第一部
登場人物
北条 康 (やすし) 少尉(二十五歳)
長尾 エバーグリーン レベッカ 伍長(二十六歳)
武田 英雄 (ひでお) 軍曹(二十八歳)
今川 博道 (ひろみち) 中尉(三十七歳)
太田 景弘 (かげひろ) 曹長 (二十三歳)
佐野 了助 (りょうすけ) 大尉 (四十二歳)
小田 稔 (みのる)少佐 (五十三歳)
笠原 正雄 (まさお)(三十四歳)
ロイド フリードマン大佐 (三十四歳)
ジョン スミス中尉 (二十九歳)
清水 ルーシー (二十八歳)
富永 キャシー (二十七歳)
多米 ルース (二十二歳)
第一章 プロローグ
第ニ章 発端
第三章 訓練
第四章 四式究極汎用戦闘術式
第五章 ブラックハウス
第六章 東京大空襲
第七章 ロサンゼルスの戦い
第八章 大陸横断鉄道の戦い
第九章 シカゴの戦い
第十章 ホワイトハウスの戦い
第一章 プロローグ
一九四五年四月十二日 東部時間 午前七時四十五分
「ジャップの奴らがやったんだ!」
誰かがそう呻いた。火薬と血の匂いが部屋に充満していた。折り重なる死体。部屋全体が埃で霞がかっていた。ジェンキンス上等兵は辺りを見回し、生存者を探した。後一か月後には船で欧州戦線に行くはずだった。ドイツは降伏寸前で、上手くいけば戦場に出ることもなく、戦争が終わるかもしれないという淡い期待があった。ところが早朝に叩き起こされ、この有り様だ。ジェンキンスらは、ヘルメットと小銃を引っ掴むと、急いでトラックに乗り込んだ。ジャップの襲撃。上官からの説明はそれだけだった。
「軍隊が攻めて来たんだろう」
近くにいたホッジ軍曹が呟く。そう思うのも頷ける状況だった。
部屋中の壁に弾痕が無数にあり、調度品の破損は酷く、壁と床に多くの血痕があった。爆発物によりあちこちが破壊され、黒い煤が付着していた。庭には何故か銃撃され、破壊された救急車が乗り捨てられており、建物周囲の通りには乗り付けたトラックや消防車などでごった返していた。
「攻めて来たって、一体どこから」
ジェンキンスは呻いた。
「そんなこと、俺が知るかよ。ただわかっていることは、ジャップの糞野郎はただじゃおかねえってことさ」
ホッジ軍曹は忌々しそうに吐き捨てると、足を速めて生存者を探しに先に進んだ。ジェンキンスも後を追う。
(しかしこんな大惨事をジャップの連中が行いえたのだろうか)
辺りを見回し、眉を顰めながら、ジェンキンスの頭には疑問が沸き起こっていた。
(ジャップの連中は敗戦続きで、こんなところまで絶対来ることができないはずだ)
一九四五年現在、日本軍はありとあらゆる方面で叩かれ、制空権、制海権を本土おいてすら完全に失っていたのだ。それでなくても、ここに日本軍が来るというのは絶対不可能だった。そう、何しろこの戦場のようなところはアメリカの中心、ホワイトハウスの中なのだから。
「どいてくれ! 道を空けてくれ!」
衛生兵らが担架に負傷者を載せて外に運びだそうとしていた。
東洋系の顔立ちをした血まみれの負傷兵の四肢は失われ、腸管が裂けた腹部の傷からはみ出ている。
「ちっ! 死体袋の方が良さそうだ」
その光景をみたホッジ軍曹は誰に言うともなく、静かに呟いた。現場には米軍軍服を着た大量の東洋人が負傷し転がっているのが見て取れる。
(こいつら偽装して入ってきたのか)
ジェンキンスは現状を見てそう判断したが、不思議な事に駆け付けた医師、看護師、衛生兵らが懸命に彼らを応急治療、運搬をしていた。
(ジャップ達を何でそんなに丁寧に扱うんだ! 馬鹿げているよ)
ジェンキンスはそう心の中で思い、その光景を眺めていた。
「こっちだ!手を貸してくれ」
ジェンキンスとホッジが声のする方へ向かうと、衛星兵が黒い袋を顎で指し示す。
「こいつを表のトラックまで運んでくれ。表にあるタグの付けてある袋と一緒にすること」
衛星兵が示した黒い袋の内一つを持ち上げてみる。見た目より重い。それに袋から床に赤い雫が滴り落ちていた。
「これは何です?」
ジェンキンスは思わず訊ねた。
「カミカゼ自爆したジャップの肉片さ。何でも追い込まれて、体に巻き付けた爆薬で何人か巻き沿いにして自爆したらしい。狂った奴らさ。でかい奴だったらしく、二つあるから、お前らで一つずつ持っていけ。汚い血が付かないように気をつけろよ」
衛生兵はさも忌々しそうに説明を終えると、胸のポケットから煙草を出して、火をつけた。
「ジャップのミートボールかよ! 何で俺たちがこんなもの運ばなきゃならねえ」
「文句をいうなよ、軍曹。お偉いさんが一応調べるんだとよ。これも仕事なんだ。さっさと行け」
衛生兵は煙草の煙を吐き出しながら、ホッジにそう言い捨てる。
「畜生!」
ホッジはそう吐き捨てるように呟くとその袋を持った。
ジェンキンスもそれに倣い、袋を持って歩きだした。血の滴る黒い光沢を放つ袋を抱えながら、ジェンキンスの頭にふと恐ろしい考えが過る。
「大統領はどうしているんでしょうか」
これは一大事ではないのか。ホワイトハウスが襲撃されたのだ。世界で一番厳重に守られているはずだったのに。一体どうなっているのだろう。そんなことはさも当然という様に、大統領の安否については誰も何も言わなかった。
先頭を歩くホッジは振り返りもせず言った。
「さあな。多分休暇でも取って不在だったんじゃねえか」
「休暇って。戦争中ですよ」
「偉い人が俺たちみたいに年がら年中働いていると思うか? 今頃ヤシの木の木陰でテキーラでも飲んでいるよ」
「病気がちだったから、酒を飲んでいるってことはないと思いますが」
「酒は百薬の長というぜ」
「酒は百毒の長ともいいますよ」
ホッジはやれやれといった感じで、ようやくジェンキンスと向き合った。
「まあなんだ。今の俺たちの仕事はこのミートボールたちを外のトラックへ運ぶことだ。大統領のことはもっと違う誰かに任せようぜ」
ホッジはこの話題を切上げたがっていたように見えたので、ジェンキンスもそれ以上は言うことを控えた。確かにこんなところで二人でああだこうだ言っても仕方ないのだ。
二人は無言で抱えた袋を外のトラックへと運び出した。周りは来た時よりさらに多くの消防車や救急車、軍用の車両が所狭しと並び、多くの軍人や衛生兵らがひっきりなしに負傷者や死体を運び出していた。ジェンキンスらはホワイトハウスの中に戻り、他の仕事をやることにした。
「おい、お前たち。手を貸してくれ」
二階のテラスから、今回の後始末の責任者であろう大佐が手招きをした。大佐は負傷しているらしく、胸部の軍服から血が滲んでいる。かなり重症のように見えたが、気丈にも表情には表していなかった。
「ほら、おいでなすった」
ホッジはそう言うと、ジェンキンスと共に小走りで階段を駆け上がり、大佐の前に進み出た。
「三階の大統領執務室から日本兵二人の死体を丁寧に運び出せ」
大佐は苦し気に言うと、壁にもたれかかった。
(何ということだろう。日本軍の兵士が大統領の部屋に侵入したのだろうか)
ジェンキンスは不安を覚えた。それに目の前にいる大佐の体調も気がかりだった。額には大粒の汗がみられ、呼吸も乱れており、出血した胸の部分を手で押さえている。如何にも苦しそうだった。
「大佐殿。その前に怪我の治療を」
「煩い! 私に触るな!」
そう言って、ジェンキンスの腕を振りほどいた。
「それより早く仕事をしろ。いいな!」
「イエッサー」
ホッジとジェンキンスは仕方なく、大佐に敬礼をし、直ちに指示された三階の大統領執務室へ向かった。
「まったく、またジャップの死体運びかよ。ついてねえ」
ホッジはボヤキながら、進んだ。ジェンキンスも後に続きながら、自分の悪い考えを捨てきれずにいた。
大統領執務室のドアは打ち破られていた。部屋の中央には車椅子があった。椅子には血痕はなくきれいであり、大統領は運び出されたのか、部屋にはいなかった。打ち破られたドアと外からの侵入を防ぐためだろうか、倒された本棚でバリケードを作っていた跡がある。
「おい、ぼっとしてんじゃねえ。汚ねえジャップの死体をさっさと探せ」
ホッジの言葉でジェンキンスは我に返り、死体を探した。醜いジャップ。ジェンキンスは自分の住んでいたサンフランシスコで東洋人の親子を見たことがあった。日本人なのか中国人なのか、全く分からなかったが、彼らは凡そ白人の居住区から隔離された、貧しいところに住んでいた。醜く、薄汚く、体は哀れなほど小さい。
「おいっ、こいつをみろ」
ホッジの叫びが聞こえ、ジェンキンスはその声の方へ急いだ。
「うっ」
思わずジェンキンスは声を上げる。そこにいたのは大日本帝国陸軍の軍服に身を包んだ二人の男女だった。女は透き通るような白い肌に深紅の唇が映えた。ジェンキンスはこれまで見たいかなる女性であれ、雑誌であり、映画であれ、目の前にいる女以上に美しい女を見たことがなかった。男は背が高く、女と同じく金髪だった。二人は窓際の壁に寄りかかり、女は男の逞しい胸に顔をうずめて事切れている。共に傷つき、血まみれ埃まみれだったが、まるで一幅の絵のようだった。二人の手にはシャンパングラスが握られ、近くにはシャンパンボトルが転がっている。二人とも満足しきった笑みを浮かべて死んでいた。窓から気持ちのいい風が吹き込み、女の朝日に輝く長い金髪がそよいだ。ホッジは呻く。
「こいつら本当にジャップかよ・・・」
第二章 発端
一九四四年五月三十日午前七時十五分
朝日が地平線に上ったばかりだが、既に気温が上がり始めている。今日も初夏の為熱くなりそうだった。
「北条少尉か」
北条 康は東京湾桟橋で声をかけられた。これからサイパン島の防衛のため、第三五三〇船団の輸送艦に乗り込む直前だった。大勢の兵がごった返す中、彼を見つけるのは簡単だったろう。ひときわ高い背。そして何より目立つ金髪と青い目。
「はい。本官です」
「小田 稔少佐がお呼びだ。車に乗れ」
北条は大柄だが、声を掛けてきた男はさらにそれを上回るくらい大きく、有無を言わせぬ迫力があった。さらに驚いたのはアフリカ系であったこと。すなわち黒人だったのだ。
「貴様の母親が米国人であることや、留学経験があるというのは調べがついている」
男は同じ帝国陸軍の軍服を身に纏い、階級は大尉。顎で指示した先には黒塗りの車があった。車のガラスは遮光されていて、外から中は見えないようになっていた。
「しかし私は任務でこれから戦地に向かうため待機中です」
訳が分からず、北条は男にそう言った。これから戦地に向かう時に一体何だというのだ。
「部隊長には事前にこちらから知らせておいた。心配するな」
北条の問いかけに男はは素っ気なく答えた。
巨大な装備を抱え、男に続いて黒塗りの車に乗り込んだ。幸いその車は北条の持つ装備を丸々運び込んでも問題ないほど広かった。暫くして目が慣れると、薄暗い車内には先客がいることに気が付いた。先客の男は彫像の様に身動ぎもせず、の真向かいの席に悠然と座っている。北条は途端に居心地の悪さを感じたが、仕方なく荷物を傍らに下ろした。車は先ほどの男が運転し、滑るように走り出した。
「私は小田 稔少佐だ。私の副官の佐野 了助大尉が失礼した。北条 康中尉だな」
小田は低い声でそう問いただした。軍刀の鞘尻を床に置き、両手で杖のように前に構えている。目は狂気を孕んで、光を帯びていた。
「はい。北条 康中尉であります」
「ふうむ。いい。実にいい。毛唐の顔つきだ」
これまでの人生で何度も聞いた言葉だ。北条はそれに対しての定型文を返す。
「私は日本人です。国の為に命を捧げるつもりで志願しております」
「ふむ。貴官の覚悟は分かっている。まさに神国日本臣民の鏡である」
男は傍らにある分厚いファイルから、さらに一つの資料を取り出した。そして北条の顔とファイルを交互にみやり、資料を読み始めた。
「北条 康。二十五歳。東京大学工学部卒業後、都立国立高校で教員として勤務。勤務態度良好。父は北条 司。四菱工業船舶設計主任。母は米国人、バイオレット エバーグリーン。職業タイピスト。北条 司が米国の四谷工業ロサンジェルス支社在籍中に知り合い、結婚」
(母が米国人、すなわち敵性国家であることについて問題だというのか。ふざけている。そもそもサイパン島に送られれば死ぬことは間違いないではないか。国の為に命を捧げようというのに、一体どういうつもりなのか。それとも自分が戦地でスパイ行為でもするとでも思っているのか)
北条は湧きあがる怒りを押し殺し、小田を見つめた。
「サイパン島は落ちる。兵は犬死だ」
「えっ?」
「いった通りだ。米軍の戦力は圧倒的だ。制空権・制海権を失った現在、絶海の孤島を守り切れる訳はない。犬死だ」
北条は困惑した。大日本帝国陸軍将校がそのような事を口にしていいのか。
「お言葉ですが、サイパン島は絶対国防圏と聞いております。海軍も全力をもって敵軍激殺の意図を固め、機動部隊を援軍に向かわせるとのこと」
「ふふっ。かなわんよ。米軍機動部隊の前では所詮蟷螂の斧」
見知らぬ上官。そしてその見知らぬ上官と車に乗っている。経歴は調べ上げられているらしく、どうも人違いではないようだ。しかし北条は母親が米国人、そしてその血を引く彼自身の風貌が日本人離れしていることを除けば、至って平凡な日本人である。
(一体何の用だ)
何が何やら事情が呑み込めず、落ち着かない。北条は口を開いた。
「少佐殿。質問よろしいでしょうか」
「聞きたいことは分かっている。何の用だ。そうだろう?」
「はい」
「貴官に我々の部隊に入り、ある作戦に参加してもらう。参加して栄誉の戦死を遂げるか。拒否をして射殺されるかだ」
北条は軍に入った以上、国の為の戦死は覚悟していた。しかし何やら高飛車な物言いと、秘密めいた感じが癪に障った。
「ならば、本官をサイパン行の輸送船団に直ちに戻していただけないでしょうか。戦友と一緒にサイパンで栄誉の戦死を遂げたいと思います」
「ふふっ、もう貴官は原隊に戻ることはできない。我々の部隊に入って、作戦に参加するしかお前の道はないのだ」
「何故でしょうか。どの道戦死するのであれば、サイパンでも構わないのでは」
「残念だが、私と会ってしまった。私と会ってしまった以上、貴官を野放しには出来ん」
「そんな。一体どうして」
「私は死んだ人間なのだ。正確に言うと死んだことになっている。私の事を日本のどこかで喋られては困るのだ。私のことも、これから貴官が所属することになる部隊も最高度の機密だ」
そして小田は身を乗り出して、顔を北条に近づけて言った。
「いいか。貴官は我々のこれからやる作戦は気が違っていると思うかもしれん。しかしこれだけははっきり言っておく。私はこれが日本を救う唯一の道と考えている。ほんのわずかでも秘密が漏れてはいかん。絶対にだ」
小田はそう言うと、再び後部座席に深く腰を沈める。
「貴官は米国にいたとき、あのアンディ・ジョーダンと親交があったそうだな」
いきなり話題が変わり、北条は戸惑った。
