身に覚えのない襲撃
舗装された道路を外れ、鬱蒼と木々の生い茂る森の中へ、一人の少女が逃げ込んだ。
シンと静まり返った薄暗い森の中、片足を引き摺りながら進む彼女……オーリンは、必死の思いで見張り小屋を目指す。彼女は今、ならず者達の集団に追われていた。
ここエトランヌの森はソルケットで有数の貴族、ヴァルタザール公爵家の領地だ。森の入り口には私有地への侵入者を監視する見張り小屋がある。
そこには、顔馴染みの門番が猟犬とともに常駐していたのだが……。
「……、嘘でしょっ?」
ようやく見えてきた見張り小屋を前に立ち止まったオーリンの唇から、絶望を宿した声が漏れた。
こんな時に限って小屋は固く施錠され、窓の奥は真っ暗だ。誰か人がいる様子は一切なかった。
望みの繋が絶たれて呆然と立ち竦む彼女だったが、状況は待ってくれない。頭を切り替えて小屋を横切り、森の中に逃げ込んだ。大きな木の陰に、倒れ込むようにして身を隠したオーリンは、必死に息を噛み殺す。
どうか諦めてくれますように、と胸の前で両手を組んで願う。
ここまで走ってくるだけでも、彼女は相当な無理をしていた。これ以上の逃走は不可能だ。
それに、この森は狩猟採取場であり、もっと奥には罠がたくさん仕掛けられていると聞く。追手がその罠に掛かるのは願ったり叶ったりだが、オーリン自身にもその危険性は十二分にあった。
「いたかっ……!」
そう遠くないところから上がった怒号に、心臓が縮み上がる。息が整う間もなく、喉を駆け上がってきた悲鳴を、オーリンは両手で押え込んだ。
殺気立った幾つもの息遣いと荒々しい足音が、もうすぐそこまで迫っていた。
どうして、私ばかりこんな目に……不運続きの己の人生を心の中で呪う。
オーリンはしがない駆け出しのパン職人だ。亡き両親は内戦状態にある祖国リ・ルージュから亡命してきた移民で、足に軽度の障害まである彼女は決して裕福ではない。
この国ソルケットで店舗を構えるなんて、夢のまた夢。両親が残してくれた屋台を引き、何とか生計を立てていた。
そんな仕事終わりの夕暮れ時、街外れでオーリンは十人近い屈強な男達に絡まれた。比較的治安の良いこの辺りでは珍しく質の悪そうな集団で、随分と執念深いようだ。
襲われた理由に心当たりはなかったが、すぐに男達が単純に金銭や暴行目的でないのは察せられた。
悪漢達は明らかにオーリンを待ち伏せし、逃げても真っ直ぐ追ってきた。身を守る引き換えに置き去りにした屋台には、誰一人見向きもしなかったのだ。そこまで高額ではないながらも、今日一日分の売上金が積んであったのに。
「絶対に逃がすな、探せ! あの足じゃ、そう遠くまで行けはしない」
再び、ならず者達の主犯格らしき男の声が上がる。
オーリンが足に軽度な障害を抱えていることも、男達は知っているようだ。やはり通り魔的な犯行ではなく、彼女を狙って襲ったのだ。
オーリンは両親亡き後も腐らず、一人でコツコツと頑張ってきた。誰かに迷惑をかけた覚えも、恨みを買った記憶もない。
こんな風に血眼になって命を狙われるなんて、一体自分が何をしたというのか……。
「ひっ……!」
「ぎゃあ!」
「何だぁっ?」
身に覚えのない死の危険に慄くオーリンの耳に、今度は野太い悲鳴が突き刺さる。間髪を容れずに、幾つもの風を切る音が耳元を掠めた。
見れば、自らが背中を預けた野太い木の幹に、一本の矢が深々と突き刺さっている。一歩間違えば頭を貫通していたかもしれないそれに、背筋が凍りついた。
「この森は私有地だ、即刻去れ! 今度は頭を狙う!」
次いで、凛とした声が森の中に響き渡った。呼応するように犬の咆哮があり、大地を力強く駆ける足音が近付いてくる。
「拙いぞ、引け!」
