忌ミ子旅立ち編①
父親と母親の鮮明な記憶は無い。
あるのは、大きな背中の男に守られすすり泣く女に抱かれている靄のかかった曖昧な記憶と恐ろしいと感じさせる大きな声。
少年の鮮明な記憶の始まりは、廃墟となった教会。煌びやかなステンドグラスに反して無機質に荒廃したソコには今にも崩れ落ちそうな仰々しい神の像。どの神なのか知る由もなく、4-5歳になろか少年は睨みつけている。
「お前になんか祈ってやるものか」
幼い風貌に似合わぬ物言いとは裏腹に、消え細りそうな微かな声は響くわけもなく廃墟の肥やしとなって消えた。虚ろに消えゆく光景に褪せぬ赤眼がひかる。
-神々の楽園に踏み入る人族が居ようとはな-
夜空?星?太陽?いや、全てがある世界。少年は何も感じないのに全てを感じる余程ありえない体験に襲われていた。少年を取り囲む光の塊に目を向ける気力すらもなく、受動的に目に映る得体のしれない輝きを見つめている。
もはや見つめているのか、映っているだけなのかも分からない。
-今や信仰心も失った人族がなぜココに-
-して、人族の子よ神々の楽園で何を望む?-
聞こえない、脳に直接響く音。
何も望まない、ただ知りたい。どうして自分が産まれたのか。声も出ずただ感じた言葉がハラハラと枯れ落ちていくのが分かった。
-己の産まれた意味を求めるか-
-魂の意味を知りたくば生きる他に道はない-
-ですが、この様な幼子に生きるとは余りに難しい-
-そなたは甘いな-
脳に響くいくつもの音が何かを話しているのは分かった。その意味が理解出来るほど少年は歳を重ねていなければ知識も持ち合わせていなかった。
-人族の子よ、生きる為の力と術を授ける-
-己が命の果てる時、あなたの生きた証を聞かせてみよ-
-魂の導き手なるフリーティア、そなたにこの魂を預けよう-
薄れる意識の中に母親に抱かれているかのような、暖かく柔らかな感覚を覚えてた様な気がした。
ふと、目を開けると重ダルい灰色の雲と白い雪がフラフラと降りてくるのが分かった。手も足もある。動く。痛みはないが肌をツンざく寒さ。はぁ、と細く長く息を吐くとほわほわと白く溶けていく。
ああ、生きている。そう感じた。
長い夢を見ていたような感覚はあるが、眠っていたのかどうかは分からない。
「人の…子どもか?」
新緑を思わせるローブに深く被ったフード、その奥に青く宝石の様な瞳が見えた。フードに隠れ表情までは読み取れないが、低く伸びのない声は男の物だった。
男は少年を見下ろすと、何かを察したように目を細めた。
「そうか…」
息を吐くように男は言葉を漏らすと、横たわる少年を抱き上げた。
先程のそれとは異なる武骨で冷たい感触。ボロボロに衰弱した少年の体は声も出ず抵抗する事も出来ぬまま、意識を手放した。
気がつくと、闇の中では無かった。
ツンざく寒さは無く、むしろ暖かい。そう感じさせるのはすぐ近くで明るく火を灯している焚き火のおかげだろう。空は暗くチラホラ星は見えるが薄らと雲がかかっていた。
「気がついたか」
暖かい焚き火の向こう側には人が座っていた。記憶の片隅に見覚えのある青い瞳。凛々しい輪郭が灯りに照らされている。男はまっすぐ少年を見据えていた。
ハッと起き上がると思ったほど体は辛くない。
パクパクと言葉の出ない口を魚の様しているが男は気にもとめず傍らからお椀を取り出した。
「気付け程度には回復魔術をかけているが、無理はしない方がいい」
恐怖を感じなかった。
「少しで構わん、食え」
差し出された腕は太くたくましい物だった。
少年か目の前の男から差し出された物が食べ物だと理解したのは視覚より嗅覚だったが、それを受け取るより先に気がついた。
フードを被っていない。
咄嗟に小さな両手で隠した赤毛はフワリと波を打つ。隠しきれない赤毛にどれほど苦しめられてきたのか、少年には端から今まで苦しみ以外の記憶が無い。
「そう怯えてくれるな。取って食ったりはせんよ」
少しの間が空いた後におずおずと少年がお椀を受け取った。
中身は目の前の男が食すには質素な粥だ。恐らく、少年の為に作られたものなのだと察しがつく。
口をつけない少年に小さく、食え、とだけ言うと男は手元に視線を落とした。見られていては食べれないだろうという男の優しさだ。
「イリア…良い名だな」
少年が二三口ほど粥を口にした頃に男は言った。
手元にあるのは少年が着けていたペンダント。そこには小さく「最愛のイリア」と彫られている。
「古い神の言葉で祝福を意味している。良い両親だ」
返事を待つでもなく男は続けた。
「私はノルン。旅をしている。…君の風貌だと大抵の察しはついたよ」
「辛いだろうな」
ノルンは返事が無いことを理解している。目の前に座る小さな少年イリアの赤眼は光も無く生気も無い。身長の割に手足は細く全身肉付きが悪い。皮膚は張りがなく、血液を全て抜かれたのかと思うほど土色をしていた。
「どうだ?美味いか?」
努めてゆっくりと優しく話しかける。返事は無いがイリアはゆっくりついばむように粥を食べている。ノルンにとってはそれが返事だった。
