナは最初、その提案を渋った。
こんな不健康で不具合だらけの身体を他人に押し付けるなど、あまりにも酷いと思ったのだ。
アグリ自身が持ち掛けた話とは言え。
しかし、一定期間が過ぎれば戻れるという説明に後押しされ、その誘惑に乗った。
ラナは立ち上がり、窓硝子を見た。そこに映っているのは、紛れもないアグリの姿だ。
どうやら本当に入れ替わることができたようだ。
ちらりと「ラナ」の目を見つめると、彼女も視線だけで頷いた。
「やった!」
「何を騒いでいる!」
歓喜のあまり、思いの丈を口にした瞬間に鋭い声が飛んで来た。
ああ、そうだった。
自分は今、アグリなのだから不自然に思われぬように振る舞う必要がある。
その時、窓から見える空が茜色に染まっていることに気付く。
「もう夕方ですね」
「そうだ、貴様は授業にも顔を出さずにここでずっと寝ていたのだ」
「ですが、わた……ラナ様の体調が思わしくないため、今日の授業は殆どがお休みになってしまったのでは?」
「黙れ! 貴様、ラナを愚弄する気か!」
ローウェンの剣幕に怯んでしまう。
この二つ年上の従兄とは物心が芽生える前からの付き合いだが、ラナに対してこんなふうに声を荒げたことは一度もなかった。
「ア……いえ、ラナ、様が見つけてくださったのですか?」
「はい。こんなところで寝ていたら風邪をひいてしまいますよ。……うっ、ごほっ」
アグリが顔を顰めたかと思うと、咳き込み始めた。
ラナは慌てた。
「夕刻になると、気管支が狭まるため咳が出やすくなります。それに、気温の低下も身体に障ります。早く暖炉の前で安静にして、何か温かい飲み物を……」
「おい、何の真似だ?」
ローウェンが低く唸るような声で言って、アグリを庇うように二人の間に入る。
自身の上着をアグリに着せると、「大丈夫か?」と気遣わしげに言ってその身体を抱き上げる。
「はい、お従兄様……」
「ああ、無理はしなくていい。ここは埃っぽくて辛いだろう。すぐに寮に連れて行ってやる」
そう言って従妹をそっと抱き上げる。
最後に、射貫くような目でラナを一瞥すると、ローウェンはそのまま部屋を後にした。
残されたラナは、暫く呆然としていたが、完全に一人になるといよいよ呪法が成功したのだという実感が沸いてくる。
ぐっと拳を握り締め、その場で飛び跳ねた。
お行儀が悪いとは承知の上で、部屋の中を犬のようにぐるぐると駆け回る。
自分の身体なら、こんなにも激しく動き回ることはできなかった。
すぐに息が切れ、熱が上がってしまい皆に心配をかけてしまう。
しかし、今はどうだ。
ラナは跳ねるような気持ちで、夕闇が迫る屋外へと出た。
最後の輝きを放つ太陽の光が、吹き抜ける風がとても心地良い。
大自然の恵みを心置きなく甘受していたラナだが、ふと、ある違和感を覚えた。
「あら……?」
思わず声に出して呟き、自身の身体に意識を向ける。
アグリの身体は健康そのもので、どこにも不調は見当たらない。
なのに、この妙な違和感は何だろう。
違和感……いや、もっと正確に言えば不快感だ。
今、ラナが不快に感じる要素など何もない筈なのに、魚の小骨が喉に刺さったような奇妙な感覚が付き纏う。
「……きっと、気のせいですね」
そう言って笑った。笑おうとした。
「……?」
何故か笑うことができなかった。
おかしいな、と首を傾げながら、一先ず寮へ戻ることにした。
生徒は皆、割り当てられた寮の中に自分の部屋をもらい、そこで寝起きする。
しかし、アグリはメルヴィーナ学園創立以来、初の平民出身の白鳥寮所属ということもあり、特待生の扱いを受けていた。
「まぁ!」