先程の首領の声とともに、男達が駆け去る慌ただしい気配がした。
当面の危機は過ぎ去ったが、まだ安心できない。男達からは逃れられはしたものの、先程の声の主が敵か味方かはまだ分からなかった。
『オンッ……!』
微動だにせず固まっている彼女の目の前の茂みから、鳴き声と一緒に真っ黒な影が飛び出してきた。
巨大な黒い体躯は猛然と突進してきて、へたりこんだオーリンの上に馬乗りになる。次いで、大きな舌がベロリと自らの頬を舐め上げた。
『クゥーン』
「わっ、……カリート?」
甘えるように鼻を鳴らし、じゃれついてくるのは、この森の門番ティルクの相棒である猟犬だ。見張り小屋までパンを届ける際に、好物だと言うので時折リンゴを差し入れていたら、すっかり懐かれていた。
「カリート、見つけたか?」
一歩遅れて茂みの向こうから、身の丈ほどある長弓を握った黒尽くめの青年が現れる。
先程警告を発したのと同じ鋭い声で呼ばれた猟犬は、一目散にその足元へ駆け戻った。主と認め、完全に服従しているのが窺える。
そんな彼はオーリンの姿を認めた途端、氷のように淡い水色をした眼差しをカッと見開いた。黒衣と褐色の肌が夜の森に溶け込む中、無造作に後ろで束ねた銀髪と青白い双眸が、月明かりを背負って爛々と輝いている。
怖いぐらいに整った面差しに筋肉質な長身の体躯は、地べたに座り込んでいる分、オーリンには威圧的に映った。月の光を受けて白銀に輝く大鎌のごとき長弓との取り合わせが、どことなく死神を彷彿とさせる。
命の恩人に対して不遜なことを考えたところで、オーリンはハッとして我に返った。
「危ないところを助けて頂き、本当に有難うございました! 私はオーリンと申します。屋台でパンを売っていて、門番のティルクさんには御贔屓に……っと、その前に許可なく森に入ってしまい、申し訳ありませんでした。ならず者達に追われて、他に逃げ場がなくてっ……!」
そして、大慌てで自らの身元とここにいる理由を明かし、その場に深々と頭を下げた。
侵入者に警告を発した彼は、ティルクと同じこの森の関係者なのだろう。まるで軍服のような服装や弓の腕前から察するに、恐らく警備担当者だ。
そんな彼にとっては、オーリンも不法侵入者に変わりない。一目見て不自然に立ち竦んでしまったのも、自分が移民だと分かったからだろうし……一刻も早く悪意がないことを伝えねば、折角危機を脱したのに新たな罪に問われることになる。
下手をすれば移民当局に通報され、国外追放とされてもおかしくはない状況だ。
「頭を上げてください、オーリン嬢。貴女のことは、ティルクから聞いたことがある。カリートも懐いているようだし……ご無事で何よりです」
暫くして、頭上から小さな咳払いがした後、至極丁寧な言葉が投げ掛けられた。
若干険の取れた口調にホッとして顔を上げたが、オーリンを見下ろす青年は険しい表情のままだ。容貌が整っているだけに、一層恐ろしげに見える。
『クゥーン』
再びオーリンの胸に緊張が走るも、青年の足元でカリートが甘えるように鼻を鳴らした。厳めしい表情に怖じるどころか千切れんばかりに尻尾を振り、キラキラした目を注いでいる。
動物に好かれる人物に、悪人はいないはずだ。
彼はとびきり表情筋が硬いだけで、それが平素の表情なのかもしれない。その表情とは真逆で、口調はとても礼儀正しいのだし。こちらと一定の距離を保っているのも、怯えを隠し切れないオーリンへの配慮とも考えられる。
「私はクロード・ヴァルタザールと申します」
「公爵閣下っ?」
その後、ようやく名乗った青年に、オーリンはギョッとする。
この森の警備担当者だろうと踏んでいたのに、所有者だとは思わなかった。