「ええ。ジョーダン先生ですか。あの歴史学者の。家が隣同士だったので。少年時代に不思議な遺跡の話や海外の冒険の話をよく聞きに行きました。素晴らしい先生です」
北条は米国の考古学者と大日本帝国陸軍少佐とどのような接点があるだろうと考えを巡らせる。
「素晴らしいか。ふん」
いかにも不愉快そうに小田は吐き捨てた。北条は言ってしまってから「しまった」と思い、唇を噛む。敵性国家の人間と親しかったということは、知られたくなかった事実だ。しかし、小田はその点については気にする風ではなかった。
「忌々しい奴だ」
小田は車窓の外を眺めながら、短くそう呟いた。
「面識があるんですか?」
「奴は以前日本に侵入したが、今度はこちらが出し抜いてやる。同じ手段で今度はこちらが攻める番だ」
北条は小田が発した言葉の意味を測りかねた。
(一体何時から、どうして二人は知り合いなのか。)
北条がそんな事を考えている間にも車は、都内を物凄いスピードで疾走し続け、やがてとある巨大なビルの前で停車した。ビルの前にあるシャッターが開き、車がその中入り込むと、すぐさま背後でシャッターが閉まった。車が停められた所は、広いガレージのようだったが、真っ暗で何も見えない。やがてガレージ内のライトがつき、周囲が明るくなった。
「降りるぞ」
佐野がドアを開き、小田は車から降りた。北条も嵩張る装備を抱え、後に続く。
「ここから先、貴様の荷物は不要だ。全て預かる。ここに置いていけ」
佐野大尉がいうので、北条は装備品を下ろした。ガレージには、北条らが乗り込んだ車以外にも多種多様の車や軍用車が見える。中には商用車や宣伝車、バスなどもあり、使用目的が何なのか判別のつかないものも多くあった。北条は戸惑いを覚えたが、それも一時だった。佐野に促され、奥の通路へ進む小田少佐の後に続く。長い廊下、地下に続く階段を幾度も使い、やがて巨大な鉄の扉がある部屋の前に辿り着いた。
「入る前に言っておくが、お前はもう死んでいる」
小田は扉の前で呟いた。
「どういうことでしょう?」
「言葉通りの意味だ。今日輸送船団に乗り込んでしまえば、お前は死んでいた。よってお前の死は確定している。ただ私はお前の死に幾ばくかの意味を与えてやろうというだけだ。私の計画した作戦に参加した場合、必ず死ぬ。生還はない」
「決死隊ですか・・・」
「まあ、そんなところだ」
小田は口元をわずかに歪めて笑いながら言うと、両手で扉を開けた。厚みのある鉄の扉はゆっくり、そして重々しく開いていく。
扉の先は大きな白い壁からなるホールだった。床は杉の木組みが敷き詰められ、中央に大きな階段があり、吹き抜け回廊の作りになっている。天井には無数の照明が付けられ、一階には多数の通信機器があり、二階の回廊の壁には巨大な地図、海図がボードに張られ、多数の付箋がつけられていた。一階では大勢の通信兵が忙しく動き回り、電波傍受にあたり、二階の士官らに伝達、総合判断にあたっているようだった。
「おかえりなさいませ」
兵の一人が出迎えた。細身で小柄。厚い黒縁眼鏡を掛け、青白い肌をしていた。顔には薄いそばかす、軍人にしては不釣り合いなやや長い縮れた赤髪をしている。抱えた資料についた付箋を神経質そうに触っていた。
「紹介しよう。こちらは北条 康中尉。これから我が部隊に所属することになった」
小田は手招きをして、出迎えた兵を北条に紹介させた。
「本官は太田 景弘です。階級は曹長です」
直立不動の態勢で敬礼をする。北条も自身の姓名、階級を述べ、敬礼で返した。
「敵の動きに変化はないか」
小田が渡された資料に目を通しながら問う。
「サイパン島方面での平文発信が増加しています。敵揚陸部隊および機動部隊は真っすぐサイパンへ向かってくるかと」
「やはりそうか。少し前まで海軍の方ではビアクに来襲するとほざいていたがな。聞いたか、北条。貴官の命も少しは伸びたな。感謝してもらいたいものだ」
「ここは一体?」
「忍者戦隊司令部情報作戦室だ。忍者戦隊は陸軍の中でも我々の存在を知るものはごく一部だ。今回の任務について、貴官以外の隊員は既に選出され、太田以外は別室で待機している。太田はこの司令部に勤務しながら、今度の作戦にも選抜されている。他のメンバーはこれから紹介する」
小田は目を通した書類を太田に手渡し、手短に指示をすると北条に向き直った。
「それでは案内しよう。来たまえ」
小田、佐野、太田と共に部屋を出て、また長い廊下を歩く。都内地下にこれほどの施設を作るには相当の資金、時間が必要だったはずだ。長い廊下、階段、そしてある部屋の前に一行は到着した。部屋に入ると、正面には太平洋の大きな地図。黒電話が一つ置かれた大きな机を囲んで、四人の人間が座っていた。彼らは一斉に立ち上がり、小田に敬礼をする。小田は手を振ってそれを制した。
「楽にしろ。新しい隊員の紹介だ。こちらは北条 康中尉。本日入隊した」
小田はそう言って、順に部屋にいた他の隊員達を紹介し始めた。
「今川 博道中尉。爆弾設置および解除のエキスパートだ」
「今川です。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いたします」
中背、ふっくら太り気味であり、目は温和で、髪と瞳はブラウンだったが、髪の方は寂しい状況になりつつあった。
「武田 英雄軍曹。射撃のエキスパートだ。空手の有段者でもあり、戦闘時にはとりわけ役に立つ」
背が恐ろしく高く、肩幅が広い。北条も背が高いが、さらに一回り大きい体格だった。がっしりとした筋骨隆々な体。漆黒の髪、瞳、しかし顔の彫が深く、まるでギリシャ彫刻から切り出したような男だった。自信たっぷりで不敵な笑みを浮かべて居る。
「武田だ。これからよろしく頼むぜ」
「よろしく」
「太田 景弘曹長。互いの自己紹介は先ほど済ませたな。彼は情報、暗合解読のエキスパートだ。現地協力員との接触に際してはなくてはならない人物だ」
「作戦の成功に全力を尽くします。よろしくお願いいたします」
太田が北条に向かって敬礼した。
「よろしくお願いたします」
(神経質そうな顔だ。彼はここには長くいるのだろうか。)
敬礼を返しながら北条は太田を観察する。太田は先ほども司令部で任務を遂行していた。北条が一番の新参者らしいが、他のメンバーも司令部情報作戦室では見かけなかったので、彼はここの事情に一番通じているかもしれない。
「太田曹長。今まで司令部でよくやってくれた。これからはこの部隊に参加し、君のしようとしている事をするがいい」
小田はそう言って、太田の肩を叩いた。太田は小田の言葉の意味が一部腑に落ちず、少し戸惑っているようだった。小田は次に女性を紹介した。
「長尾 レベッカ伍長。元々聖路加病院で医師として勤務をしていた。負傷をした際には頼りになるだろう」
「長尾です。よろしくお願いたします」
「あ、よろしくお願いいたします」
自分と同じ長い金髪、白い肌、そして吸い込まれそうなエメラルドグリーンの瞳。まるでフランス人形のような、非現実的な美しい顔立ち。こんな女性も軍人なのかと驚いた。それと同時に北条は紹介された隊員には共通項があることに気が付いた。しかしその意味までは分からなかった。長尾の顔を見ながら、考えを巡らしていると、長尾の声で現実に引き戻された。
「何か」
不審そうな長尾の顔。
「い、いや」
北条は問いかけられて戸惑った。まずい、嫌われたかな。
「あまりに綺麗で、見とれたんだよな。先生!!」
武田が北条の肩に手を回し、からかう。
「い、いや。そういう訳じゃないけど」
北条がどきまぎしながら答えると、武田がまた突っ込む。
「じゃあ、なんだよ。正直になれよ!」
「え、いやどこかで会ったかなと思って」
「なんだ、北条そりゃあ。やり口が古いぞ」
武田がからかう。
「こらっ、貴様ら、私語をやめい。席に着け。これから小田が本作戦について話をされる」
佐野が雷を落とすと、隊員たちはそれぞれ部屋の席に着いた。小田は太平洋地図を背にした正面の席に座った。相変わらず、軍刀の鞘尻を床に置き、両手で杖のように前に構えていた。目の前の机には黒電話がある。
「改めて諸君!ようこそ忍者戦隊基地に! 忍者戦隊は二つの部隊およびそれを支援する非戦闘員から成っている。二つの部隊、それは『暁』および『黄昏』である。この二つの部隊はほぼ同時期、同地域において異なる任務が与えられているが、相互はそれぞれの目的を遂行することに際し、連携することはない」
小田はそこまで言うと、隊員の顔を見回した。
「諸君らはその中の「暁」だ。諸君らは暁部隊として作戦を遂行することになる」
小田は正面にある太平洋の地図に向かって、指し棒を使いながら説明を始めた。
「最後の隊員である北条少尉が揃ったところで、本作戦について概要を説明しよう。さて、我が皇国の状況については改めて説明する必要はないだろう。戦況は切迫している。我が帝国陸軍は各地で敗退、そう、転進ではないのだ。敗退を繰り返している。制空権・制海権を取られた状況では日本を守れるものではない」
そこまでいうと、隊員達に振り向き、自虐的な笑みを浮かべる。
「まあ、それ以前に我が軍の作戦が稚拙で装備自体が劣悪だということもある。しかし改善しようと言っても今更間に合わん。そもそもこの戦い自体が間違いだったのかもしれん」
傍らの佐野は目を瞑り、直立不動で傾聴していた。武田は背もたれに寄りかかり、寛いだ姿勢で聞いていたが、その他のメンバーは一様に緊張した面持ちで上官の話に耳を澄ませている。
「尋常な手段で戦況を挽回するのは不可能。よって本官は考えた」
小田は軍刀を前に杖のように両手で構え、一同を見回して言った。
「米国の大統領ルーズベルトの首を取る」
その部屋にいる誰もが凍り付いた。あまりに馬鹿げている。しかし小田も佐野も表情を崩さず、真剣な面持ちである。
「もう一度言う。究極の目的はルーズベルト大統領を討ち取り、日本にとって有利な条件で戦争を終結させることである。米国大統領は軍の総司令官も兼ねる。大統領を失えば、敵軍にも相当な混乱が起こることが予期される。本作戦は戦局を転換しうる最後の機会である!諸君らには帝国の未来のため、超人的な責務を果たすことが求められる」
簡略な演説であったが、小田の弁には熱がこもっていた。
「くくっ、何を言い出すかと思ったら、下らねえ。俺は帰るぜ」
武田は立ち上がり、ドアに向かって歩き出した。
「貴様ぁ、上官に向かって何を言うか! 戻らんか!」
佐野が大声で怒鳴る。
「うっせいな。俺のことは知ってんだろう。上官に対する暴言・暴行により五度の営倉入り。命令違反七度。うだうだ抜かすと、てめーもミンチにしちまうぞ」
佐野はこれを受け、武田に歩み寄り掴みかかろうとしたが、それを小田が制して静かに言った。
「席に戻れ、武田軍曹」
小田の射すくめる様な視線に、武田は渋々席に着く。それを見て小田は再び話を始めた。
「この作戦に選ばれた時点で諸君らには拒否する権限はない。この作戦を決行するか、死ぬかだ。これから二十四時間監視付きで作戦に必要な訓練を受けてもらう。本日より家族への面会はできないが、手紙を書く、電話で話すことは可能である。ただし家族への手紙、電話が許されるのは内地にいる訓練期間中だけである。また、全て検閲、盗聴されることを前もって通達しておく」
小田はそこまで話すと、佐野に話を引き継いだ。佐野は指し棒で地図を指したり、手を単調なリズムで叩きながら説明し始める。
「これから貴様らには参戦遂行に向けて訓練してもらう。米国までは帝国海軍潜水艦に乗船。ロサンゼルス近郊浜辺に上陸した後、現地協力員から重火器など機材の補充を受ける。それ以降は佐野以下、北条、太田、武田、今川、長尾の六名は、米国民間人に扮装し、大陸を渡りワシントンへ向かう。隊員に必要な能力は戦闘のみならず、情報、爆破、医療と多岐にわたる。戦局はひっ迫しており、直ちに訓練を行う」
「質問があります」
今川がおずおずと挙手をした。
「なんだ、言ってみろ。今川」
「その、戦力が我々だけなんでしょうか。あまりに重い責務を担って任務を遂行するには戦力が乏しい気がしますが」
「貴様ぁ、それでも大日本帝国陸軍兵かぁ! 断じて行えば鬼人もこれを避く、というではないか。前へ出ろ! 制裁を加える」
佐野は握りこぶしを作って今川を叱責する。この近代戦争の中でこのような精神論を振りかざす上官は少なくない。というより、日本においては陸海軍ほぼ例外なくそうだった。
「くふふふ。おいおい、手前ら頭大丈夫かよ。たった六名でアメリカに殴り込みか。こんな馬鹿共が戦争指導をするんじゃ負けるはずだよなぁ」
武田が不敵に笑いながら言い放つ。
「黙れ!」
佐野は血相を変えて怒鳴った。確かに正気ではない。この人数で太平洋を横断し、さらに大陸を横断し、武器を受領し、ホワイトハウスに殴り込みをするなど馬鹿げている。
「質問よろしいでしょうか」
北条が挙手をした。佐野は発言を許し、視線を武田から北条に向ける。
「我々が選ばれた理由は?」
「現在米国において日系米国人は収容所に入れられている。またそれ以外の亜細亜人も差別の対象であり、人目に付きやすい。貴様らには上陸後、現地で行動するにあたり民間人に扮して行動してもらうことになる。その際東洋系の容貌は不利である。これが貴様ら『間の子』が選ばれた理由でもある」
佐野は咳払いしてから、北条の質問に答えた。なるほどと北条は納得する。選ばれた隊員達には共通項があった。隊員は恐らく日本に在住しているハーフあるいはクオーターなど欧州系あるいはアフリカ系の顔立ちを持った兵士で編成され、語学堪能なものが選ばれたのだろう。自身がそうであるように。
「上陸する日時、協力員の人数、接触する場所日時、そして上陸してからの日程、方法は?」
太田の質問で一瞬にして、部屋が静まり返った。この作戦に現実性があるのかどうか、太平洋を渡ることが可能なのかどうかも疑問符が付くが、問題は大陸に渡った後だ。どれ程の援助が受けられるのか。民間人に偽装し、見破られずに大陸を渡り切ることができるのか。
「上陸してからの日程、経路は現地での作戦遂行する隊員判断に任せる。これまでの大東亜戦争の経緯から敵に暗号が解読されている恐れがある。電波封鎖を原則とし、部隊の危機の際には独力で突破することを原則とする。尚潜水艦からは必要最小限度の機材を持ち、潜水具を付けて魚雷発射管から射出、上陸を果たす。これは隠密裏の作戦であり、我が方潜水艦への攻撃を防ぐだけでなく、こちらの上陸を秘匿する目的がある。武器、資材について、上陸時点では最小限度しか持ちえないため、現地協力員と接触して調達する」
佐野がそこまで答えると、その後を小田が引き継いだ。
「トラックで大陸間を移動することが一番良好と考えられる。武器など重機材を運ぶのにも都合がいい。後もう一つ指揮官の問題がある」
(指揮官の問題?)
