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暁部隊  作者: 川崎 有紀 & オアシスグループ
2/3

第二部

第六章 東京大空襲

一九四五年三月九日午前六時三十分

米軍はさらに昭和二十年一月フィリピンルソン島に上陸。南方の要衝フィリピンを失い、日本は深刻な南方からの石油をはじめとする資源の枯渇、食糧難に見舞われた。もはや誰の目にも日本の敗北は明らかであった。

戦況は切迫しており、予断を許さなかった。そして到頭出撃命令が下る。佐野はいつも通り朝食に集まった隊員を前に、命令内容を緊張した面持ちで伝達した。


「本日午前四時二十分に忍者部隊本部より連絡があった。以下、その内容を読み上げる。午前中に東京忍者部隊本部へ移動。その後は別命あるまで待機すべしという指示があった」

全員に緊張が走る。作戦実行前に終戦という、楽天的な目論見は砕け散った。一同明らかに落胆した表情を浮かべていたが、長尾だけは一切表情を変えなかった。


「従って、今日は那須の訓練所で過ごす最後の朝だ。これまで我々の面倒および訓練をしてくれた清水、富永、多米に感謝したい」

佐野は重々しくそう挨拶をした。


「尚、彼女らは我々を送り出した後、別の作戦に従事する。そう、『黄昏部隊』の一員としての任務だ。大人数での移動を避けるため、清水さんらとはこの宿舎でお別れということになる。これをもって離任の挨拶としたい」


(三人は黄昏部隊の隊員だったのか。道理で)


 北条は少し驚いた。清水らが四式究極汎用戦闘術を完全に会得しているということは、黄昏部隊においても幹部であろう。しかし不思議な事に気が付いた。つまり部隊としての成立は暁部隊より黄昏部隊の方が古いということになる。

暁部隊の作戦目標は途方もないものであるが、黄昏部隊の作戦目標は一体何なのか。そして暁部隊より先に作らねばならなかった理由は何なのか。


「全員、起立!」

全員起立し、清水、富永、多米の方へ向いた。


「有難うございました!」

深々と礼をする。


「こちらこそ皆さんと過ごせたことは光栄でした。我々も皆さんを送り出した後、別の作戦に参加します。今生での再会はありませんが、靖国でまたお会いしましょう」

 清水がそう言って、一礼すると、富永、多米もそれに倣った。

 

「それでは全員装備品を確認。移動の準備をせよ。三十分後、宿舎玄関前に集合。遅れるな!」

佐野の号令下、全員すぐに散開し、出発の準備に取り掛かる。



北条らを乗せた一式半装軌装甲兵車 ホハが宿舎を出発した。それを宿舎の窓から清水らは見送った。

「かわいそうに。何も知らず」

傍らにいた富永が清水に言った。


「そうね。確かに彼らは作戦の真の目的を知らされていないわね」

清水らは北条らの乗った装甲兵車が見えなくなると、カーテンを閉めテーブルに戻った。


「しかしそれは我々も同じかもしれないわね。ただの歯車。全体の絵が見えているわけではないでしょう」

清水はテーブルに置かれた紅茶のカップをとり、それをゆっくりと飲んだ。もうすぐこのような事も出来なくなるのだ。


「ちょっと提案なんだが」

多米が口を開いた。


「その、なんだな。やはり汽車を見送りに行かないか?」

多米が口ごもりながら言う。清水と富永は驚いて顔を見合わせた。


「まあ、皆が反対するならあれだが」

多米は顔を赤くして、益々狼狽えている。


「仕方ないわねーっ。私も長尾お嬢様の顔が見たいしね。この富永お姉さんに任せなさい!」

富永が満面の笑みを浮かべて言った。


「けど、どうするの?」

清水が驚いて尋ねた。


「裏手にあるトヨダAA型で行きましょう」

富永はそう言うが、多米は宿舎までは山道で、通常の乗用車では行くことが困難な所が沢山あると聞いていた。通常の車では時間がかかるため、それ故一式半装軌装甲兵車 ホハを人員、物資の輸送に使っているのだ。


「私のドライビングテクニックなら大丈夫」

「ひっ!」

清水が引き攣った顔をしたのを多米は見逃さなかった。



北条たちは訓練地を久しぶりに出ることになり、行きと同じく一式半装軌装甲兵車 ホハで東那須野駅まで輸送された。いつもは閑散としている東那須野駅だったが、この日は珍しく出征兵の見送りでごった返していた。駅構内に移動し、多くの出征兵、送る人々と共に北条たちは汽車を待っている。


「今川と武田はどこだ!」

佐野は見当たらない二人を探していた。


「お待たせ~!」

今川と武田が顔をひょっこり出す。


「貴様ら、どこへ行っていた!?」

佐野が怒鳴りつけた。しかし今川も武田も悪びれない。


「えー、我々二名は長い移動に備え、食料調達に行ってまいりました。いや、本日出征する人が結構いるらしいですね。弁当が余ったらしく、貰ってまいりました」

武田は目の前の大きな袋を持ち上げた。


「馬鹿! 遠足に行くんじゃないんだぞ! そもそもさっき食べたばかりだろう」

「いやいや、これは別腹ですよ。久しぶりに食べる和食ですよ。それに結構豪華ですよ。白米に鮭、牛肉の大和煮、卵焼き。これぞ和食です! 東京まで昼までかかりますし、如何でしょうか?」

今川がにこやかにそう言うと、佐野も苦笑した。


「まあいい。食料調達は軍隊の基本でもあるしな。よし、そろそろ出発するぞ。乗車!」

佐野は命ずると、客車に乗り込んだ。その後を北条らが続く。発車ベルの後、汽車はゆっくりと走りだした。北条の乗り込んだ車内には人は乗っておらず、自分たちだけだった。


「これ、もしかして貸し切りですか?」

太田が佐野に聞いた。


「まあ、そうだな。我々自身が機密軍事物資扱いだ。貸し切り。何を喋っても、何をしても機密が漏れる心配はまずない。そもそも、我々の任務の内容も荒唐無稽だがな。漏れていても信じるかどうか」

「それでは、列車丸ごと貸し切りにすれば良かったのでは」

「そこまでの金はない」

佐野はきっぱり言い切った。


「なんだか微妙な感じですね。我が部隊の位置づけも」

北条が苦笑しながら、そう言った。


「日本の運命が掛かっている部隊にしては・・・だよな」

武田が含み笑いをしながら言う。


「何が言いたい?」

佐野が武田を睨んだ。


「いや、別に深い意味はねえよ」

武田は佐野をいなしたが、作戦の目的に不審感があることは明白だった。六人で米国へ殴り込み。最高司令官を討ち取るのだ。いつもの事といえば、いつもの事だが、武田と佐野の間に不穏な空気が流れ始めていた。北条たちはピリつく気配から目を逸らし、窓の外を見る。気が付くと早くも汽車は那須市街を抜け、郊外の美しき農村地帯をゆっくり走っていた。


「あれは、何かしら」

長尾が窓の外を指差した。それに釣られて、全員が窓の外を見る。田んぼの畦道に黒いセダンが停まっていた。その横に大日本帝国陸軍の軍服をまとった女性達が立っている。清水、富永、多米であった。


「清水さん達だ!」

全員驚いた。こんなところまでわざわざ見送りに来たのだ。清水らは汽車を見ると、大声で叫んだ。


「暁部隊、万歳! 大日本帝国陸軍、万歳! 暁部隊、万歳! 大日本帝国陸軍、万歳!」

清水らは大きく万歳を唱えていた。佐野はその清水らの姿を確認すると、静かに敬礼した。北条らも一斉に直立不動で敬礼した。


「世話になったぜ! 皆」

武田は車窓を開け、身を乗り出して手を振った。多米の姿が見える。彼女も大きく万歳をしていた。長尾は富永の顔が見えた。富永も万歳をしている。長尾も窓を開け、手を振った。富永は分かっているという風に長尾に向かって手を大きく振り返す。

やがて清水らの姿は小さくなった。しかしそれは北条が清水、富永を見た最後であった。


「よかったわね。間に合って」

富永が伸びをしながら言う。


「ああ・・・」

多米は見えなくなった汽車の方をまだ名残惜しそうに見ていた。


「多米がねえ」

富永が感慨深そうに言った。


「何だ?」

「いや、女の子だったんだね」


「だとしても・・・どうにもならない」

多米はそう言うと、俯いてしまった。富永は多米のやるせない気持ちが痛いほど分かっていた。話を逸らそうと、わざと明るく振る舞う。


「どう、皆。私の走りは」

富永が自慢げに清水に聞いた。


「走るというより、落ちると言った方がいいような気がするけど。死ぬかと思った。まあ一歩間違えれば死んでいたでしょうけど」

清水はまるで崖から落ちるような富永の山道での走りを思い出して、身震いした。


「失礼ね。私の運転は大丈夫よ~。けど帰りはのんびり走ります」

「それでお願い」

富永と清水が車に戻り、ドアを開ける。気づくと、多米はまだ見えなくなった汽車が走り去った方を見ていた。


「多米、戻るよーっ」

清水と富永は多米に声を掛けた。多米は二人の声に気が付き、車に足を向ける。そして今一度汽車の走り去った方向を眺めた。もう線路以外は何もみえない。青い空と新緑の森が水平線でくっきり分かれている。


(武田・・・じゃあな)


多米は心の中で呟いた。



「貸し切りとなれば、こんなに固まって座っている必要あるの?」

今川は唐突にそんなことを言った。確かに広い車内で自分達だけが引っ付いて座っているのも変だった。


「まあ、そう言えばそうだな。ちょっと離れて座るか?」

佐野はあっさりとその言い分を認め、離れて座ることを了承した。各自少し距離を取り、客室内それぞれに場所を取り、座る。武田は客席をベンチの様に使い、寝ていた。長尾は本を読んでいる。太田は窓の外を見ていたが、今川は早速弁当の一つを平らげ始めていた。


「なんか今川さんが弁当食べているのを見て、俺も食べたくなったよ」

太田がそう言い始めた。確かにいい匂いが今川周囲から漂っている。


「どんどん食べて。これまで、ほら美味しかったけど、洋食だったじゃないか。久しぶりに食べる米よ。旨いのなんのって」

今川がそう言うと、北条もやや空腹を覚えた。そういえばもう正午だった。結果、全員が昼食を取ることになり、長尾がお茶を汲み、それぞれに弁当を手渡していた。北条は長尾から弁当を受け取り、開けてみた。箸を取り、米を久しぶりに食べてみる。旨い。噛めば噛むほど味がでてくる。

長尾は佐野に弁当とお茶を渡しに行った。

佐野は静かに一枚の写真を見ていた。家族との写真らしく、三人の人物が写っている。


「どうぞ」

「お、すまんな」

佐野は写真を胸ポケットに仕舞、弁当とお茶を受け取った。


「ご家族の写真なんですか」

「え、まあな。写真見るか?」

佐野は恥ずかし気に言った。長尾は佐野の普段見せない一面を見たような気がした。長尾が写真を見ると、優しそうな顔立ちの日本人女性と浅黒い肌をした利発そうな少年が佐野と共に写っていた。


「息子さんは何て言う名前なんですか」

「哲夫。ミドルネームはエイブラハムだ」


「いい名前ですね」

「そうか? まあ、ありきたりかも知れんが、聡明な人間に育って欲しくて哲夫と名付けた。エイブラハムは分かるだろう?」

皆家族の写真を持ってきている。それは長尾も例外ではなかった。時折見る家族の写真、友人の写真が生きる原動力になる。長尾もそれは分かっていた。


「俺はこの通りの外見だ。黒人。そうだ。日本ではどんなに頑張ろうともこの外見のせいで、異端者扱いだ。俺の妻には迷惑をかけた。なにより俺の息子には外見はどうあれ、胸を張って、日本人として生きて欲しい。その為に俺は捨て石になっても構わない。今度の戦いで俺は栄誉の戦死を遂げ、神となり、そして日本中から称えられる。金も栄誉も与えられ、家族は救われるんだ」

お互いが殺し合い、それで認められる世界。長尾はやりきれない気持ちになった。


「長尾はどうだ。家族、親族はどうしている?」

「私の父は戦争が始まる直前に英国に帰国しているので、連絡は取れません。母は結核で私が幼い時に亡くなっています。兄弟はおりませんし、親族も疎遠で」


「そうか」

「けど友達がいます。聖心女子学院時代の友人達です」

長尾が胸のポケットから写真を取り出し、佐野に見せた。


「ほう。どれ」

「松田 知咲さん、安藤 美沙さん、ジョーン・デ・ハヴィランドさんそして私です」

そこには四人の少女と二人の男、一人の少年が写っていた。少女達はいずれも美しい。長尾、ハヴィランドの二名は西洋の血が流れており、相応の顔立ちだったが、松田、安藤も日本女性として美しかった。

二人の男はいずれも背が高かった。一方は三十代半ばだろうか。オールバックの髪型、口髭を生やし、浅黒い肌のようだった。白いスーツを着ているが、その厚い胸板は隠しようが無かった。如何にも太々しい顔立ちだった。もう一方の男は三十前後か。細身、優しそうな眼差しが印象的だ。


「この二人の男性は?」

「ええと。こちらの髭を生やした男性は狩野 剛さん。海運業を営まれて、すごく羽振りが良かった。こちらは笠原 正雄さん。確か海軍に入ったと聞きました」

佐野は狩野の目つきをみた。言いようのない嫌悪感、恐れ、不気味さ、何か得体のしれない感じを受けた。そして全く根拠がなかったが、本能が告げる。


(悪党。そして恐らく人を殺している。しかも沢山)


「この狩野という男、軍人か何かということはないか?」

「いえ。全くそう言うことはないと思います。松田家や安藤家と仕事上の付き合いがあり、良く出入りしていましたが、実は周りとあまり上手く行っていませんでした。理由は口を開けば何時も軍人を軽蔑したからで、酷い時は前線で死んだ軍人の家族に向かって、やれ『犬死』だの『馬鹿』だの言っていました。それで周りの人から疎まれていましたが、安藤さんだけは庇っていました」


「なんだ。赤じゃないだろうな」

「まさか。巨万の富を築き上げ、自分で資本主義の申し子と言っていました。自分の稼ぎは自分のもので、共産主義と称する連中には一銭たりとも使わないとも言っていました」


「ふーっむ。なんだか掴みどころの無い男だな」

「私達にとっては優しい人だったと思います。戦争が始まり、両親、親族がいなくなった私にも非常に気遣ってくれて、進学した際には援助していただきました。その後戦地に行くと聞いて、罵倒されましたけど」