ラナは思わず歓声を上げた。
目の前に広がるのは、荒れ放題の敷地。
そしてその奥には、雨風に長年晒され続けたであろうあばら家。
通称、煤かぶりの烏寮。
ここが、アグリのために特別に用意された居住区である。
「ああ、何て手入れしがいのあるお庭……! それに、あのボロボロのおうち! こ、これらを本当に私の好きにさせていただいてもよろしいのでしょうか……!」
ラナは歓喜に震えた。
嘗ては豚小屋として使われていた場所に住むなど、初めての経験だ。
確かに手入れが行き届いているとは言い難いが、だからこそ自ら手を加える楽しみがある。
ラナは新たな挑戦を前に、浮き足立つような気持ちになる……筈だった。
「……え? あら……え?」
困惑を含んだ声が漏れた。
自分でもどうしてなのかはわからないが、見る見る内に気持ちが萎んで行くのを感じた。
今まで激しく燃えさかっていた心の炎が、いつの間にか完全に消えている。
「……はぁ」
思い掛けず溜息が漏れてしまい、これにはラナ自身が驚いた。
今まで、どんなに身体が痛くて辛い時も溜息などついたことがなかったのに。
何が何だかわからないまま、一先ず小屋の中へと入ることにした。
小屋に入った瞬間、二つの相反する感情が同時に芽生えるという不可思議なことが起きた。
小屋はそれなりの広さがあり、天井も高く、相当に痛んでいるものの逆に言えば自分で好きなように改築できるということだ。
生まれてからずっと、住み心地の良い部屋を与えられるだけだったラナからすれば、この上なく素晴らしいことに思える。
しかし、その一方で激しい怒りと落胆も感じた。
それは、ラナには馴染みのない感情で、どう受け止めて良いかわからず困惑する。
「……?」
何だろう。先ほどからどうも妙だ。
自分のものであって自分のものではない感情が、どこからともなく流れ込んで来たような心地だ。
小屋の中を見て周りながら、馴染みのない感情はどんどん膨らんでいく。
小屋の中には圧倒的に明かりが足りず、ごく小さなカンテラが二つあるだけ。
それも魔法道具ではなく、自ら火を熾すという不便で原始的な道具だ。
もう日が暮れようというのに、こんなものだけで過ごせと言うのか。
それに、この寝床は何だ。
いや、そもそも寝床と呼べるのだろうか。
床に敷いた藁の上に布を被せてあるが、まさかここで寝ると言うのか。
「……まぁ! これが噂に聞く藁布団ですね。一度寝てみたかったのです」
以前、遊牧民の少女を主人公にした物語を読んだことがあった。
その少女が藁布団で寝る場面に目を通した時、抱いた感想を口にしたものの、どうにも名状し難い気持ち悪さがあった。
まるで、本心と真逆の台詞を言わされているような……。
拭っても拭いきれない、それどころかますます強くなる違和感に、恐怖すら覚える。
ラナは無理矢理に笑ってみせたが、上手く笑えなかった。
第三者がこの場にいれば、口元を引き攣らせただけにしか見えなかっただろう。
「まだ、この身体に馴染んでいないのでしょうね。今日は早く寝ましょう! おー!」
自分に喝を入れるかのように、わざと元気よく言った。
しかし、その瞬間、心に猛烈な冷気を纏った風が吹き荒れた。
早々に床に就いたラナだが、眠りは一向に訪れない。
この藁布団の寝心地は、控えめに言って最悪だった。
崩れやすく不安定なせいで、寝返りを打つのも一苦労だ。何よりチクチクと肌を刺激する。
最初の内こそ小さな違和感に過ぎなかった感情が、徐々に膨れ上がり、今は心の内でマグマのように煮えたぎっている。
(何故、私ともあろう者がこのような扱いを?)