北条は反芻した。小田は話を続ける。
「今回指揮を執る佐野大尉は階級も上であり、中国大陸、ビルマ、マレーシア、シンガポール攻略戦などの実戦経験が豊富だ。本作戦には無くてはならない存在である。しかしアフリカ系米国人であり、日本兵とは疑われないが、差別に合いやすい。米国では現在肌の色による差別が厳しく、交通機関、食堂、全て白人と黒人とは別々になる。特に西部、中西部、南部では肌の色による差別が激しい。よって公共交通は避け、トラックを使用することとする」
(人的資源は有限。全てがこちらに都合いいようにはならないということか)
北条は佐野の言葉から日本の人的資源の乏しさを思った。軍事的才能を持ち、さらに米国に日本人と疑われない人間はそうはいない。長尾という女性が隊員として選ばれているのも、人材不足が関係しているのだろう。贅沢は言ってられないのだ。純粋な軍事的な才覚からすれば指揮官に適任なのは佐野なのだろうが、米国上陸後には他の隊員と密接な行動が出来ない可能性がある。
「なるほどな。小田の面はアメリカじゃ日本人の恥さらしよ。行かない方がいいんじゃねぇか?」
武田が嘲笑しながら言うと、佐野は激高した。
「なんだと! 貴様!」
武田は上官に対しても物怖じしない態度を取り、上下関係にも全く頓着する様子はない。階級制度が厳格な軍隊において極めて異端な存在だった。北条は珍獣をみるような目で武田をみた。すると武田も北条の視線に気が付き、目配せをする。小田は武田の侮蔑にもさして気にする風でもなく、さらに説明を加えた。
「本来なら大陸を横断するにあたり、武器などを所持したまま移動したくはないのだが、東部には我々の拠点がないため、仕方がない。ルートは竹を予定しているが、封鎖している地域があれば経路をその都度変更する。概要は以上であるが、作戦の詳細は訓練の進捗状況、戦局の変化もあり、追って知らせる」
太田はそれに応じてさらに質問した。
「襲撃時米国大統領がホワイトハウスにいるかどうか確認する手段。後ホワイトハウスの詳細な構造、見取り図については如何でしょうか?」
当然の質問だ。太田の質問はこの作戦、作戦と言えるかどうかだが、この荒唐無稽の思い付きの重要な情報を聞き出そうとしていた。
「その点については問題ない。ホワイトハウスの襲撃訓練においても充分に配慮する」
太田は色々聞きだそうとするが、肝心なことを小田は何一つ言わなかった。北条は次第にこれが意図的であるということに気が付いた。計画の詳細は後で伝えられるのか、あるいは伝えられずに行うこともあるのかもしれない。しかしどのくらいの期間か不明だが、太田は忍者戦隊司令部に勤務していたのに、詳細を知らされていない事は驚きだった。重要なことを小田が話さないのは、何か理由があるのだ。今日が初日であり、何もかも伝えることができなかったのか。それとも何か他に理由があるのか。
「質問よろしいでしょうか」
今川が挙手し、佐野を遠慮がちに見ながら、小さな声で発言した。
「今川か。なんだ」
佐野は面倒そうに答える。
「作戦が成功した場合、日本への帰還は認められるのでしょうか。その際、帰還手段についてはどのようになるのでしょうか」
確かにと全員が思う。自殺同然の作戦で、成功どころか死ぬことは間違いない。しかし万が一、成功した場合、そして生き延びることができれば、日本の地を再び踏むことはできるのか。
「ならぬ」
小田が低い声で言う。
「帰還は認められない。作戦成功したことを見届けた後は、速やかに自決するように」
一同声を失った。長尾は顔面蒼白となり、口を手で覆っていた。皆大なり小なり動揺していたが、ただ太田だけは自若泰然としている。こういった作戦だと知っていたのか。それとも、余程軍人として模範的な精神を持っているのか。佐野のように。
「諸君らが想像しているように、ワシントンまでの道は遠い。辿り着けるかどうかすら不明だ。成功して帰還するということは、それをもう一度やるということだ。しかも作戦を遂行した際は米国全土に警戒網が発動することが予想されるため、帰還の難易度は倍加する。結果、捕虜となり、機密が敵に漏れる可能性が飛躍的に高まる」
小田は理路整然と今川に説明した。
「そ、そんな。帰還が認められないなんて。捕虜になっても、我が軍の機密は決して漏らしません」
今川は小田にか細い声で言い募った。
「生きて虜囚の辱めを受けずという言葉を知らんのか。潔く自決せい!」
佐野は金切り声で今川を怒鳴りつける。戦局は不利になっていたが、ここまでデスぺレートな発言をする軍人も珍しかった。小田は手で佐野を制して、語り始めた。
「捕虜になった場合、諸君らは米軍より尋問を受けるだろう。薬物などを用いた尋問・拷問のプロフェッショナルがこれにあたる。意思の力などではどうにもならない」
北条らはその言葉に衝撃を受けた。比喩ではなく、決死の攻撃なのだ。無謀かつ自殺的な攻撃。これが突如北条らに与えられた作戦だった。
「けっ、気違い野郎ども。好きにしろや」
武田が吐き捨てるように言う。北条はやるせない思いだった。
(九死に一生の作戦はまだ許せる。しかし生還を許さないなど、馬鹿げている)
「我々が死ぬことは分かりました。作戦が終わった時、佐野大尉はどうされるのですか?」
北条は指揮官となる佐野に問いただした。
「腹を切る。俺もどのみち日本には帰れん。また鬼畜どもの国で生きながらえる気はせん」
佐野はあっさりと答えた。軍人に聞けば馬鹿のように返ってくる定型文でもある。
「大尉。本当にそれでいいんですか?」
「何!?北条、どういう意味だ」
「言葉通りの意味です」
あまりに常軌を逸している。北条は沸々と怒りが込み上げてきた。
「小田少佐はどうされるのですか?」
北条は次に小田に質問した。小田は軍刀を前に構え、深く腰を下ろし、身じろぎもしなかった。表情を全く崩さず、感情が読み取れない。
「どうするとは?」
「指揮を自ら取られるのでしょうか?」
「私は日本に残り、成功の是非に関わらず、引き続きこの忍者戦隊の指揮を執る。以上だ」
部屋が静まり返る。予想した答えではあったが、軍隊の理不尽さが露になった。
「おいおい、何だよ、そりゃ。あんたは安全なところから、見物かよ。ざけんな!」
武田が立ち上がって、叫んだ。
「ふふ、何を今更。軍隊というものはそういうものだろう」
小田は不敵な笑みを浮かべて、言い放つ。
「糞野郎。誰がやるかよ。俺は抜けるぜ」
武田は言い返し、小田を睨みつける。
「武田ぁ! 貴様少佐殿に何という口を利くのだ!」
佐野は大声を上げて、武田を叱責した。
「黙れ。犬っころ。てめーは尻尾を振ってな」
「何い!」
佐野は武田に歩み寄り、胸倉を掴み上げた。
「手を放せよ。犬。もし俺を殴ったら、てめーとそこにいるしたり顔の小田をぶち殺して、ここを出ていく」
「何を!」
佐野が拳を振り上げたその時、小田が立ち上がった。
「やめい。佐野。もう、よい」
「はっ、し、しかし」
「下がれ」
小田がそう言うと、仕方なく佐野は武田を離した。武田は舌打ちをしながら、服装を直す。小田はそれを見て、目の前にある黒電話を引き寄せ、電話をどこかに掛けた。暫くやり取りをすると、武田に受話器を渡す。
「君にだ」
不審げに武田は電話に出た。
「誰だ?」
『お兄ちゃん!? う、うう』
聞きなれた妹の泣き声だった。何故?武田は混乱した。
「怜奈!?どうした。何があった!?」
『う、う。いきなり家に知らない男の人達が押し入って来て・・・』
「なんだと!?」
『沢山石油缶持って来ていて、ううう、う、今、狩野という人が、私に乱暴してから、火を家につけるって。殺すって!』
武田は小田を見る。小田はニヤニヤとしながら、楽しそうに武田を眺めていた。小田はゆっくりと立ち上がると武田の傍に行き、受話器を武田から取り上げて、そっと黒電話に置いた。
「怜奈と言ったな。可愛い妹らしいな。お前の様な男にあのような可愛らしい妹がいるなど、なんとも不思議なものだ」
「こ、この外道!」
武田は拳を握りしめ、怒りに体を震わせる。
「お前の妹は複数の見知らぬ男から性的暴行を受けたあげく、火あぶりで死ぬ。何と悲劇的な人生だろうか。いやはや、武田は妹思いの素敵な兄貴。 まさかまさか、私にそのような残酷な事はさせないよなあ」
小田は顔を振りつつ笑みを浮かべて武田に言った。
「妹に何かしたら、貴様をずたずたにして殺してやるぞ」
武田が凄む。しかし小田は一向に気にするようではなかった。
「陳腐だ。実に陳腐な脅し文句だ。その前にお前の妹は三枚おろしになるぞ」
小田は鼻歌でも歌いそうな表情で、益々上機嫌で返す。どんな電話のやり取りがあったのか詳細は不明であったが、北条をはじめ、部屋にいた全員が会話からおおよその検討がついた。武田だけでなく、皆小田の狂気に戦慄していた。
「座れ。武田軍曹」
小田は椅子の背もたれを持って、武田に着座を勧める。武田は拳を握りしめたまま、立ち竦んでいた。
「た、武田君」
今川が声を掛ける。武田は小田を睨んで動かない。
「もう一度言うぞ。座れ」
脅しではない。小田は何でもやるだろう。武田は席に再び着いた。小田はそのまま背後からそっと近づき、武田の耳元に囁いてくる。
「ゲイリー ヒュースケン。お前の親父の名前だ。船乗りだったお前の親父が失踪、お前の母親は場末の売春宿で体を売って、女手一つでお前達を育て上げた。最後にはありがちな病で母親も死んだ。苦労も色々あったろう。お前自身もその容貌から様々な差別にあいながらも、色んな仕事を幼少時から行い、懸命に家計を支えた。その為学校にも満足に行けなかった。そしてお前は軍隊に入った。一つは教育を受けるため。もう一つは妹に仕送りをするため。泣かせる話じゃないか。彼女は無事で、幸せであって欲しいと思っているよなあ」
そして小田はさらに武田の耳元に顔を近づけて言った。
「お互い妥協できる事はないかね。武田軍曹。君が妥協すれば、有難いのだがね。」
小田は満面の笑みを浮かべ、武田の耳に囁いた。
「俺が作戦に参加すれば、妹は大丈夫なんだろうな」
武田は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべ、絞り出すように言う。
「ああ。それどころか、君が戦死した場合、いや、もちろん必ず戦死するのだが、軍人年金を保証するし、機密費で妹の学費を捻出してやろう。私は自分でいうのもなんだが、約束は守る男だ。私の言葉はその点では信用してくれていいよ」
「この野郎。てめーの腹は痛まないだろうに。約束は守れよ」
武田の答えを聞き、小田は破顔一笑。相好を崩した。
「諸君! 武田軍曹は靖国神社で軍神になることに納得してくれた。実に目出度い。ふふふ、諸君らも、本作戦について納得してくれていると思うが、何か不平不服があれば、日本にいる間は是非私に直接申し出てくれ。話し合おうではないか」
北条は戦慄する。いや、誰も彼もが考えているはずだ。自分の家族は大丈夫だろうかと。
「貴方は狂っています」
北条は嫌悪感を隠さず言い放った。
「ふふふ、何をいまさら。狂った男だと? 私は大日本帝国陸軍の人間だぞ。そんな認識は周回遅れだ」
小田は武田から離れ、自席に戻る。そして改めて全員を見直して言った。
「戦況は切迫しており、時間がない。本日これより直ちに訓練地に向かえ。地獄の訓練が始まる。精々耐えてみせろ」
第三章 訓練
一九四四年五月三十日午後十六時五十分
午後、早速暁部隊は東京駅から東那須野駅まで東北本線で向かった。東京から半日かけて到着した駅前は閑散としており、民家もあまりないようなところだった。まだ夏休みにもなっておらず、また戦時中ということで、訪れる人は殆どいない。駅からは荒野のような景色が広がっており、駅前でも舗装された路面はなかった。
そのような一寒村の駅前に不釣り合いな一式半装軌装甲兵車 ホハが停車していた。
北条らは佐野と共に半装軌装甲兵車に乗り込み、輸送された。室内は薄暗く、窓もないため外の様子がわからず、どこへ向かっているかも不明であった。途中までは路面があったようだが、やがて不整地となり、車体がガタガタと揺れる。どこを走っているかわからないが、勾配が強いため、山地に入っているということは間違いない。不整地なので、半装軌装甲兵車が必要だということが分かったが、座席自体も堅かったため、乗り心地は良くなかった。北条らは長い時間、ひたすら尻の痛みに耐えていたが、ようやく停車した車両から降りると、白い木造の建物が目に入ってきた。洋風の建物であり、ブナの木々が散在した庭の芝生が鮮やかだった。初夏であるため日が長かったが、時間も遅いため、沈む夕日が最後の弱弱しい光を宿舎に投げかけていた。
「ここが貴様らの宿舎だ。この建物はカズキ イシグロが設計したといわれている。元々は駐日外国人の別荘として建てられた。今は我々大日本帝国陸軍が接収使用しておる。我々は『農場』といっているがな」
佐野が説明しながら中に入る。玄関を通り抜けると、吹き抜けの広いホールが広がっていた。床はタイル張りで、自身の顔が映るほど綺麗に磨き上げられている。内部も白かった。
「清水、どこだ?」
暫くすると、中から若い女性がでて来た。二十代半ばだろうか。黒い髪をショートカットにしており、碧眼、白い肌。
(間違いない。この子も我々と同じだ)
「清水 ルーシーです。皆さんのお世話をすることになりました。こちらは富永 キャシー、多米 ルースです。同じく皆様のお世話をいたします。何卒よろしくお願いいたします」
紹介された他の女性達も同じように若く、白人系の顔立ちであった。富永は赤毛で、顔にそばかすがうっすらと見えた。多米は長い黒髪を持ち、黒い瞳、しかし顔立ちが整っており、一見して日本人とは異なる容貌だった。北条達も頭を下げ、挨拶した。
「部屋への案内の準備が済むまで、こちらでお待ちください」
北条達は玄関ホール傍の応接室に通される。暖炉のある広い部屋にはソファが置かれていた。
「すごいなあ」
今川が感嘆の声を上げる。部屋自体も豪奢な作りであった。
「皆様には各自一部屋用意しております。皆様をお部屋に案内する前に、いくつか注意点を述べさせていただきます。まず、起床は六時。就寝十一時です。朝食は一階食堂で六時十分から。ただし六時半には訓練準備を整えてください。十二時に昼食。午後は十三時十分より。十八時夕食。お風呂は天然温泉があり、二十四時間入浴は可能ですが、基本的に許可された時間内のみです。風呂、厠は原則男女共同使用ですので、ご了承ください」
清水は説明を終えると部屋から退出した。
(時間スケジュールが本当に分刻みだ。食事時間が十分というのは軍隊の常ではあるが、混浴とはこれ如何に?)