「何。けしからんじゃないか。国の為に貢献しようとすることは、臣民の義務であるのに」

「私は狩野さんの行動、言動には常に何か根拠があると思っています」


「ほう。何だ。君は随分と狩野の事を好いているようだが」

「あ、いえ。私は狩野さんの事をとても尊敬していますが、関係はありませんでした。狩野さんは知咲ちゃんが好きだったんです」


「はあ? し、しかしなんだ。松田は君と同い年との事ではないか。年がすごく離れているようだが」

「ええ。けど男女の関係に年は関係ありませんよね」


「ううむ。まあ、それはそうかもしれんが・・・」

佐野は長尾の正論にやり込められた。


「だけど知咲ちゃんの方は狩野さんの事があまり好きでなかったみたいでした。何かうまく行かないというか」

佐野は長尾の饒舌ぶりに驚いた。普段は無口で、感情を表に出さない女だった。しかし余程高校時代の友人達の思い出が楽しかったのだろう。話している最中も表情が常に豊かだった。彼女達の高校時代が、まだ日本が平和だった時代に重なるという背景もあるのかもしれなかった


「この少年はどういう関係なんだ」

「ああ、この子は遠山 清君。松田さんの所で働いている少年で、本当に聡明なんです」


「松田の家の使用人か。松田の家は裕福なのか?」

「ええ。そういえば埼玉県岩槻に大きな屋敷、広大な土地があるとか」


「こちらの女性は、ハヴィランドさんはどこかで聞いた名前だな」

「叔父が英国の有名な航空機会社を経営しているそうです」


「なるほど。あの航空機会社か。日本の高校に進学したということは、父親か母親が日本にいたのかな」

「お父さんと一緒に日本で暮らしていました。ただ何かお父さんともお母さんとも上手くいってないって言ってました」


「中々難しいな。俺は息子で良かった。女の子は難しいよ」

「そうですね。苦労しますよ。高校卒業した後、ジョーンさんは渡米しました。今凄い人気らしいです」


「人気?」

「米国に渡って、女優として成功しているんです。戦争が始まってからは、海外では大人気らしいですよ」


「あ、最近国内では欧米の映画は上映していないからなあ。俺が知らぬのも、仕方がないが。若い時は『モロッコ』などを観たなあ」

「マレーネ・ディードリヒとゲイリー・クーパーが共演した映画ですよね。意外です」


「なんだよ。俺だって若い時、恋愛映画くらいは観たさ」

 佐野は珍しく相好を崩す。長尾は佐野とここまで話すことが出来て純粋に嬉しかった。出会う場所が違っていれば、出会う時が違っていれば、もっと違う関係であったかもしれない。しかし、意識は目前に迫る自身の運命に向かう。命の糸は直ぐに途切れ、その先の未来はない。


「長尾」

「えっ」


「本当にすまない」

佐野が俯き、小さな声でそう言った。長尾は佐野の意図を察し、何か言葉を返そうと思ったが、言葉が出なかった。



忍者司令部 一九四五年三月九日午後十三時三十分

「ふふ。皆頼もしい顔をしているな。四式究極汎用戦闘術を身に着けたようだ」

小田は忍者司令部で暁部隊隊員と謁見した。


「既に米国へ行く為の潜水艦が東京湾に停泊している。燃料その他の物資が補充出来次第、出航予定だ。出発の予定は三日後」


「さらに三日もかかるのですか」

「燃料の集積が上手く行っていないようだ。現在日本には航空機、艦隊を動かす燃料が殆どない」


「さて、作戦の詳細を伝える。心して聞け」

そう断ってから、小田は作戦計画を話し始めた。


「出発は三月十二日。米国に上陸する日時は潜水艦の航行次第ではあるが、三月下旬を予定。暁部隊に対し、現地協力する部隊を草部隊という。その総勢は直接部隊だけで数百、さらに事情を知らしていない協力者を含めると数千に達する。接触する場所はロサンゼルス近郊であり、詳細な場所、日時は上陸した後、現地部隊と連絡。そこで協議の上、決定するものとする。ここまではいいか」

そこで小田は一同を見回した。質問が無いことを確認し、さらに話を続けた。


「先日も言ったが、推奨する大陸横断ルートは正副の指揮官に持たせた。ルートは竹を予定しているが、適宜現地の状況で指揮官が選択すべき経路を判断せよ。また、これまでの大東亜戦争の経緯から敵に暗号が解読されている恐れがある。電波封鎖を原則とし、連絡には暗号機を使用することになるが、暗号表、草部隊への連絡先については佐野大尉が正を持ち、今川が副を持つこと。万が一の時は指揮権移譲を適宜行うこと。通信をする際は正副暗号表を持っている二人が承認すること。暗号機は二つの鍵を差し込まなければ、起動しないようになっている。尚潜水艦からは必要最小限度の機材を持ち、潜水具を付けて魚雷発射管から射出。上陸後はすみやかに草部隊に連絡。武器、資材の補給を受けろ。以上」

そこまで言うと、佐野の方を見て、発現を促した。


「佐野大尉。何か補足することはあるか?」

小田がそう言うと、佐野は後を引き継いだ。


「それでは僭越だが、本官が小田少佐からの説明を補足させていただく。改めて説明するが、武器は原則米軍のものを使用する。これは現地での調達が容易なためであり、そのためにこれまで米国製の武器で訓練をしてきた。ただし日本帝国陸軍軍服、九十二式防弾衣改については例外とする。移動中は民間人として偽装するが、突入時は日本陸軍軍服を着用。これは戦時国際法に準拠する目的である。また九十二式防弾衣改については、当該の性能を満たす同様物を現地で調達するのが困難だからである」

佐野が説明を終える。隊員一同はこれまで訓練、説明を受けてきたこともあり、特に異議、質問を唱えなかった。


「それでは解散。作戦の成功を期待している」

小田は敬礼すると、各隊員は起立して敬礼した。解散後、出航の準備ができるまで、隊員は宿舎で待機することとなった。


宿舎に到着して暫くすると夕方。外に出る気にもならず、北条は爪や髪を切り取り、机に向かって父に宛てた遺書を書き始めた。検閲されるだろうし、胸の思いを全て文章にする訳にもいかなかった。暫くすると、書く作業を止めて、ベッドに倒れ込んだ。その後も色々な考え、思いが頭の中を駆け巡り、書いては止め、書いては止めを繰り返した。気が付くと日は傾き、食堂で集合して夕食。出発は三日後ということであったが、他の隊員も遺書を今日から書き始めているようだった。しかし誰もその事に触れない。無言のまま夕食を取った。灯火管制をしているためか、天井の電球は取り外されており、机の上の小さな電気スタンドの下で遺書を書き続けた。ようやく夜も更けた時に遺書が完成する。けれど、自分の心はどんな言葉を書き連ねても表現など出来はしなかった。しかし、父は自分の気持ちを遠からず察してくれるだろう。手紙と爪、髪が入った小さな紙袋を机の上に置いた。

深夜となり少し肌寒くなってきたので、上着を羽織る。下の階から柱時計の音がした。日付が変わったのだ。北条は洗面道具を持って廊下に出た。深夜のため真っ暗で、音も無く静かだった。廊下の先、階段の所にある非常灯が小さく灯っていた。洗面所に行き、電気をつける。歯を磨き始めた時、遠くで音がする。まるで遠雷のようだった。


ズーン、ズズーン、ズーン


(なんだ・・・あの音は?)


北条は自身の部屋に帰り、カーテンを開けて外を伺った。音がする方向の空が明るい。


(空襲だ!)


空襲警報は鳴っていなかった。完全な奇襲である。漸く稼働したサーチライトが敵影を映している。巨大な機影が遠くからでも見えた。敵は巨大なB29であった。手に届くくらいの低空で侵入して、精密爆撃をやろうとしていた。低空であるため、陸軍高射砲部隊が機影に向かって発砲し始めたが、まだ散発的であり、効果は殆ど無いも同然だった。どれほどの迎撃機が上がっているのか不明だったが、敵側はB29に寄り添うように飛行する護衛機P51が多数見えた。ただでさえ性能的には全くかなわないP51がこれ程沢山護衛機として付いているので、日本陸海軍機には撃墜は至難の業だろうと思われた。

急いで身支度をして、再び廊下にでると、全ての隊員が身支度、装備を整え廊下に出ていた。東京では連日空襲があると聞いていたので、流石に空襲に備えていたようだった。


「こいつはやばいぜ。佐野、どうする?」

武田が佐野に聞いた。


「確かにこれ程の大規模の空襲は今までとは様子が違うようだ。ここも火でやられる可能性もある。東京17番埠頭に我々の乗るべき伊号潜水艦が停泊しているはず」

佐野がそう言っている間にも、爆撃音、高射砲の音、航空機のエンジン音、消防車のサイレンの音が入り混じり、しかもどんどん大きくなっていく。


「広大な埠頭で潜水艦の場所分かりますか?」

今川が不安そうな顔をしている。寝ていたのか、少ない髪の毛にも関わらず、寝ぐせが付いていた。


「そもそも残存する潜水艦自体が少ない。今東京湾に停泊している潜水艦は一隻だけのはずだ」

「早く決めないと、そろそろここもヤバイ。兎に角港へ向かおうぜ」

太田がそう言って皆を促した。宿舎の中も外の騒ぎで騒然としてきた。全員急いで宿舎を出ると、既に通りには避難民が出て、避難所に向かって歩いていた。小さな消防車が南の火災地に向かって走っていったが、避難民が多く道にでていたため、それを掻き分けるように進んでいかざるを得ず、歩くのと変わらない位遅かった。


空から火の雨が降り注いでいる。あちこちで火災が起こっているらしく、空に火が映じて、明るい。時折爆発音や住民の悲鳴が聞こえた。防空頭巾を被った避難民が道路に出て、懸命に避難している。


ボッ


B29の内の一機が左側のエンジンから火を噴いた。九九式八糎高射砲の直撃を受けたのだ。巨大な機影がゆっくりと東京市街に落下し、巨大な爆発を引き起こした。ようやく陸軍第一高射砲部隊が目覚めたらしく、対空戦闘が活発化した。地を這うように飛行するB29に対して二式高射算定具が位置を予想し、そこに八八式七糎野戦高射砲と九九式八糎高射砲が砲撃を集中する。


北条らは避難民が向かう方角とは逆の位置にある港へ走った。


「おい、兵隊さんら。こっから先は火の海だ。悪いことは言わん、引き返しなさい」

初老の男性避難民からそう言われ、向かう先をみると確かに火の海だった。佐野は一瞬躊躇ったが、もう選択枝は無かった。

無数の炎の矢が無慈悲に地面に降り注ぐ。北条らの目の前で子供を背負った婦人の頭部に焼夷弾が直撃、全身が一瞬で火だるまになった。彼女は苦しみ悶えた末、周りにも火をまき散らし、多くの避難民が巻き添えとなった。火災の勢いはますます激しくなり、消防車のサイレンの音が空襲発生からわずか十分で全く聞こえなくなった。熱い空気が吹き荒ぶ。燃え上がった重い建材が軽々と宙を舞った。


「誰か!誰か!助けて!お母さんが中に!」

見ると十歳にも満たない女児が泣き叫んでいる。指さす方向には燃え上がる家屋があった。

長尾が駆け寄り、防水桶に入った水を被った。


「何をしている!」

飛び込もうとした長尾に佐野の怒号が響いた。


「この中に人が!」

長尾が言うより先に北条が燃えさかる家に突っ込んだ。内部は真っ赤な炎で凄い熱さだ。


「誰かっー! 居ますかーっ!」

奥から微かな声がした。北条はそこに突進する。


「足が、足が挟まって。どうか、どうか娘をお願いします」

母親は崩れた柱に足が挟まって動けない状態だった。


「奥さん。今助けますので」

北条は倒れた柱を退けようとして渾身の力を込めた。しかし思い建材はびくともしない。家はもうすぐ崩れ落ちそうだった。


「うぐああああっ」

再び力を籠める。


(糞っ、動かない!)

北条が諦めかけた時、崩れた柱が動いた。


(う、嘘!)


「康。こういうキャンプファイアーには俺も誘えよ」

「た、武田!」

北条と武田が力を合わせて柱を退かすと、今川と太田が母親を両方から担いだ。


「早く出ないとこちらがバーベキューだよ」

今川が訴える。


「今川さん、太田」

「話は後だ。脱出しようぜ。今川焼を食べたいか?」

太田が言うや否や、全員で崩れ行く家屋から脱出した。

外へ出ると、長尾が保護していた女児と母親が抱き合った。母親と女児は北条らに礼を言うと、避難場所に急いで向かう。

佐野は怒り心頭だった。


「貴様ら、揃いも揃って何を考えておる!? 万が一の事があったらどうする?」

 怒ってはいるが、全員無事で帰ったことで安心しているように見えた。


「天皇の赤子である国民を救っておりました!」

北条が佐野に返答する。


「北条と武田を救いに行っておりました!」

今川が答えた。


「キャンプファイアーに誘ってくれない北条に文句を言いにいきました!」

武田が答えた。


「今川焼を食べそこないました!」

太田が答えた。


「もういい! 貴様ら本来懲罰ものだが、まずは脱出が先・・・何だあれは?」

佐野が見上げた方向に全員が視線を向けた。

 巨大な火柱がいくつか立ち上っていた。その高さは数十メートルから大きいものは百メートルあった。


「竜巻か何かは分からなねえが、ヤバイものだってのは分かるぜ」

空襲が始まってわずかの間に帝都は地獄絵図と化していた。火柱は建物だけでなく、車両や人間までも空高く舞わせ、地面に叩きつけた。多くの者が火に巻かれていく。火に巻かれない者も、バタバタと酸欠で倒れていった。

北条らは市街地を抜けようと藻掻いていたが、すぐ前を走る犬が、火に巻かれていないのに卒倒したのを見て方向を変えることにした。

 

「この先はまずい。多分一酸化炭素が充満している。意識をすぐ失うぞ。方向を変えよう」

佐野が言うと、全員が賛成した。しかしどうやって、迷わずいくのか。


 「墨田川沿いに出て南下するルートはどうだろう。確実に東京湾に出れるし、水辺だから火も回らないだろう」

 北条が提案すると、佐野は了承。一旦隅田川に出てから、川沿いに南下することとなった。必死になって川や港を目指す多くの避難民と共に北条らは移動した。

北条達は逃げ惑ったが、巨大な鉄と爆弾の嵐には全く無力だった。帝都は燃え滾る大釜の様であり、追われた人々が瓦礫の山を彷徨い、逃げ惑う。道は塞がれ、煙が覆っており、あちこちで死骸が転がっていたが、今や人はそれに注意を払わなかった。

