14 お礼の品は私の時間 (ミラーシェ視点) 前編
私、ミラーシェ⋅フレジエはレディアント王国の侯爵家に産まれ、7歳で会ったこともないマハロ殿下と婚約させられた。
当時の私は婚約というものの認識が薄く、マハロ殿下の話し相手くらいにしか考えてなかったけれど、8歳になったときから始まった妃教育の厳しさに何度も両親に婚約解消を訴えていた。
週に一度のお茶会で会うマハロ殿下に対して特別な感情もなかった私は逃げることしか頭になかったと思う。
その私の気持ちがぐっと前向きになったのは12歳のとき。
殿下から誘われて遠乗りに出掛けたとき、暴漢に襲われた。狙いは私。
未来の王妃の座を狙ったとある伯爵家の陰謀だったらしいが、そのときマハロ殿下は私と同じ年だったのに、庇うように前に立つと剣を抜いて、
「私のミラに手出しはさせない!」
と命懸けで守ってくださった。
あのとき私は殿下に恋をしたのだと自覚している。胸がきゅんと痛くなり、狼藉を働く暴漢たちの形相に恐れをなしてもおかしくないのに、私の全身からは恐怖よりも喜悦が溢れていた。
物語のなかのお姫様になれた、と感動に心が震えていた。
そして私は殿下のために生涯を捧げようと決意した。
以来、殿下と私は自他共に認める仲睦まじい婚約者として多くの時間を過ごしてきた。学院に上がる頃には妃教育も辛くなくなり、やる気の満ちた私の努力でもう2年もすれば終われるだろうと褒められるほどだった。
卒業したらマハロ殿下との結婚が待っている、と毎晩のように胸をときめかせていたのに、キャロル·バーナリー男爵令嬢が入学してきた瞬間から私の苦痛の日々がはじまった。
入学式の挨拶を終えた殿下が壇上を降りた直後、キャロル嬢が貧血を起こして彼の前に崩れ落ちた。彼は慌てて彼女を抱き上げると医務室へと連れて行った。
これを切っ掛けにキャロル嬢と急激に仲を深めていった。
仲良さそうにしている2人を見ているのも辛かったけれど、キャロル嬢に溺れるだけ私に敵意を向けてくることがなにより地獄だった。
私とは手を繋ぐだけで精一杯、エスコートも触れる程度、ダンスを踊れば紳士淑女に相応しい適度な距離を保つマハロ殿下なのに、キャロル嬢には積極的に密着し、あまつさえキスをしているところまで見てしまう有り様だった。
それも頬や額ではなく、唇に!
あまりにも悔しくて哀しくて、私はいつも傍にいてくれるミランダ様に愚痴を溢さないではいられなかった。ミランダ様もキャロル嬢には辟易していたらしく、私の代わりに抗議すると告げて、何度かキャロル嬢に苦言を呈したそうだが、結果それが嫉妬に狂った私の嫌がらせとして噂になってしまった。
マハロ殿下の側近たちの婚約者であるご令嬢方はキャロル嬢に対する婚約者の態度に耐えかねてミランダ様を除くほぼ全員が婚約解消するまでに至り、それと比例してキャロル嬢への嫌がらせがエスカレートしていったのを、私はどこか残酷にも「ザマァ!」と思っていた節がある。
だから噂が立っても否定も肯定もせずに放っておいた。
気持ちの上では同罪だと思っていた。
誰もやらなければ私がもっともっと辛辣に犯していただろう、と確信していたから。
だって私のなかでマハロ殿下への想いはしっかりと育っていて、すでに愛へと昇華していたのだもの。
どろどろと胸の奥底から浮上してくる黒い感情に蓋をするなんてできなかった。それが私の、マハロ殿下への愛の裏側だと知っていたからこそ、無視するなんて無理だった。
抑えるだけで精一杯。
キャロル嬢がミランダ様から虐めを受けている姿を見て止めなかったのも、眼にした瞬間胸がスッとしたからだ。彼女の破かれてボロボロになった教科書がゴミ箱に捨てられているのを知ったときも、私の名を出して知りもしない令嬢方がキャロル嬢を集団で詰っていたと聞いたときもどす黒い思いが私のなかで渦巻いて、もっと傷付けばいい、と嘲笑っていた。
私はもっと傷付いているんだから、もっともっともっとキャロル嬢だってズタボロになればいいんだ!