北条は頭を巡らす。
「いええい。何か天国いきなり来ました! 意味不明なルール! しかし大歓迎だぜ!」
武田は完全に舞い上がっていた。それを無表情で見つめる長尾。
(気が付けよ! 武田!)
北条は心の中で叫んでいた。
「いやあ、私は妻も子供もいるんですけど、まあ任務だから仕方ないですよね」
今川は申し訳なさそうに言ったが、ニヤリと笑ったのを北条は見逃さなかった。長尾も見逃さなかった。
「仕方ないですね。任務とあれば。これも訓練の一環です。まあ、何かあった場合は許していただきたい」
太田は黒縁の眼鏡を指で押し上げながら、静かに言った。
(太田。何があるんだ!? 何もないだろう!)
北条は心の中でツッコミを入れてしまう。
「大尉。こんな広い屋敷であるにも関わらず、風呂、洗面所の共同使用とする理由を説明していただけませんか?」
長尾が尋ねた。北条は初めて合理的かつ的確な質問が出た気がした。
「その点については本官から話そう。つまりだ、最初の潜水艦で一か月ほど航海して米国へ辿り着くのだが、その間は当然男女の別なく過ごさざるを得ない。乗艦予定の伊号第十三潜水艦は百名ほどの乗員で便所は二つしかない。個室はなく、当然風呂もない。室内温度は常に三十度以上。湿度百パーセント。本官も乗艦経験がないので、知ったことは言えないが、相当過酷な環境らしい。衛生状態を考えると、体を拭かなければならないが、更衣室はないのだ」
佐野は暗い表情で答えた。
「潜水艦内はそんなに衛生状態は悪いのですか?」
今川が心配そうに尋ねる。
「軍医は乗艦しているが、何らかの皮膚病は必発とされている。ただし伊号潜水艦は欧米、ドイツのUボートと比較すると大型であるため、まだましな方だ。一応我々には一人一人に専用のベッドも与えられるらしいしな」
佐野はそう説明したが、言い訳じみて聞こえた。
「冷房装置、除湿器はついてないのですか?」
太田が黒眼鏡を指で上にあげながら聞いた。
「伊号潜水艦には冷房装置が完備されている。されているにも関わらず、この温度、湿度であるらしい。ベテランの潜水艦員ですら、心を病む。それ程過酷」
佐野の話を聞き、武田、今川、太田が揃って頷いていた。
「それで風呂も便所も共同使用。慣れるということか」
武田が言うと、佐野は頷いた。
「実際に潜水艦内には男女の別はない。海外でも女性兵士がいるとのことだが、扱いに差異を設けていないところが殆どだ。兎に角上陸するまでは、我々は健康に留意して、隊員が欠けることがないようにしなければならない。 付け加えておくが、潜水艦内は感染症の予防のため和式便所であるが、上陸後は洋式便所である。我々も使い方を学ばなくてはな」
いつもは高圧的な佐野も海のこととなれば、不安があるようだった。何より隊員の健康を齟齬するのを極度に恐れていた。多分米国人と見分けがつかない兵士をそれほど集められるわけではないからだと北条は思った。
「だとすると、宿舎もこのようにそれぞれの部屋というより、狭い部屋で過ごす方が良くないですか」
今川がさらに聞いた。
「訓練期間がかなり長い。習得する技術があまりに多く、年余の訓練期間が必要だ。あまりに過酷な訓練環境だと、慣れる、慣れない以前にストレスにより体調不調、精神疾病に罹患する可能性がある。リスクは避けるという小田少佐の考えだ」
佐野が答える。
(折衷案か)
羞恥心は慣れるのに時間が掛かるが、閉鎖空間での慣れはそれ程時間が掛からないという判断だろう。逆に修正可能な慣れか、それとも修正不可能な慣れかでこのような事になったかもしれない。
「お待たせしました。それでは順に部屋にご案内いたします」
そうこうしている内に清水が現れた。それぞれが案内に従い、順に自室に向かっていく。
「ふうーっ」
北条は大きく息をついて、ベッドに座り込んだ。そして倒れ込むようにベッドに横になった。部屋は一人用の部屋としては広く、ベッド、ソファー、机などが設置されている。さらに訓練用の衣服、装備が部屋に設置されたロッカーに置かれていた。あまりに目まぐるしく、多くの事があり、北条は疲労していた。しかもまだ終わっていない。
「これが軍隊というものか」
北条は自分をそう納得させるため、声に出して呟いた。
一九四四年五月三十日午後十七時五十五分
気が付くと室内は真っ暗で、暫くの間眠っていたらしい。北条は体を起こし、ベッドに暫くの間座り込んだ。するとドアのノック音が聞こえてくる。北条がドアを開けると、長尾が立っていた。
「北条少尉。夕食の準備ができたそうです」
「あ、ああ。有難う」
「私は隣室です。よろしくお願いいたします」
「あ、こちらこそ」
北条は寝起きで、上手く受け答えできなかった。そのまま長尾と共に部屋を出る。
その後、宿泊施設において、全員が食堂で夕食を取った。夕食のメニューは白米、牛肉の味噌煮、ひじきと大豆の煮込み、みそ汁、沢庵漬だった。たった今死刑宣告をされたのも同然というのに、全員食欲旺盛で、出されたものを全て平らげていく。
今川はさらに特別食の羊羹を注文して、喜んでいた。驚くべきことに武田などは酒を頼み、しかもふんだんに出されている。明日早速訓練を開始すると聞かされていたので、北条は飲まなかった。武田もその辺は心得ているらしく、酩酊するほどは飲みはしない。そして佐野も口うるさく言わず、静かに食事をしていた。
「いやー、極楽みてーな所だ。酒も食事も美味いし」
武田が言うと、今川も相槌を打った。
「本当だ。贅沢だよなあ」
北条自身、白米をふんだんに食べられたのは何時以来だろうか。量も充分だった。
「潜水艦員でもストレスを軽減し、精神的な疾病発症を防ぐために、腕利きのコックを乗船させて、旨いものを振舞っているらしいからな。しかし、和食は今日で最後だ」
突然、佐野が言った。
「ええっ」
一同から声が上がる。
「どういうことですか?」
北条が訪ねた。
「どうもこうもないだろう。その言葉通りだ。まず向こうに上陸したら、人間であるから食事をしなければならない。かと言って食料、水を担いでいくのか? 違うだろう? 商店に入り、レストランで食事をする。我々はテーブルマナーに熟知しているか? 味は大丈夫か? 料理を知っているか? チップの額は? もちろん貴様らの中には母親が作ってくれた洋風料理もあるだろう。マナーをある程度わきまえているものもいれば、家庭の都合で和食に馴染んでいるものもいるだろう。つまりバラバラだ」
そこまで言うと、佐野は橋を置き、さらに続けた。
「これから全員洋食に切り替える。味にも慣れ、テーブルマナーも身に着ける。誰から見ても米国人として、疑われないようにするのだ」
「偽装訓練の一環という訳ですか」
北条が言うと、佐野は頷いた。佐野はさらに続ける。
「また今日から、互いに敬礼や階級名を付けることを禁止する。この理由も同じだ。ありふれた米国市民になるのだ。厳密にいうと、民間人に偽装した軍人というのはこれだけでも国際法違反であり、問題だ。しかし、ここまで戦況が不利な状況で我々に残された手段は限られている」
佐野は一同を見回して、異論があれば何時でも受けるという顔をした。
「じゃあ、あんたの事をどう呼べばいいんだ? 糞野郎か?」
武田が茶化すように言うと、佐野は武田を睨みつけ、自分の目を指差しながら言った。
「俺の目を見ろ。冗談を言っているように見えるか? 貴様の俺に対する呼び方を教えてやろう。佐野様か佐野殿だ。そしてあまりお勧めしないが、佐野閣下だ。好きなものを選べ」
武田は鼻を鳴らしたが、一応納得したらしい。佐野は隊員達の反応を確認してから、さらに話始める。
「さらに明日から全て英語での会話に切り替える。貴様らがある程度英語に通じているというのは分かっている。ある程度の日常会話レベルなら問題ないはず。訓練も英語にて行う。徹底するぞ」
北条は、その外見はともかく、食事は専ら和食だった。母を早くに亡くしたこともあるが、父の嗜好のためもあり、何より和食が好きだったのである。
「本日はこれより自由行動とする。明日朝食後、六時半に一階会議室に訓練用装備一式揃えて集合すること。明日からの訓練に備えてたっぷり休んでおけ」
桜舞い散る中、子供たちが争っていた。子供らの年齢は十歳くらいであろうか。輪の中にいるのは金髪碧眼の少年。遠い遠い昔。
「毛唐に負けるな、やっちまえ!」
周りにいた少年たちは一回り背の高い金髪碧眼の少年を囲んで、交互に蹴ったり、殴ったりしていた。しかし金髪碧眼の少年も負けてはいなかった。果敢に反撃し、その内一人を引き倒し、馬乗りになって殴る。しかし、直ぐに蹴り飛ばされ、逆に馬乗りになられて殴られた。そうした争いが暫く続いたであろうか。不意に取り囲んだ少年たちの動きが止んだ。ある一点を見つめている。
「やーい、毛唐。ざまあみろ」
そう言ってその少年たちは北条から離れ、散っていった。金髪碧眼の少年は身を起こし、取り囲んだ少年たちが見たものを見た。それは少年の母親だった。母親は白い日傘を差し、土手の上から今の騒ぎを見ていた。
川沿いの土手を母親の後ろを少し遅れて歩く。少年は殴られたり蹴られたりで、体中が汚れて腫れ上がっていた。
「毛唐って何?」
少年は不意に母親に問うた。母親は立ち止まり、そしてゆっくり少年に振り向いた。その顔は美しく、色白の肌で、少し頬が赤みを帯び、少年と同じ金髪碧眼であった。そして悲しそうに少年を見つめ、何か言おうとした。
その時、北条は目が覚めた。
(今何時だ?)
あまりに色々有りすぎて、夕食後自室に帰るなり、すぐに寝てしまったらしい。腕時計をみると朝五時。北条は昨日の事を思い起こしていた。
(輸送船に乗り込もうとしたところを、小田少佐に連れてこられ、とんでもない作戦を知らされた。米国大統領暗殺。小田少佐、佐野大尉、今川、武田、長尾、太田。忍者戦隊、暁部隊、那須野山奥に連れてこられ、それから、それから、自分は任務で死ぬのか。そうだ、死ぬ。父さん、母さん)
その時、宿舎から電話が掛けられることが思い出された。
ベッドからでて、洗面を済ますと、もう既に陽が昇っており、廊下に出ると明るかった。一階のホールに降りて、電話機を探す。ふと見ると、武田が一階のホールにある電話を使っていた。丁度話が終わったらしく、電話を切っている。武田は北条を見かけると、手で挨拶をした。
「よう」
「武田も妹に電話か」
「ああ。実を言うと昨日あまり眠れなくてな。早朝で申し訳なかったんだが、昨日の今日だからな。昨日無事を確認するために疎開先へ電話した時は妹もショックで話にならなかったし」
「だろうな。で、大丈夫だったのか?」
「ああ。まあ一安心だよ。この電話使用可能時間も短く、盗聴されるらしいから、肝心な事は何も話せん。それでも声を聴くことができた。お前も電話するんだろう。じゃあな」
階級では北条の方が上だが、そういうことについて武田は無頓着であった。しかし悪い気分はせず、さばけた人柄は北条と馬が合いそうであった。
北条は武田と入れ替わり、受話器を取る。女性の電話交換手が出て応対してくれた。
「こちら忍者部隊交換台です。本電話は全て録音されます。会話許容時間は一日につき、三分です。尚不適切な発言、会話があった場合、予告なく電話回線を遮断する場合があることを了承ください。どこへおつなぎいたしましょうか?」
「北条 康です。自宅へ」
「了解しました」
呼び鈴が鳴っているのが聞こえる。暫くして父が電話に出た。父は横須賀の造船所に勤務しており、母が亡くなってからは自宅も職場の近くに移していた。
「父さん?朝早く電話して御免」
「康か! 康なのか。もう日本を出たのかと。どうだ、元気か?」
「うん。大丈夫だよ。まだ生きている」
「いつ日本を出るんだ?まだ暫く日本にいるのか?」
「ちょっと詳しいことは言えないけど、まだ暫くいる予定」
「そうか。まだ日本にいるのなら、会いに行くことはできるのか?」
「会うことは出来ないんだ。町の皆に華々しく見送ってもらって、まだ日本にいるってちょっとね。僕はもう南の島に行っていると思っている人もいるかもね」
「何を言う。無事ならいい」
「誰よりも立派な日本人として戦地で死んで来るよ。これで父さんも肩身が狭くなくなるよ」
心に渦巻く感情。昔からいつもそれはあった。誰よりも日本人らしく。そう思い続けていた。父に思わず自身の感情をぶつける。
「馬鹿な事を言うな!」
お互い無言の時間が暫くあった。北条は電話口の向こうで父親がすすり泣いていることに気が付いた。いつもこうだった。北条は自身の心の捻くれ具合はつくづく嫌になっていた。自分の感情を上手く伝えることができない。
「じゃあ、そろそろ行くよ。父さんと話せて良かった」
「ま、待て、康!」
北条は静かに受話器を置いた。三分も続かない会話。思わず苦笑して、振り向くと、長尾が立っていた。綺麗な顔立ち。どこまでも深いエメラルドグリーンの眼が北条を見据えていた。
「ミスター北条。もうそろそろ朝食の時間です」
まるで人形の様な彼女の口から英語が発せられる。
「ミスター北条?」
英語で話しかけられ、北条は戸惑い、思わず言われた自分の名前を復唱した。
「階級名で呼ばないんでしょう。昨日言われたでしょう」
「あ、ああ」
(そういえばそうだった。しかし何か馴染まない)
「あ、その。北条と呼び捨てでいいよ。こちらは君の事なんて呼んでいい?」
