第144話 クールダウン
もうどれ程殴っただろうか。気が付けばベクターは息を切らしながら、虫の息になって倒れているファウストに馬乗りになっていた。倒れれば何度でも立ち上がらせて殴り、時には壁や床に叩きつけたりもした。ファウストの血が自分にかかる度、乾いてしまうかのように体に吸収され、その都度力がみなぎるような感覚と病的な高揚が襲う。
「うああああああああ‼やめろおおおおおお‼」
ムラセは怒鳴った。そしてベクターが馬乗りになってファウストを殴り続ける間、必死に体に圧し掛かっている飛空艇から抜け出そうと躍起になる。うつぶせの状態から腕の力で起き上がる動きを利用し、僅かに隙間を作ってから少しづつ体を外へ出して行く。その後に化身を召喚すると、彼も必死に飛空艇を持って隙間を維持してくれた。
何とか這いずって出る事が出来たムラセは、どうにか魔力を下半身に集中させて破壊された骨の修復を行う。そして痛みが残る上に完全ではないものの、どうにか動ける程度にまで回復させてからベクターの方を見た。どうやらトドメを刺すつもりらしく、オベリスクを担いでジードの前に立っている。ムラセは体を引き摺るようにして走り、ベクターを背後から羽交い締めにするように取り押さえようとした。
「…しつこいんだよお前」
躱す事も出来たのだが、ベクターはわざと彼女を止めなかった。しかし一言だけあ愚痴を言ってからオベリスクを床に突き立てる。思い留まってくれたのかと驚くムラセは彼の体から離れるが、それこそが狙いだった。後ろを振り向いたベクターは動揺している彼女に対して膝蹴りを行い、再び悶えさせる。そして邪魔されない内に始末するつもりなのか、オベリスクを掴むとアクセルを回してエンジンを起動する。それでも諦めるつもりは無いのか、ムラセは急いで立ち上がってからベクターの前に回り込んで立ちはだかった。
「頼むって…お前まで殺すと後味悪くなるんだ。たぶん」
「死ぬまで退かないって言ったら ?」
ここまで忠告し続けても尚、震える声で自分には向かって来るムラセに対し、ベクターは諦めたかのように告げた。
「じゃあ……もういいや」
ベクターは静かに、そして諦めたかのように言った。当然、攻撃をやめるというわけではない。それは他ならぬ彼女に対する別れの言葉としての意味であった。そのまま勢いよくオベリスクを振り下ろし、ムラセも躱すことなくゲーデ・ブリングを腕に纏わせてからそれを受け止める。火花が辺りに散り、オベリスクを必死に遠ざけようとするムラセだが、既に体力と体に蓄えられていた魔力にも限界が来ていた。
一方でベクターは胸騒ぎを抱えたまま彼女へ得物を押し付ける。願わくば彼女が先に折れて、諦めてくれればと考えていた。どれだけ互いに相容れる事が出来ないのだとしても、これまでつるんできた相手を殺す事にはやはり罪悪感を覚える。しかし、ムラセは動こうとしなかった。段々オベリスクの刃が近づき、遂には彼女の肉を切り裂き始めても尚退かずにベクターの方を見据える。涙が流れていた。
「何でだよ…何で…‼」
泣き顔を見たベクターは呟きながらオベリスクを押し付け続ける。その時、ふと脳裏によぎったのは幼い頃の自分自身であった。父がもういないという喪失感によって呆然としたまま彷徨い続け、故障したバギーを乗り捨ててから道端に停めてあったトラックにしがみ付いて移動し続けていた日々…そしてノースナイツに潜入してからフロウと再会した時には、「何かあったらここに行けと父が言っていた」と泣きじゃくりながら話した。そんな記憶が突然思い起こされる。
余計な雑念が割り込んできたせいでふと熱が冷め始めた。というよりは今の自分を客観視してしまったのかもしれない。家族を失う辛さを知っているにも拘らず、自分もまたその辛さを他人に味合わせようとしていた皮肉的な状況であると認識してしまった。そもそもの話、自分はこの男の何を知っているのだろう ? 彼がなぜ自分を殺そうとしたのか、なぜ取り逃してしまったあの日から自分を狙わなかったのか、ジードと最後に何を話していたのか…何も知らないまま殺して終わる。それでいいのだろうか。