敵の戦力は桁外れのものだった。爆撃開始からわずか三十分だけで、五百を超える重爆撃機および護衛機が帝都を徹底的に叩き、いまや帝都の機能は麻痺状態だった。

日本で最も消火設備、人員が整っていると考えられていたが、これだけの物量ではなすすべがない。

迎撃機が漸くB29に向かって行った。しかし五百の大軍に対して、わずか四十機程度の迎撃機であり、防御火力によって簡単に追い払われた。このような数を無視した戦術など何の役に立つのか。飛行機の集中攻撃の原則を大本営は忘れたらしい。

また二式戦闘機、二式複座戦闘機や一式戦闘機などはP51との空戦でも全く相手にならず、速力、火力、防御力全てに勝るP51の好餌となっていた。

最早上空には敵のいないP51は、道路でひしめき合う避難民に低空から機銃掃射を浴びせてくる。攻撃を受けても避けようが無く、十三ミリ機銃六門の威力は絶大だった。道路は忽ち血みどろと化した。人間の贓物がぶちまけられ、あちこちに血だまりができていく。血と糞尿の臭いが凄まじい。

老婆が中年の男を胸に抱え、「人殺し! 人殺し!」と叫んでいた。男の喉からは血の噴水。頸動脈をやられたらしく、機銃掃射により肉が大きく抉り取られていた。


「停まるな! 進め!」

北条達は奇跡的にも誰一人欠けることもなく、墨田川まで到着した。

ところが驚くべきことに、隅田川は焼夷弾内にあるナパーム燃料が流出し、川面が燃えてていたのだ。橋の上の避難民は火柱あるいは焼夷弾により橋ごと燃やし尽くされていた。


「も、もう駄目だ」

 太田がため息をつきながら、呟いた。

 背後の市街地には大火災。川は炎の帯。北条達は進むも地獄、退くも地獄という抜き差しならぬ状態となった。

その時後方から轟音と共に一式半装軌装甲兵車 ホハが現れた。狭い通りを避難民がいるにも関わらず、押し通ってくる。恐らく何人か避難民を轢いたのだろう。前面、キャタピラには多量の血液、肉片が付いていた。北条らの手前で停車すると、前面のハッチが開き、中から小田少佐が現れた。


「乗れ!」

小田が短く叫んだ。北条らは一瞬にして何が起こったのか察したが、その血塗れの装甲兵車に乗り込むことに躊躇した。佐野だけは躊躇いもなく、ハッチに手を掛け乗り込んで行く。


「貴様ら、何をしている! 乗れ!」

佐野に言われても、誰一人乗り込もうとしなかった。


「乗らなければ貴様らが死ぬぞ!」

佐野が叫んだ。


「そんな装甲兵車で避難民が溢れている中を進むというのですか? お断りします」

北条が敵機の爆音、火災音、避難民の悲鳴に負けない程の大声で答えた。


「大義の為の犠牲だ。現実を見ろ、北条。我々の頭上にある無慈悲な天使を。本作戦が失敗すればさらに大勢の人間が死ぬぞ! 大きな犠牲を防ぐ為に、小さな犠牲を享受しろ」

小田が低いが良く通る声で静かに言った。その間も狂乱状態にある避難民が北条と装甲兵車の脇を通り過ぎていく。北条らの周りにも火の雨が降りそそぎ始めた。


「我々は軍人です。軍人の本文は国民を守ることではないのですか!?」

小田は拳銃を取り出し、北条に銃口を向けた。


「お前と青臭い議論をしている暇はない。乗れ。然もなければ、この場で射殺する」

小田が命令した。最後通告だ。


「北条。このままここに留まっていても皆死ぬぞ!」

傍らに居た太田が北条に言ったが、北条は動かない。


「私に引き金を引かせるなよ」

小田がさらに言う。


「康。こいつはヤバイ奴だ。言ったろう」

武田が呟いた。北条は傍らの長尾を見た。長尾は震えながら、突っ立っていた。顔には血の気が無く、白い肌をさらに白くしていた。「こんなものに乗るのか」とその目が告げている。

北条は躊躇った後、長尾の手を取った。


「いやっ!」

長尾はその手を振り払う。


「乗ろう。このままでは我々全員が死ぬ!」

「だからって逃げている人たちを轢き殺していくの? このまま港まで!?いやよ、そんなの」

その刹那、近くに焼夷弾が落ちた。避難中の女性の防空頭巾に火が燃え移り、あっという間に全身が火だるまになった。


「行こう!」

北条は無理やり長尾の手を取り、抱えるように装甲兵車に乗った。


「よし、掴まれ!」

轟音と共に装甲兵車は動き出した。時々異音が聞こえ、避難民の絶叫が聞こえる。装甲兵車が避難民を轢き殺しているのだ。小田はそれでもスピードを緩めない。やがて装甲兵車の上部にも焼夷弾が着弾する音がした。


「ふはははっー! 無駄無駄無駄! M69焼夷弾では一式半装軌装甲兵車の上部装甲は貫けんわ」


ゴリッ、ゴン、ガン 


前方は避難民を轢き殺している音、上部は敵のまき散らす焼夷弾の音。北条らはこの世の地獄に戦慄した。長尾は両耳を手で塞ぎ、小さくなって震えていた。小田の前方にはやがて巨大な炎の壁が迫ってきた。小田は涎を流しながら、大声で笑い、さらにスピードを上げる。


「完全にいかれてやがる」

武田も小田の狂気に慄然としていた。


「いくぞーっ!」

小田がそう叫ぶと、一式半装軌装甲兵車は炎の中に突っ込んだ。建物が崩れる音、金属のきしむ音が響き、そして装甲車の内壁が熱を持って来る。壁は次第に触れられないほど熱くなり、車内の温度が急速に上昇していた。


「あ、暑い! ど、どうなるんだろう?」

今川が心配そうに呻く。

益々焼夷弾が叩きつける音が激しくなっていった。


「見えた!」

小田が小さく叫ぶ。しかし目的の潜水艦が停泊しているドックが炎に包まれていた。



伊号潜水艦司令塔 一九四五年三月十日午前二時二十分

「艦長! もうドックが崩れそうです! 出航の許可を!」

停泊している伊四百型潜水艦司令塔に上ってきた乗務員が笠原 正雄艦長にそう訴えた。


「忍者部隊司令部からの返事はないのか?」

「まだ何も。如何せん大規模な空爆で音信不通になっております。いかがいたしましょうか?」


「返信があるまで、通信を続けよ」

頭上の屋根には炎が廻り、建材の一部が潜水艦周囲のあちこちで落下している。その金属製の屋根が崩れ落ちようとしていた。巨大な屋根が潜水艦に直撃した場合は無事ではすまない。しかし暁部隊を収容しなければ、そもそも作戦自体が成立しない。情報が無く、孤立した状態の笠原は決断を迫られていた。

その時、明らかに火災音、焼夷弾の音とは異なる機械音が聞こえた。巨大な轟音と共に燃える壁を突き破って装甲兵車が現れた。装甲兵車は潜水艦近くに停車すると、ハッチから小田が顔を出す。


「笠原艦長。暁部隊を届けに来たよ」

「小田少佐!」

すぐに近くで爆発音が続いた。


「話は後です。すぐに部隊員は乗艦してください!」

「よし、皆、飛び出したら伊四百型潜水艦に乗り込め!」

小田が車内にいる隊員に向けて言った。


「少佐はどうなさるのです!?」

佐野が周囲の爆発音に負けないような大声で問いただした。


「私はどうにでもなる! 急げ!」

佐野はハッチから装甲兵車を飛び出し、降りそそぐ火に包まれた建材を避けながら、潜水艦にかかっているタラップを駆けた。太田が小田に敬礼して、外へ出る。北条、長尾、武田がそれに続く。北条と長尾は挨拶すらしなかった。避難民を轢き殺した事で、潜水艦停泊ドッグまで来られたのだが、その行いはとても納得できるものでなかったからだ。武田がハッチを出る前に、小田に声をかけた。


「小田。妹の事、頼んだぜ。そこだけは信じるからな」

「ああ。安心して、死ねい!」

小田は武田の目を真っすぐに見てそう言った。


「ちっ、まあ信じるぜ」

 武田はそう吐き捨てて、外に出た。次に今川がハッチから外へ出ようとする前に、小田に話しかけた。


「少佐。机の上に家族宛ての遺書があります。宿舎が燃えてなかったら、家族に間違いなく届けてください! お願いしますよ~!」

「ああ。心配するな!」

小田は力強く言った。


「急いで! こっちです!」

笠原が北条らを促した。巨大な潜水艦だった。北条らの想像を遥かに超える巨艦であり、北条らは笠原がいる潜水艦司令塔を上る梯子を登り切るのに時間がかかった。


「補給に後数日かかるということでしたが」

佐野が笠原に聞いた。


「燃料補給はまだ八割程度ですが、この潜水艦なら米国まで何往復もできるほどですよ。ご安心ください」

笠原は艦内に指示を出しながら、答えた。

北条らは今しがたまで乗っていた装甲兵車の方を見た。既に付近は火災による煙と炎で視界が悪く、装甲兵車も見え辛くなっていた。熱気と煙で息が苦しかった。その視界の悪いドックの中、小田は装甲兵車の上部ハッチを全開にして、北条らに向かって直立不動で敬礼していた。佐野がそれに対し敬礼を返す。

北条らはそれに倣い敬礼をする気にはなれなかった。北条にとって小田は狂気の男だった。任務の遂行とは言え、多数の避難民を躊躇いもなく、轢いていった。軍人、日本人、いや人間として相容れない部分があり、どうしても肯定できなかったのだ。北条以外の隊員も誰も佐野には倣わなかった。

やがて屋根がとうとう崩落を始めた。巨大な資材が次から次へと潜水艦およびその周囲に落下した。


「出航!」

笠原は乗組員に命じた。埠頭を離れ、ゆっくりと進みだす伊号潜水艦。離れ行く潜水艦を見送り、小田は火災の中、直立不動で敬礼を続けていた。やがてその姿は崩れ行くドックの中に消えた。


潜水艦は無事東京湾を出航し、北条らは潜水艦司令塔から帝都を見た。後方に巨大な火災が見え、帝都が燃え上がっていた。B29の機影がサーチライトに照らされているのが見える。


「帝都が燃えている」

今川が低く呻いた。


「くそっ! アメ公め。ひでえことしやがる」

武田が忌々し気に言い捨てた。


「あれだけ低い高度で飛んでいるのに、高射砲も当たらないし、迎撃機もP51の前には無力だ」

太田が感嘆して呟いた。


(これが我々の敵なのだ。巨大な爆撃機を大量生産可能な技術力。高性能な戦闘機。いずれも日本とは隔絶した技術力の差がある。正攻法ではとても敵わない。奇策、それしかない。)

帝都の崩壊を目の当たりにして、北条は部隊および自身にかけられた責任の重さに身震いした。


「どうにかして止めないと。このままだと多くの人が死んでしまう」

北条の呟きに、長尾も頷いた。


「貴様ら、良く見ておけ。この悲劇を再び起こしてはいけない。ほんのわずかの可能性でもいい。本作戦が成功すれば、国の危機を遠ざけられよう。天皇陛下の為にとか、国の為にとか、忍者部隊の為とか言わん。ただ一人でも多くの日本人を救うんだ。親の為、妻の為、兄弟姉妹の為、子供の為、誰でもいい。大切に思う人は一人くらいいるはずだ。その心の中にある人の為に戦え」

佐野はそう言って、燃える帝都を何時までも眺めていた。


 

第七章 ロサンゼルスの戦い

一九四五年三月十八日午後二十一時四十分

「浮上準備」

深夜において潜水艦は浮上して、ディーゼルエンジンを動かし、水上航行そして蓄電池を充電しなければならない。昼間には潜行して、蓄電池に蓄えられた電力で艦内の動力を維持する。危険を避けるため、笠原艦長の方針は徹底していた。敵駆逐艦などとの不意の遭遇、哨戒機から発見されることを避け、夜は進み、昼は潜る。昼はスクリューをも停止し、ただ潜るのみ。稼働させる機器は必要最低限度に留め、必要のない人員は交代で眠らせた。外の空気が吸えるのは夜の浮上した十分間だけ。北条らも長い日中はひたすら眠ったり、国や家族の事を考えたり、作戦の事や、自身の死について考えた。

潜水艦の中は噂にたがわず、劣悪だった。臭いがひどい。燃料の臭い、人間の排せつ物の臭い、カビの臭い。それ以上に艦内温度が高く、湿度も高いため、まるで四六時中温度の低いサウナに入っているようだった。北条たちも艦内にいる時は酸素消費量を減らすためになるべくベッドで寝ていることが多かった。


「いいか、皆! 持ち時間は十分だ」

「了解!」


「君たち、いいぞ。十分だ」

潜水艦員がハッチを開けた。


「有難うございます」

そう言うや否や、佐野を先頭に司令塔の梯子を上り、ハッチの外へでる。潜水艦後部甲板に移動し、訓練を開始する。


「腕立て五十回開始! 二分以内に終わらせろ。いいか、二分以内だ。終わったものから、スクワット五十回、これも二分以内。そしてバーピージャンプを四分間続ける。これは同時に行う。終了したら脈拍を数えて記録する。息を整え、艦内に戻る前には脈拍が百以下になるのを確認しろ。汗をかいている場合はふき取ることを忘れるな!!」


「ひえーっ、厳しい!」

武田はそういうが、難なくこなしていた。佐野はそれを見て取ると、自身も腕立て伏せを行いながら、武田に向かって激を飛ばした。


「武田、貴様は負荷が足りない。さらに腕立て三十回追加!」

司令塔に上がり、見張りをしている海軍乗組員たちは、叫び声を上げながら訓練をしている北条らを、怪訝な顔で見つめていた。


「艦長、何なんでしょうかね。あいつら」

「どういう意味かな」

笠原も自ら双眼鏡を持ち、四方を警戒している。波は穏やかで、月がでていた。今夜はほぼ満月なので、警戒を強めなければならない。月明りの中、潜水艦員は交代しながら、煙草を吸ったり、体操をしたりしていた。


北条たちの持ち時間も十分間であり、他の潜水艦員と変わらない。その間は全て体力維持のための訓練に充てるのだった。その訓練は乗組員からすれば、一種の狂気じみて見えた。


「アメリカで何をするかはわからないですが、まるで可笑しな奴らですよ。陸軍ってのは。誰も彼もあんな感じなんでしょうかね。うちの者が奴らをなんて言っているか、知っていますか?」

