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王女殿下の望まれない帰還  作者: 小田マキ
第一章 前代未聞の取り違え
2/3

 翌朝早くに、オーリンは旧市街地の自宅に戻ることになった。

 幸いなことに、ウェステン街道の道端に放置されていた屋台は無事見つかり、売上金もそのまま残されていた。王都近郊はヴァルタザール公爵家を筆頭に貴族の邸宅が軒を連ねる地区で、治安が良い場所である。

 本来なら、オーリンが遭遇したような凶悪事件は起こるはずがなかった。

 王都の治安を預かるミュラーリア弓騎兵隊に所属するクロードは、自らの話を聞き、大いに不信感を抱いたようだ。市民の安全のためにも必ずや賊を捕縛し、その目的を明らかにしなければならない、と正義感に燃えていた。

 そして、彼は今、主に相応しい黒毛の愛馬を連れてくると、馬体にオーリンの屋台を繋ぎ、当然のように自分と相乗りして家路についている。

 クロードが己を警護すると言った言葉に、二言はなかったようだ。

 正直、二言があってよかった。

 ただでさえ昨夜は寝ずの番までさせているので、むしろ二言は大歓迎である。あってくれた方が、オーリンも気を遣わなかった。

 至極恐縮する彼女の心など露知らず、舗装されていない凸凹道を物ともせずに、クロードの愛馬はパカポコと進む。馬に乗るのは初めてのオーリンでも、乗り心地は驚くほど良かった。騎乗のまま弓を射ることもあるらしい彼の手綱捌きが卓越しているのはもちろん、馬も主に全幅の信頼を寄せ、指示に従っているのだ。

 動物に好かれる人物に、悪い人はいない。

 そのことをオーリンに教えてくれたのは、亡き両親だった。

 けれど、二人が健在だったなら、嫁入り前の娘が知り合ったばかりの男と二人きりで(正確には犬も一匹いたが)夜明かししたなんて、と酷く叱られたかもしれない。そんなふしだらな人間に育てたつもりはないと。

 ただし、クロードは名門中の名門であるヴァルタザール公爵家の御子息様である。世間一般的に見て、どこの馬の骨とも知れないのはオーリンの方だ。

 自分達が住む旧市街地は、地価の高い首都部に住めない貧しい移民達が数多く住む移民街だ。海から近く、漁業や交易には好立地だったが、季節嵐による高波で年々沿岸部が削られ、住宅街まで酷い塩害を受けるようになったため、今や純粋なソルケット人はほとんど住んでいなかった。

 長年の塩害で外壁の腐食が激しく、人が住んでいるとは思えないような錆びついた長屋群……その突き当りにあるのが、オーリンの住まいだ。人に何と言われようと、生まれた頃から両親と一緒に住んでおり、慣れ親しんだ愛着のある我が家である。

 しかし、昨夜泊った森の見張り小屋の方が、余程住み心地が良いことを認めざるを得なかった。

 海からの潮風でギシギシと音を立てる建付けの悪い扉が見えてくると、クロードからの護衛の申し出を承諾したことを、オーリンは改めて後悔する。それはもう、滅茶苦茶に……現状に慣れ切って麻痺していた羞恥心が、胸の中でムクムクと肥大化していく。

 名門貴族出身であるクロードに、この街はあまりにも不釣り合いだ。彼は特に言及しないけれど、内心ではきっと衝撃を受けているだろうに。

 オーリンは諸々の葛藤を抑えつけ、首だけで背後を振り返った。

「クロード様、申し訳ありませんが裏へ回って頂けますか? 表に屋台を停めると、玄関が開かなくなるので……あと、池の様子も見たいですし」

「ああ、確か魚がいるのでしたね。仰せのままに」

 そう依頼した彼女を、信じられないほど至近距離から見返すクロードが快諾した。口調は柔らかいものの、彼はニコリともしない。やはり表情筋が硬いらしい。

 昨夜一瞬だけ見せた笑顔は、現実のものだったのだろうか?