「ふざけやがって……あのクソ女!」
思わず口を突いて出た女に、ラナ自身が驚いてしまう。
しかし、それでも燃え盛る怒りは収まらない。むしろ、自分自身の怒声を燃料に、怒りは更に勢いを増す。
「がぁぁぁぁぁぁあああ!」
怒りのまま、文字通り吠えた。
それでも怒りは収まることなく、その矛先を藁布団へと向けた。
「ふざけんな! こんなもん! このっ……! クソがぁ!」
自分はこのような扱いを受けるべき存在ではない。
いったい何が、自分をこんな畜生にも劣る扱いに貶めているのか。
怒りを、憎しみを込めて藁布団を滅茶苦茶に破壊する。
次に脳裏に浮かんだのは、ラナ自身の顔だ。
そうだ、今はラナを名乗っているのはアグリだ。
あの女のせいで、自分は今こんなにも惨めな思いをしている。
許せない、という思いのままに駆け出していた。目指すは白鳥寮だ。
********************
一方、その頃のアグリはと言うと……。
扉を叩く音に手を止めると、「開いています」と答えた。
姿を見せたのは、ローウェン王子である。
彼は机に向かって書き物をする従妹を見て、心配そうな表情を浮かべる。
「ラナ、今日はもう安静にしているべきだ」
「ご心配いただきありがとうございます、お従兄様。先生方が、今日行った授業について纏めたものを届けてくださったので、これだけでも目を通しておきたくて」
「まさか、明日の授業にも出るつもりなのか?」
「はい、できれば……あの、いけませんか?」
小さく頷き、そのまま視線だけ持ち上げて尋ねると、ローウェンはあからさまに狼狽えた。
アグリは内心で苦笑をする。
けっ、かわいい従妹ちゃんに上目遣いでお願いされちゃ適いませーんってか。
死ねや、クソ王子。
「できれば安静にしていて欲しいが……」
「……そうですよね。私、皆様にいっぱいご迷惑をおかけして本当に不甲斐ないです」
「何を言う! 迷惑などと、誰も思うものか。そんな者がいたら、俺が斬り伏せてやる」
いやいや、私情で斬り伏せんじゃねーよ色ボケ王子。
つーか実際問題、日常的に死にかける病人が寄宿学校で授業を受けるとか迷惑通り越して妨害行為だろーがよ。
「そんな不埒な輩は、あの悪女ぐらいだ」
今、あんたの目の前にいるのがその悪女だけどな?
ガワが変わっただけで気色悪いほど猫かわいがりしやがって。
胸中で毒突きつつも、もちろんそんな黒い感情はおくびにも出さない。
いや、実際のところ、暴言を並べ立てながらもアグリの心はいつになく穏やかだ。
それだけではなく、未だ嘗て内ほど意欲的でもあった。
これにはアグリ自身も驚いている。
ラナと入れ替わったアグリは、ローウェンに運ばれて白鳥寮の「自室」へと戻って来た。
ラナが使っているこの部屋は、広さも内装も申し分なく快適そのものだ。
自分が与えられたあばら家との落差に歯噛みしつつも、寝台の柔らかさを甘受しつつ身体を休めた。
入れ替わってから改めて知ったことだが、ラナが身体が弱いというのは本当のことのようだ。
アグリ自身、常々疲れやすさや倦怠感を感じて生きているが、ラナは確かに身体の機能自体が弱い。
呼吸をすることさえままならない。
ゴロゴロするのが大好きなアグリは、ローウェンを初め医師や侍女、学友たちの慈愛に包まれながら、意気揚々と休んでいた。
しかし、暫く休んだ後、自分の内に新たな欲求が芽生えていることに気付く。
それはどうやら、新たな知識を吸収したいという学習意欲のようだ。
身体は怠くて仕方ないのに、心は前を向き生きることそのものが楽しい、そんな未知の感覚にアグリは大いに戸惑った。
とは言え、決して嫌な気分ではない。
そして机に向かって暫く経った頃、ローウェンが訪れたというわけだ。
何の気なしに時計を見て、喫驚した。何と、机に向かい始めてから机に時間以上が経過している。
アグリの身体なら、参考書と睨めっこを初めてから三十分もすれば情報過多で頭が破裂しそうになるというのに。
それを人は怠惰と呼ぶ。