「いや、知らないな。なんと言われているんだ?」

笠原は双眼鏡から目を離さず、聞き返した。


「『消防隊』ですよ。浮上したら、真っ先に出て、あれですからね」

笠原は苦笑する。


「何かやるさ。 何かを成し遂げる人間というのは、わき目もふらず、ただ真っすぐに進んでいくものだ」

「そういうものですかねぇ」

そう言っている間にも佐野の怒号と隊員達の悲鳴が聞こえた。


「おらっ! 休むな! バーピージャンプだ! 四分間連続して行う」

この運動がきつい。日本での体力増強に取り組んでいたため、全員こなせるようになってはいたが、潜水艦に乗り込み始めてから、充分に体を動かす機会が不足している。北条も自身の運動能力の衰えを懸念していた。


「こらー! 今川! 気合を入れろ!」

佐野が今川を叱責した。

「ひいいい」


太田がへばり、喘いでいる。

「き、きつい」

「おら、眼鏡ザル!やらんか!」

太田は佐野から叱責を受け、ペースを上げる。驚くべきことに佐野はこの隊員の中では最も高齢だが、体を鍛え上げ、北条たちと同様の訓練を自分に課していた。性格が合う合わないはあろうが、佐野が口先だけの人間ではないことは、隊員全員良く分かっていた。


「よし、終了!」

やはりバーピージャンプ四分間連続で行うことはかなりきつかった。全員大きく息を弾ませている。訓練直後の脈拍の計測を行い、チャートに記載。佐野は計測を終えたものから、チャートを回収し、ノートに記録していた。


「次にこのうまい空気が吸えるのは、明日だ。深呼吸してたっぷり新鮮な空気を吸っておけ」

佐野がそう言って、自身も深呼吸を始めた。残り一分。北条はさらに脈拍を計測しつつ、息を整えながら、夜空を見上げた。満点の星々。月明り。


「綺麗ね」

長尾が横で呟いた。北条と同じく、長尾も脈拍を測っていた。


「そうだね」


「こんな綺麗な星の下で私たち殺し合いをしているのね」

「本当だ。なんて馬鹿なことをしているんだろうね」


「私最近昔の夢をみるの。楽しかった頃の」

「そうなんだ」


「私達、未来がないから、過去の事を、楽しかった思い出をみるのかな」

北条は長尾に答えなかった。いや、答えられなかった。北条も自身の死を受け入れられてない。今夜も葛藤することになるだろう。潜水艦での何もすることのない長い時間が自然とそうさせるのだった。


「よし、時間だ!艦内に戻るぞ!」

佐野がそう告げる。潜水艦乗組員達もぼつぼつ帰り始めた。次の隊員が待っているのだ。北条らも佐野に促され、ハッチを目指して歩いた。北条は星空を今一度見上げる。次に見られるのは翌日、深夜だ。

 司令塔のハッチから潜水艦内に潜り込む。佐野、今川、太田、武田、北条は先に兵員室に向かっていた。長尾が潜水艦内に戻る途中、潜望鏡室で笠原艦長から呼び止められた。


「君、長尾さんじゃないか?」

「えっ」

長尾は少し驚いて立ち止まった。


「ほら、覚えてないかな。東京の安藤家で会ったことがある。確か安藤さん、松田さん、ハヴィランドさんと一緒にいたよね」

笠原は軍帽を取り、長尾に話しかける。髪は坊主刈りになっていた。


「ええ。私達友人です」

慌てて胸のポケットからいつも眺めている写真を取り出した。確かにその中に笠原の姿があった。現在は坊主刈り、口髭を生やし、痩せているため、これまで全く気が付かなった。長尾の驚きに、笠原は苦笑した。


「潜水艦では水が貴重なんでね。髭は皆剃ってない。艦内はこんなに黴臭いし、缶詰の食事が多いので、痩せてしまう」

笠原は顎髭を摩りながら言った。


「潜水艦乗りになられたんですね。本当にすごい偶然です」

「今は潜水艦だけでなく、そもそも海軍で動いている船はあまりないからね。君が乗り込むのが潜水艦となれば、合流する確率は高かったよ」

笠原は作戦の詳細は聞かされていない。しかし、隊員の風貌から、民間人に紛れての偽装工作であることは察しがついていた。そして片道切符の作戦だということも。だからこそ、その中に女性が、長尾が居たことに心底驚いていた。笠原は長尾に話したい、伝えたいことが山程あった。


「実は僕は安藤 美沙さんと結婚するんだ」

「ええっ!」


「まあ、こういう時世だからね。周りからもせかされてしまって」

「そんな。おめでとうございます」


「うん。有難う」

長尾はまた皆で会おうねと言えない自分が辛かった。笠原も長尾にかける言葉がないのだろう。長尾に将来はないのだ。そして笠原自身も生きて帰れる可能性は限りなく低かった。長尾らを米国に送り届けたその後、笠原は欧州に向かうことになっていた。しかも北極海を突き抜けて。


「ご武運を」

笠原はこれしか言えなかった。


「笠原艦長も」

長尾はそう言うと、兵員室へ戻って行った。長尾は振り向かない。笠原はやり切れない思いを振り払うように再び軍帽を被り直し、潜水艦任務に戻っていった。



ロサンゼルス近海 米国太平洋時間一九四五年四月一日午後十時四十分 

 長尾は微睡んでいた。日に当たらない生活なので、昼夜および曜日感覚が消失していた。一日一回夜間に運動する以外はベッドにいる。潜水艦の中では長尾らは何の役にも立たない、ただのバラストに過ぎない。

 遠くで潜水艦の機械音がする。凄まじい臭気だが、もう気にならない。胸のポケットからいつもみる一枚の写真。自分の人生で最も輝いていた頃。長尾は新潟県で生まれた。父は新潟で貿易商をしていた。祖父の代からロシアとの交易で財を成したという。若き日に英国へ留学した時、母と出会い、そのまま結婚したという。しかし、日本の他の男性と同様、やがて愛人を有し、それを誇ってもいた。その破天荒な生活は流石に当時の日本であっても祖母も咎めるほどだったが、父はその生活を改める気配は無かった。

カトリックを信ずる母はやがて精神を病み、長尾が十二歳の時それは起こった。学校から帰宅すると、長尾は使用人達に挨拶され、真っ先に母の部屋に向かう。母は感情の起伏が殆どなくなり、床に臥せることが多くなっていたが、娘が帰る度微笑みを浮かべて迎えるのだった。長尾は一日の出来事、楽しかったこと、悲しかったことをまるで日記のように母に語って聞かせた。やがて暗転する思い出。病魔が蝕み、美しかった母はみるみる衰え、見る影もなくなった。


(お母さん)


 長尾の夢は突如艦内に響き渡る警報音で破られた。米国に到着したのだ。


「暁部隊射出準備願います」

潜望鏡を覗き込み、周囲に敵艦艇がいないことを確認した笠原は伝令管を使って暁部隊隊員にそう伝えた。隊員は速やかに前方部魚雷発射管室に集結し、潜水具に着替え始める。いよいよ潜水し、米国本土へ上陸するのだ。

 

「水深二十メートルで固定。暁部隊準備宜しいでしょうか?」

 笠原は佐野に確認した。


 「全員準備完了。いつでも出れます。本作戦に関する大日本帝国海軍並びに貴官および乗組員の協力に感謝いたします」

佐野は笠原に丁寧に礼を言った。。


「ご武運をお祈りしています」

笠原はそう佐野に伝えた。


「あ、長尾さんは、長尾伍長は今話せますでしょうか?」

「長尾です」


「知咲ちゃん、美沙に何か伝えることはないか。まあ、僕も生きて日本に帰れるか分かりませんが・・・」

「皆で一緒に遊んだ、あの頃が一番楽しかったと伝えて下さい。笠原さん、笠原艦長。どうか生きて、生き抜いて日本に帰還してください」


「分かった。ご武運を」

もはや言葉は入らない。警報音がなり、総員最終的な準備に取り掛かる。佐野は一同に上陸作戦計画を今一度確認した。


「いいか。これから我々は潜水艦魚雷発射管より出撃する。現在現地時間で夜間。ただでさえ闇の中である。しかも水深二十メートルの海中からの出撃なので、視界はゼロだ。よって全員にヘッドライトおよび右腕に赤ライトを付けて単縦隊形で潜水移動する。ロープをそれぞれに結紮するので一定の間隔を取り、はぐれないようにしろ。何か異常があれば、直ちに俺に連絡。上陸直前には照明を俺の指示で一斉に消せ。全員が消灯した事を確認後、上陸。上陸後、浜辺に穴を掘り、潜水具を埋める。それと同時に現地の草部隊に打電し、指定の場所、時間で合流。武器を始めとする物資、移動手段であるトラックを受領後、速やかに東部へ移動開始。上陸後二時間以内に全てを終わらせる。何か質問は?」

質問は無かった。この計画は何度も推敲し、それに従い訓練しており、全員が把握していた。作戦確認後、全員が潜水具と共に魚雷発射管に入る。


「注水!」

魚雷発射管内に冷たい海水が一気に注水された。北条は真っ暗な狭い空間で身動き出来なかったが、潜水具の不具合が無いことを確認し、一安心する。ヘッドライトおよび右腕の赤ライトを点灯させた後、魚雷発射管を出て、真っ暗な海中を泳ぎ始めた。その他の隊員のヘッドライト、右腕の赤色ライトを確認。佐野を先頭に単縦隊形を組む。海中に並ぶライトが夜光虫のようで美しい。全員静かに海中を進んだ。やがて先頭の佐野が停止、ライトが消された。もう浜辺に近いようだった。佐野に倣い北条らもライトを消した。北条らは一九四五年四月一日午後十一時三十分、米国本土の土を踏んだ。


「とうとう、米国に上陸してしまった。ああ、もう帰れない」

今川が天を仰いで嘆いた。


「全くだ。人生上手くはいかないもんだ。この作戦までに戦争は終わらなかったな」

武田が笑いながらそう言った。


「ここまで来たら、もう腹を括るしかないでしょう。後は立派に死ぬだけです」

と言いながら、今川は半泣き状態になっていた。


「よし、全員潜水具を脱げ! 急げ!」

佐野の命令下、全員潜水具を急いで脱ぎ捨て、予め用意した民間人の服に着替えた。多少濡れているのは仕方がない。その後、潜水具を一か所に集めて砂浜に埋める作業を行った。


「深く掘れ!」

「了解!」

武田、北条、長尾が折り畳みスコップを用いて、懸命に穴を掘った。

それと同時に草部隊に打電する準備をした。


「太田、草部隊に上陸成功と打電しろ。我が部隊との合流時間、場所の指示を依頼」

「了解。鍵を下さい。今川さんも」

指揮官である佐野と次席指揮官の今川が鍵を太田に渡す。二つの鍵を同時に使用しないと、通信機が起動できない。太田はその二つの鍵を同時に使って通信機を起動し、草部隊に打電した。



ロサンゼルス近郊 米国太平洋時間 一九四五年四月一日午後十一時五十分 

「『猫』より入電。我上陸す。以上」

薄暗く、広大は石造りの部屋には熱気がみなぎっていた。多数の通信機に囲まれ、大勢の人員が忙しく動き回る。その中の一人が、ある男の前に進み出て、そう言うと、電報を渡した。


「アカツキだ。間違いない! 陸軍長官に打電しろ。そして要求した陸軍部隊は移動可能かということを確認してくれ」

渡された無電をみながら、ロイド フリードマンは言った。フリードマンは長身、金髪碧眼の男であった。陸軍諜報局に籍を置き、他の多くの諜報員と同じくその経歴には謎が多い。しかし近年多くの成果を上げ、まだ三十代半ばだが着々と昇進を繰り返し、現在大佐に昇進していた。


「いよいよですね」

傍らにいたジョン スミス中尉はプリンストン大学で日本語を履修。太平洋戦争が始まってからは、フリードマンと行動を共にした。背はさほど高くないが、筋肉質でがっしりとした体型をしており、金髪を短く刈り上げていた。


「ああ。我々合衆国にとって存亡をかけた戦いが始まった」

フリードマンは見えざる敵を睨みつけるように顔を上げ、呟いた。



「おらあ、掘ったぜ! どうだ、これで」

武田が叫んだ。汗で額が濡れている。北条、長尾も息が上がっていた。


「いいだろう。よし、ここに潜水具を埋めろ」

佐野は穴の大きさを確認し、その大きさが充分であることを確認した。全員分の潜水具をこれで隠しておけるだろう。


「返信あり! 埠頭B12倉庫において午前一時四十分に合流せよ」

太田が佐野にそう報告を返した。


「ふむ。ここからどの位離れているか」

今川と北条は地図を見て、場所を確認する。ここから直線距離で七キロ離れていた。


「一時間半程度で七キロか。徒歩だと急がなければならないな。急ぐぞ。深夜のマラソンだ」

武器も弾薬も持たず、軽装であるから、さほど困難ではないと思われた。



「日頃の訓練が早速役に立つという訳か」

武田はそう言いながら、走り出した。深夜であり、浜辺に近い道路には車や人通りはなかった。日本などと違い、米国の道路はきちんと舗装されており、また歩道も完備されているために走りやすかった。深夜の道を暫く走ると目的の倉庫が見えてきた。佐野が手信号で合図すると同時に隊員は散開して、それぞれ身を隠した。佐野は双眼鏡を取り出し、倉庫を観察する。それから今川、北条に双眼鏡を手渡し、確認させた。


「あの倉庫で間違いないか」

今川、北条からの「間違いない」との返答に、佐野らはそっと目的の倉庫に近づいた。怪しいところはない。佐野を先頭に更に近づく。内部に入れる場所はないかと探したところ、ドアが見つかった。鍵はかかっておらず、開く。佐野が手信号で隊員全員に合図。全員所持しているコルトM1903自動拳銃を抜き、安全装置を外した。佐野はわずかにドアを開き内部を伺った。倉庫内は暗く、人がいる気配がしない。


(おかしい。まだ草部隊は到着していないのか・・・)


佐野は不思議に思いながら、ライトを点灯する。特殊なライトで前方しか照らさない。他の隊員を入り口付近で留め、自身一人で内部を探索することにした。人差し指を指し、クルクル回す仕草をする。これは周囲の警戒を怠るなという合図だった。

北条が倉庫入り口の確保。その他の今川、武田、太田、長尾は入り口から離れて散開して、周囲の警戒に当たった。倉庫周囲の路上、他の倉庫には車や人員の気配はない。


「今拳銃しかないからね。襲われたらまずいよ~」

周囲警戒指揮をする今川が情けない声を上げた。


佐野はライトを照らして、倉庫内部を見て回っていた。もう予定時刻は過ぎている。何かがおかしい。倉庫内部にトラックがあった。ライトで照らすと、タイヤの跡は今しがたついたものだった。これは今到着したトラックだ。するとこれが補給品を積んだトラックだろうか。佐野は静かに近づく。荷台に寄り添い、後部に回った。


ピチャ ピチャ


どこかで水滴音がする。荷台から何かが滴っている。佐野は地面にライトを向けて、滴っているものを見た。真っ赤な液体が地面に滴っている。佐野は荷台の幌を跳ね上げた。荷台の中に武器や物資と共に血塗れの人間が何人も詰め込まれていた。


「うっ!」

佐野は一瞬息を呑んだが、叫びはしなかった。間違いなく、草部隊の人間だった。荷台に乗り、佐野は首筋に指をあて、脈をそれぞれ確認。脈拍はなく、全員の死亡を確認した。体温はまだ温かく、殺されてからまだ時間が経っていない。

佐野の喉は渇き、全身に鳥肌が立ち、冷汗が噴き出した。何を考える必要があるのか。考えられることはたった一つしかないではないか。佐野の戦闘に関する知識が、知見が、本能が、そう訴えていた。


(罠だ!)


