4階 シュヴァルツヴァルトの悪魔(2)
昨晩、『悪魔の選定』の瞬間を目の当たりにした村人達の間にはどんよりと淀んだ空気が流れていた。
一連の死亡事件を偶々だと一笑に付していた者達すら皆怯え、憔悴し、誰も彼もが精神を擦り減らしている様だ。
...それは、俺たちも例外では無かった。
一晩の内に一気に暗く余所余所しくなった村人達の様子に、幼いリィはすっかり意気消沈してしまっている。
遅い朝食をボソボソと腹に詰め込んだ俺は、せめて2つも増えた墓穴掘りの仕事を手伝おうとイヒテの書斎へと向かっていた。
「......言いたい事はよぉ分かる。ボクかて村の皆んなが死ぬ所なんて見たないよ。けど、人柱なんて立てた所でほんまに収まる保証はどこにもあらへんやないの。」
うっすらと開いた扉の隙間からイヒテと村人達の会話が洩れ聞こえ、俺は咄嗟に物陰に身を潜めた。
「しかし村長!村は今混迷しているのです。目に見える安心材料は必要でしょう!......聞き齧った話では、村長のお宅にはお客が泊まってらっしゃるとか。」
「!!わかったわかった!...そっちはボクが何とかしたるから、君らはもう行きぃ。」
イヒテの書斎から村の有力者であろう奴等が出て行く。
余所者を、人柱に...。
つまり、俺たち4人を生贄に差し出し殺そうと言うのか。
俺は急いでリィ達の元へと踵を返した。
「アッ、ラ、ライさん。そっそんなに急いでどうしたんです?」
食堂の手前で皿を運ぶディーを見つけた。
「ディー!リィとエルは?」
「アッ、部屋に居ますが...?」
「そうか。ディーも来てくれ。...ここを出るぞ。」
状況を飲み込めていない様子の3人を事情は後で説明するから、と半ば強引に連れ出す。
音を立てないようこっそりと玄関へ向かうが、扉の前にはイヒテが凭れかかるように立っていた。
「イヒテ、通してく、......!」
強行突破も止むなしかと身構えたが、イヒテは人差し指を唇に当て「着いて来い」と頭を傾げるジェスチャーをとる。
「...さっきの話、聞いとったんやろ?正面から出るんはあかん。こっちや。」
先導され勝手口の脇から地下に降りた。
ひんやりとした空気には埃と煙草、微かに葡萄酒の匂いが混ざっている。
階段の突き当たり、扉の先は食糧庫だろうか。
「この先にな、だぁれも知らん秘密の抜け道があるんよ。」
「けど、俺たちを逃したなんて知れたらアンタが...」
イヒテは食糧庫の扉の脇にカンテラを掛けると俺たちを中へ促した。
「ええねん。今日死ぬ“嫉妬の罪人”はボクなんやから、今日を逃すともうチャンスはあらへんやろし。」
俺たちの背後でイヒテが小さく呟いて、ガチャリ、と外鍵の音が冷たく響く。
辺りは闇に閉ざされた。
まずい、まずい、まずい!
完全に俺の選択ミスだ。どうしてあんな見るからに奇しい奴を信用してノコノコ着いてきてしまったのか。
「っの野郎!!!開けろ!!」
ドンドンと蹴たぐるも頑丈な扉はびくともしない。
ふと身体の力が抜けて膝を着く。
細い管を気体が抜ける様な音に耳を澄ますと、俺の周りで身を寄せ合っていた3人も床にへたり込む気配がした。
クラクラと揺れる感覚、麻酔薬か何かを嗅がされたと霞む思考が辿り着く。
意識が遠退きぼやける視界の片隅に、ワインの棚を透かす蛍光灯の光が揺らいだ。
正に俺たちの探していたあのエレベーターが、薄く唇を開けて伏した俺たち4人を照らし出す。
手を伸ばそうにも痺れて言う事を聞かない体は指先をピクリと動かしただけで、そのまま眠りに落ちて行った。
「な、あったやろ?村のモンらだぁれも知らん秘密の抜け道。」
「......君、」
誰かが呼んでいる。俺は重たい瞼をのろのろと上げた。
この頭痛と悪心は、ゆらゆらと微かに揺れる感覚と鼻腔に絡むタールの匂いだけじゃないはずだ。
じゃあ、何だ...。
なんだっけ......