そして自己嫌悪に陥る。
キャロル嬢が現れるまでは自分のなかにあるとは知らなかった、真っ暗で深い深淵に私は堕ちて沈んで、埋もれて…
暗鬱な心から逃れようと足掻いても、浮上を許さない真っ黒な私が足首を捕えて離してはくれない。
彼女がマハロ殿下の前に立つ以前の、キラキラと純粋だった私に戻りたい!渇望が喉の渇きを増長させていくのに、私の欲しい水は得られない。
このままでは私が直接キャロル嬢を害するのも近いかもしれないという恐怖に囚われはじめた頃、キャロル嬢が私の周囲を彷徨き出した。
しかも必ず彼女は転ぶ。
まるで私が意地悪で足を引っ掻けたかのように。
もしかしたら無意識にやってしまったのかもしれない、と自分を疑うまでにさして時間は掛からなかった。さらに噂が加速して、マハロ殿下から蔑まれた視線を向けられるようになった。
その頃からマハロ殿下はキャロル嬢への想いを隠すことなく露にして、ところ構わず触れ合うようになった。あの日も学院に設置されている噴水前で熱く抱擁する2人の姿を目撃して、私は独り図書館で咽び泣いていた。
もうダメだ、と思った。
このままでは私が壊れてしまう、と。
これ以上大好きな殿下から嫌われるくらいなら、私からすべてを手離そう、と考えた。
殿下がキャロル嬢と幸せになれるなら本望じゃないか、と一片だけ辛うじて残っていた私の良心が叫んでいた。
今ならまだキラキラしていた私に戻って、殿下の幸せを祝える、と。
乱暴に涙を袖で拭った私は泣き腫らした目元が見えないように俯いて、足早に職員室に向かおうと廊下を歩いていた。早退して、心を落ち着けて、殿下を諦めるために自分の気持ちとちゃんと向き合うための時間を必要としていたからだ。
すぐになんて諦めきれないのはわかっていた。
それだけ私は殿下を愛していたし、なにより私の初恋なんだから、簡単にサヨナラできるようなものではない。それでも今以上の黒い感情を持っていることに直面するほどの勇気はなかった。
ゆっくりでいい。
時間をかけてもいいからマハロ殿下を忘れるようにしなくては…
項垂れ、そんなことを考えていた私の耳に聞き慣れた足音が響いてきた。軽やかで、下品な足運びの、タタタッという淑女らしからぬ音。
すでに耳に慣れたキャロル嬢の足音。
また私の前で転んでわざとらしく泣いて、タイミング良く殿下が来て、私を詰るんだわ。
諦めの吐息がふぅと口から漏れたとき、私は温かなものに包まれていた。ムスクにスパイスを混ぜたような刺激的な香りが鼻腔を擽る。
とても心が落ち着く。
お気に入りのハーブティを楽しんだあとのような、爽快感が私の全身を心地よく走り抜けた。
そのとき派手な舌打ちの音が聞こえて、私は我に返った。そして誰かの腕に抱かれていることに気付いて、私は慌てて顔を見上げた。
この世のすべてを凍らせたといわれても信じるだろうアイスブルーの瞳が労るように甘く光り、さらりと流れる銀髪の間から覗いていた。
遠目では知っていたけれど、間近では見たことのなかった端正な姿。
凛とした雄々しさのなかに厳しさと優しさを含む尊顔は令嬢方が騒ぐのも致し方ないと納得させられるだけの美しさがある。
大神ゼフの息子アヌスを体現したような相貌に、神の血筋を目の当たりにした気分だった。
マハロ殿下を美しいとは思ってきたけれど、眼前の彼を見たあとではただの人でしかない野暮ったさが目立つ。
それほどに端麗な彼の腕から離れると、私は深く腰を折ってカテーシーを披露した。
「失礼致しました。アヌシーズ神皇国のアレクサンドル殿下」
きっと私は真っ赤だろう。
頬に熱が集まったのが自分でもわかるのだから。
すると彼はその冷ややかともいえる瞳を甘く緩ませて、蕩けるような微笑みを私に向けてきた。
まるで天国に昇ってしまったかのように、彼の周囲が淡く光輝いた。
「構わない、楽にしてくれ。ミラーシェ⋅フレジエ侯爵令嬢。そこの令嬢とぶつかりそうになっていたので助けたまで」
低く響く声までが麗しく、私の身体がはしたなくも僅かに震えた。