北条はかなり遠めで倉庫内の佐野を視認していた。倉庫内は暗く、わずかに佐野の輪郭だけが確認できたが、表情までは分からなかった。


(何か見つけたのか?草部隊は一体どうしたんだろう?)


 北条がそう考えていると、佐野がいきなりこちらへ走り始めた。


「罠だーっ!! 退け!!」

佐野が絶叫するのと同時に倉庫内のライトが点いた。それと同時に激しい十字砲火が佐野に加えられた。


「ぐわっ!」

短い悲鳴を上げ、佐野が転倒する。腹部、胸部の銃創から血が噴き出した。北条は銃弾音から重機関銃で撃たれたと察した。拳銃あるいは自動小銃程度なら完全な防弾性を発揮する九十二式防弾衣改だったが、重機関銃ではどうしようもない。


「大尉!!」

北条は駆け寄ろうとしたが、佐野はそれを手で制した。


「俺に構うな!! 退け!!」

佐野は撃たれながらも、拳銃で反撃を試みた。北条が躊躇いを見せると、佐野は首に掛けていた通信機器の鍵を引きちぎり、北条に放り投げる。


「何をしている!それを持って行けーっ!!」

北条は鍵を受け取ると、倉庫から走り出た。倉庫の周りに次々と車、トラックなどの車両が集まって来ていた。


(糞! そういう事か!)

 明らかな待ち伏せだった。北条は走った。ここを切り抜けなければならない。


「皆、包囲を突破する!」

北条のこの一声で全員何が起こったか、認識した。

北条らの正面に乗り付けた一台の乗用車から短機関銃を持った男たちが飛び降りてきた。向こうが構える前に北条と武田が銃撃し、全員を瞬時に屠った。群がり集まる敵兵を長尾と今川が銃撃して食い止める。


「皆目を瞑れ!」

太田がそう言うと、閃光手榴弾を投げた。北条らは目を瞑る。一瞬近くが全て眩く照らされ、。一時的に敵兵士らは目つぶしをくらった。


「あの車に乗れ!」

北条がそう叫ぶと、今川、武田、太田、長尾が次から次へと車に乗った。北条が運転席に座るや否やギヤを入れ、アクセルを目一杯踏み込んだ。


ギャギャギャキキキキーッ


けたたましいエンジン音を鳴らし、車は急発進した。銃撃音が響き、後方のガラスが割れる。


「伏せてろ!」

北条はハンドルを切り、急カーブをし、大通りに出た。そして最高速度で走り去った。




フリードマンは倉庫内に入り、報告を受けていた。


「合流は阻止できたのだな?」

フリードマンは傍らにいるスミスに尋ねた。


「クサ部隊のメンバーは全員射殺。アカツキ部隊のメンバーは一名重症ですが、拘束しております。残りは逃亡しました。現在手配中です」

「よし、上出来だ。それでは捕らえたウサギの顔でもみるか」

フリードマンは上機嫌で頷いた。



倉庫内の片隅に佐野はいた。武装した兵士に囲まれていたが、佐野には衛生兵によって、輸液が施され、胸腹部の銃創に対して処置が始められており、救急車での搬送を待っている状態だった。


「これは、これは、驚いた。実に狭い世界だな。久しぶりだ。サノ」

フリードマンが佐野を確認すると、驚いたように言った。それから満面の笑みを浮かべて、佐野の頭上を見下ろすように立った。フリードマンはトレンチコートを優雅に着こなし、帽子を取って道化た様に挨拶する。


「くっ、殺せ。この裏切り者。俺は何も喋らんぞ」

佐野もフリードマンを見ると驚き、喘ぎながら、そう言った。


「裏切り者だと? あの下劣な日本帝国陸軍が私に何をしたか、お前は知っているだろう」

フリードマンから一瞬にして笑顔が消えうせ、怒りの眼差しが佐野に向ける。


「う、ううむ」

佐野はそう言われ、押し黙った。フリードマンは屈んで、佐野の近くに顔を寄せる。


「究極汎用戦闘術は誰が作り上げたか、どのようにして出来たか、お前は全て知っている。にもかかわらず、どの口でそういうのか?」

そう佐野に言うと、佐野から流れ出る夥しい血液を見た。


「ニガーでも同じ血の色とはな」

フリードマンは冷ややかに笑みを浮かべそう言うと、傍らにいたスミス中尉を見遣る。


「大佐。失血がひどく、このままでいけば後数分で意識消失します。尋問は後程お願いします」

「ふむ、 ご忠告有難う。スミス中尉」

負傷して血塗れになった佐野を見下ろし、フリードマンは静かに、しかし断固たる口調で言った。


「だが必要ない」

処置にあたっていた、衛生兵達を下がらせると、フリードマンは輸液の管を全て引き抜き、佐野の銃創部を足で踏みつけた。


「ぐああっ」

佐野は苦痛で呻いた。


「な、何をなさるのです!?大佐」

驚くスミスに構わず、フリードマンは佐野の顎を掴み上げ、そして言い放った。


「お前らの目的、作戦は全て分かっているんだ。お前に聞きだすことなど何もない」

「なっ、何だと」

佐野は驚愕した。


(作戦が漏れている!?)


フリードマンは佐野の反応をみて、微笑を浮かべながら傍らのスミスに向かって言った。


「この男にモルヒネは不要だ。せいぜい苦しんで死ぬがいい。ジャップには神の懺悔も必要ないので、従軍神父さんの出番もないぞ」

「ふふ、俺も助かろうとは思わん。このまま死なせてくれ」

佐野の脳裏に自分の妻と子供の顔が浮かぶ。


(哲夫。もう一度会いたかった・・・)


既に佐野は出血により、意識が朦朧としていた。スミスは口淀みながら、フリードマンに進言する。


「これから処置すればこの捕虜は助かる可能性があります。治療許可をお願いします!」

「助かるというのか? それは困ったな」

言うや否や、フリードマンは傍らにいた兵士の拳銃を瞬時に引き抜いた。あまりの速さに誰も反応できない程だった。


パン! 


乾いた音が一つ。佐野は額を撃ち抜かれ、絶命した。


「な、何てことを・・・」

スミスは絶句した。


「衛生兵の手間を省いてやったのだよ」

そう言って、安全装置を掛け、フリードマンは拳銃を兵士のホルスターに戻す。


「捕虜虐待だ! フリードマン大佐、貴方を訴えます!」

「下らんことを言うな、スミス。ジャップは人間ではない。豚を一匹始末しただけだ」


「な、何を」

「君が何をしようと、何を言おうと勝手だが、誰が取り合うのか。私はこの国を守るためなら何でもやる。いいか、なんでもだ! 米国陸軍、いや全軍、いや全国民が私と同じ意見だろう。これから日本全土が我が陸軍航空部隊により焦土化する。皆殺しだ。その手始めにジャップの一人二人始末したところで何だというのだ」


「狂っていますよ。こんなこと・・・」

スミスは苦虫を嚙み潰したように吐き捨てる。


「こんな時世だ。誰も彼もが狂っているよ」

フリードマンはそう言うと、佐野の死体を一瞥した後、足早にそこを立ち去り、北条たちを追った。



ロサンゼルス近郊 米国太平洋時間 一九四五年四月二日午前四時十分 

(もうすぐ夜が明ける。急がなければ)


北条は焦っていた。上陸した早々、指揮官を失い、また予定の物資を受領できなかった。何人かは捕らわれて、この計画自体が漏れる可能性は充分ある。ハンドルを握り、しばし考える。

本来階級上次期指揮官である今川の方を見遣る。予想外の展開に今川は顔面蒼白、茫然自失の状態だった。北条は仕方なく、太田に言った。


「太田、草部隊に電報を打て」

佐野が不在となった現在、当初の予定通り最上位の今川が部隊長として、暁を指揮するはずだが、太田は北条の指示を聞いた。


「了解。文面はどうする」

「暁襲撃さる。指揮官佐野了助栄誉の戦死。経路の変更を許諾されたし。経路を竹より松に変更。本日ロサンゼルス発シカゴ行きの始発列車で移動する」

「了解。今川さんもそれでいいな」

問いかけられて、今川は太田の言葉に我に返った。


「この車で米国横断できないだろうか? 列車での横断は人目に付くし、危険だと思うが」

今川が不安げに言う。


「これがアメ車か。米国製のセダンだが確かにすごく広いぜ。これだと快適にホワイトハウスにまで行けるんじゃねえか」

武田も今川に同意する。しかし北条はそれに異を唱えた。


「この車は彼らが乗ってきた車で、ナンバープレートを変えたとしても直ぐに足が付く。あまりにも危険ですよ。現在鉄道が大陸を縦断しています。高速で、車より確実に目的まで到着できる。重火器、弾薬および大型爆薬などの嵩張る物資が受領できず、我々全員が身軽な状況では、何も車で横断する必要はありません。何より佐野大尉は最早いません。意味わかりますよね。公共の交通手段が使用可能です。プランBですよ。終着駅のシカゴで補給を受けて、ホワイトハウスに向かいましょう。今川さん、ご決断を!」

今川はそれを聞き、首を縦に何度も振って了解した。それを受けて、太田は自身の持つ小型通信機で草部隊に向けて打電した。


「このまま駅に向かう。僕はこの車を目立たないところで、乗り捨ててくる。ロサンゼルス駅で合流しよう。今川さんは僕の分の切符を購入しておいてください。乗る電車は、そうだな。五時十二分始発でお願いします。もし僕が時間までに戻らなかったら、四名で出発すること。その時はシカゴで合流しましょう」

「了解した!」

今川は答えた。ロサンゼルスの地図は頭に入れてある。夜明けも近い早朝だったので、人影は殆どなかったが、北条は慎重に車を駅に向かって走らせた。駅前で残りの四名を降ろすと、車を乗り捨てる場所を探して車を出した。車を走らせながら、思いを巡らす。


(明らかに待ち伏せしていた。適切な場所、適切な時間に奴らは来た。情報が洩れていることは間違いない)


米国西海岸の到着時刻は潜水艦の潜航経路、敵船の遭遇、回避など様々な条件が重なって決まるもので、正確な日時は出発前には司令部すらわからなかった。


(潜水艦は潜航したまま、我々を魚雷発射管から放出した。発見されたはずはない)


水中にある潜水艦からいかなる通信も不可能であったし、そもそも電波封鎖のため許されていない。初めての通信はこちらから草部隊に送った上陸成功、合流を求めた一本だけだ。


(可能性は二つ。一つはこちらが上陸後発信した暗号を一時間以内に解読した。もう一つの可能性は、考えたくないが、内通者がいるということだ)


草部隊の内部通報者が最も有力だ。そう考えている内に北条に恐ろしい考えが浮かんだ。馬鹿げた考えだったが、あり得ないわけではない。


(この少人数である暁部隊に内通者がいるというのか。可能性としては低い。しかしその場合どうやって敵にその情報を知らせた?)


六人全員一緒にいた。上陸してから誰もどこにも行っておらず、第三者との接触はなかった。北条は注意深く駅から離れた場所で車を人目に付きにくい空き地に乗り捨てると、憂鬱な気持ちで隊員の待つ駅へ向かった。



第八章 大陸横断鉄道の戦い

米国太平洋時間 一九四五年四月二日午前四時五十五分 

「こっちこっち。北条君」

北条が駅構内に到着すると今川が手招きした。朝も早いため人が少なく、隊員達はすぐに同流できた。今川もようやく落ち着いたようだった。顔に血色が戻っている。外見上黒人であった佐野がいなくなったことで、問題なく全員一緒で切符を購入できた。北条達が急いで指定の列車に乗り込むと、列車は程なく出発した。


車内は個室となっており、北条らは個室を全部で三室購入していた。しかし、周囲を気にしつつ全員が一室に集まり身を潜める。誰もが列車内では押し黙っていた。到着早々、佐野大尉を失った。これは最も実戦経験豊かな人物が消えた事を意味する。ただでさえ実行不可能な作戦にも関わらず、この損失は痛い。しかしそれ以上に北条の頭を駆け巡る問題があった。情報が何時、どこで漏れたのかという問題だ。北条はその一点を考え続けた。この因果関係を明瞭に説明できなければ再び襲われる可能性がある。その間に列車はロサンゼルスの市街を抜け、やがて木もまばらな郊外を進んでいた。小型の携帯ラジオを聞いていた今川は北条に合図した。


「北条君、これを聞いてよ」

今川がラジオの小型イヤホンを差し出してきた。通信傍受用の最新型だ。急いで耳につける。


『本日未明、イリノイ州シカゴ市において重火器の不法保持をしていたアルフレッド・レーガン氏他十二名を逮捕した。州警察および連邦警察は現在その背後関係を調査中であり・・・』


(草部隊だ! 逮捕されたのか!? しかし何故)


ぐるぐると頭が巡る。一体何が起こっている。やはり偶然ではない。草部隊が行動を起こし、重火器を携えて合流すべくシカゴに行ったとき、逮捕されたのだ。


(落ち着け!落ち着け!)


北条は自身にそう言い聞かせた。列車はその間もシカゴを目指して高速で走り続けている。


「なんだ。どうした」

武田が顔色の変わった北条と武田を見て、聞いてきた。


「ああ、シカゴにはナマズ料理なんてないんですよ。ありふれたピザとホットドッグだけでね」

北条は咄嗟に勘が働き、この情報をとりあえず他のメンバーには伏せて置くことにした。このタイミングで草部隊が摘発。偶然にしては出来すぎている。


(やはり情報が洩れている。誰かが我々の動向を伝えているのだ。しかし、どうやって!?) 


