第132話 板挟み
トレーニングから戻ったムラセはソファへ横になっていた。何をするにしてもとにかく気力が起きない。というのも、考える事が多すぎてそれどころでは無かったのである。ハイドリートから戻ってきた後、ベクターに内緒でイフリートから告げられた事実が圧し掛かり、ひたすら彼女は困惑する事となった。
自分の父親の名がファウストである事、そして彼が自分の仕事仲間であり身柄を引き取ってくれた恩人の仇だという事。この二つの事実の間に板挟みとなってしまい、何をしてもリラックスできない。体を動かし、鍛錬を続け、そして合間に荒事を引き受けている間のみは忘れる事が出来た。しかし、休んでしまうと同時に今の自分が置かれている状況や今後の見通しへの不安で頭の中が一杯になってしまう。
「ああ、ここにいたんだ」
ジョージが工房から現れながら言った。
「イフリートも戻って来たし、食事でもしよう」
「あ、じゃあコーヒー…」
「いやいや大丈夫。僕が淹れてくる。疲れてるだろうし休んでて」
「な、何かすいません」
食事の時間が迫っている事に気づいたムラセは、起き上がりながら飲み物でも用意しようとするがジョージは優しく止めた。そのまま台所へ向かっていく彼に感謝をする一方で、何か仕事をしていたい気分だったのだからこの時ばかりは止めないで欲しかったと寂しそうに手をこまねく。その時、玄関が勢いよく開いてベクターが雪崩れ込んできた。なぜか上半身に何も来ていない。
「ちょっ、どうし――」
「いいか。誰が来ても俺の事なんか見てないって事にしとけ。じゃあな」
ムラセが何事かと聞きかけた矢先、ドアを急いで閉めたベクターが彼女の肩を叩いて部屋に戻っていく。間もなく、怒鳴り声と共に玄関のドアを誰かが叩き始めた。面倒くさそうにベクターの方を見ると、シャツを持ったまま申し訳なさそうに片手を出してこちらへ謝るポーズだけ見せた。声すら出さない辺り、居所がバレると都合が悪いのだろう。
「どうしました?」
ムラセはドアを開けたが、目の前には猟銃を携えている男がいた。その背後には取り巻きらしき青年も見える。顔立ちが似ている辺り親族かもしれない。
「この辺りに赤い髪した男が来なかったか ? てかここに入っただろ ?」
「さあ…」
男が引き金から指を離しているのを見たムラセは、今の所こちらへ敵意が無いと推測しながら曖昧な回答をする。しかし、引き金に指を掛けていないという事はうっかり引いてしまう様な事態があってはならないと向こうも理解している事になる。つまり、銃の中には実弾が既に装填されている可能性が高かった。今更恐れるようなものではないが、こんな所で騒がれても面倒な事にしかならないだろう。何より、ようやく建物の修繕費や滞納していた家賃及び光熱費を払い終えたばかりである。無駄な出費をしたくない。
「おっさん達何やってんの ?」
ちょうどその時、帰宅しようとしていたリリスが男達の背後から声をかける。
「リリスさんどこ行ってたんですか ?」
少し有利になったと思ったムラセはホッとした様子で彼女へ聞いた。
「たまには女の子も悪くないからって事でストリップクラブ行ってた。んで帰ろうとしたらベクターがここに駆け込んでるの見てさ……ああ~、今のもしかして言っちゃいけなかった ?」
馬鹿正直に経緯を話した直後、ムラセが頭を抱えた事で余計な情報を漏らしてしまった事をリリスはすぐに察知する。男達もすぐにムラセの方を睨んだ。
「やっぱり隠してやがったな… ! 出せ ! 今すぐアイツを連れてこい !」
猟銃を向けながら男は怒鳴った。もういっそ殴ってしまおうかとムラセは思いつつも、下手に怪我をさせて話をややこしくさせてしまうのも避けたい。
「とりあえず帰ってもらえませんか ? ちゃんと日を改めてお伺いするよう本人には厳しく言っておきますから」
「いーやダメだ ! 今すぐここに出せ ! さもなきゃ、てめぇらの頭にも風穴開けてや―――」
ムラセも宥めようとするがやはり言う事を聞いてくれない。そのまま男が暴走しそうになっていた時、リリスがこっそりと忍び寄ってから、男の持っていた猟銃の銃身を握りしめる。そして握力に物を言わせて思い切り銃身を潰した。
「帰れよ」
空腹でイライラしてるのか、リリスが真顔で警告をして来た。頼みの綱だった武器が使い物にならなくなったせいか、急に男達は畏縮した。そのまま素手で立ち向かうという様な度胸も見せず、ぶつくさと文句を言いながら帰る。途中で彼らとすれ違ったイフリートは不思議そうにリリス達を見た。
「何があった ?」
「中にいるトラブルメーカーに聞けば ?」
イフリートの質問にリリスが答える。そのまま三人で戻ると、シャツを着てから何事も無さそうにジョージの淹れたコーヒーを啜るベクターがいた。
「久々に濃いコーヒー飲んだな。やっぱ金持ってるっていいもんだ」