 今となっては、月明かりが見せた幻のようにも思える。

 それでも、明るい日差しの中で見るクロードの面差しは、この世のものとは思えないほど整っていた。

 海水負けしてパサパサで茶色く褪せた自らの髪とは大違いの輝かしい銀髪が、目に染みる。切れ長な水色の双眸も、傷一つない宝石のようだ。闇夜のような滑らかな褐色の肌だって、日焼け、肌荒れとは一生無縁に違いない。

 さすがは軍人。徹夜明けであるはずなのに、驚くべき精彩を放っている。むしろなかなか寝付かれなかった自分の方が、目の下にクマができ始めているくらいだ。

 吐息を鼻先に感じるほど間近で見ているうちに、一夜明けて正常に働き始めた脳が、再び支障をきたしてきた。歯の裏側までせり上がってきた「ヒエッ」という間抜けな悲鳴をギリギリ飲み込み、オーリンは正面に向き直る。

 この国ソルケットで最上層に君臨するだろう貴公子の美貌は、最下層を這いずる移民の小娘の心臓を容赦なく殴打してくる。

 整い過ぎた顔面はいっそ凶器だ。

 美しさは暴力にもなり得るのだ、とオーリンは今日初めて知った。

「もっとしっかり私に背を預けてください。重心が崩れてしまう」

 自らの心情など知るよしもない彼は、手綱から外した左手で彼女の腰骨を掴み、強制的に逞しい胸にもたれさせる。

「ひゃいっ、済みませぬ……!」

 咄嗟にオーリンの口を突いて出た謝罪の台詞には、隠し切れない動揺が迸っていた。

 このままでは心臓が持たない。

 神様助けて。

「着きましたよ。思ったよりも大きな池ですね」

 寛大なのか鈍感なのか……クロードは明らかに挙動不審な彼女にも頓着せず、そう言って手綱を引き絞った。

「ええ、地下で海と繋がっているので、よく珍しいお魚や生き物が……」

 彼を極力視界に入れないように頷き、オーリンは意を決して背後を振り返る。

 しかし、今の今までそこにいたはずのクロードの姿は忽然と消えていた。

「お手をどうぞ、オーリン嬢」

 驚いて声のした方を見遣ると、クロードは地上から恭しく手を差し伸べている。いつの間にか、音も立てずに下馬していたようだ。

 目の前に迫った純白の手袋を嵌めた手に、連日の水仕事で荒れ放題な己のそれを委ねて許されるものか……オーリンの胸は落ち着くことなく、一層ざわつく。

「アリガト、ゴザマッ……?」

 たどたどしい謝意を口にし、恐る恐る伸ばした手は、次の瞬間には手袋の中にすっぽりと捕らえられていた。手触りもよく分からないまま身体が宙に浮き、気付いた時にはクロードの腕の中……いわゆるお姫様抱っこだ。

 そこに至るまでの予備動作は、オーリンには一切感知できなかった。

 何だこれ、なんだこれ、ナンダコレ!

 この一連の動作が貴族にとってごく一般的な立ち居振る舞いだというのなら、恐らく貴族の御令嬢方も常人ではない。

 容赦なく美の暴力を振るい、手取り足取り流れるようにかしずく貴公子達に、いちいち悲鳴を上げないなんて、気を失わないなんて……何という強心臓の持ち主なのだろう。

 上流階級、恐るべし。

「オーリン嬢? もしやご気分が優れないのですか?」

 暫し固まるオーリンがようやく心配になってきたようで、クロードは自らを覗き込んでくる。

「いっ、いえ! 大丈夫です、この上なく元気ですよっ……もちろん!」

 己の煤けた茶色い目いっぱいに広がる美の祭典に堪えられず、オーリンは彼の腕の中から脱兎のごとく飛び降りた。

 着地の際に若干よろけたが、地に足がついたことで、ほんの少しだけ彼女の心に余裕が生まれる。

「送って頂き、本当に有難うございました。昨夜から一睡もせず、クロード様もさぞお疲れでしょう? 賊が襲ってくる様子もないようですし、今日のところはこれで……」

「私は軍人です。ニ、三日眠らずともどうということはありませんので、お気遣いなく」

 オーリンは穏便な言葉を選び、暇を告げようとするが、彼は今度もへこたれなかった。クロードが振りかざす強過ぎる正義感を前に、彼女の胸の中では何度目かの心が折れる音がする。

「オーリン嬢。会ったばかりの私の言葉はなかなか信じられないとは思いますが、貴女はもう少し他人に頼ることを覚えた方がよいかと……ご両親が亡くなって二年と三か月、全ての問題を一人で解決してきた貴女には難しいかもしれないが」

「えっ……?」

 そして、若干苦い口調で苦言を呈するクロードに、オーリンは僅かに瞠目した。

 これまでも若干違和感は覚えていたのだ。有無を言わせぬ美辞麗句に眩まされ、深く考える余裕がなかっただけで。

 オーリンにとって、クロードは昨夜までその存在さえ知らなかった雲の上の人……そのはずなのに、彼は自分のことをあまりにも詳細に知り過ぎていないか?