アグリがどれほど「違う、そういう問題じゃない」と声を限りに叫ぼうとも。
やっぱ、あたしの考えた通りだったのかもね。
そう考え、笑みを零したその時だ。
何やら部屋の外が騒がしいことに気付く。
ローウェンもそれを察知したか、アグリを庇うようにしながら扉の外へと注意を向ける。
その騒がしい声は、徐々に近付いて来る。
やがて、派手な音を開いて姿を現したのは、髪を振り乱したアグリ……即ち、ラナである。
アグリはぎょっとした。
自分が立てた「予想」が正しかったのではと考えたところだが、まさかこんなにも早くその変化が訪れるとは思わなかった。
アグリの身体に宿ったラナ……あるいは、ラナの精神を宿したアグリの身体は、鬼気迫る形相で荒々しく息を貪っている。
ここに来る途中、止めに入った生徒と揉み合いになったらしく、いくつか擦り傷を作っている。
彼女を止められなかった生徒たちが、おろおろした様子でアグリとローウェンに目を向けた。
「も、申し訳ありません……! 何とか追い出そうとしたんですけど……」
「貴様、ここがどこだかわかっているのか? 今すぐ出て行け!」
ローウェンは言い訳を並べる生徒には目もくれず、ラナを睨み付けて言った。
ラナの顔に不満がありありと浮かぶ。
「……ここは私の部屋でしょうが、お従兄様」
「何?」
その横顔が嫌悪に歪むのを見つめた後、アグリは目を伏せた。
不安を覚え、心臓が早鐘を打つ。
「私こそがラナです。その女が、怪しい術を使って私の身体を乗っ取ったのです。信じてください、お従兄様!」
「黙れ!」
ラナは声を限りに叫んだ。
しかし、ローウェンの怒声がそれを掻き消す。
空気を震わせるほどの激しい怒りに、アグリもその場に居合わせた生徒も怯えた。
「貴様に、お従兄様などと呼ばれる筋合いはない! ああ、穢らわしい! しかも、言うに事欠いて貴様がラナを名乗るだと? ふざけるのも大概にしろ! 侮辱も甚だしい!」
「そんな、お従兄様……」
「黙れ、と言った筈だ」
悲痛な訴えも虚しく、遅れ馳せながら到着した守衛がラナを拘束し、彼女は白鳥寮から引き摺り出された。
ラナの金切り声が瀟洒な意匠を施した廊下に木霊するが、それも徐々に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
暫くは扉のほうを睨み付けていたローウェンだが、やがてアグリを振り返った。
そこに浮かぶのは、嫋やかで慎み深い従妹を心配する王太子の顔だ。
「ラナ、大丈夫か? 怖い思いをさせてしまったね」
「いえ、そんな……それより、アグリ様はどうなさったのでしょう」
「愚かな女だとは思っていたが、まさかあれほどとはな……ラナ、お前があんな女の戯言を気にする必要はない」
「では、お従兄様は私が従妹だと信じてくださるのですね?」
「当たり前だろう」
そう言って穏やかに微笑む王太子の顔を見ながら、アグリは内心でほくそ笑んだ。
ああ、良かった。
バレていないどころか、疑われてもいない。
改めて、自分が立てた予想は正しかったのだと確信する。
アグリがいた修道院は、ある貴族からの寄付により成り立っていた。
さほど威厳のある男ではなかったが、陽気で気のいい人物だったと記憶している。
今になって思えば、養父と似ていたように思う。
ところが彼は、ある日、頭に大きな怪我を負ってしまう。
何とか一命を取り留め、日常生活を営めるぐらいに快復したが、しかし彼はすっかり変わってしまった。
怪我を負って以来、短気で怒りっぽく、ちょっとしたことで誰彼構わず怒鳴り付けるような男になった。
周りの大人たちは、怖い思いをしたから性格に影響を与えたのだと噂したが、アグリは異なる意見を抱いた。
環境や経験がその人の性格を作ると、多くの者は信じて疑わない。
しかし、アグリは自分の中に強固な「核」のようなものがあることを常々感じ、それはどんな出来事を経ても変わらないと確信していた。