向こうの手札がわからない内はこちらもできるだけ手の内を隠しておいた方がいい。北条は気取られぬように、今川に目配せをした。瞬時に今川も察したらしく、上手く合わせる。


「いやあ、残念だな。せっかくだから、何かその地方の特産物を食べたくてね」

それを聞いて、太田が呆れた。


「今川さん、食いしん坊だなあ。我々これから任務で死ぬんですよ」

「こんな時だからだよ。こんな時だからこそだ。それに例え明日死ぬといわれても、美味いものを食べたいじゃないか。孔子の言葉にもあるじゃないか、朝に食べられれば、夕べに死んでもいいって」

今川が論語の一節をもじって答えた。


「俺は学がないから、よく分かんねえけど、そりゃあ、多分ねえんじゃねえか」

武田がそう返し、一同は笑いに包まれた。佐野大尉を失い、命からがら逃げて来たのだ。無理のある笑いだった。しかし笑わなければやってやれない。そういえばもう昼だった。


「皆腹減らない? 僕が買ってくるよ。腹が減っては戦はできないってね。これは合っているだろう」

北条は周囲の状況を確認するため、個室の外へ出る理由が欲しかった。各自の注文を控え、個室から出た丁度その時、後部客室からそれと分かる集団がドアを開けて入ってきた。彼らの雰囲気が明らかに違う。追手が列車内にいるのだ。


(言わんこっちゃない!)


慌てて個室に戻る北条。


「しっ!」

北条は個室に入るなり、口元に手を当てた。そして手信号で全員に伝達。全員が身を屈めた。


(追手だ。一人づつ静かに先頭車両に向かえ!)

(何で分かるんだよ!?)

武田も手信号で返す。


(身なりも、雰囲気も、場所も、怪しすぎる。いるべきでないところにいる奴らだ。間違いない。追手だ!)



一方フリードマンらは打ち解けたような作り笑いを浮かべながら、客室の個室を巡り、内にいる一人一人の顔を丁寧に確認して回った。この列車にジャップの暗殺部隊が乗車していることは確かだが、顔写真が手元にないため、一人一人確認して廻るより他なかった。それらしき人物がいれば、次々に後部車両に送って、調べていた。フリードマンらはロサンゼルスの戦いの後、血眼になって暁部隊を追っていたが、陸軍諜報機関の保有する車の駅周辺での目撃情報が入り、先回りして途中駅で乗り込んだのだった。

その時、客室から先頭車両に向かおうとする人間が視界の片隅に入った。


「ちょっと、君止まれ!」

呼ばれた人物は足を止めた。


「そうだ。君だ。こちらを向け」

足を止め、ゆっくりと振り向く。


「私のことですか。ミスター」

長尾は振り向くと、フリードマンに微笑んだ。長い少しカールがかかった金髪。白く透き通るような肌。まるで人工物のような整った顔立ち。フリードマンは少し戸惑った。


「ああ、申し訳ない。ミス。どちらまで」

「化粧室ですわ。ミスター」


「いや、その、行先です」

「終点のシカゴまでです。叔父が欧州戦線から帰還するとのことで、面会をと思いまして」


「いや、それは大変な愛国者ですな。しかし現在欧州戦線は大詰め。こんな時に帰還するとは・・・。失礼ですがどちらで戦っておられたのかな?」

「カーン近郊のカルピケ飛行場奪還作戦に参加したとき、独軍第12SS装甲師団との闘いで負傷したとのことです。長らく野戦病院で入院していたのですが、この度帰国できるようになりました」

長尾は事前に用意された定型文を答えた。日本で入手できた情報に基づき作られた尋問に対する答えは幾つかのパターンがあり、暁部隊はそれを全て暗唱していた。フリードマンは長尾の淀みない声を聞き、笑みを浮かべた。その答えに不審な点はなかった。確かにカーン近郊で戦闘は起こっており、カルピケ飛行場はフランスにおける最大の激戦地の一つであった。


「なるほど。結構です。お呼び立てして申し訳ありません。叔父上が無事に帰還された事をお喜び申し上げます」

「有難うございます。それでは失礼しますわ」

長尾はゆっくりと踵を返し、歩いて行った。


「大変な美人ですな。ハリウッド女優顔負けですよ。ビビアン リーかはたまたグレタ ガルボか」

スミスがそう呟いた。


「ふっ、ジェーン フォンテインとかな。あんな女性もいるところにもいるものだな」

その時客室の老婦人が立ち上がって言った。


「もういいかい。あんたたち。私はトイレに行きたいんだよ」

フリードマンは苦笑した。この老女は問題ないだろう。変装などの可能性もなかった。


「申し訳ありません。マダム。しかしトイレなら先頭車両の方ですよ」

すると老婦人は不思議そうな顔をして言い返した。


「何言ってんだい、あんた。あたしゃ、さっきも行ったんだよ。トイレはこの客室の後方にあるんだよ。この先には無いよ」

「ああ、それは失礼しました。マダム、どうぞお足元気を付けて」

ヨタヨタと後方車両に歩く老婦人を見送ると、フリードマンらは引き続き客室内の乗客を一人一人確認し始めた。暫く経ってから、先ほどの老婦人が戻って来た。フリードマンはそれを

何気なく見ていたが、突然電撃に打たれたように固まった。


「あの女だ!」

フリードマンは顔を先頭車両の方に向け、叫んだ。


「なんです? 誰ですか、あの女って?」

スミスが訝しげに聞いた。


「私はなんて間抜けだ。貴様ら、行くぞ!さっきの若い女を追え!彼女はトイレに行くといった。しかしここから先頭車両にトイレはない。しかも戻らない!あの女だ!」

フリードマンはさらに彼女の言葉を思い出していた。確かにカーン近郊、カルピケ飛行場で戦闘が起こっている。しかし良く思い起こせば、英軍、カナダ軍が主力であり、米軍は参加していなかった。恐らく欧州戦線の詳細な情報が日本側に充分伝わっていないのだろう。


「くそっ! 私としたことが!」

諜報機関に所属しながらの失態にフリードマンは臍を嚙んだ。フリードマンの合図で、車両客室を臨検していた陸軍諜報機関の人員は一斉に走り出した。



一方、北条達は先頭の蒸気機関車に既に辿り着いていた。蒸気機関車と客室を切り離し、追手を巻こうという考えだった。しかし蒸気機関車と客室をつなぐ連結器が強固で外れない。


「畜生、自動連結器に鍵がかかっていやがる。外れねえ」

武田らが懸命に外そうとしていたが、外れなかった。


「よし。乗務員に外させよう」

北条、太田らはさらに先頭に行き、機関士の詰めている運転室に乗り込んだ。機関士達に銃を向けて叫んだ。


「動くな!」

「何だ!?お前たちは」

その中の最年長、がっしりした体格、口髭を豊かに蓄えた機関士が黙々と蒸気機関車を走らせながら答えた。


「静かにすれば危害は加えない。よし君だ。こちらへ来い!」

太田に残りの機関士を見張らせ、北条は側にいた中年小太りの機関士の首根っこを掴んで、連結器まで連れて行った。そして連結器の前で引き倒し、頭に銃を突き付けて叫んだ。


「こいつを外せ! 脅しじゃないぞ」

もちろん脅しだったが、北条は凄んだ。


「俺たちはこいつの鍵なんざ持ってねえ! 本当だ! 到着予定の駅で外すことになっている。それまでこいつを走行中に外すことはできねえ」

一同は顔を見合わせる。


「どうしよう」

今川が呟いた。その時、突然連結部に接した客室のドアが開かれた。一瞬、その場が凍り付いたが、次の瞬間武田、北条、長尾、今川と追手との間に銃撃戦が始まった。たちまちの内に数人をなぎ倒したが、今川の頸部から血が噴き出した。九十二式防弾衣改が覆っていない首に銃撃を受けたのだ。さらに客室の後部から多人数が迫っている。


「乗客の皆さん、後方の客室に避難を!頭を下げてください。馬鹿者!射撃やめ、射撃を止めんか!」

フリードマンは必死になって発砲を制止しようとした。


「おっさん!」

武田は銃弾の雨の中、今川を引きずり、客室のデッキの陰に隠れた。


「や、やられた! 首をやられた。もう、助からん」

今川が喘ぐように言う。


「いいか、ここを動くなよ」

北条は床に伏せた震えあがった機関士にそう言うと、銃撃が収まったその間に長尾と共に今川のもとに駆け寄った。


「諦めんなよ、おっさん。どうよ、レベッカちゃん」

武田は今川を抱きかかえながら、縋るように長尾を見た。長尾は静かに首を振った。手ぬぐいで抑えているが、右の総頸動脈が破損している。出血多量で意識消失するのも時間の問題だ。


「俺がこの連結器を爆破する。お、お前たちは機関車の先頭に移動しろ」

今川はべっとりと血で濡れた自身の手を眺め、自分の運命を悟っていた。


「今川さん!」

北条が叫んだ。もうどうしようもない。


「起爆装置は受領できなかったので、て、手持ちの爆弾で直接爆破する」

北条、長尾は泣き出していた。


「泣くな。北条。これからはお前が、た、隊長だ。皆を、頼んだぞ。はやくいけ。私ももう長くはない」

今川は首に掛かっていた血塗れの通信機の鍵を渡した。これで北条は、佐野、今川の二つの鍵を持つことになった。


「おい、康。行こうぜ。レベッカちゃんも」

武田はそう言って北条を促した。


「じゃあな。おっさん、先に行って待っていてくれや」

武田が唇を噛み締めて、今川にそう言った。


「ふふっ、お、お前は行いが悪いから、あの世で私と会えるかどうかわからんぞ」

今川が口元をゆがめ、笑いを作った。それを見て、武田は強く唇を噛んだ。

北条は床に伏せている機関士を引き立て、長尾、武田が後に続いて先頭に素早く移動した。銃撃は今のところは止んでいる。

今川は爆薬を連結器に巻き付けていた。血を失い、目が霞む。妻と子供らの顔が今川の心に浮かんだ。


(すまん、父さん。もう帰れそうにないよ・・・)



「大佐。客室乗務員、乗員全て後方に退避させました」

スミスが報告した。


「よし。ご苦労だった。それでは諸君、勇気を見せる時だぞ。全員突撃だ」

フリードマンは列車に乗り込んだ全ての部下を集結させた。ジャップお得意のバンザイ突撃をやろうというのだ。



運転室に戻ると、太田が銃口を機関士達に突きつけ、待っていた。

「なんだ、今川さんはどうした!?」

太田は今川が不在なのに気が付いた。


「連結器が外れなくて、そして今川さんが撃たれて、もう、自分で爆破するって」

長尾が泣きながら、そう言った。


「な、なんだよ、それ! 畜生、助けなきゃ!」

太田がそう言って後部へ戻ろうとした。


「止めろ! もう撃たれて、助かんねんだよ。今川のおっさん、それで、自分諸共連結器を爆破するって言ったんだ!」

武田がそう叫んだ。


「お、お前らなんなんだよ。馬鹿じゃねえのか!」

太田も泣きそうになっていた。


その時、客室の後部から敵兵が多数銃を乱射しながら、今川がいる連結器の方へ接近してきた。今川は爆薬のピンを引き抜く刹那、妻と子供らの顔が一瞬頭をよぎった。しかしそれはすぐにまばゆい光に包まれる。轟音と共に連結器を中心とした部分が吹き飛ばされた。衝撃でフリードマンらも後方へと吹き飛ばされる。


「太田! 聞いてくれ! これは今川さんが決めたことなんだ。その気持ちを・・・」

北条がそう言いかけた瞬間、凄い爆破の衝撃は機関車自体も揺らし、北条らは機関士と共に機関室に叩きつけられた。しかし連結器は見事に破壊され、機関車と客室は次第に離れていった。


「ううん。くそっ」

酷く打ち付けられて、北条らは床に這いつくばった。北条は立ち上がり、連結器の方にふらつきながら、向かった。物陰から注意して状況を確認する。成功だった。蒸気機関車と客室が離れつつあった。相手に長尾の顔が割れたが、こちらも向こうのメンバー何人かの顔を客室内で確認した。


「あれが敵。あれが我々の敵なんだ」

北条は呟いた。背が高く、精悍な顔つきのフリードマンを遠目で確認できた。何処かでまた、必ず会うに違いない。そう心の中で確信していた。



フリードマンらはよろよろと立ち上がり、吹き飛ばされた連結器の近くに歩み寄った。今川は跡形もなく消し飛んでいた。そして連結器も。つなぎ留める物は無く、離れ行く蒸気機関車を見て、フリードマンは悔しがった。フリードマンの乗った客車は動力を失い、速力が次第に低下、やがて完全に停止した。凝視すれば引き戻せるかのように、暫く遠ざかる北条らの乗った蒸気機関車を眺めていた。


「くそっ、後一歩だったのに。いずれにせよ、連中の一人は白人系の女だ。よし客車が停止次第、下車。奴らを先回りするぞ」

フリードマンがそう言うと、傍らのスミスが呟いた。


「大佐。申し上げにくいのですが、今我々のいるところは、人気の無い荒野なんですが・・・」

「うっ」

フリードマンはそう呻き、周りを見回してみた。わずかばかりの背の低い灌木や雑草がみられる一面の荒野だった。


「降りて歩きますか?」

そう言って、スミスは帽子を被り直した。


 

第九章 シカゴの戦い

米国中部時間 一九四五年四月九日午後五時五分

北条らを乗せた蒸気機関車はそれからひたすら走り続けた。しかし二時間走っても次の駅につかないどころか、一面の荒野だった。無人駅で丁度給水中のトラックを見つけると、そこで列車を止め、トラックを奪った。その後何度も不本意ながら、尾行されぬよう車の盗難を繰り返し、シカゴへ向かった。

一週間もの間、警察などに捕まらないようにスピードに気を付けつつ、交代しながら車で走り続けた。ダイナーで食事を取り、適当なホテルで偽名を使って泊まり、一行はようやくシカゴ手前の街道沿いのダイナーに到着する。


「俺はレモンチキンステーキ」

「私はサラダとシカゴピザ」

「ローストビーフサンドウィッチ」

「よし、じゃあ僕はチーズバーガーかな」

北条はそういうと、ウェイトレスを呼んだ。一通りの注文を済ませ、さらに全員の分のコーヒーを頼む。すると暫くウェイトレスが怪訝そうな顔をしてそのまま立っていた。北条は気が付かず、そのままになっていると、直ぐに気が付いた長尾が笑みを浮かべて言った。


