3 キャロル⋅バーナリー男爵令嬢
私がフレジエ侯爵令嬢に対する恋心らしきものをマールから指摘されてから半年ほど過ぎた頃、隠れて泣く彼女の隠しようもないほどの醜聞が流れ始めた。
マハロ殿下の気持ちを失ったフレジエ侯爵令嬢がキャロル⋅バーナリー男爵令嬢に嫌がらせを繰り返している、という馬鹿げた噂だ。
私からみればフレジエ侯爵令嬢はよく我慢していると感心していた。マハロ殿下は恥ずかしげもなくバーナリー男爵令嬢を抱き、腰に手を添えてエスコートして、人の眼がないと思った場所では躊躇なく唇を交わしていた。
けれど誰かしらは目撃するもので、私も不愉快なキスシーンを何度か眼にしていたし、フレジエ侯爵令嬢が傷付いた瞳を揺らして走り去る姿も見ていた。
気の毒だと同情を禁じ得ない私にマールが、
「戦争でも仕掛けますか?それとも皇国を通して婚約を打診しますか?」
と悪魔のごとき囁きをくれた。
悶々とする悩ましい日々を送っていた私に大神ゼフ様からのプレゼントが贈られてきた。
相変わらず面倒な女生徒たちから逃げるように図書館へと行く道すがら、やはり図書館で泣いてきたと思われるフレジエ侯爵令嬢が向かい側から小走りで廊下を駆けてきた。彼女は私の気配に気付いて項垂れていた頭を弾かれたように上げて、足を止めた。
驚くフレジエ侯爵令嬢の視線と私の瞳が絡み合った刹那、私には時が止まったように感じるほどに喉元で心臓がゆっくりと大きく脈打った。
互いに身分だけは認識していたので、私が内心を押し隠して目礼で挨拶をしたとき、本当に唐突に角から飛び出してきた令嬢がフレジエ侯爵令嬢の眼前で見事にびたんと派手な音を立てて転んだのだ。
驚愕に私もマールも硬直した。
フレジエ侯爵令嬢も足元に俯せに倒れた令嬢を呆然と見つめている。
直後、令嬢が身を起こすと子供のように声を上げて泣き出した。
あまりの事の成り行きに私とフレジエ侯爵令嬢は視線を絡ませた。眉を下げて、吊目がちな眼を僅かに戸惑わせて、フレジエ侯爵令嬢は泣いている彼女に声を掛けた。
「バーナリー男爵令嬢様、大丈夫でしょうか?」
それを耳にして私はへたりこんで泣く女性がはじめてバーナリー男爵令嬢なのだと知った。
思わず興味深く観察してしまう。
艶やかなローズピンクの髪をひとつに高く結い上げて、白磁の頬には薔薇が咲き、泣いているために歪んだ唇はつい触れてみたくなる誘惑に満ちていた。両手で覆っているために瞳の色まではわからなかったが、マハロ殿下が言い寄られてフラフラするのも納得の可愛らしさは確かにあった。
私の好みではないが。
泣き続けるバーナリー男爵令嬢に困惑した様子のフレジエ侯爵令嬢が彼女の肩に触れようと手を伸ばしたとき、バーナリー男爵令嬢が現れた角から鋭い叱責が飛んできた。
「ミラ!また貴女はキャロルを虐めたのか!」
頭ごなしの非難に、フレジエ侯爵令嬢の身体が止まる。伸ばした指先が遠目からでも震えているのがわかって、私の瞳に殺意が宿った。
バーナリー男爵令嬢に駆け寄り、彼女を優しく包み込んだのはマハロ殿下だった。
「大丈夫か、キャロル?なにがあったのだ?」
柔らかな声は先程フレジエ侯爵令嬢に向けた怒号とはまるで別人。
図書館で人知れずに嗚咽を漏らす彼女の苦悩を垣間見た気分だ。
「ミラ様が私を突飛ばしたんです!マ、マハロ様に付き纏うな、と怒鳴られて…」
舌足らずに甘えた態度でマハロ殿下に絡み付いたバーナリー男爵令嬢の言葉に私は絶句した。