「ゆっくり食え。それが生きているという事だ」
それからノルンは何も話さなかった。薪を焚べ、イリアのお椀が空になれば継ぎ足し、コップに水を汲み差し出す。イリアの記憶の中にこんな優しい目の他人は存在しない。もしかしたら毒でも盛られているかもしれない。と、意味の無い事を考えたが理性よりも三大欲求が容易に勝っていた。
何度も継ぎ足してもらった様に思うが、実の所は1杯数口程度の量しか入っていない。空腹に食べ過ぎると人間の体は食物を拒絶する。イリアは理解していないがノルンの優しさが随所に現れている。
しばらくすると、寝なさい、とだけ言いノルンは欲を満たし横たわる小さな体に自らのローブを掛けた。
「忌み子とは恐ろしいな…」
夜の森の中は風も通らず、焚き火の灯りがあるだけだった。
眠りに落ちた小さな少年に目を向け、魔女が居ると聞いた小屋の中を思い出すとノルンはグッと奥歯を噛んだ。
「…変えねばならんな」
囁かれた言葉はイリアに届くことはなく薪の爆ぜる音に溶けて消えた。
鳥の囀りに羽ばたく音が耳を刺す。
深い深い眠りが緩やかに浅瀬に向かうように、ゆらりゆらりと揺らいでいく。いつもより柔らかく開く瞼が木々の間からさす光をとらえる。
少し肌寒い、ほんのり暖かく、柔らかい。
心地よいと言う感覚…。
「起きたか」
夜の出来事が夢では無かったと気づかせる声。
低く伸びのない声は優しさをはらみながら鼓膜を揺らし、淡い意識を脳の内側から目覚めさせていくのがイリアには分かった。
「…食え」
昨夜と同じように差し出された腕は、クッキリと筋肉が付き所々に傷跡が残る。ローブを着ていないせいかやたらと太く感じさせる。横たわったまま視線を向けるイリアの隣で胡座をかいているノルン。
幾分か軽くなった体を起こし、暖かく湯気をあげる粥を受け取る。
手のひらから伝わる熱気がジワリと氷を溶かすような気がして、イリアは耳をそばだてた。
「アツッ」
口をつけた粥は思っていたよりも熱く、イリアは小さな声を漏らした。
ふーふーと息をふきかけ熱々の粥を冷まそうとするが幼いイリアではなかなか熱を奪うことが出来ない。
隣で目を丸くしていたノルンは、あー、と漏らすと、イリアの手からお椀を取り上げた。
「貸してみろ」
武骨なガタイに遜色無い肺活量で一息二息で容易に熱を奪っていく。
「どうも君を見ていると幼子には見えんな」
ほら、食え。ノルンが粥を匙に取るとイリアに差し出した。
躊躇いなく口に含むと、先程より幾分か冷めた粥は心地よい熱とともに喉を通り過ぎ体の中から体を温めた。
じんわりと、それでも確実に粥は体に溶け込んで行くのをイリアは感じた。
しばらくその動きを続けていると胃も心も満たされる。
「少し歩こう」
フワリと身体が浮き上がるのを感じると、咄嗟に小さな手はたくましい体に纏われた服を掴む。怖さも感じたがそれ以上に安心感を抱かせるのに十分なノルンの筋肉と声だった。
森の木々は生い茂り、薄らと雪を被っているが陽光に晒され融氷の音色を奏ながら雫を滴らせている。光を含んだ木々の涙はイリアに届くことはなくノルンの肉体とローブが包みこんでいた。
どれ程歩いたのだろうか、抱かれたままのイリアには距離の感覚は伝わらず、一定のリズムを刻む振動が心地よく眠気を誘う。
景色は変わることなく流れ、また同じ景色が現れる。
ウトウトと微睡むのはいつぶりなのか、満たされた胃袋は意識を薄れさせ夢へと誘う。そんなイリアを現に呼び戻したのは、着いた、の一言だった。
今の今まで木々の合間をさ迷っていたはずの景色は一瞬で拓ける。ここは丘だ。
「すまない、この辺りで見晴らしのいい所が余りなくてな…」
陽の光に照らされた水面がキラキラと星を散らし瞼を重くさせる。
丘から見える名前も知らない湖はまるでノルンの瞳の様だと思ったが言葉が出ない。この景色は容易に言葉に出来るほど生易しいものでは無かった。
手を伸ばせば捕まえられそうな光に心を奪われていく中でノルンの声が鼓膜を、いや心を刺した。
「ここは、イリア、君の母親の墓だ」
「今朝、私が埋葬した。小屋はもう無い」
なんと残酷な言葉なのだろうか、美しい景色の前で、お前の母親はもう居ない、帰る場所は無いと突きつけられたのだ。その現実を幼子に突きつけるのは鬼か悪魔かと思わせる。
「君は生きねばならない。君を守り命を落とした両親の為にもね」
「忌み子が生きるには過酷なのは事実だ」
「自らの宿命に背を向け死ぬことは容易い」
「生きることは、時に死ぬことよりも辛く険しい」
「正しく生きろとは言わん。時に悪に手を染め、時に泥水を啜ることもあるだろう、産まれた意味を疑うこともあるだろう」
まっすぐ遠く彼方を見据え、照らされた表情は険しく、イリアへの言葉を紡いだ。
「それでも、生きねばならない。生きた証を、産まれた意味を、示さねばならない」
幼いイリアには理解できない言葉。ただ1つノルンが優しく、厳しく、願う様に自分に生きろと言っている事だけが鼓膜を揺らし続けた。