「これチップ。ごめんなさい、彼、長い運転で疲れていて」

長尾がその場を上手く取り繕った。


「有難うございます。よい旅を」

ウェイトレスは多めに持たせたチップの額もあって、そう言って機嫌よく戻って行った。


「長尾有難う。今でもチップを時々忘れてしまう」



佐野に続き、今川を失った。空虚な気持ち。人が次々に死んでいき、感覚がマヒしてしまいそうだった。それでも何事も無かったように振る舞い、食事をする。北条は皆に今川の話題を切り出すのが怖かった。皆も同じ気持ちなのだろう。まるで禁句の様に、佐野の事、今川の事は話題に出さなかった。押し黙ったまま、静かに料理を待つ。何か言い出せば、この緊張が崩れてしまいそうだった。

やがて料理が運ばれてきた。美味しそうな匂いがテーブルの上に漂ってくる。しかし誰も食べようとしない。北条は無理に笑顔を浮かべ、ナイフとフォークを取った。


「さあ、食べた、食べた」

そう言って、北条は自分のハンバーガーを切り分けた。口に切り分けたハンバーガーを放り込む。


「あの、北条」

太田が何か言いたげだった。それにも構わず、北条はハンバーガー次から次へと切り分け、口に放り込み続けた。


「仕方ないんだ。戦争中だ! しかし我々は前を向かないと。進まないといけない!」

「いや、その」


「食事を取って、力を付けるんだ! 振り向いちゃいけない!」

「いや、そうじゃなくて」

太田だけでなく、武田や長尾も何か言いたそうだった。


「なんだ!? 何か文句あるのか!?」

ついに北条は癇癪を起して、皆を睨みつけた。

その時、カウンターで支払いを終えた老人達が北条らのテーブルを通り過ぎた。


「何でい。若いの。変った奴だな。ハンバーガーをナイフとフォークを使って食べるなんて」

連れの老人も頷きながら、同意した。


「どこの貴族様だよ。ひひひ」

そう言って笑いながら、店の外へ出て行った。


「あ、あれ? これって?」

北条はそう言われて驚いた。


「アメリカじゃハンバーガーとホットドッグはかぶりついて食べるらしいぜ」

苦笑しながら太田が言った。


「全く田舎者は困るぜ。テーブルマナーがなっちゃいないな」

と武田が続く。


「しっかりして」

長尾も少し笑った。


「な、なんだよ。言ってくれれば良かったのに」

北条は少し不貞腐れながら、そう言った。


「北条が聞かなかったんだろ!」

太田がサンドイッチを頬ばりながらそう言えば、武田も長尾も同意した。長尾もピザを頬ぼる。


「シカゴのピザって、チーズが沢山乗っていて美味しい」

「確かにこってりしてそうだ」

武田が長尾の感想に同意した。北条は苛苛して、昂っていた気持ちが少し収まった。皆明らかに無理をして、明るく振舞っている。北条だけではない。誰もが辛いのだ。北条は独りよがりな自身の態度を恥じた。自分は一人ではない。少なくとも死の一歩前までは仲間がいるのだ。北条はハンバーガーを手で持ち、かぶりついた。


夕暮れが深まり、夜が迫っている。食事後、車を変えるべく、駐車されている車の一台を盗もうとしていた。北条、長尾、太田が注意深く周囲を警戒し、武田が運転手席のセルモーターを起動させて。数分で車のエンジンがかかった。


「暁部隊というより、盗賊部隊だよなあ」

武田がぽつりと自虐的に言った。


「まさか追手も、このように自動車泥棒を繰り返しながらワシントンに向かっているとは思うまい。持ち主には申し訳ないが、背に腹は代えられない。なるべく傷を付けずに乗ろう」

北条がそう言いながら、荷物を車のトランクに詰め込んだ。


「車泥棒しながら大陸横断する部隊なんて、なんだか涙がでるような話だな。追手が来てないのはそういう理由か」

太田が自嘲気味にぼやいた。


「多分な。我々が当初鉄道を使ったころから、駅を中心に封鎖線を張っているのだと思う」

北条は周囲を警戒しながらそう言った。


「天下の大日本帝国陸軍のこの雄姿を米軍様には知られたくないぜ。さて、いいぜ。皆乗れよ」

武田が言うと、すぐ様、全員乗り込んだ。


「あと一時間足らずでシカゴだ。この車も乗り捨て、指定のホテルに宿泊しよう」

そういうと、北条は車のギアを入れて、夕暮れの街道を走り始めた。

 


米国中部時間 一九四五年四月九日午後六時十五分

暫く走ると、全員が寝ていることに気が付いた。無理もない。上陸してから大きなことがありすぎた。北条もこれからの事に備え、頭を巡らせていた。そうこうしている内に作戦で指定されていたシカゴ市内にあるクラークホテルに到着する。高級ホテルでもなく、至って普通のホテルであった。


「到着したぞ。皆。起きろ」

北条は皆に声を掛けた。荷を下ろし、そのままホテルのフロントに向かう。北条がチェックインした。その後四人はエレベーターに乗り込み、それぞれの部屋に向かったが、

「話がある。僕の部屋に一旦全員集まってくれないか」

と北条が突然そう切り出した。


「おいおい。シャワーを浴びて、少しのんびりしてからじゃダメか」

武田が珍しく不平を言った。それも仕方がない。上陸してから緊張の連続であり、そして長旅だった。しかし北条は譲らない。


「今すぐだ」

「お、おう」

武田もいつもと違う北条の気迫にたじろいだ。全員が荷物と共に北条の部屋に集結した。


「太田。≪二十時に有楽町であいましょう≫と草部隊に打電してくれ」

佐野と今川が持っていた鍵を渡し、通信機を開けた。


「おい、これはどういう意味だよ?」

「これは合言葉だ。意味はナッシュ精肉店倉庫に二十時という意味だ」


「聞いたことないぜ。そもそもどうしてこんな合言葉を北条が知っている?」

「佐野大尉が死に際に僕に教えてくれた。その時に通信機の鍵をもらったんだ。佐野大尉によれば、そこが最も東部に近い補給地点だと。武器、弾薬などを補給する」

北条はさらに説明を加えた。


「ここで武器、弾薬を補給出来なければ我々は終わりだ。作戦の展望は開けない。だから今度こそ何としても成功させる。二手に分かれよう。二人でいけば目立たない。武田、一緒に来てくれ。多分荷物が多いからな。太田と長尾はこのホテルで待機。通信機を守ってくれ」

「よし、分かった。今から打電する」

太田は早速打電した。


「よし、今から出発する」

「返事を聞かなくてもいいのかよ?」


「のんびり敵地のホテルに宿泊している状況を長く続けたくない。リスキーだ。彼らだって無駄な時間を過ごしたくないはず。だから我々の指定時間で向こうも動くはずだ。移動時間も含め、十時までには帰ってくるつもりだ。そうだな、日付けが変わるまでに戻らなかったら、太田と長尾はここを出立してくれ。そしてその通信機で草部隊と再度連絡を取り合い、作戦を遂行してくれ」


「たった二人か? 湊川も目じゃないな」

「最初からそうだったろ?」

北条は笑うと、武田を伴いホテルの外へ出ていった。



米国中部時間 一九四五年四月九日午後十時八分

「遅いですね」

長尾が窓を見ながら誰に言うともなく呟いた。深夜、小雨が降りだしている。妙だ。殆ど人通りがいないにも関わらず、車が一台通りに停まった。すると十分としないうちにさらに黒塗りのセダンが一台近くに停車した。人が下りる気配はない。薄暗い通り。わずかな街灯に照らされた二台の車。小雨が降り続いている。


(妙だわ。あの二台の車)


長尾は窓の外の車が気になっていた。


「彼らは帰って来ない。ここを出よう」

太田は通信機の荷造りをし始めた。


「どういうことですか? 太田さん」

「言葉通りだ。出よう。君は生き延びろ」

そう言うと、太田は長尾の腕を掴んだ。


「いやっ、離して!」

「言うことを聞くんだ! あの二人は今頃捕まっている。ここで降伏するなら、君の身柄は私が保証する」


「い、一体どういうこと。どういう意味!?」

「もう佐野や今川さんみたいに、こんな無謀な作戦で死ぬところ見たくないんだよ。誰も彼もこんな所で死ぬ必要なんかないんだ。もう戦争は終わるんだよ。日本は無条件降伏する」


「太田さん。何を言っているの?」

太田は長尾の疑問に答えず歩み寄り、そのまま手を引っ張り、連れて行こうとする。二人はもみ合いになった。


「その手を放せ! 太田!」

いつの間にか北条と武田の二人が部屋に居て、銃を太田に向けて構えていた。


「お、お前たちは。無事だったのか!? 一体どうして」

「ふふ、幽霊でもみる顔つきだな。思惑が外れたってか?」

武田は含み笑いを浮かべてそう言った。いつも通りのおどけた態度だったが、目は真剣そのものだった。武田が北条の方に少し視線を向ける。北条はそれに気づくと、ゆっくりと太田に向かって話し始めた。


「≪二十時に有楽町であいましょう≫と君に頼んだ電文は実は偽電だ。意味はない。しかし米国陸軍管轄の諜報機関が正確にナッシュ精肉店倉庫に時間通りに襲撃をかけてきた。この場所を知っているのは我々だけ。そしてそれを電文で打ったのは君だ」

「ま、まさか俺を。一体何の証拠があって?」


「すまないが君を疑っていた。我々の行く先が読まれていることには、気づいていた。そして我々が襲撃されるのは、協力員に協力を頼んだ時に限られていた。その通信機は、使用時には二名以上の鍵が必要だ。つまり、君自身も通信機を使えた機会は限られている。状況に符合していると言う訳だ。ただ、傍受された暗号が即座に解読された可能性もあった。そこで我々は、君に偽の情報を伝え、ナッシュ精肉店倉庫に二十時という偽電を打たせた。君が別に米国諜報機関に伝えたのだろう。いつも通り、その通信機で」

「ば、馬鹿な!?」

太田は如何にも馬鹿げた考えだというように、首を振った。


「太田よ。今回我々は逆に米国諜報機関を待ち伏せしてやったよ。北条は嫌がったが、俺はその中の一番偉い奴を拷問してやった。お前のことを吐いたよ。スパイだってな」

武田は静かにそう言った。武田にしては珍しく、真剣な眼差しを太田に向けていた。


「ふふ、米国軍人が簡単に口を割るわけがないだろう。俺を嵌めようとしても無駄だ」

武田は背後から袋を取り出し、薄笑いを浮かべる太田の足元に放り投げた。袋の口から目玉や舌の切り取った破片が多量の血液と共にこぼれ出てきた。


「俺は北条と違うんでね。目を抉ったり、舌を切り落としたり、頭の皮を剥いだり、いやもう、ベラベラ喋ってくれたよ」

部屋には血の匂いが充満した。北条と武田は会話の間も銃を構え、太田にピタリと照準を向けていた。


「なにか・・・、何か言って。太田さん」

長尾がたまりかねたようにそう言った。彼女の白い顔は紅潮し、目には涙を貯めている。


「なるほどな。やればできる子じゃないか。武田」

太田は静かにそう言った。声は落ち着いていた。


「そうさ。俺は米国陸軍諜報機関の下で働いている。日本軍の作戦目的の探索のために潜入した。そんな時、忍者戦隊、暁部隊の存在を知った。そして俺はその中枢に潜り込むことに成功した」

太田は黒縁の眼鏡を指で押し上げながら、そう静かに言った。


「とうとう化けの皮が剥がれたな。覚悟しやがれ」

武田は、今にも発砲しそうであった。太田は落ち着き払って話続けた。


「いいか。よく考えろ。この馬鹿げた作戦を。たった四人。こんな少ない数でホワイトハウスの大統領を討ち取るなんて無理だ。さらに言えば、その後はどうなる。自決しろという命令だぞ! 失敗すれば死。成功しても死」

「黙れ! この野郎! 開き直りやがって。佐野や今川のおっさんもやられたんだぞ」

武田が叫んだ。


「俺も死なせたくはなかった! 畜生! 今川さんが死んだ時、俺も悲しかった! すぐに降伏すれば良かったんだよ。どの道佐野も今川も成功してもその場で自決だったんだ。我々全員毒薬を持たされている。そうだよな! いいか、誰も死ぬ必要なんかないんだ。降伏しよう!」

太田は一気に捲し立てた。


「何を言うんだ。どうかしてる!」

北条は吐き捨てるように言った。


「どうかしてるのは、お前達の方だ。正気か!? 北条、お前は元々高校の先生だったよなあ。平和な時代なら、学生と共に楽しい日々を送っていたに違いない。しかし手遅れではない。お前が生き残れば、日本が降伏すれば、真っ先に国へ帰れる。また元の生活に戻れるんだ。平和な日本で! 新しい自由な世界で生きるんだ、北条!」

太田は説き伏せるように叫ぶ。


「長尾さん。あなたもこんな所で死んでもいいのか? 生き延びて、そしてもとの病院へ戻るんだ。そして多くの人を救わなければならない。将来素晴らしい男と一緒になって、素敵な家庭を持つことだってできる。死を前提とした無意味な作戦に君のような人間が巻き込まれてはいけない。考え直すんだ!」

「けへっ、演説なんぞ他でやれや! 聞きたかねえぜ、この裏切りもんが!」

武田が罵った。


「ああっと、武田。お前が棒振りの世界で成功するとは思えない。まして大リーガーなんてとても無理だ。しかしな、お前がそれについて挑戦することも、死んでしまえばできないんだ。米国野球に挑戦をして、派手に失敗するところを俺にみせてくれ」

太田は冷笑しながら武田に返した。


「なんだと、この野郎!」

武田は掴みかかろうとした時、はっとした。太田は泣いていたのだ。


「頼むから、生きていてくれよ・・・武田」

太田は泣きながら、か細い声で武田にそう言った。眼鏡を取り、涙を拭った後、さらに大声で訴える。


「いいか、もう一度言うぞ。お前達。こんな所で死んでもいいのか。もう敗北が決定的な戦局で、なぜさらなる犠牲を払わなければならないんだ。生き延びよう。生き延びて、そして日本の地を再び踏むんだ。俺たち全員で」

静寂が部屋を支配した。


「すまないが、太田の意見には賛同できない。帝都が爆撃されたのを我々は見たはずだ。我々がやらねばもっと多くの日本人が死ぬ。それを見なかったことにして、自分達だけのうのうと生きるのか?」

暫く無言の時間があった後、北条が低い声で絞り出すように言った。


「いいか、北条。アメリカは日本とは違う。ずっと天皇がいるような国とは違うんだ。民主主義といってな、選挙によってアメリカ大統領は始終交代するんだよ。我々が万が一奴の暗殺に成功したとしても、翌日には新たな大統領が指揮を執るさ!」

太田はまるで聞き分けの無い子供をあやすように北条に言葉を掛ける。


「それでも少しでも敵を日本から退けられるなら、僕はそれに賭けるよ。君の話には乗れない」

北条は太田の言葉を静かに、しかし明確に否定した。


「同じくだ。ここまで来て、降伏なんて出来っかよ!」

武田は直ぐに北条に同調した。


太田は武田を睨みつけ、怒鳴りつけた。

「馬鹿野郎! よく考えろ! これだけの人数でホワイトハウス襲撃なんて・・・」


パン!