「いやっ……それは兄で、私は一介の軍人に過ぎません。夕方頃にティルクの奥方が産気を催したと知らせがあり、私が見張りを変わったのです。この週末に行う鷹狩りの手順確認のため、たまたま居合わせていたので」
しかし、クロード自身が彼女の早合点を訂正する。
言われてまじまじと観察すると、彼が身に付けていたのは本物の軍服だった。恐らくはミュラーリア連合国軍所属の弓騎兵隊の制服……外交もこなす竜騎兵隊ほど華々しくはないものの、内地の治安維持を主な任務とする彼らは、市民に身近な存在だ。それゆえに、オーリンもその制服には見覚えがあった。
もちろん名門貴族や一握りの豪商の子息子女しか入隊を許されず、雲の上の存在には変わりない。
そして、ティルクが不在だった理由も判明した。クロードが何の衒いもなく彼の職務を引き継いだことには、ただ驚かされる。
たとえ爵位を継いでいなくとも、国内有数の貴族の一員には違いない。いくら不測の事態とはいえ、使用人の代わりを買って出る雇い主なんて、市井でもあまり聞いたことがなかった。
「カリートを連れて仕掛けた罠を見回っていたところで、侵入者に気付いて急行した次第……ああっ、これは申し訳ない!」
「えっ……?」
話の途中で突然謝罪の声を上げたクロードに、オーリンは目を丸くする。距離を性急に詰めてきた彼は、戸惑うオーリンの前に恭しく片膝をついた。
そして、左手で懐から引っ張り出したスカーフらしき布で、自らの右耳を押さえてくる。上等な絹のサラリとした肌触りに次いで、ピリッとした小さな痛みを覚え、オーリンは微かに眉を顰めた。
「あくまで威嚇射撃のつもりでしたが、恐らく風圧で……一生の不覚です」
その深く落ち込んだ声音に、彼の放った弓矢が耳元ギリギリを掠めていったことを思い出す。
ただし、指摘されなければ気付かないようなごく軽い擦過傷だ。見てはいないが、この程度の痛みなら出血もそう酷くはあるまい。
それでも、如何にも高級そうなスカーフを自らの血で汚してしまったかと思うと、オーリンは逆に恐縮してしまう。
「妙齢の御婦人を傷付けるなど、武人としては元より、男として失格! 何と詫びればよいやら」
「そんな、大げさです! ほんのかすり傷ですから、どうぞお気になさらずっ……」
それなのに、まるで世界の終わりのように深刻そうな声音で謝罪を重ねるクロードに、オーリンは再び慌てる。
過剰反応が過ぎる。彼が意図せず犯した過失など、緊急事態とはいえ貴族の私有地に不法侵入を果たした自分と比べれば、塵のようなものだ。
クロードのことはまだほとんど知らないが、その猛々しい外見も含め、自分が知る上流階級の人々とは一線を画している。
「いいや、私の気が済まぬのです。どうか埋め合わせをさせてください……そうだ、暫く貴女を警護しましょう」
「なっ、……どうしてそうなるんです? 私はただの移民の小娘ですよ!」
だから、予想外な申し出にオーリンは反射的に声を上げてしまった。
「そのような卑屈な物言いはおよしなさい。出自も性別も関係ありません。私にとって、貴女は守るべきソルケット市民です」
自らを卑下するオーリンを、クロードは即座に窘める。どこか怒っているような語調の強い台詞は、彼が心底そう思っているのだろうと知れた。
「脅すわけではありませんが、今宵お一人でご自宅に戻るのは、非常に危険だと思われます」
「どういう意味ですか?」
更に不安を煽るようなことを言われ、オーリンは小首を傾げてしまう。
「この森はヴァルタザール公爵家の私有地です。入り口には手練れの門番と猟犬がいて、奥には狩猟用の罠も仕掛けている。許可なく侵入するのは相当な暴挙でしょう。貴女はそのことを見越し、救いを求めて森に逃げ込んだ……大変賢明な判断です。ただし、賊は捕縛の危険を冒してまで追ってくるような輩達なのです。一度の失敗で引き下がるとは、到底思えない」