 お得意様のティルクとは配達ついでに世間話くらいするが、両親が他界した正確な年月までは告げた覚えがなかった。

「もう少し危機感を覚えてください。現状、貴女はっ……」

 相変わらずオーリンに忠告を続けていた彼は、突如言葉を切って勢いよく背後を振り返る。

 同時に、目にも止まらぬ速さで剣を構えていた。今の今まで密着していたその腰には、確かに履いていなかった。一体どこから取り出したのか……と、そんなことはさておき。

「……あのっ、あれはお隣さんからの頂き物で、決して怪しい物では!」

 すっかり臨戦態勢のクロードに、オーリンは慌てて説明する。

 長屋の裏の池の前には、物干し竿に干したままだった黒く長細い物体……つまりは昆布が、潮風の中で盛大にはためいていた。

「いえ、オーリン嬢。軍隊生活しか知らぬ木偶の坊と呼ばれる私とて、あれが海藻であることくらいは分かります。それではなくて、奥の池に潜んでいる者達のことです……どうか下がっていてください。確かに殺気を感じました」

 その鋭い制止の言葉通り、揺れる昆布越しに見える池の水面が、グルングルンと大きな渦を巻いている。薄暗い青緑の池の水は、見る間に青白く発光し始めていた。

「……あぁ、ぺス達!」

 ただし、それを見たオーリンは、得心がいったように呟いた。それまでの緊張感は嘘のようにほぐれ、思わず口元に笑みが浮かぶ。

「大丈夫ですよ、クロード様。ぺス達は餌を貰いにきているだけですから」

「ぺス達、……とはアレのことですか?」

 相変わらず池に向かって剣を向けたまま、クロードはどこか憮然とした様子で訊き返してくる。

「はい、ホタルイカの群れです。先に少しだけお話ししたかと思いますが、この池は地下で海と繋がっていて、珍しい海の生き物達がよく遊びにきてくれるんです」

 先ほどまでとは打って変わり、オーリンは嬉しそうに説明する。いつも通りの生活風景を見て、緊張し通しだった心がようやく一息つけたのかもしれない。

 幼い頃からこの裏庭と池がオーリンの遊び場で、海からやってくる生き物達は友達のように思っていた。ホタルイカの群れは大量なので、ざっくり全体でペスと呼んでいる。そんな風に好きな名前を付けて餌をやっているうちに、彼女は物言わぬ彼らとある程度の意思疎通ができるようになったのだ。

 だから、今彼らが渦を巻いている理由もオーリンには分かる。

「どうか剣を下ろしてください、クロード様。ペス達はお腹が空いているだけで、敵意はないんです」

 半信半疑な様子で自分とホタルイカ達を交互に見遣っている彼に説明して、オーリンは黒馬に繋がれた屋台の棚の中を探る。

 そこから魚の燻製を取り出してきた彼女は、池の畔から青く発光する渦に向かって細かく裂きながら投げてやった。あっという間にペス達は投げ込まれた餌にたかり、パシャパシャと水しぶきを上げて頬張り始める。

 クロードはその光景を呆気に取られた様子で見つめていたが、暫くすると元のように上着の袖の中に剣を仕舞った。そんなところに仕舞っていたなんて、ビックリだ。そんな腕を動かし難い状態で、よくもあれだけ華麗な手綱捌きができたものである。

「……一つ疑問があるのですが、その餌は毎日用意しているのですか?」

 オーリンの傍らにやって来た彼は、おずおずと尋ねてくる。揺れる水色の瞳には戸惑いが見て取れ、一瞬にして立場が逆転したようだ。

「いいえ、これは昨日のお昼ご飯の残りです。みんなが毎日来るとは限りませんから」

「みんなというからには、他の魚も?」

「ええ、一昨日はシュモクザメのジャンゴが来たので、そこの昆布を……」

「サメっ?」

 何の気なしに言ったオーリンに、クロードはギョッとした様子だった。

「ジャンゴは海藻が大好きな変わった子なんです。掌に載る頃からの付き合いですし、危険はありませんよ。それに、海底の通り道が狭いらしくて、そこまで大きい生き物は池に来られないんですよね。成長して来られなくなった子達もいるし」

 クロードに事情を説明しながら、最後の事実にしんみりとしていたら、先ほどまで元気に餌をパクついていたイカ達が彼女の足元に集まってくる。

 そして、綺麗なグラデーションを描くように我が身をチカチカと点滅させた。まるで元気を出せと言っているようだ。

「ありがとう、ぺス。慰めてくれて……ちょっと待ってて、昆布も取ってくるから」

 嬉しくなったオーリンは、物干し竿の方へヒョコヒョコと歩いていく。


「……何となく、貴女が命を狙われた理由の一端が掴めたような気がします」


 そんな彼女の後ろ姿に向かい、実感の籠った口調でクロードが呟いていたが、干し昆布の吟味に夢中になっていたオーリンは気付かなかった。

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