すでにこんなことが何度も繰り返されているのか、慣れた様子のフレジエ侯爵令嬢は諦めたように肩を落として、
「わたくしはなにもしておりません」
と静かに訴えた。それを聞いたマハロ殿下が憎しみを込めた眼差しできつくフレジエ侯爵令嬢を睨み付けた。
「そのような嘘を平気で吐けるようになった貴女には失望する!」
バーナリー男爵令嬢の肩を抱いたマハロ殿下の言葉に、フレジエ侯爵令嬢はビクリと身体を震わせた。
「あの令嬢、私たちが見えてないんですかね?」
ぼそりと呟かれたマールの声に怒りにのまれそうになっていた私は我に返った。
「マハロ殿下」
和やかに、なるべく穏やかな声を意識して、私は彼に声を掛けた。それに驚いたのか、マハロ殿下とバーナリー男爵令嬢が弾かれたように私に振り返った。
「これはアレクサンドル殿下!」
素早く立ち上がるとマハロ殿下はその場に跪いた。レディアント王国の王太子といえど、大国アヌシーズ神皇国の皇子である私より身分は低い。
当然の礼儀だ。
「たまたま居合わせただけだが、そちらのご令嬢は角から走ってきて、自ら転ばれていた。決して突飛ばされたわけではない」
それから私はバーナリー男爵令嬢を覗き込むように見て、
「淑女たるもの、廊下は走らないほうが宜しいのではないか?怪我をしてはいけない」
と諭した。バーナリー男爵令嬢の頬が羞恥でなのか、瞬時に赤く染まった。
「あ、えっと、私の勘違いだったかも…」
小声でそれだけを呟くと、彼女は素早く立ち上がり、マハロ殿下の手を引いて逃げていった。
「お粗末にも程がありますね」
くつくつと笑うマールが彼女を馬鹿にしたように言った。
「あの、口添えに感謝します。ありがとうございました」
戸惑いつつもフレジエ侯爵令嬢が礼を口にしてから優美なカテーシーを決めた。ドレスに比べて短い制服のスカートが持ち上げられたことで膝までが露わになり、私はふいと顔を背けてしまった。
「構わない、あんな言い掛りを見過ごせる程、正義感を失ってはいないつもりだから」
「助かりました」
「このようなことは何度も?」
幾分躊躇うように首を傾げたフレジエ侯爵令嬢が小さく首肯した。そして真っ直ぐに私を見てふわりと微笑んだ。
「身に覚えがないのですが、それを証明することもできず、今はもう諦めております」
「そうか、それは辛いだろう…」
その後に続く言葉を探していた私を差し置いて、マールがポンと手を打った。
「それでしたら私共と行動をともにしましょうか?」
「は?」
「え?」
フレジエ侯爵令嬢だけでなく、私までがマールの発言に間抜け面を曝す。
「アレクサンドル殿下ほどの証人はおりませんから、一緒に行動していれば貴女様がそのようなことをしていないと証言できますよ。及ばずながら枢機卿である私も口添え致します」
胸に手を当て軽く頭を下げるマールにフレジエ侯爵令嬢が慌てた様子で首を振った。
「そんな!アヌシーズ神皇国の皇子殿下様にそのようなことは!」
「構わない、それで貴女の名誉が保たれるなら喜んで証言しよう」
そんな…と声を落としたフレジエ侯爵令嬢の手を取り、私は精一杯魅力的に映るように願って微笑みを浮かべた。
「私はアレクサンドル⋅アヌシーズだ。アレクと呼んでくれると嬉しい。麗しい貴女の名を聞いても?」
頬を染めて俯いたフレジエ侯爵令嬢が軽やかな声で細く告げた。
「フレジエ侯爵家の長女ミラーシェと申します。どうぞミラとお呼びください。アレク殿下」
この日を境に私はミラと多くの時間を過ごす友人となった。