北条も英語で返した。
「長尾でお願いします」
「じゃあ、それで行こう」
二人は食堂に向かった。
「苦手なのね。お父さんの事」
長尾は小さな声で呟いたが、北条には聞こえなかった。
一九四四年五月三十一日午前六時五分
六時を過ぎると三々五々食堂に隊員は集まり始めた。よく眠れなかった者、眠れたもの、様々だった。昨日言われた通り、テーブルには洋食が配膳されていた。さらにファイルが置かれており、テーブルマナーについて冊子が入っていた。
「食事も訓練の一つだ。ファイルが置かれているが、その中に冊子が入っている。これら訓練、知識に関する冊子は全て同じ大きさで印刷されており、ファイルに収納可能になっている。自由時間に予習、復習を各自するように。余白に書き込み自由だ。何せ周囲は山地。勉強する以外何もなし。訓練、勉強時間はたっぷりあるぞ!」
佐野はそう言ってから、朝食を取り始めた。彼も英語の発音が完全だった。学校の先生をしている北条より、佐野の方が余程先生らしかった。
食事はトースト、目玉焼き、ベーコン、果物の盛り合わせ、果実汁、牛乳。
「こ、こいつはなんだい?」
武田がボトルに入った物に目を見張る。
「それはケチャップというものです。米国の民衆が好んで使う調味料です」
清水が答えた。
「本当にこういう料理を食べたことないのか?」
横にいた太田は呆れながら武田に聞いた。
「いや、あるというお前たちが凄いよ。俺の周りにはこんなもの食べている奴いねーよ。俺自身食べてないし」
武田は顔の彫も深く、見かけは完全に西洋人のそれだが、純粋な日本人そのものの食習慣だったらしい。
「いやあ、こういう朝食も美味しいね」
今川が食べながら言った。トーストにこれでもかというくらい、ジャムとバターを塗りたくっていた。
「今川さん、食べすぎると訓練きつくなりますよ」
北条は今川のその旺盛な食欲が心配になっていた。
母親が米国人あるいは英国人である場合、テーブルマナーに困難は感じないようだった。北条、長尾、太田などは問題がない一方、佐野、武田、今川は苦労していた。分からないことが有る度、清水、富永、多米から指導を受けている。佐野や今川は配布された冊子に注意点を書き込んでいたが、武田は出された料理が珍しかったのか、あれこれと聞くに留まっていた。
食事をしながら会話をして気づいたことは、長尾以外全員が米国訛りだった。長尾だけは英国訛り、いわゆるクイーンズイングリッシュだったのである。
「武田。得た知識は全てメモをしろ。これも訓練だ!」
「分かってるって。じゃなかった、分かりました。これでいいか?」
ソーセージをかぶりつきながら、武田は返答していた。
「よーし。朝食が終わったら、直ちに準備。六時半に一階会議室に訓練用装備を整え、集合せよ」
佐野は席を立った。
「傾注!」
一階会議室に訓練用装備一式揃えて隊員全員が整列していた。
「最初の八週間は体力増加期間とする。これからすることを、良く頭に叩き込んでおけ。早朝、朝食後、十キロの行進。最終的には山地五キロを三十分で走破することを目標とする。一分以内に三十回の腕立て伏せ、腹筋運動、時間制限なしで十回以上の懸垂運動、これは最低限だ。これを隊員全員の至上命題とする。まずは体力がなければ話にならない」
佐野はそう言って締めくくった。
「あのーですね。発言よろしいでしょうか」
「なんだ、武田」
面倒そうに佐野が答える。
「俺とかはいいんですけどね、長尾さんの様な女の子にはキツイじゃないですかね。かなり厳しい体力基準ですよ」
長尾をチラチラ見ながら、武田は神妙な顔で言った。
「心配いらん。長尾は元陸上部で、聖心女子学院時代は陸上の万能選手だったらしいからな。彼女の記録をここで読み上げるか?」
「嘘でしょう・・・」
武田が絶句した。長尾が武田に向かい、口元に笑みを浮かべ、どうだと言わんばかりの顔をしている。いつも無表情な彼女が少し人間らしい表情を見せる時、極めて魅力的だった。
「いやー、私はもう中年ですよ。」
一方厳しい目標に今川がげんなりしていた。今川は確かに小太りで、一見して運動不足が見て取れた。
(軍隊にいたのに、これまでどうしてたんだろう)
北条が思っていると、佐野が何もかも見通すように言った。
「今川は昔剣道の有段者として鳴らしたが、今はどうだ。そのぶくぶく太った自身の体をみろ。大方内地勤務で旨いものをたらふく食っていたんだろう。ここでも旨いものは食えるが、訓練もやってもらうぞ」
今川はそう言われると、肩をすくめて項を垂れる。
「頭脳労働を主にやっていたのでね。こんな体力を使う任務は・・・」
太田も不平そうに言う。そもそも日光に十分当たっていないのではと思うくらい、青白い肌だった。炎天下で行軍した場合、倒れるのではと心配された。
「太田君。ここは軍隊だよ。お分かりかな」
佐野が冷淡に言うと、太田は押し黙った。
「午後から武器、装備品の取り扱い訓練、射撃訓練を行う。夜の教育は座学だ。米国の歴史、習慣、語学などを学ぶ。貴様らは語学に関してはかなりできるということではあるが、改めてしっかりと学んでもらう。体力増強期間が終了したら、格闘訓練、爆破訓練を射撃訓練と並行して行う。最終的には水中潜水訓練、上陸訓練を行う」
「潜水訓練?ここは那須の山奥じゃないですか?」
太田が聞き返した。
「潜水訓練用の二十五メートルプールが設置されている。水中潜水訓練、上陸訓練はそこで行う」
こんな山中にそんな設備まで備えていることに一同は驚愕する。
「よし。それでは屋外に移動。まずは行軍訓練だ!」
佐野はその他には質問が出ないことを確認すると怒号を放った。
「いちにさんし!」
掛け声と共に訓練用装備を身に着け、駆け足で行軍した。M1ヘルメット、日本帝国陸軍の軍服を着こみ、銃はガーランド自動小銃を配布され、さらに弾倉六箱。マークII手榴弾を装備している。訓練に使用する武器が米国製なのには理由があった。米国上陸を成功させるには作戦を秘匿し、潜水艦の発見を避ける必要がある。そのため潜水艦は潜航したまま、北条らは魚雷発射管から射出され、潜航移動後上陸する。よって当初所持する武器、防具は必要最小限度である。基本武器、弾薬、爆発物は現地調達であり、さらに武器を喪失しても米国本土で再調達しやすい。軽装とは言え、武器防具を装備して駆け足行軍ともなるとかなりきつかった。しかも山中で平地ではない。道は一応踏み固められた地面ではあり、草木をかき分けて進む必要はなかったが、負担は大きい。今川、太田が遅れ始めた。二人とももう汗だくだった。
「こらあ! 何をやっている。進め! 進まんか!」
佐野の怒号が飛ぶ。北条はが前をみると、武田と長尾は先に進んでいた。彼らもはペースが乱れていない。それどころか汗一つかいていなかった。
「武田、お前陸上部かよ?」
息も絶え絶えになった太田が前を行く武田に向かって叫んだ。
「俺はなあ、昔空手をやっていたが、こいつは金にならん。俺は将来職業野球選手になろうと思っていたんだ!」
「巨人軍を目指していたのか?」
北条が驚いて聞いた。
「馬鹿野郎! 俺様がそんなスケールの小さい人間と思うか? 大リーガーだよ! 大リーガー! ベーブルースの様なスターになって、億万長者になる予定だった」
武田はそう言うとさらにペースを上げた。佐野と長尾が負けじと追いかける。
「ちぇ、嘘ばっか」
太田が呆れたように言った。
「こらあ! 太田、遅れるな!」
佐野の檄が飛ぶ。一同は山中を風のように駆け抜けていった。
日中訓練をやり続け、一同疲労困憊していた。佐野は高齢にも関わらず、常に檄を飛ばし、意気軒昂だった。
「こらっ! 装備品一式を収納して訓練終了だ。装備がきちんと収納されているか相互に確認せよ。太田、私の物を確認してくれ」
全員が装備品の収納を確認。それぞれ自室に装備品を収納すると、食堂に向かった。出されたメニューはコーンスープ、グレイビーソースのかかったステーキ、マッシュドポテト、サラダ、フルーツ、赤ワインだった。ステーキも分厚く、戦時下の日本では中々食卓に上がらないものばかりだった。
「皆食え。食らえ。体力が落ちてはいかん」
佐野は言うと、テーブルマナーを確認しながら、ステーキを切り分け、ガツガツと食べた。
「あー、腹減った。ここステーキのお替りいいの?」
そう言いながら武田も清水、富永、多米らにテーブルマナーを確認しながら器用に肉を切り分け、食べていた。北条は食べる食べない以前に激しい訓練のため食欲が無かった。
「こんな脂っこいもの、食べられないよ」
今川も同様の状況だったらしく、食事が進まない。
「いいから黙って食え。米国人の肉の消費量は日本人の十倍に達する。上陸してからは、食事はこいつだ。食べられないんじゃない。食べるんだ! いざ戦う時に健康を損なうようでは困る」
「あのーですね。発言よろしいでしょうか」
「またお前か。なんだ、武田」
面倒そうに佐野が答える。
「俺とかはいいんですけどね、長尾さんの少なくありませんか。これだとお腹減りますよ」
長尾をチラチラ見ながら、武田は神妙な顔で言った。
(食欲が有り余るほどあるお前が凄いよ)
北条は心の中でそう思った。
「心配いらん。全員体格を考慮した必要なカロリー数を考えて作製している」
そっけなく佐野が答えた。武田の気遣いは又も空振りに終わった。それはそうだろう。武田と長尾とでは体格が違う。必要とする食事量も違うだろう。武田らの会話を余所に、長尾は無表情で食べ続けていた。表情からは彼女がどのような気持ちでいるのかは伺えなかった。
「これも訓練の一つですか?」
北条が聞いてみる。
「その通りだ」
佐野は食事をする手を休めない。北条はメニューをみて、東京から半日で行くことができ、しかも欧米人の食生活に適した牛肉、牛乳、果物をふんだんに供給できる地域として、那須が訓練場に選ばれた理由の一つだろうと考えた。北条は確かにこれも訓練の一環と割り切り、ステーキを切り分け、口に放り込んだ。
夕食後、二階の自室に帰るのさえ辛い状況だった。まだ初日だが、これがこれから連日と思うと気が滅入る。気分が悪く、食事も吐き出してしまいそうだった。部屋に入るなり、そのままベッドに倒れ込んだが、北条は自身の衣服が汗臭いことに気が付いた。
(ああ。風呂に入らないとな)
ロッカーには自身の新しい下着が用意されていた。清水さんらが用意してくれたのだ。替えの下着、バスタオルなどを持って風呂へ向かうことにした。
下に降りた時、風呂場の前の椅子に武田、今川、太田が座っていた。
「よう」
武田が北条を見て、手を挙げた。
「皆こんなところで何をしているんだ?」
「いやね。長尾さんが先に風呂場に入っていてね」
今川が人懐っこい笑顔を浮かべて、恥ずかし気に言った。
「混浴と言われても。やはり初日だから。長尾さんに悪くて」
太田が黒縁の眼鏡を指で押し上げながら、冷静そうに言った。皆なんだかんだと言って、優しい。
「だって、やっぱりなあ。だろ?」
武田が言うと。今川も太田も頷いた。気まずい。そうだ。そうなんだ。思わず、北条は噴き出した。それにつられて、今川も、太田も笑った。北条は四人目として、風呂場の前に設置された椅子に黙って並んで腰掛けた。
「何だよ。お前ら、何が可笑しいんだよ」
武田もつられて笑ったう。そして四人は次第に笑いが止まらなくなった。大笑いしているところで、長尾が風呂場から出てきた。
「どうしたの?」
ケタケタと笑っている四人を見て、長尾が怪訝そうに聞いた。
「いや、男の子同士の会話だよ」
北条はそう返したが、笑いがまだ収まらなかった。
「そうよ、男同士の会話って奴だ。さあ、皆行こうぜ!」
武田は先頭きって風呂に入っていった。今川と太田も後に続く。
「じゃあ」
北条は踵を返して、後に続こうとした。
「北条君」
長尾は北条を呼び止めた。
「うん?」
北条は首だけ長尾に向けた。
「有難う」
長尾が礼を言った。北条は微笑んで、風呂場の暖簾をくぐる。
「糞っ。皆で我慢したのに、どうして北条だけ有難うなんだよ」
北条の後に続いて入った太田が忌々しそうに毒づく。
「やっぱり顔かなあ~!」
今川がおどけたように言った。
「今川さん、それ禁断の言葉ですよ!言っちゃいけない!」
武田も茶化して言う。
「ざけんなよ。これは差別じゃねえか」
太田はさらにふてくされて言った。風呂は屋内と露天の二つに分けられていた。共に広く、湯も透明であったが、かなり熱めの湯だった。
「いやー、疲れたね」
今川が呟きながら露天風呂に浸かっていた。湯の流れる音と虫の声が何とも言えない風情がある。空気が澄み渡り、月や星々が綺麗だった。東京の空とはまるで違う。
「本当、湯治に来たような感じだよなあ。これで戦争さえなければなあ」
武田が目に手拭を当て、肩まで湯に浸かり、寛ぎながら言った。実際そんな感じだった。一瞬戦争中であることを忘れるような静かな、そして美しい世界。今この瞬間も何処かで誰かが死んでいる。殺されている。そして自分達ももう直ぐ死ぬということに現実味が無かった。
「戦争はもうすぐ終わるさ」
唐突に太田が言った。
「ええって、それってどういうこと?」
湯に浸かって赤ら顔になった今川が太田に驚いて聞いた。
「大本営ではこの戦争は百年続くって言っていたがな」
武田は目を瞑り、寛いだ姿勢を崩さず返した。