なぜか他人事の様に言う彼を見たムラセ達は非常にイラっとしたが、ジョージがカップを差し出して来た事で一休みとなった。
「おう、皆戻って来てたのか。何か騒がしかったがどうした ?」
一仕事終わったらしいタルマンもリビングへ戻って来るや否や、騒動の原因について問いただして来た。そのまま全員からの視線をベクターは感じ、静かにカップ置いてから背もたれに寄りかかる。
「どこから話せばいいのやら…」
正直に話していいものかと思いつつ、ベクターはそのまま出来る限り記憶を辿り始めた。
――――三十分前
とある団地の一部屋にて、ベッドの上でベクターはレクイエムを眺めていた。そのまま服を纏っていない自分の胸元を触り、やがて胸に残っている傷を撫でる。次々に起こる体の変化に対し、彼はどうも偶然だけでは片づけられない何かを感じ取りつつあった。
「っと…そろそろマズいか」
時計を見てから慌てて起き上がり、床に放置していたパンツとズボンを履く。そして靴も履き終わった頃、隣で寝ていた女性が目を覚ました。少しくたびれた様子のある彼女は、乱れた黒髪を少しかき上げてからベクターの方を見る。
「もう行っちゃうの ?」
「案外、忙しい身でね…楽しかったよ」
寂しそうに尋ねてくる女性に、ベクターは少し笑みを浮かべながら言った。そして彼女の額にキスをした後、自分が来ていた服を探すがどうもTシャツとジャケットが見当たらない。その時、バタバタと乱暴な足音が響くや否や、勢いよく誰かが扉を蹴破って来た。
「ああクソ、しまった」
ベクターは思わず悪態をつく。入って来たのは自分と先程まで情事に及んでいた女性の夫であった。彼の弟らしき人物も連れている。
「気の毒にな、兄貴」
「てめぇ確かベクター…んの野郎…‼ とんでもない事してくれやがったな‼」
憐れむ弟を無視し、目を血走らせながら男はベクターへ殺意を向ける。
「ねえ、少し話を――」
「黙れ ! お前とは後で嫌という程話してやる。最近妙に色気づきやがっておかしいと思ってたが、やっぱり正解だった !」
ベクターのためなのか、それとも保身のためなのか女性も弁明をしようとするが聞き入れてもらえない。そのまま持っていた猟銃をベクターへ男は向け始めた。
「だって…あなた最近全然相手してくれなかったじゃない ! いつもいつも仕事のせいで疲れたとか言って、休日だって寝てばかりで何もしてくれないし――」
「俺だって金を稼ぐのに手一杯だったんだ ! それなのにこんな男と遊びやがって…‼」
とうとう女性は白状し始めるが、男も負けじと反論をし始める。一方でベクターはどうにか怒りの矛先を女性に向けられないかと考え始める。その隙に逃げてしまいたかった。
「別に金かかる様な事はしてねえよ。ヤっただけだから」
「お前今すぐ死にてえのか」
ベクターが口を挟むと、男はすぐに銃を向けてきた。
「落ち着けよ。他の奴に取られるのが嫌なら普段から愛してやれって…ああ、無理か。お前の奥さんが言ってたもんな。『あの短小中折れ野郎のより遥かに良い』って」
「…あ ?」
「滅茶苦茶だったぞ。『あのクソ野郎の事忘れさせて』とか『あなたとならいつまでもこうしていたい』とか、そうとう溜まってたんだな…後、たぶん話からして他の男とも関係持ってるぞソイツ。『今までしてきた中じゃ、あなたが間違いなく一番』って言ってた」
ベクターの証言に男は放心状態となり、ゆっくりと女性の方を振り返る。そのまま目が泳いでいる彼女と男が一触即発になり、自分の方へ意識が向いてない瞬間を見計らってベクターは窓へ走り、そして突き破ってから一気に下まで飛び降りた。
――――現在
煙草が無いか探しているベクターの周りでは、全員が呆気にとられた様子で彼を見ていた。
「まあ、そのまま上手い事クッション代わりにゴミの上へ着地して、ここまで逃げてきたわけだ…ハハハ」
自嘲しながらベクターは言うが、最初から擁護をしてくれることなど期待していない。そして、他の面々もそのつもりなど更々なかった。
「いや、笑う要素ありますか ? 今の話」
「お前ホント懲りねえな。何度目だよ」
「引くわー」
「良く分からんが、とりあえず禊に腹を切れ」
「アンタにまともな友達いない理由が良く分かった気がする」
案の定、口々に罵倒をされる羽目になった。なぜか不服そうな顔をしつつ縮こまりながらベクターはコーヒーを飲み続ける。
「やっほ」
丁度その頃、玄関を勝手に開けてリーラが入って来た。そんな彼女の背後では、相変わらずマイペースな調子でファイ達がじゃれ合いながらついて来ている。
「…もしかして、取り込み中だった?」
なぜか騒々しかった彼らへリーラが尋ねると、ベクターが口止めをしようとするより先にタルマンが経緯をかいつまんで話した。その後、いつも通りリーラから指示を受けたファイ達によって半殺しにされたのは言う迄も無い。