つまり、その人物を形成する人格は、肉体と分かちがたく結び付いているのではないか、アグリはそう考えた。
幸せを感じやすい、不満を感じやすい、怒りっぽい、穏やか、悲観的、前向きである……そういった様々な性格は、経験や環境といった後天的なものではなく、生まれ持った肉体に紐付けられている、そう予測を立てた上で、ラナに人格入れ替わり計画を持ち掛けたのだ。
そして、どうやら予測は当たっていたようだ。
アグリは長年、自分の中の「核」に悩まされ続けて来た。
それは、誰かに見くびられれば激しい怒りを覚え、揶揄を受ければその相手を決して許せなかった。
その怒りはいつまでも内で燻り、自分自身さえも焼き焦がし心身を疲弊させた。
また、常人ならば殆どの者ができるであろう「分を弁える」ということがどうしてもできなかった。
アグリは、自分ではない誰かが、出自一つで慈しまれ大事にされているという事実に我慢ならなかった。
どんなに表層的な性格を偽ろうとも、アグリの核が変化することは決してなかった。
そう、ラナと入れ替わるまでは。
********************
それから数ヶ月が過ぎ、冬の祝祭を間近に控えたメルヴィーナ学園は賑やかな雰囲気に包まれていた。
アグリは相変わらず寝台で過ごすことも多かったが、常に誰かが……いや、誰もが気に掛けてくれることもあり、寂しさを感じない。
部屋には、木の枝とドライフラワーで作ったリース、星や雪の結晶を模した飾り付けが施されている。
部屋にいても冬の祝祭の雰囲気を感じられるようにと、学友たちがしてくれたものだ。
ラナと入れ替わってからというもの、毎日を幸せいっぱいで過ごせている。
彼女の境遇を手に入れたからというのもあるが、何よりも肉体を入れ替えたことが一番大きい。
ラナは確かに身体が弱いとは言え、生まれ持った人格にはとても恵まれている。
彼女のように、前向きかつ穏やかでいられる性格で生まれた者は幸運だ。
初めから幸せな人生を約束されたようなものなのだから。
(今なら、以前の境遇に置かれても楽しめるのにね)
そう考える余裕さえある。
その日の夕刻、体調が良かったこともあって食堂で皆と一緒に食事をすることを許された。
誰もがアグリの登場に沸き立ち、歓声を上げた。アグリもまた、彼ら一人一人に手を振り笑いかけた。
「そういえば、アグリ様はどうしていらっしゃるの?」
学友の一人にそう尋ねた。
最初の内こそ、怒りに駆られてアグリへの突撃を繰り返したラナだったが、何度も阻止され時には殴られ蹴られを繰り返している内に姿を見なくなった。
アグリの名を聞いた途端、学友たちは歪んだ笑みを浮かべた。
その醜悪さに、アグリはぞっとする。
皆、「ラナ」として関わる分には善良な者ばかりなのに、アグリに対してはどこまでも醜くなれることを失念していた。
「あの悪女、最近はずっと自分の豚小屋に篭もってるらしいですよ」
「お似合いですよねぇ。醜い豚は豚小屋にいるべきなんです」
「まぁ……そうなのですね」
アグリは何とも暗澹とした気持ちで頷いた。
その時、学友たちの身体が崩れ始めた。
「え?」
自分の目が信じられなくて、瞬きを繰り返すアグリ。
しかし、学友たちの肉体の崩壊は止まらない。
まるで砂かなにかで構築されていたかのように、彼らの身体は細かな塵となって崩れていく。
「え? あ、あれ? あ……」
ようやく自分に起きている異変に気付き、困惑した様子を見せるも、その前に完全に消えてなくなってしまう。
同様の異変は、食堂の至るところで起きていた。
誰もが一瞬の内に、何の痛みも感じる暇もなく崩れて消えて行く。
「ラナ? いったい何が……他の皆は……」
この時になり、ローウェンが食堂に姿を現した。
しかし、彼も他の生徒と同様に塵となって消えた。
ここに至り、恐怖を覚えたアグリだが、唐突に立ちくらみを起こした。
いや、違う。
足下から、文字通り崩れ始めているのだ。
(え? 何? 何が、起きて……あたし、死んじゃうの?)