「別に。誰もが考えている事さ。東京からさほど離れていないサイパン島が陥落するんだ。そうなれば米軍のやりたい放題だろう。東京を始め、各都市は爆撃され、火の海になる。飛行機も船も銃も作れない。それ以前に最近燃料や物資が敵潜水艦の活動により南方より入ってこなくなっている。もう終わりだ」
太田は淡々と言った。忍者部隊に所属しているのに、大日本陸軍軍人としては問題となる発言だった。いや、忍者部隊に所属しているからこそ、このような厳しい戦局の認識が出来るのかもしれなかった。
「どんな終わり方なんだ?」
北条は太田に聞いてみた。分かり切ったことを聞くなという風に太田は笑った。
「それは多分日本の上層部が望んだ形ではないだろうな」
太田はそこまで言うと黙り込んでしまった。
(けど、もし、もしも出撃前に戦争が終わってくれたら)
新しい未来像が、全く異なる世界が見えるような気がした。
「そうだね。多分」
今川がぽつりと呟いた。
「けっ、湿っぽくなっちまったな。先に上がるぜ」
武田は早々に上がってしまった。
北条が風呂から上がると、ホールで電話を終えた武田に出会った。頻繁に妹と連絡を取り合っているらしい。
「電話していたのか。妹さんどうだった?」
「まあな。少し進展があったみたいだ。生活費支援や学費まで軍の方で出してくれるらしい。その点では小田の糞野郎は信じられるな」
武田は少しはにかむように言うと、やや間を置いて北条に話を切り出した。
「さっきの風呂場での太田の話、どう思う」
「どうって。確かに厳しい戦局だと思う。戦争についても、いつ政治的な決着がついてもおかしくないと思うけど」
北条は率直な感想を武田に返す。
「出撃前に戦争が終わり、俺たちは助かり、万事上手くいく」
「ああ。そこまで上手く行けばいいけど」
「俺は逆だと思うぜ。あの小田の野郎が戦争終結を望んでいるとは思えねえ」
「どういうことだ」
北条はついつい武田の話に引き込まれた。互いに聞かれないよう小声で話し始める。
「つまり和平交渉が始まり、戦争が終わりそうだから、逆に俺たちを米国にぶっこむっていう寸法さ。米国大統領が殺されたとなれば、向こうだって引きはしねえ。日本人を皆殺しにするまで戦争を続けるだろう」
「そんなことをして、小田にとって何の得になる?」
「奴の望んだ世界が続く。闘争と殺戮の世界だ。この世界が続く限り、奴のような半分イカれた人間は役に立つ」
「戦争の継続が本作戦の最終的な目的だと?」
北条は単に思い付きを口にした。武田は小さく頷いた。
「ようやく意見の一致をみたじゃないか。この作戦で大統領を討ち取り、戦局を挽回、終戦に持っていく。そして俺たちはその為の最後のバッター。こんなところだったな。そう上手く行くかどうかはさておいてだ。俺はこの筋書きがどうも信用ならねえ。現実的かどうかというところを別にしてもだ。つまり、言いたいことはだ。奴はこの作戦で、決定的な戦局の好転を期待していない。この作戦の真の目的は別にある」
そこまで一気に喋ると、武田はさらにトーンを落として、呟くように続けた。
「お前だって、このイカレタ作戦を額面通りに受け取っていないだろう?」
武田は小さく笑った。北条もうすうすと感じていた。武田の考えが合っているかどうかは分からなかったが、この作戦の真の目的が他にあるのではないか。しかし恐らく我々がそれを知らされることはないだろう。
「まあ、こんなところでああだ、こうだと二人で言っていても埒が明かないよな。いずれにせよ、この戦争が終わるなら、俺たちが米国に行かされる前に終わって欲しいぜ」
武田は北条の肩をポンと叩いて、自室に戻っていった。
(作戦の本当の目的・・・)
その言葉が北条の心の奥底に響いていた。
第四章 四式究極汎用戦闘術式
一九四四年七月十一日午前六時三十分
連日、厳しい基礎訓練が続いたが、全員が脱落せず、大幅な体力向上を果たしていた。今日から次の段階に移行するという。北条らは緊張して佐野からの話を聞いた。
「傾注!」
「本日から、戦闘術をお前たちに叩き込む。空手、柔道、剣道、合気道などと違う。打撃、投げ技、関節技、絞め技のみならず、銃および剣も含め、すべてを総合的に組み合わせた近代的戦闘術だ。これは支那事変の頃に開発研究が開始され、ノモンハン事件から実戦に投入された。本戦闘術創始者は名誉の戦死を大陸で遂げられたが、その後も大日本帝国陸軍では改良が続けられている。これから貴様らに戦闘術を指南する教官達を紹介する」
佐野が説明し終えると、三人の女性が武道場に入ってきた。
「清水 ルーシーです。皆さんと一緒に訓練をすることになりました。富永 キャシー、多米 ルース共々よろしくお願いいたします」
「ええっ」
北条らは驚いたが、予想しなかった訳ではなかった。作戦の秘匿性から考えても、そこらで雇ったただの家政婦とは考えられず、さらに日本と外国人との混血。恐らくは作戦の関係者との予想は付いた。しかし、彼女らが戦闘に関する教官とは思いも寄らなかった。
「皆様にはこれから大日本帝国陸軍が新たに開発した、四式究極汎用戦闘術式を取得していただきます。別名大東亜決戦戦闘術。徒手格闘、剣術および銃術を極めた高度な戦闘術です。時間が無いので、実戦形式を中心に指導いたします」
訓練着に身を包んだ清水が切り出した。
「尚現在この武道場には畳が敷かれておりますが、訓練が進み次の段階になれば、畳を撤去してその下の板張りで、最終的にはその下のコンクリートの上で訓練いたします」
(なるほど。これはスポーツではない。あくまでも実戦形式、つまりは殺人技を取得する訓練をするということか)
北条は考えながら、これからの訓練の厳しさに身震いする。
「一番恐れているのは怪我によって、隊員が作戦に参加できない事態です。我々も適切に指導するつもりですが、皆様も是非我々の指導に従ってください」
清水はそう言って、挨拶を締めた。
「その、清水さん達が我々の指導をするのですか」
今川が動揺を隠さず、質問した。
「ええ。その通りです」
簡潔に清水は答える。
「おいおい。これ本気かよ。遊びじゃないだろうに」
武田が呆れたように言った。北条も正直あの華奢な清水らが武田のような屈強な男を指導できるとは到底思えなかった。
「試してみます?」
殆ど口を開かなかった多米が言った。短く刈った亜麻色の髪。目鼻立ちがくっきりしており、日本人離れした長い脚、肌の白さと相まって、独特の雰囲気を醸し出していた。
「面白いじゃないか。やらせてみろ」
佐野がそう言うと、清水の顔色が変わる。多米も女性としてはかなり背が高いが、なんといっても武田の体格は規格外だった。
「危険です」
清水は佐野の考えに異を唱えた。
「どの道厳しい訓練になる。この際、隊員全員に四式究極汎用戦闘術式を見せて、早めに納得してもらった方がいいだろう」
その会話を聞いた武田が大笑いした。
「ははははは。下らねえ。俺がその小さい姉ちゃんにやられるとでも思っているのか」
佐野、清水、富永、多米は笑わなかった。それが武田の癇に障った。
「よーし。じゃあ、目玉、金玉はなしにしようや。後は何でもありでいいな。勝負はどちらかが立てなくなった時か、ギブアップするまでだ」
佐野は二人を呼び集めて簡単なルールを説明する。といっても殆どなんでもありだ。
「おいおい。ハンデなしでいいのかよ」
武田が佐野に聞いた。
「なんだ、付けて欲しいのか」
佐野が武田を蔑んだように返す。武田は明らかに気分を害していた。
「冗談だろ。そっちの女に付けてやれよ」
武田が吐き捨てるように言った。
「佐野大尉。あまりに危険です。それではせめてお互い防具を装着するようお願いします」
清水が佐野に懇願するように言った。
「よかろう。防具を持ってこい。二人に着けさせろ」
佐野も清水の熱に折れ、清水、富永に防具を二組持ってこさせた。一つは武田用の為大きく、もう一つは多米に合う寸法らしく小さかった。清水は武田に頭部、腹部を守る防具一式を渡す。同様に富永は多米に歩み寄り、防具を手渡した。
「いりませんよ」
多米は受け取った防具を傍らに放り投げる。そして武田を一瞥して、口元に笑みを浮かべた。明らかに挑発している。武田はそれを見て、自身も防具を放り捨てた。
「ちょ、ちょっと、武田さん!?」
清水がそれを見て驚いた。あわてて止めに入ろうとするが、武田はそれを振り切った。
「みせてもらおうか。四式究極汎用戦闘術式とやらを。佐野、合図を!」
「よし、始めい!」
佐野が大音声で合図をすると、二人は武道場中央で対峙した。武田は両腕を上げ、頭部をガードしている。ただ腹部はがら空きで、腹部への攻撃は効かないと言わんばかりの構えだった。それに対して、多米の方は軽やかなステップを踏みながら、左手を前方に伸ばし、右手を顎に付けて守っているような構えをする。
「武田さん。あなたは防具を付けた方がいいですよ」
「あんたは付けなくていいのかい?」
「ええ。全く」
「じゃあ、俺も必要ねえ」
「後悔しますよ」
「させてくれ」
ざっとみたところ武田の身長は百九十センチメートル、体重も九十いや百キロはあろう。しかも余分な脂肪がなく、鋼のような筋肉で覆われている。
「確か空手三段の腕前だったな。武田は」
佐野は傍らの清水に言った。清水は心配そうに佐野に呟く。
「危険です。無論多米は手加減をしますが。しかしまともに戦えば、武田さんは多米に殺されてしまいます」
「ふふふ。訓練に支障のないほどの怪我なら問題ない。四式究極汎用戦闘術式。身をもって知ってもらおう」
一方北条らは意外な展開にあっけに取られていた。
「こ、これって。いくらなんでも大丈夫なの?」
今川が心配そうに北条に聞いてくる。今川が心配しているのは当然武田ではない。相手の多米の方である。
「大丈夫。武田も女の子相手に本気ではやらないだろう」
北条が今川に返答した刹那、武田が目に見えないほどの正拳突きを多米に向けて放った。武田も加減はしているのだろう。しかしその速さは北条を始め、隊員の誰も見えない程だった。だが、次の瞬間弾かれて尻もちを着いたのは武田の方だった。北条には何が起こったのか、全く分からなかった。
「四式究極汎用戦闘術式、黄第一の型。武田さんの攻撃を躱すと同時に掌底で顎に打撃を加えている」
清水が言うと、佐野が頷いた。
「ふふ。基礎の型だがな」
武田はすぐに飛び起きた。再び腕を高く上げ、頭部を守る構えを取る。目が本気になっていた。じりじりと多米に接近し、間合いを計る。
「しっ!」
前蹴りを放った。それを多米は軽やかに躱す。武田はそのまま体を回転させ、後ろ回し蹴りを放つ。しかし蹴りは不発。次の瞬間。多米は武田に背中を向け、その左肘を武田の鳩尾に入れていた。
「ぐあああ」
武田は多米に覆いかぶさるよう体を折り曲げた。苦悶の表情を浮かべている。多米は武田からすっと離れると、武田は苦痛に耐えきれないように前に突っ伏して倒れた。
(一体今度は何が起こったんだ。肘打ちを入れたように見えたが)
今度も北条らには何が起こったのか、全く分からない。そもそも多米の華奢な体型でどうして武田が倒れるような打撃が可能なのか。打撃力はいわゆる体重に比例する。どう考えても、多米に武田を打倒する程の打撃力は持ちえない。
「ど、どうして」
太田の思わず出たその呟きに清水が答えた。
「武田さんの後ろ回し蹴りを躱し、一気に間合いを詰め、右掌底突きを鳩尾に。そのまま腕を曲げ、右肘を鳩尾にさらに打ち込む。そしてその突きの勢いを殺さず、体を武田さんの前で水平回転させ、反対の左肘を鳩尾に打ち込んだのです」
清水の説明では多米は突き、肘撃ちだけでなく、その勢いを利用し、反対側の肘を同じ鳩尾に打ち込んだのだった。いわゆる三段突き。
「四式究極汎用戦闘術式、黄第二の型です。肘の骨は硬く、特に鍛錬は必要ありません。女性でも非常に使いやすいです」
富永が清水の説明を補足した。
「四式究極汎用戦闘術式は黄、赤、青、黒、白に分かれ、それぞれ十三の型がある。今多米が披露したのはその一部だ。貴様らにはこれを習得してもらう」
佐野は傍らにいる北条らに向かって、満足げに言った。
「空手などという原始的な格闘術で四式究極汎用戦闘術式に挑もうなど、笑止千万」
多米が倒れた武田を見下ろしながら言い放つ。清水が傍らの富永に声を掛けた。
「担架を。武田さんを医務室へ運びましょう」
「いや、待て」
佐野が清水を制止した。
「待てよ。まだ始まったばかりだろう」
清水が見ると、武田が立ち上がろうとしていた。
「へへっ。まあ、普通の女じゃねえとは思ったがな。もうちっと遊んでくれや」
武田は不敵に笑うと、立ち上がった。多米が佐野の方を見る。佐野は顎で、続行を支持すると、多米は再び構えた。
「今だったら、大怪我をせず、一日寝ていれば回復しますよ。武田さん」
「そりゃどうも」
武田は多米の不思議な動きについて頭を使っていた。彼女の放つ打撃は武田にダメージを与えている。体格の劣る女性に打ち据えられることも信じられなかったが、それ以上に多米が武田の攻撃を巧みに躱すことを理解できずにいた。
(俺はこれまで街の喧嘩でも、道場でも人に遅れを取ったことはねえ。なのに何故。こんな小さな女に手玉に取られるとは)
武田は距離を取り、多米に突きを素早く、連打した。多米は武田の連打を頭の動きだけで躱し、逆に距離を詰めた。
(何故。何故こんなに容易く躱される!)