乾いた音が響いた。薬莢が硬い音を立てて床に落ちる。薬莢は暫く転がり、やがて止まった。長尾の銃口から煙が上がっていた。太田は額を見事に撃ち抜かれ、後ろ側にゆっくり倒れる。長尾はガタガタと震えていた。太田が既にこと切れているにも関わらず、まだ何かを射すくめるように真っすぐと前を向いて震えていた。長尾の行動に北条も武田も驚き、戸惑った表情を見せる。二人はゆっくり自身の銃に安全装置を掛け、ホルスターに仕舞った。北条は武田に目で合図する。武田も了承し、頷いた。


「長尾さん。銃を下ろして」

北条はゆっくりと彼女に近づき、そう呟いた。長尾は固まったままだ。


「長尾!」

北条が叫ぶと、長尾は震えながら、北条を虚ろな目で見た。


「長尾さん。銃を下ろしてください」

北条がさらに強く言うと、我に返ったように、長尾は銃を下ろした。北条は長尾の手から銃を取り、安全装置を掛ける。そして長尾を抱きしめた。


「大丈夫。もう大丈夫だ」

長尾も北条に抱き付いた。戦争とは、若い女性にはあまりに酷な状況だ。


「長尾さん。大変でしょうけど、急いでここを出よう。ここの潜伏場所も奴らに知られるのは時間の問題だ」

「だろうな。囲まれているぜ」

武田が顎で窓の外を指した。北条が窓の外をそっと伺った。先ほどの二台のセダンに加えて、一台のトラックがビルの真下に急停車した。

長尾が心配そうな表情を浮かべる。


「ご心配なく。実はちょいと遅くなったのは、俺と北条で逃走経路を確保したからよ。このまま敵を撒いて、脱出するぞ!」

武田はまだ興奮冷めない長尾に目配せをした。三人は急いで荷物をまとめると廊下に走り出る。北条は太田の装備品である小型通信機も携えた。部屋を出る時、長尾は自身が撃った太田の亡骸を振り返って見た。


「こっちだ!」

北条は、太田を見て石造の様に動かない長尾を促し、非常階段の反対方向を目指した。下の方から爆発音が聞こえる。


「ちっ、敵の突入が早いな。階段と非常階段どちらもトラップを多数仕掛けておいたから時間稼ぎにはなるはず」

武田は長尾を見て、にやりと笑った。


「出口が塞がれているのに、どうやって脱出するのですか?」

走りながら長尾は聞いた。それに北条、武田は答えない。


「急ごう。突き当りの七一八号室だ」

北条はそれだけ言うと、ひたすらに走った。


「ここだぜ」

一同は七一八号室にたどり着いた。


「ハロー!」

そう言うや否や武田はドアを蹴破った。三人はそのまま部屋を縦断する。


「なんじゃ、あんたらは!?」

 老夫婦が寝室で就寝中だった。二人とも寝ぼけ眼で三人を見る。


「季節外れのサンタクロースさ」

武田がおどけてみせた。北条が窓を開ける。


「よしっ。ビルの谷間、予想地点ぴったり。長尾一緒に飛び降りるぞ」

北条は窓の外を見ながら、長尾に言った。

長尾は躊躇う。


「僕を信じろ! さあっ!」

長尾の手を取り、抱き合いながら窓の外へ思い切りよくジャンプした。


「ひいいい、あんたら何を!?」

窓に飛び出す二人をみて老夫婦は叫んだ。北条、長尾が真っ逆さまに落ちた先は野外ゴミ収集箱だった。しかしゴミの代わりにどこから見つけて来たのか多量のマットレスが敷いてあった。二人は無事にその上に落ちると、北条は武田に手を振った。


「タッチダウン」

武田はそれを見て、ほくそ笑んだ。そして振り返り、老夫婦を見遣る。


「旅行でこちらへ? 仲が良くて実に羨ましいですなあ。 あの二人? 恋に悩んだ挙句の心中でしょ。若い男女にはよくあることです。ドアを壊してしまって済みませんね。ホテルの人には我々がやったと言っておいてください。次回はちゃんと煙突から入って来ますよ」

そう言うや否や、武田も窓の外へ飛び出した。ドシンッ。上手く着地すると、既に北条らはマンホールの蓋を空けていた。


「君にはすまないが、これしかないんだ。匂いは我慢してくれ」

北条は長尾にすまなそうに言った。


「構いません。それより早く!」

北条、長尾そして武田の順でマンホールの中に入り、最後に蓋を閉めた。マンホールの中は酷い臭気だった。北条が最初に降り立ち、続く長尾に手を貸した。北条は手持ちのライトを点ける。明りに照らされ、ドブネズミが走り去った。地下下水道は三人が立って歩けるだけ巨大だった。中央に小さい水路があり、両脇に狭い歩道がある。


「第三の男みたいだな」

北条が呟く。


「上手くいったな。このまま向こうのブロックまで抜けよう」

武田が最後に降り立ち、ライトを点けてそう言った。


「これは全て計画したの?」

長尾が感心したように言う。


「計画はしたが、内心冷や冷やだった。何せテストはできないからね。一回きりだよ」

「急ぐぜ。こっちだ!」

武田が指し示す方向へ全員歩き始めた。



三人はそれから、臭気漂う暗い下水道を静かにひたすら歩いた。かなり遠くまで来たはずだ。反響音でびくつくが、下水道の中に北条ら以外に人はいなかった。それでも時折、北条はライトで後ろを照らす。レンガの隙間からはところどころ汚水が噴き出しており、臭気はひどい。


「ごめんなさい」

長尾が唐突にそう呟いた。長尾は俯き、そして両手で顔を覆って泣き始める。危機を乗り越え、先ほどのやり取りが思い出されたようだった。


「太田さんを・・・、撃ってしまった! 殺してしまった!」

「君が撃たなければ、僕が撃っていたかもしれない」

北条はそう言いながら、振り返ることなく、ライトで前方を注意深く照らしながら、歩き続ける。


「そうそう。あの糞野郎のせいで、今川のおっさんと佐野がやられたんだ。俺たちだって捕虜か、最悪全滅していたぜ!」

長尾の後を歩く武田もそう言って北条に同意した。武田もライトをあちこちに照らして警戒を怠らなかった。


「彼は我々を助けようとしていたのかも」

そう言った長尾の頭には富永の言葉が浮かんだ。


(人を殺すことに慣れることはないわ・・・)


武田がすかさず口を挟んだ。


「それってどういう意味よ?何がどうすれば俺たちが助かったことになるわけ?ああん?」

「太田さんはこの作戦は無謀だと言っていました。無駄死にさせるより、降伏を。それで私達を救おうとしたのかも」


「けっ! 余計なお世話だっての。こっちゃ、元からイカレタ作戦だって分かってんよ。俺たち、救われたっていうか、襲われたっていうのが正解なんじゃねえの。レベッカちゃん」

武田は吐き捨てるようにそう言った。気まずい気配が流れる。突然北条が立ち止まり、ゆっくりと長尾を振り返った。


「正義の反対は悪徳ではなくて、別の正義なんだ。誰も彼も正しいと言えるし、間違っているともいえる。太田は我々を降伏させて、救おうとしたのかもしれない。太田は歴史的、より大きく世界を敷衍したとき、正しいのかもしれない。しかし我々は大日本帝国陸軍軍人だ。天皇陛下というとピンと来ないけど、日本にいる多くの人を救うために降伏や任務放棄は全く考えられない。今でも多くの日本人が爆撃で殺されている。君もその目で見たはずだ。その立場からすれば、君のとった行動が正しい」

長尾は涙を流して首を振った。長尾は北条の建前論には決して納得しないだろう。人間をやめない限りは。

長尾は自身の同僚を、人間を撃った。その事実は覆せない。北条自身自分の言葉が真実から遠い感じがしていた。我々はまず人間で、そして日本人で、最後に大日本帝国陸軍の兵士だ。その逆はない。

三人は暫くそこで立ちすくんでいた。長尾のすすり泣く声。下水の音。水滴の滴る音。武田は思いついたようにボソッと呟いた。


「なんだ、その。レベッカちゃんは初めてなんだろ。人を殺したの。酷だなあ、実際。俺たちこれから沢山の敵兵、人間を殺しに行くんだぜ」

北条にしろ、武田にしろ、上陸してから何人か人を撃っている。間違いなくその内何人かは死んでいるだろう。人の命を奪う。そのことは重い。戦争だからとか、敵だからとか、自身を色々と納得させようとするが、何もかもが人の命を奪うということについて比べて軽かった。 

長尾にとっては最初の殺人が、自分の仲間でもあり、心を軽くする言い訳がさらに乏しかったと北条は考えていた。


「すまない」

思わず、そんな言葉が口に出た。

長尾はそれを聞いてようやく泣き止み、涙を手の甲で拭い、視線を上げて真っすぐに北条、武田を見た。


「北条君、武田さん、取り乱してすみませんでした。大丈夫です。行きましょう」

長尾はしっかりとした足取りで歩き始めた。北条と武田が続く。結局彼らは、自分たちのやったこと、これからやろうとすることに最後の瞬間まで悩み続けるだろう。そして明確な答えは出ないに違いない。


「ここでいいだろう。五ブロックは離れた」

北条はそういうと、錆びついた梯子に手をかけた。ゆっくり上ると、マンホールの蓋を少し開き、外を伺う。幸い今度も狭い路地で、深夜で人通りもない。


「よしっ、いいぞ。出よう」

北条がまず外に出て、それから長尾、武田が続いた。外の空気が美味かった。先ほどのホテルの付近はサイレンが鳴り響き、騒々しかった。


「大騒ぎになってやがる」

「急いでここを離れよう」

北条は機材を肩に担ぎ、武田、長尾もそれに続く。


「いや~、下水の匂いがとれねーぜ」

武田が服の袖を嗅ぐような仕草をしながら、そう言った。


「どこかで服を手に入れよう。怪しまれたらまずい」

北条も武田に同意する。


「ところで、武田さん、本当に敵兵を拷問されたのでしょうか?あの肉片は?」

長尾は突然武田に聞いた。


「ああ? あれ? あれは精肉店にあった豚の臓器よ。上手い具合に太田を騙せたぜ。後は精肉店の外で見張り、米国諜報機関が精肉店に踏み入ったのを店の外から確認したという訳よ」

武田はそう言うと、北条を見た。


「長々と敵兵を拷問するほど時間も安全な場所も我々にはないよ」

北条も苦笑しながら同意した。


「そうですか」

長尾は安堵した表情をみせた。北条も長尾と同じ気持ちだった。目的は果たさなければならないが、できるだけ人は巻き込みたくはなかった。殺したくない、苦しめたくない。敵であれ、味方であれ。


「まず服と足を手に入れよう。またまた盗賊のようで心苦しいが」

北条が下した最初の判断は盗みだったので、本当に情けなかった。


「へへっ、まあ金は天下の周りものというじゃねえか。キリスト様の教えにも服を盗ませろという言葉があるんだろう、レベッカちゃん」

「貴方を訴えて下着を取ろうとするものは、上着を取らせなさい」

長尾はそう簡潔に言った。既に感情を隠した人形の様な顔に戻っていた。


「そうそう、それそれ。さあ、行こうぜ」

三人は夜の街を歩き始めた。



同時期。クラークホテルのあちこちでは北条らの仕掛けが爆発したことにより火災が起きており、消火活動の真っ最中であった。避難客や消防士、救急士などがごった返す中、フリードマンら陸軍諜報機関の一行はホテルの一室に居た。その部屋で、フリードマンらは変わり果てた太田 景弘の死体を見下ろしていた。太田は目を開けたまま絶命していた。フリードマンは太田の目を閉じてやり、そして静かに語りかけた。


「初めてお目にかかるよ。ミスターオオタ。今まで良くやってくれた。日本の英雄に敬意を表するよ。君のような英雄的な人間がいる限り、日本はまた蘇るだろう。神が君の魂を救済されんことを」

フリードマンが帽子を取って黙祷を捧げると、他の諜報員もそれに倣った。その途中でスミスが部屋に入り、報告をしてくる。


「フリードマン大佐、ナッシュ精肉店倉庫は空振りです。どうやら陽動だったらしいです」

フリードマンは黙祷をやめ、帽子を被り直した。


「罠だったのだ。『猫』を炙り出すためのな。くそ、忌々しい奴らだ」

フリードマンは苦々しく吐き捨てた。


「しかし困ったことになりましたな。『猫』を失った今、奴らの足取りが掴めません」

スミスが応じる。


「それは痛いが。奴らの拠点は米国の西部から中西部までで、東部にはない。ジャップは重火器などがない状態だ。恐れるに足らん。スミス中尉、次に何をすべきか分かっているだろうな?」

「東部の武器店の盗難をチェック。盗難があった場合は直ちに人員を派遣します」

スミスが冷静に述べた。フリードマンとスミスとは長い付き合いである。ここら辺は阿吽の呼吸だった。


「結構。武器の補給はこれから先できないはずだ。奴らの最終目的地は分かっている。最悪そこで迎え撃つ」

フリードマンは断固たる決意を示してそう言った。


「彼らの目的が大統領なら、この際、大統領をホワイトハウスから一旦避難させた方がいいのは?」

スミスが進言するが、フリードマンはそれを否定した。


「何処へ行っても狙われる。それよりもこのホワイトハウスを要塞と見做し、そこで迎え撃った方がいい。あれほどの大きな建物で、大統領が独占的に使用できる施設を知らない。ホテルその他だとこちらの兵を隠す場所がなく、民間人の避難など面倒な事になる。無電を。予てから陸軍長官に要求しておいた合衆国最強の陸軍部隊はホワイトハウスに到着したかと確認してくれ」

「合衆国最強の陸軍部隊?」

スミスは怪訝そうな顔をした。


「ああ。状況は話してあるので、彼はどの部隊を送るべきか分かっている。以前も電報で確認してもらったろう。今頃ワシントンに部隊が到着しているはずだ。ふふ、毒を以て毒を制す。そう、歴史上最強の陸軍部隊だ。欧州のファシストを恐怖のどん底に叩き落とした連中だ。例えホワイトハウスに辿り着いても、万が一にもアカツキには勝ち目はないぞ」

フリードマンは不敵に笑った。


九章までを二部とします。

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