「...ライ君!いい加減起きぃな。」
強く呼ばれて、脳が急激に覚醒する。
「...イヒテ!!テメェよくも...!」
壁に凭れた体勢から弾かれた様に立ち上がり、俺たちに妙な薬を嗅がせた張本人の胸倉を捻り上げた所でやっとここが何処なのかを認識した。
やはり、気を失う直前に見たのはあのエレベーターで間違い無かったらしい。
見覚えのある内装。
だが。
「おい......何でアンタが乗ってる?リィ、ディーは、エルはどうした...?!」
「...最初は全員乗せたろ思てたんよ。ほんま。ボクかて悪モンちゃうんやし...ま、ダークヒーローっちゅうんやったけど。君らがお手手繋いで仲良うしとったんがあんまり羨ましゅうて嫉しゅうて、憎らしゅうてなぁ...いけずしてもうたわ。」
血の気が引く音、と言うのを初めて聴いた気がする。
ドアの前を塞ぐイヒテを払い退けようと腕を薙ぐと、拳にぐんにゃりと生温かい鈍い重みを感じた。
エレベーター内に横臥する程のスペースは無く、壁に背を打ち付けたらしいイヒテは息を詰め咳き込んでいる。が、そんな事に構っている暇は無い。
「リィ!!ディー!!エル!!聞こえるか!!?返事しろ!!!」
滅茶苦茶にボタンを押し、在らん限りの力でドアを叩いた。だがどれだけ呼び掛けても返事は無く、ガンガンと金属質な音が空虚に響くのみだ。
斯くなる上は、と力尽くで抉じ開けようと閉じ目に掛けた指を後ろから咎められた。
「邪魔すんな!!!」
「やめとき。あの子ぉらならきっと村で良おやってけるやろ。諦めぇ。」
やっていける、だと?
そもそも人柱にされかけて逃げてきたのに、年端も行かない幼女とヘタレ男と無表情女がどうやって?
「ふざけやがって...!!」
「そら死ぬんは恐ろしいモンやけど、最初の1、2回だけやて。月曜日になればまた同じ1週間が始まって、死んで、また同じ1週間が始まる。あそこはそう言うゲームや。」
慣れてしまえば何のことは無い、ボクでも出来た、とイヒテは語る。
きっと嗅がされた薬の所為だ、頭はクラクラ視界はグルグルして何も理解できない。
本当に同じ言語で話しているのか?
「どこのゲームでも一緒やろうけど、ボクらにとって本当の意味での『死』とはちゃうんやからそない大袈裟にせんでや。同じ1週間を気ぃが遠くなる程繰り返しても、運が良ければボクみたいにまたエレベーターに乗れるんちゃうかな。」
イカレてる。
まるで、自分がゲームの登場人物だと思い込んでいる気の毒な人だ。
そうで無ければ、おかしいのは俺か?
燃え滾っていた筈の怒りや焦りは怖れと喪失感に覆われて、身体は蝋石の様にギシギシと強ばった。
「お前は......」
イヒテの方に向き直る。
初めて会った時と同じ、糸の様な目も常に上がった口角からも、感情を伺い知る事は出来ない。
もう一度胸倉を掴み上げてやろうと手を伸ばすがカタカタ震える役立たずの指はまるで縋る様に襟元を撫で、馬鹿になってしまった肺は上手に息が出来なくて浅く呼吸を繰り返す。
不意に背後のドアが開く気配がした。
引き摺る様にしか歩けなくて、のろのろとエレベーターを降りた。
食糧庫じゃない。3人も居ない。
目の前を猛スピードで自転車が横切り、俺は無様に尻餅をついた。
犇めき合う建物の隙間からは電線に縛られた夜空が覗き、赤提灯を掲げた大衆食堂が軒を連ねて酔客で賑わっている。
何処か懐かしい風景に、改めて喪失感を思い知る。
あの死臭漂う陰気な村に置き去りにしてしまった、3人の事。
純粋で幼気で場を和ませるのが上手かったリィ、吃りがちのオタクだけど案外やる時はやるディー、意思疎通は全然出来なかったけどふと気付けばリィの面倒をよく見ていてくれたエル。
俺の失態で、あいつらを死に追い遣った。
「あぁ......っ!!」
目の奥が痛んで、掌で額を覆って髪を掻き毟る。
しでかした事の重大さと失ったものの重さに、俺は恥も外聞も無くただ子供の様に泣きじゃくった。
「君にそないに想われて、あの子ぉらは幸せやね。一緒に旅するんに君みたいな優しい子ぉを選んで良かったわ。」
頭の上からぽつぽつと言葉が降ってくる。
雨粒の様で、煩わしい。聞き苦しい。やめてくれ、もう喋るな!
「......ボクらと君らは何が違たんやろなぁ。どこで間違てしもたんやろか...。」