武田は何が起こっているか訳が分からず、混乱した。その瞬間、多米に組み付かれ、視界の天地が逆転する。多米は武田を抱え上げ、そのまま小走りに移動し、跳躍。膝を武田の顎に入れ、頭部から武田を叩き落とした。
「ぐはっ!」
武田はまるで柱のように逆さまに道場畳の上で屹立していたが、やがて大きな音を立てて崩れ落ちた。
「四式究極汎用戦闘術式、赤第五の型、『死柱』。 こ、こんな技を素人に使うなんて」
富永は驚愕の表情を一瞬浮かべたが、すぐに多米に歩み寄り、平手打ちにした。
「何を考えているのです!このような技を使うなどと」
富永は真剣に怒っていた。
「これで彼もゆっくり眠れますよ」
多米は富永の叱責に対して俯きながら答えたが、やがて顔を上げて、眼を大きく見開いた。富永がその視線を追って振り返った。
「おいおい、うるせえな。ねーちゃん、生理か?」
驚くべきことに武田が立ち上がっていた。富永だけでなく、北条らも驚愕した。
「もう無理よ。武田さん、もう止めなさい」
「下がってな」
武田は肩で大きく息をしていたが、富永を下がらせ、再び構える。
「下がれ、富永。武田はまだやれる」
佐野が富永に声を掛けた。
「し、しかし」
富永は反論しようとした。
「構わん。下がれ」
佐野に言われ、富永は仕方なく二人から離れた。
「し、しかしあの技をまともに食らって、無事だなんて」
清水も富永同様驚いていた。
「空手は打撃技だけではない。現在は柔術の一派とされ、投げ技、関節技も使う。武田が受け身を知っていても可笑しくはあるまい」
佐野は二人に目を離さず、清水に言った。
武田は大きく息をしていた。多米から受けた打撃および投げ技のダメージが酷く、辛うじて立ち上がったものの、ふらついている状態だった。
(まずい。まずいぜ。足に来てやがる)
武田は自身の足のふらつきを感じていた。このままだと、軽快なフットワークを持つ多米には全く無防備であった。
「来な」
一瞬武田は多米が何を言ったか分からなかった。
「かかってきな。原始人」
多米に言われた刹那、武田の血が逆流した。武田は大きく踏み込み、正拳突きを放つ。しかし多米の頭部はわずかに横に動きその攻撃を紙一重で避け、それと同時に武田の鳩尾に再び拳を打ち込んだ。
「ぐあっ」
武田は呻き声を上げた。すると多米が今度は掌底を武田の顎に打ち込んだ。武田の顎が跳ね上がる。武田の膝ががっくり落ちた。
「ほい」
多米は掛け声と共に、さらに崩れ落ちた武田の顔面に右膝を強打した。武田の鼻から鮮血が吹き上がる。
「ちちっ! ぶはあっ」
血塗れになって、ふらつく武田に多米は追い打ちをかける。
「こうやって打つんですよ。武田さん」
多米は武田の顔面、胸部、腹部を殴打し、蹴りを叩き込んだ。武田は多米に比べ体重、身長が二回り程大きいにも関わらず、猛烈な連打攻撃で後方へと追いやられていく。
(くっ、こんなに体格差があるのに、押されている。前に全然出れねえ)
武田は前へ出ようにも激しい連打で後ろへ退き続けた。
「素人が! 私に諂い、媚びて、跪いて許しを請え! この糞が!」
美しい顔立ちが歪み、髪を振り乱して武田に打撃を加える多米はまるで悪鬼の様だった。
一方嵐の様な攻撃に晒され、武田は防戦一方となった。
(すげえよ。多米。だがよ、喧嘩ってのは、ここからよ)
多米が大きく振りかぶった時、武田は多米の頭部を鷲掴みにして、頭突きを食らわせた。
「くっ!」
多米は呻いて、素早く武田から離れる。多米は額から僅かに出血していた。多米は信じられないという顔をして、そっと指で額の出血をなぞる。自身の指に付いた血液をまじまじと見た。
「あ、やば。そろそろ止めるか」
佐野が多米の様子を見て唐突に言った。
「えっ?」
清水が聞き返す。再び視線を多米に戻すと、多米は一層厳しい目になっていた。
「ま、まずいわ!」
清水も多米の異変に気付く。多米は揺らぎながら、武田に再びゆっくり近づいて行った。
「た、多米! まだまだこれからだ」
一方の武田もよろめく足取りで多米に近づいた。
「やめい! それまで!」
それを聞いた多米は佐野を睨みつけ、そして食って掛かった。
「何故止めるのです!」
「考え違いをするな。今日はあくまで四式究極汎用戦闘術が如何に強力無比であるかを皆に示すためだ。武田が失われては元も子もない」
「しかしこの様な中途半端な中止では、本戦闘術の神髄を披露出来ていません!」
多米は佐野に食って掛かった。
「いや、もう十分だ」
佐野は多米を見ていなかった。清水も同じくある一点を見つめていた。佐野の視線を多米も追った。佐野は武田を見ていたのだった。すると今まで立っていた武田がよろめき、そして前のめりで倒れたのである。
「た、担架を!」
清水の指示で、富永のみならず、北条、今川、太田、長尾が一斉に武田に走り寄った。
「だ、大丈夫か!武田」
北条が声を掛けるも、武田は完全に失神していた。
「医務室へ!」
武田を取り急ぎ担架に乗せ、北条、今川が担架を持って、医務室へ走った。
「ああなっても神髄を見せていないと言えるか?」
多米は悔しそうな顔をしたが、踵を返して武道場を後にした。
武田は夢をみていた。幼いころの夢。母親は港町、場末の売春宿で働いていた。親父の顔は忘れた。自分が十二の頃、俺と妹を置いて出て行った。母親は自分たちを養うために何でもした。武田も物心つく頃から、何でもした。盗み、暴行、恐喝。世間が何をしてくれたというのか。奪われてきた。常に奪われてきた。底辺にいる人間に光など射さない。光などない。自分は奪われたものを奪い返すだけ。
又だ。この場面。薄暗い狭い家。お袋が病気になった。ありふれた病気だった。瘡掻き。最後はのたうち回り、幻覚を見て、発狂して死んだ。汚物や出血にまみれて。お袋の薬代、妹を養うために駆けずり回った。死ぬ間際、お袋は一瞬正気に戻ったことがあった。苦しい吐息を吐きながら、お袋は言葉を紡ぎだした。一言一言が命を吐き出すようだった。武田は手を取り、その言葉を聞き逃すまいと顔を近づける。
「殺して」
その時武田は目が覚めた。武田は泣いていた。見知らぬ天井。
(どこだ、ここは。俺は一体)
伝った涙をなぞる指が触れた。武田が視線を向けると、そこに多米がいた。武田は驚き、体を起こそうとした。
「動かない方がいい」
「俺は、俺は」
「ここは医務室だ。皆でお前を運んだ」
「皆は?」
「武道場で訓練中だ」
「そうか」
窓が少し開かれ、風が流れ込み、カーテンを揺らしていた。気持ちのいい、高原の風だ。空気は澄んで、森の木々の香りがした。
「お前は泣いていた」
「ああ。お前に負けて悔しくてな」
「そうか」
多米は席を立って、医務室出口に向かった。ドアに手をかけ、暫く立ち止まる。
「すまなかったな」
多米はそれだけ言うと、武田の方に振り返らず、医務室を出ていった。
一九四四年十二月二十四日午後十七時三十分
四式究極汎用戦闘術。別名、大東亜決戦戦闘術。過去の戦闘情報に基づき、その初動動作から敵の動きを予測、攻撃の効率的な回避、必殺の攻撃を行う。打撃技、投げ技、関節技、締め技、剣技のみならず、射撃を組み合わせ、総合的な戦闘術、すなわち個人で行いえる究極の戦闘術である。格闘戦術としては最も完成されたものであり、世界にあるいかなる格闘術と比較してもより実戦的である。また中距離、遠距離での銃撃は避けられないが、近年の市街戦の増加により、その射線を躱す、あるいは逸らすことが容易になるとされた。
重火器の発展に伴う戦争形態の変化は中世に遡る。それまでテルシオという方陣が世界を席巻していた。この運用に長じていたのが当時のスペイン陸軍であったが、やがて火力と陣形の持つ衝撃力との組み合わせに関して研究がなされ、各国で様々な戦術スタイルが発展していった。その後マウリッツモデル、フリードリッヒモデル、ミックスドオーダーと陣形が変遷し、現在の散兵戦術に至っている。機甲師団が発足した現在の戦争であっても、歩兵の重要性は失われていないが、その戦闘技術はそれ程の進歩はなかった。これを受け、大日本帝国陸軍は歩兵個人の戦闘技術の抜本的な改善を目指し、昭和十年に陸軍技術本部に研究を依頼。昭和十二年に九七式究極汎用戦闘術として制式採用されることとなる。その骨子は過去の武術と現代の銃火器を併せて運用し、尚且つ初動動作を見極めることにより、敵の攻撃を予測、攻防において敵を圧倒、粉砕するものであった。
清水、富永、多米そして佐野はこの四式究極汎用戦闘術をマスターしていた。北条たちは基本の型を一から学びとることから始め、連日の訓練により、次第に打撃だけでなく、投げ技、締め技、関節技という総合的な格闘術を身に付けて行った。いよいよ銃火器および刀剣を含めた、最終的な段階に移行する。
「本作戦は不可能といわれています。しかしその不可能な作戦を勝算の低い作戦というレベルまでもっていく。それを可能にするのがこの戦闘術です。我々の戦闘術の究極の目的は歩兵による敵の制圧、速やかな殺害であって、スポーツあるいは武道ではありません」
そこまで言うと、清水が隊員を見回した。そしてさらに話を続ける。
「さらに、この現代において銃火器の存在を失念した格闘術など何の役にも立ちません。銃火器、刀剣も含めた格闘術が現在の戦場では必要とされています。この為に、まず重要なのは敵の銃撃を躱すことです。その為に初動動作を見る。いわゆる見切りという技術が重要になります」
武道場に集合した隊員に清水は説明をしたが、北条たちには今一つ分からなかった。
「弾を躱すなんて不可能です」
北条は自身の心中が思わず口から出る。清水はそれを聞いて、北条に微笑んだ。
「そうですね。遠距離では不可能です。しかし近距離では射線を外すことは充分可能なのです。最近の例ですが、ガダルカナル島のジャングルにおいて、日本刀を用いた戦闘が米軍に対して一定の成果を収めています。年々市街戦の比率も増えており、また今回の作戦も市街戦であることも考えれば、本戦闘術が有用であると確信しています」
清水はそこで話を切り、隊員の反応を見た。
「また銃撃を躱すと言いましたが、正確ではありません。相手の攻撃意図を察知し、それを未然に防ぐ、あるいは目標を逸らすというのが実態です。さて、実際にやり方を説明していきましょう」
清水は正座して聞いている北条の前に立った。
「北条さん。立ってみてください」
言われて北条は戸惑った。
「どうしました。ただ立つだけです」
北条が正座の姿勢から立とうとすると、清水は額に手を当てた。すると北条は立てなかった。
(えっ?)
「これを『抑え』と言います。動作の前には初動があります。その初動を抑えることにより、相手の動きを制する事ができます」
清水は手を北条から離した。
「またさらにこの初動を見極めることにより、相手の攻撃意図、方法、部位なども相手が行動する前に分かります。つまり攻撃が来てから避ける、あるいは躱すのではなく、事前に攻撃を察知し、外すのです」
「よーし、本日から模擬銃およびナイフを用いた総合訓練を開始する。全員準備!」
佐野が号令をかけた。
各自広い武道場に散開し、指導を受ける。北条は武道場の一角でゴム弾を発射可能な模擬銃、ゴム製のナイフを持ち、清水と対峙していた。
「近接戦闘では銃撃するより、打撃あるいはナイフによって刺す行為により早く敵を制圧できることがあります。いたずらに戦いはこうあるべきと考えるのではなく、使えるもの、状況によって臨機応変に対応してください」
清水はいつも通り笑顔を浮かべ、丁寧に説明している。
「それでは実践してみましょう」
「いつ始めますか?」
「もう始まっていますよ」
清水から笑みが消えた。いよいよ来る。
(清水さんとの距離はざっと十メートルほど。打撃、ナイフを使った近接戦闘であれば、どんなに離れていても二メートルくらいの間合いが限度。ここは一択。銃撃だろう)
北条は銃を構えて、清水を撃とうとした。しかしその瞬間、清水の姿が視界から消えた。気が付くと清水の顔が胸元にあり、そしてゴムのナイフが首筋に突き付けられていた。
「ふふふ。これが実戦だったら、もう北条さんは死んでいますよ」
清水はそう言うと、静かに北条から離れ、元の場所に戻った。
(み、見えない)
まるで手品のようだった。清水はゴムのナイフを手で持ち、両手で巧みに廻していた。
「もう一度やりますよ。私の初動動作を見逃さないで」
北条は目を凝らした。何か変化はないか。目の動き、手、足の動き。何か変化がある。それを見逃すな。北条は清水に銃を向けた。再び清水の姿が消える。
(ど、どこだ!)
今度は何処にもいない。真正面。右左、下。急いで視線を動かし清水を捉えようとする。しかし清水の姿は掻き消えており、武道場の他の隊員達の掛け声、訓練する音が聞こえるだけだった。
模擬銃を構えたまま、北条は凍り付いた。何が起こっているのか分からない。武道場の外には明るい冬の日差しがあり、目の前には変わらぬ武道場の風景が広がっている。しかし北条は、異世界に迷い込んだような気分だった。汗が噴き出る。呼吸が荒い。
「ここよ」
気が付くと清水は北条の背後に廻り、ナイフを後ろから首筋に突き付けていた。一言北条の耳に囁くと、再び清水は北条から離れた。
「大分体が暖まってきたわね」
清水は軽く跳躍を繰り返す。一方の北条はあまりの驚きに混乱していた。自身の気持ちを落ち着かせるのに精一杯の状況だった。
「さて、そろそろ本気でやります」
清水の目が光を帯びる。
午後の訓練が終わり、夕方になる頃には北条達は息が上がり、立てない程になっていた。取り分け北条は清水にマンツーマンでしごかれて、へとへとだった。
「ようし。本日はこれまで。全員脈拍を記録しろ。百以下になった者から宿舎に戻れ。着替えたら、夕食の時刻に遅れるな」
佐野が指示を出す。清水、富永、多米は夕食の支度に戻った。北条はそれを横目でみていたが、立つ気力すらなかった。肺が酸素を欲している。基礎体力訓練をやって良かったと心底思った。全員が重たい体を引きずり、宿舎に戻る。武道館からの距離がやけに遠く感じた。装備を片付け、食堂に顔を出すと武田が一人先に座っていた。
「早いな」
北条は武田の横に座った。
「当たりめえよ。食って、強くなんなきゃな。何時までも舐められてはいられねえぜ」
武田は元々格闘技をやっていたせいか、呑み込みが早く、四式究極汎用戦闘術を身に着けはじめていた。暫くすると佐野、今川、太田、長尾が合流し、食堂に集まった。驚くべきことは、合同で練習しているにも関わらず、清水らが食事の準備や洗濯などを遅滞なく行えていることである。混血の美人揃い、しかも家事がこなせるという超人達だった。
佐野、清水、富永、多米の隊員は四式究極汎用戦闘術を完全にマスターしており、それに対し我々には習得する時間が少ない。佐野が言うには、食事の準備など、甘えられるところは全部甘え、戦闘力の向上に集中すべきとの事だった。
清水らが夕食を運んでくる。本日はチキンステーキ ポテトサラタ、オニオンスープ、それとイチゴと生クリームのケーキだった。さらに甘い飴が多数配られた。
「おおっ、今日はなんだか豪華だな。今日は何かあるのか」
佐野は食卓の上に並べられた食事に感嘆の声を上げた。日本国内では食料不足が叫ばれていたが、飢えというものはここには無い。それでもかなり豪勢な食事だった。
「今日はクリスマスイブです。西洋では最も豪華な食事で祝うものですよ」
清水は料理を並べながら言った。
「あー、美味い。クリスマスかあ。まあ、俺は何時も平常運転だったけどな。周りに祝っている奴らっていたかなあ」
武田はチキンステーキを食べながら考える素振りを見せる。
北条もかすかにある母との思い出を手繰り寄せていた。
(ああ、母がまだ元気だった頃、果物が入ったパウンドケーキを作っていた。あれは、冬だったか。きっとあれはクリスマスを祝うものだったのだろう)
「日本ではクリスマスを祝う風習はありませんね。そもそもあまり認知もされていませんが、西洋では広く行われている冬の祝祭です」
「あれ、今川さん。お菓子をどうして包んでいるんですか?」
太田は傍らの今川に声を掛けていた。
「いや、実家は駿河だけど、内地ではもうこんなお菓子は手に入らないと思って。後で子供に送ってやろうと」
今川は自身のお菓子を取り分け、丁寧に紙袋に入れて包んでいた。
「名前はなんていうんですか?」
北条が聞いてみた。
「上から、松子、竹子、梅子の三人だ」
(え、ええーっ。日本酒の名前みたいだ。もう少しちゃんと考えても良かったんじゃないか・・・)
北条は笑みを崩さずに、心の中で叫んでいた。
「産まれる前は、いい名前を色々考えていたんだけど、生まれた瞬間になんだか吹き飛んでしまって。結局こういう形に・・・」
今川は恥ずかしそうに言った。
「今川のおっさん、中々優しいじゃねえか。いい親父だよ!」