冷静に考察を述べる彼に、オーリンは自らの置かれた危機的状況をまざまざと思い知らされた。
「……殺したいほど恨まれる心当たりなんて、私には全くありません」
「貴女が無辜の民であることは、よく分かります。しかし、人違いや逆恨みから起こる犯罪も多いのです。貴女を襲った連中の目的が判明するまでは、単独行動は控えた方がいい。見張り小屋は宿泊設備も備えていますので、明るくなるまで休んでいかれては? もう足も限界でしょう。私が周辺を見回っていますから……」
「ちょっ、ちょっと待ってください! クロード様っ!」
決定事項のように話を進めるクロードを、オーリンが慌てて遮る。いくら職務熱心だとしても、彼はいっそ異常だ。
クロードは急に彼女が大きな声を出したことに驚いたのか、初見と同じ目を見開いた状態で固まっている。
「ご好意は本当に有難いですし、助けて頂いただけでも本当に感謝しています。けれど、貴族の御子息様に寝ずの番をして頂くなんて滅相もないことです。家の裏の池にいる、その……魚にも餌をあげないといけませんし、街外れに置き去りにした屋台を取りにいかねば、明日から仕事ができません」
彼の口が開く前に、オーリンは申し出を受けるわけにはいかない理由を並べ立てる。
「噴水や水瓶ならまだしも、池であれば他に餌もあるでしょう。貴女にもしものことがあれば、一体誰が餌をやるのです? 屋台は具体的な場所を教えて頂ければ、今すぐでも私が回収して参ります……カリート、オーリン嬢を守れ。いいな」
『オンッ……!』
ずっと行儀よく二人の応酬を訊いていた猟犬が、主の命令に力強く鳴き、オーリンの傍らに寄り添う。どうあっても、彼はオーリンの言い分を聞き入れるつもりがないようで、早々に踵を返してしまった。
「クロード様っ、本当に私は大丈夫ですから……!」
「貴女は実に頑固な方だ……仕方がない、本当のことを打ち明けます」
それでも背中に向かって否を投げ掛けた彼女に、クロードは溜め息交じりに振り返った。
「領地への侵入者の逃走を許したとなれば、武人として大層な失態です。この上、貴女まで賊の手に掛かってしまえば、私は責任を取って軍を辞さねばならない。オーリン嬢、どうか私の将来のために留まっては頂けませんか?」
そして、オーリンに目線を合わせるように跪くと、今度はそう懇願する。
そんな言い方をされたら、受け入れざるを得ない。まったく、頑固なのは彼の方だ。どうあっても自分を守ると決めて譲らない。
「……承知致しました。屋台はウェステン街道のレンガ道が途切れた辺りに置き去りにしてあります。クロード様、貴方もどうぞお気を付けて」
「もちろんです、オーリン嬢。すぐに戻ります」
不承不承頷いた彼女とは反対にクロードは至極満足げで、初めてその表情を綻ばせた。オーリンはその美しい笑顔に、一瞬にして目を奪われた。
「では彼女を頼んだぞ、カリート。万一賊が戻ってきたら……その時は噛み殺しても構わん」
『オンッ!』
しかし、彼女が正気に返るより前に、不穏なことを猟犬に言いつけたクロードは、森の入口へと駆け出していく。漆黒に似たその姿は、瞬く間に鬱蒼とした木々の闇に紛れてしまった。
「……ねえ、カリート。噛み殺すなんて、ちょっと大げさよね? 本当はそこまでしないんでしょう?」
『ワッフ!』
残されたオーリンは、スンスンと鼻を肩口に押し付けてくる猟犬に恐る恐る尋ねるが、彼はやる気満々に尻尾を振る。ベロンと歯茎を剥くようにして笑ったその口端からは、恐ろしげな牙が覗いた。
あらゆる意味で、賊達にはもう戻ってこないでほしいと願うオーリンだった。