次から次へと躊躇う理由が生まれ出し、気の迷いが生じ始めた。オベリスクのエンジンを停止させ、ゆっくりとムラセから引き離しながらベクターは後ろへ少しだけ下がる。息を切らしながら俯く彼の姿を見たムラセは、どうして良いか分からなくなってしまっているのだとすぐに悟った。
そんな状況に陥ってしまっては重大な隙が生まれてしまう事も当然である。直後に猛スピードで屋上へ辿り着いたリリスは、そのままベクターを殴り倒した。
「大丈夫⁉」
リリスがムラセに叫んだが、肩から胸にかけて大きな傷を作って血まみれになっている彼女を見た事で、リリスの内側にあったベクターに対する不信感と危機感は更に増大した。彼の頭を掴んで立ち上がらせると、右腕に魔力を集中させて全力で腹にアッパーカットを放つ。ベクターが血を吐きながら吹き飛ばされ、廃病院から少々離れた先の上空から落下し出した頃、床に転がっていたオベリスクをリリスは掴んでから彼に向かってぶん投げた。
槍投げの槍の如く投げられたオベリスクが勢いよくベクターに突き刺さり、そのままさらに遠くへと彼は飛ばされる。その様子をムラセ達が見ている間に、イフリートも外壁をよじ登って屋上に辿り着いていた。
「…ひとまず、すぐには追ってこれないでしょ」
リリスは疲れた様に肩で息をしながら言った。
「今の内に離れよう。ほら、肩貸してやる」
イフリートも提案をしてからムラセに寄って彼女を支えた。そしてリリスがファウストの元へ寄った直後、屋上に鎖付きのクナイが外側から投げ込まれる。そしてクナイが蛇のように動いてから床に突き刺さると、そこからザガンが昇って来た。鎖がリールで巻き取られた糸の様に彼女の体の中へ戻って行く様子は何とも言えないグロテスクさがあったが、今はそんな事は些細な問題である。
「下で随分と死人が出ていたが…」
「後でベクターに文句言って。今は少し距離を置きたい」
ザガンが被害の大きさに対して苦言を呈するが、リリスは責任転嫁をしてからその場を離れたそうにしていた。
「ああ、その方が良いだろう。すぐにノースナイツに戻れ」
「どういう事だ ?」
「嵌められたんだ…私の所在をバラした奴らの目的は、ノースナイツからお前達を遠ざけたかったからだ。アモンがそう言っていた」
「何だと…⁉」
ザガンが彼らに帰るように伝え、理由まで話すとイフリートは驚愕していた。リリスも言葉に出す事こそしなかったが動揺した様子でファウストと顔を見合わせる。
「アモンって…?」
「オルディウスの腰巾着だよ。あの野郎が何でいるわけ ?」
「奴らが何か企んでる…今はまだそれしか分からん。身の振り方を考えておけと、そう言っていた」
ムラセの質問にリリスは答えるが、なぜこうして姿を現し始めたのかが理解できない。そんな彼女にザガンはオルディウスからの伝言と共に、悪い予感がする事を伝えた。
「すぐに戻るべきだな」
イフリートが言った。
「でもベクターさんが…」
しかしムラセはベクターの安否が気になるらしい。確かにこのままではベクターをしばき倒した挙句、彼が借りていた乗り物を強奪した様なものである。かといって連れて帰る以上は同行しなければならず、この状況でそれを出来る様な勇気は流石に無い。
「しょうがない、奴には私が付いておく。今は互いに頭を冷やした方が良いだろ…今回に関してはお前達にも落ち度がある。大丈夫だと思ったら私がそっちへ連れて行こう」
結局ザガンが残る事を決め、全員がそれに納得した事で今後の動きが確定する。ムラセ達がキャンピングカーに戻って行くのを見送ってから、ザガンは吹き飛ばされたベクターを探しに向かった。