武田が冷やかす。直後、武田は背後に気配を感じた。
「うおっ!」
武田が背後を振り向くと、多米が立っていた。手にはチョコレートがかかったケーキを持っている。そのケーキを無言で武田の前に置く。
「びっくりした。忍者のように背後に近づくんじゃねえよ!」
忍者部隊だから問題なし!と見ていた清水は思った。
「食え」
「はっ?」
「私が作った」
多米はそれだけ言うと、厨房に戻って行った。
「なんだよ。ありゃ」
武田が目の前に置かれたチョコレートケーキを見た。
「毒入りじゃねえだろうな・・・」
武田は怪しげな目でケーキを眺める。
「多米は昨日からこのケーキを作るために準備をしていましたよ」
清水は優しい笑顔を浮かべながらそう言った。年は北条とそう変わらないが、まるでお母さんといった風情だった。
「おい、何で武田だけなんだよ。このスペシャルサーヴィスは!」
北条の後に続いて入った太田が忌々しそうに毒づく。
「やっぱり顔かなあ~!」
今川がまたまた、おどけたように言った。
「今川さん、本当の事は言っちゃいけない!」
武田も茶化して言う。
「ざけんなよ。死にやがれ、武田!」
太田は毒づいた。
「太田。今日はクリスマスだ。お互いの罪を許す日だぞ」
佐野までが笑ってそう言った。
北条と長尾はそんな仲間を見ながら、釣られて笑った。皆笑っている。ここにいる誰もが、この楽しい風景がもうすぐ終わるということを知っていた。それでも笑う。北条は楽しいこの一瞬がどこまでも続いて欲しいと心から願った。
第五章 ブラックハウス
一九四五年二月十四日午前六時五十分
連日の激しい訓練だったが、北条達は全員その訓練に耐えた。北条達の戦技上達は早かった。しかし戦況の悪化はもっと早かった。
昭和十九年六月十九日から二十日のマリアナ沖海戦で海軍機動部隊は壊滅。マリアナ方面での制海権を失い、サイパン島は七月九日には失陥。陸軍大臣および参謀総長を兼務する東条英機が七月十八日に総辞職した。十一月日本本土空襲開始。
訓練は繰り上げられ、終了が早められた。その理由は戦局の切迫。日本本土への連日の空爆が始まり、兵器の生産が滞り、さらにもっと恐ろしい自体が起こっていた。近代軍隊の血液、すなわち燃料の枯渇である。燃料がなければ近代的武器の運用、訓練はできない。もう一刻の猶予もなかった。訓練はいよいよ最終段階に入った。
「この建物は『ブラックハウス』。内部および外観、庭も含めてホワイトハウスに準じた作りになっている。ここで貴様らは最終演習を行う!」
佐野は隊員一同を前に厳しい表情で言った。宿舎より山中にさらに入ると、森を切り開いて作られたかなり広い平地があり、そこに黒い巨大な洋館があった。通称『ブラックハウス』。本作戦演習の為に建築された洋館である。内部構造は米国ホワイトハウスに準じて設計、建築されているが、航空偵察、爆撃機からの偽装のため、外観は黒く塗装されていた。
「最終演習の説明を行う。ルールは簡単。ブラックハウスの中に入り、三階の大統領執務室にある旗を取って、無事に出てくる。当然、内部には清水、富永、多米が隠れており、模擬銃およびナイフを使い貴様らを妨害しようとする。今回模擬銃は無毒のインクの入ったゼラチン弾を使用する。撃たれるとピンク色のマーキングが体に付着する。次にナイフ。これはゴム製であるが、これを体に当てると、やはりピンク色のマーキングがされる。いつも通りであるが、模擬銃および拳銃にてピンク色のマーキングが体に付着した場合、演習終了とする。自身で死亡をコールし、外に速やかに退出すること。ナイフも同様の判定だ。何か質問はあるか?」
佐野は隊員を見回した。
「模擬銃はその他に特徴はありますか?」
北条が質問する。
「形重さにはガーランド自動小銃と差異はない。ただし今回ゼラチン弾を打ち出す機構はガスなので、ほぼ無音である。実戦では発砲音があり、自身の居場所が知れることに注意しろ」
他の隊員達から質問はなかった。
「よし。それでは今川、ゴー」
佐野が簡潔に指示を出した。
「え?」
「ゴー」
「えっ、私ですか?いやいや、ここは武田君とか北条君でしょう」
「さっさと行け!」
佐野が叱責すると、今川は渋々とブラックハウスの玄関に向かった。
「早く入らんか! 日が暮れるぞ!」
佐野がさらに檄を飛ばす。
「分かってますよ。入りますよ~」
今川は情けない顔をして、正面のドアに手を掛けた。中は暗い。
「お邪魔しま~す」
今川はおずおずと中に入る。玄関ドアが閉まると、外部からは内部の状況を窺い知ることは出来なかった。暫く何事もなく時間が過ぎていく。佐野は今川がブラックハウスに入ってからの時間を計測していた。内部に一旦入ればどのように動いているのか外部からは分からない。北条らは体をほぐしたり、模擬銃などの装備の確認をしたりしていた。
「ぎやああああああーっ」
突然内部から今川の絶叫が聞こえた。北条らは慌てて視線をブラックハウスに向ける。やがてゆっくりと玄関ドアが開き、ピンク色にマーキングされた今川が内部から出て来た。
「訳が分からない内にやられちゃったよ~」
今川はそう訴えたが、顔中マーキングされているため表情が分からなかった。ゴーグルもマーキングだらけで視界が悪いのに違いない。足取りも覚束なかった。
「ふむ。それでは次、太田。ゴー」
佐野はボードに今川の戦闘記録を付けながら、次に太田を指名した。
「えっ!? お、おう!」
太田は模擬銃を構え、ゴーグルを装着する。
「しっかりやれよ。奴らに一泡吹かせてやれ!」
武田が太田に声を掛けた。
「おう。只じゃ、やられねえぜ」
太田も元気に武田に返し、内部に入って行った。暫くすると、やはり絶叫が聞こえてくる。
出てきた太田は胸腹部がマーキングされていた。
「今まで何を訓練していたのだ」
佐野が呆れたように太田に言った。ボードに経過時間を戦闘記録として記載していった。
「次、長尾。行け!」
「はい」
長尾は模擬銃を携え、ゴーグルを装着した。今川、太田が入った同じ玄関の扉を開く。まず外交レセプションルームに入った。内部のホールは広く、薄暗い。内部は外部と違い、壁も床も全体として白い色調で統一されていた。
長尾は周囲を警戒しながら、進む。外交レセプションルームの出口付近で拭き取られているが、わずかにピック色のマーキングが見えた。今川あるいは太田のどちらかが、ここで襲撃されたに違いない。外交レセプションルームを抜けると、左右を突き抜ける廊下に突き当たる。この正面左手には警備室。実際にはここに警備兵が詰めているため、敵兵が出現する可能性が高い。慎重に辺りを伺うが、呼吸音一つしない。素早く廊下を渡り、壁に密着。息を整え、部屋に銃口を向ける。誰もいなかった。
ホワイトハウスの部屋の数は膨大。待ち伏せする箇所は無数にあった。西側の厨房を探るべきか悩んだが、先に進むこととした。背後を警戒しながら、大きな廊下を進む。二階に進む階段の手前で壁に張り付いた。そっと小型の手鏡で階段を探る。視界の限り見回したが、誰もいなかった。音を立てないように階段を上る。
三階へ続く階段があったが、まずは二階を探索することとし、階段を出て大きな廊下から左側の部屋、イーストルームに入った。イーストルームに人気はない。聞き耳を立てるが、静かだ。むしろ静寂で耳が痛い。部屋の壁にレプリカの肖像画が多数みられた。イーストルームを出て、緑、青、赤の部屋を探索、最後に食堂を見て回るが、誰もいない。接待用食堂床にわずかにピンクのマーキングがみられた。ここも注意深く拭い去られているが、僅かに痕跡があった。恐らく襲撃者は家族用の食堂で待ち伏せ、食堂入り口において侵入者を狙い撃ったのだろう。
長尾はエントランスホールを左手に見ながら、廊下を再び渡り、階段のところまで戻った。
用心深くさらに三階に向かう。大統領は三階で通常起居しているとされている。実戦では当然長尾らはそこを目指すこととなる。三階に辿り着くと、手鏡でセンターホールを死角から伺う。誰もいない。体を晒して移動する前には鏡でその方向を確認することを長尾は徹底していた。
ホワイトハウスの構造は頭に全て入っているが、一階から三階まで清水、富永、多米のいずれとも遭遇していない。待ち伏せをするのなら、ここしかないだろう。耳を澄ます。下の階から上がってくる者はいなかった。間違いない。彼女らはここ三階で待ち構えている。センターホールの西端居間のドアが開いており、黒い影が横切った。
(待ち伏せ?)
長尾は影の見えた西側の居間に移動しようとしたが、その時頭に警報音が鳴った。清水、富永、多米は練達の士。待ち伏せている最中に視界にわざわざ入るように移動するだろうか。否。しかもわざわざドアが開いている。居間内部を見せつけるためだ。とすれば陽動。動いて欲しい反対側に彼女らが待ち伏せているはず。長尾はそう考え、逆の東端の居間に向かう。人気は無い。長尾は右手のリンカーン寝室ではなく、左手にあるクイーンズルームのドアノブに手を掛けた。
長尾は静かにドアを開く。部屋の内部はカーテンが掛かっているため、薄暗い。多米は息を潜め、まるで蜘蛛のように四肢を伸ばし、クイーンズルームの天井に張り付いていた。多米は長尾の侵入を確認すると、天井から落下し、ゴム製のナイフを長尾に突き立てようとした瞬間、長尾が模擬銃を天井に向けて伸ばし、マーキング弾が乱射された。たちまちの内に多米はピンク色に染まり、そのまま床に倒れ込んだ。
「ば、馬鹿な!」
多米は信じられないというように長尾を見た。長尾は多米に顔を近づけ、人差し指を口元に当てた。そう、長尾にとってまだ襲撃者は二人いるはず。それまで音を立てられないのだ。多米はそれを察し、発声をせず、口元だけ動かして会話をした。
(何故この部屋を探索した?)
(待ち伏せをする側としては、西端居間に侵入者を誘引したかったと思ったからです。侵入者が西端居間に向かえば、これを背後から襲撃。この計略が失敗しても、クイーンズルームで待ち伏せ待機。この部屋は他に出入口がない。よって袋小路となり、待ち伏せするには具合が悪い。であるから、侵入者はまず探索するにしても条約室と繋がっているリンカーン寝室を先に探索するだろう。それを背後から襲う。二段構えの作戦だと推察しました)
長尾は手短に多米に説明すると、立ち上がった。多米は長尾が自身の考えを完全に読み切っていることに驚いた。
(それではあとの二人を倒してきます。ここで静かに待機してください。演習上のルールでは、もうあなたは死んだことになっていますから)
長尾はそう言うとクイーンズルームを出て行った。
「演習上ではか・・・実戦でも死んでいるよ」
多米はそう一人で呟いた。
清水は大統領食事室前、西端居間から廊下を伺っていた。長尾が来ない。東端の方で物音がした。まさか多米の方に向かったのだろうか。廊下は光が入らず、全体的に暗い。
(多米がやられたの・・・!?)
あり得ない考えが清水の頭をよぎる。その時、クイーンズルームから人影が走り出て、真向かいのリンカーン寝室に入り込んだのが見えた。清水はマーカー弾を射撃するも、相手が素早く移動したため、命中させることは出来なかった。
(リンカーン寝室、条約室を抜けて、イエローオバール室へ行くつもりだわ。イエローオバール室には富永が伏せているけど、こうしてはいられない)
清水は西側居間から、慎重に大統領寝室に入った。
一方富永は黄色の楕円形室で待ち伏せていたが、クイーンズルームで物音がし、さらにリンカーン寝室に侵入者の音がした。
(来た。すぐ隣まで来ている!)
富永はイエローオバール室から、注意深く条約室の中を覗き込んだ。人の気配はない。まだ侵入者はリンカーン寝室に居るのだろうかと不思議だった。しかしよく見ると、リンカーン寝室と条約室の間のドアは大きく開いていた。
(おおっと。もう入っているのね。どこ?)
富永は暫く部屋の中を伺っていたが、やはり気配は無かった。一体長尾はどこへ行ったのだろう。富永は床に這いつくばり、音を立てず、まるで蛇のように条約室に侵入した。
清水は大統領寝室から用心しながらプライベート居間に入ろうとした。居間を抜ければ黄色の楕円形室に入ることができる。プライベート居間に入ったその時だった。背後から口を塞がれ、模擬ナイフを首に突き立てられた。
(・・・!!)
清水は声もでなかった。長尾だった。ここで逆に待ち伏せていたのだ。長尾は清水の耳元で囁いた。
(近くに富永さんがいますので、お静かに)
そう言うと、長尾は清水の口を塞いでいた手を離した。
(ど、どうやって・・・!?)
(先程清水さんがやろうとした陽動を今度は私がしました。リンカーン寝室に入ると見せかけて、清水さんが大統領寝室に入った頃を見計らい、センターホールを一気に走り、先にプライベート居間に入って清水さんを待ち伏せたのです。貴方がリンカーン寝室に私が入ったことを視認したことは確認すみです。何故なら貴方は私を視認して撃ってきました)
清水は長尾の説明を聞き、息を呑んだ。
(ここで演習終了まで待機してください)
清水は茫然と富永を待ち伏せするために部屋を出ていく長尾を見送るしかなかった。
富永は慎重に条約室内の探索を終え、リンカーン寝室の開かれたドアの近くまで来ていた。多米はどうしたのだろう。演習中止のコールがない。まだゲームは続いている。長尾は生き残っているのだ。多米、清水の襲撃を長尾は避けえたのだろうか。富永は少し首を振って馬鹿な考えを振り払った。まだ経験が浅く、訓練も十分にしていない長尾が多米、清水を凌ぐことなどあり得ない。
富永は開いたままのドアを改めて見た。間違いなくこれは長尾が開けたものだ。富永はこれまでリンカーン寝室から条約室内に長尾が侵入した前提で富永は考えていたが、条約室には彼女はいなかった。
(おかしい)
富永は自身の心に疑心が湧いてきた。何故、ドアが開いたままだったのか。ドアを開いたことにより、リンカーン寝室から条約室に侵入したと思わせたかったのではないか。とするとこれはトラップ。富永から汗が噴き出てきた。
(いけない。ここから直ぐに出なくては。長尾は恐らく別の場所にいる。彼女の意図が分からないのに、このままここに留まっているのは危険だ)
イエローオバール室へ後ずさりして戻り始めた。通常の動きならそれほど時間が掛からないが、音を立てず、しかも周囲を警戒しながら移動するので、部屋を単に通過するだけでも大変な時間がかかる。漸くイエローオバール室に辿り着いた富永は、長尾が一体どこに消えたのかと頭を巡らせていた。
「銃を捨て、手を上げてください」
富永は突然声を掛けられ、心底驚いた。振り返らずとも長尾だという事が分かった。長尾は模擬銃を構えて富永に狙いを付けて背後に立っていた。長尾はイエローオバール室で待ち伏せていたのだ。富永はこれまでと模擬銃を捨て、両手を上げた。
「驚いたわ。私を仕留めるなんて。運が良かったわね。けどまぐれは続かないわ。残りの二人からも逃げられかしら」
「二人はこの演習が終わるまで待機中です。貴方が最後です」
富永が驚いた。まだ訓練を始めたばかりなのに、最終演習で四式究極汎用汎用戦闘術を極めた清水、富永、多米を仕留めたということになる。
(才能か・・・)
「何故すぐに撃たなかったの?」
「撃つ必要がないからです」
「ふふふ。大陸での実戦経験がある私から貴方にアドバイスよ。戦場では躊躇いもなく引き金を引きなさい。相手の心情、年齢、性別、思想諸々を考慮することなく。それが貴方を救うわ」
「できれば人は殺したくありません」
「貴方が人を殺せないからといって、相手が貴方を殺さないということはないわ」
「・・・・・・・・・・・・」
「戦いではそんな考えで上手く行くのかしら」
「富永さんは簡単に人を殺せるのですか?」
「人を殺すことに慣れることはないわ・・・。長尾さん」
富永は暫く考えた後、絞り出すように答えた。
長尾が館内に入ってから随分と長い時間が経過した。内部の様子は伺い知ることが出来ない。時々館内から物音がしたが、殆ど静かだった。
「おいおい。何時までかかっているんだ。体が冷えちゃうぜ」
流石にしびれを切らした武田が佐野に詰め寄った。その時、ブラックハウスの扉がゆっくり開く。長尾が旗を持って出て来た姿に、待機していた隊員一同がどよめいた。
「長尾、ブラックハウスでの演習を終了しました。旗の奪取に成功。清水、富永、多米以下三名は演習再開の別命があるまで館内で待機しております」
長尾が佐野に報告して、旗を渡した。
「うむ」
佐野は大統領に見立てた旗を確認すると、短く頷いた。驚くべきことだった。清水ら三人を倒したのだ。佐野を始め、隊員一同長尾の実力に舌を巻いた。風がそよぎ、長尾の長い金髪をわずかに揺らす。長尾はいつも通りの表情であり、そこから如何なる感情も読み取れなかった。
五章までを一部とします。