そう考えたのを最後に、ラナの肉体は完全に消滅した。
もちろんアグリの人格ごとである。
********************
「くくくくく……」
皆が静かに消え行く中、その様子を眺める者がいた。
アグリとなったラナである。
彼女は図書室の窓から、食堂の様子を眺めていた。
成功だ。
そう、成功したのだ。
そう考えると、自分の内側から高揚感が沸き上がる。
「くくく……くっ、くははっ……は、は……ふはははははははははははははははは!」
ラナの哄笑が狭く薄暗い図書室内に響き渡る。
この数ヶ月、ここにいる間はずっと気配を潜めていたが、最早そんなことを気にする必要もない。
何しろ、この学園には今やラナしかいないのだから。
皆、ラナが消した。
文字通り、跡形もなく。
「禁呪、マスターコントローラー……」
ぽつりと小さく呟いた。
それこそが、学園中の生徒を消し去った呪法の名である。
これは、ラナの意思で選んだ者を消し去る他、性格や人間関係さえも好きに変えてしまえるという、大凡何でも可能な恐ろしい呪法だ。
アグリに身体を奪われてから、最初の内こそ真っ向から奪い返すことを試みたが、彼女を信奉する馬鹿どもの厚い壁に阻まれて近付けなかった。
怒りと恨み辛みのあまり気分が悪く、何もする気が起きない日が続いた後、自分の中の強大な魔力に気付いた。
自身が「ラナ」であったことから魔道に親しんだからこそ、この潜在的な魔力に気付くことができたのだ。
そもそも、魔道の勉強などしたこともないアグリが人格交換などという離れ業をやってのけた時点で気付くべきだった。
これはラナの憶測だが、アグリは現女王の落胤ではないだろうか。
前に伯母から、若い頃に一度だけ身を焦がすような恋を経験したと聞いたことがある。
もしラナの考えている通りだとしたら、アグリは次期女王の最有力候補となり得る。
今から思えば、いつもは人を嫌うことが少ないローウェンなのに、アグリに対しては当たりが強かった気もする。
もし彼がアグリの出自を知っていたのだとしたら、納得がいく。
そのことに思い当たった瞬間、ラナは狂喜に震えた。
思えば、もどかしいばかりの人生だった。
女王の姪と言えば聞こえはいいが、王位継承権はないに等しい。
また、病弱な身体に鞭打って魔力の勉強に精を出しても、生まれ持った魔力が乏しくて、思うように行使できない。
ならば、これはまたとない好機だ。
周りの者がどう思っていたかはわからないが、ラナは非常に野心家な少女だった。
幼い頃より寝台で過ごすことが多かった彼女は、多くの本を読みながら世界征服を夢見たものである。
アグリの身体と魔力を手に入れた今、それも叶う。
むしろ、知識がある分、アグリよりもこの身体を上手く使いこなせるだろう。
悪女と呼ばれていたアグリだが、ラナに言わせれば少しばかり短気で自己愛が強いだけの小娘に過ぎない。
彼女の肉体からその記憶や思考を読み取り、そう実感した。
何の気概も野心もない、言うならば無害な少女だった。
「ふふふふふ……」
高揚感に包まれながら、つい笑い声を零してしまう。
自分が内包する力を、早く行使したくて仕方ない。
次は何をしてやろうか。
女王を暗殺して、この国を掌握しようか。
その上で隣国に戦争をふっかけるのも面白い。
現女王の平和主義に基づいた外交術は秀逸とは言え、それを弱腰を受け取る高官も少なくはない。
開戦に賛成する者もいる筈だ。
不意に、アグリに悪女と吐き捨てた従兄の顔が脳裏に浮かんだ。
ラナは更に笑みを含め、今は亡き従兄に向けて言った。
「こんな悪女で、ごめんあそばせ」
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