野球っておもしろいよね
伊瀬は、決意を固めてベンチを後にした。
ネクストバッターズサークルへ、一歩一歩確かめながら歩く。
伊瀬は、思い出していた。ここに至るまでの道を。
高校時、ドラフト1位で指名され、プロ初めての一軍キャンプに参加し完走。
オープン戦でも三割三厘 2ホームラン 5盗塁の成績を残して堂々の開幕一軍入り。
誇らしかった。自分は勿論、友人、家族。支えてくれた人たちへの感謝が抑えられなかった。
バットを振れば、ボールは鳥のようにどこまでも飛んで行った。守備は下手だったけど。
自分はスーパースターになれる。そんな存在なんだと確信していた。
しかし、そんなにプロは甘くなかった。
ボールが見えない。バットにも当たらない。エラーも増える一方。それでも何とか一軍に食らいついていった。
初ヒットが打てたのは開幕から二週間後、ショート内野安打だった。その判定が、自分から見るとアウトに見えた。あまりにも打てないから忖度があったのか、と考えると、心が少し折れたような気がした。
そして、その日、二軍行きを告げられた。
できると思って、入ってきたのは当然の事。キャンプ、オープン戦も十分だったはずだ。
しかし、現実はドロッとしたコーヒーのようなものだった。苦い苦い思い出の数日を胸に刻み込み、二軍球場へと発った。
二軍で叩き込んだのは基礎練習。1に基礎、2に基礎、3に基礎。と、いった感じでしごきの連続。それに加えてウェイトトレーニングメニューもこなさなくてはならない。毎晩眠るころにはまともに動くこともできない。
そんな中、二軍監督から告げられていたのは、昇格は夏まで無いという事。とことん基礎とウェイトをさせるつもりだ。基礎練習は地味でキツイ。だが、また上へ行くためには乗り越えないといけない。
時は過ぎ、7月も近くなってきた。ここまでの二軍成績は二割七分三厘、8ホームラン、17盗塁だ。今、一軍ではショートの矢本が故障。控えの石尾が務めているが鈍足で打力も足りない。今日の二軍戦の結果如何では一軍昇格も夢ではない所まで戻ってきた。
1打席目はフォアボール、2打席目はショートゴロ、3打席目はデッドボール。結果が欲しい焦りから体が突っ込んでしまい、顔面へ向かってくる速球が避けれなかった。
150キロの豪速球を頭に受けた伊瀬は、意識が戻らず、救急車で搬送され入院する事になってしまった。
気が付いたのは3日後。気を失ってる間にデッドボールで倒れた際に折れた骨の手術も完了した後だった。
長いリハビリが始まった。世の中苦しい事だらけ、歯を食いしばって前を向かないとやってられない。それから、1か月も過ぎたころだった。球団職員がファンレターを段ボール1箱分届けてくれた。読んでみると「がんばって」や「けがをなおしてかえってきてね」なんて沢山の子供から自分の似顔絵入りのかわいいメッセージ。しっかりとした字で壮年の方からの激励文。他にも、男性ファン、女性ファン、有名人なんかからも、上から目線のアドバイスの手紙もあった。みんなが応援してくれている。その気持ちだけで折れた心が治った気がした。そして復帰への意欲が燃え上がってきた。
九月。1位と2位のゲーム差は1つ、マジック1。勝った方が優勝の大一番。そこに伊瀬は帰ってきた。自分を乗り越え、リハビリを乗り越え、三割二分二厘、15ホームラン、28盗塁で2軍のシーズンを終え、一軍の舞台へ帰ってきた。伊瀬はベンチスタート。試合は猛烈な打ち合い。9回表に5点奪われ逆転された次の回、1点取り、未だ満塁で3点差。ここで監督がベンチを出て代打を告げる。
「バッター、伊瀬、背番号4」
球場が揺れた。
しかし、伊瀬の耳には大歓声は届いていなかった。極限まで集中力を高めていたためだ。マウンドに集まっていた輪が解け、それぞれの守備位置に散る。キャッチャーは伊瀬を一瞥し、キャッチャーズボックスに座った。伊瀬はバッターボックスでのルーティンを噛みしめるように丁寧に行う。キャッチャーがサインを出し、抑えの切り札がセットポジションから投球する。もの凄い速さのストレートがやってくる、伊瀬は体が勝手に動くような感覚を感じていた。一切無駄のない動きから繰り出されたバットはストレートをものの見事に捉えた。ボールはどんどんと小さくなり場外へ消えた。伊瀬は涙を流しダイヤモンドを回る。先輩たちからの手荒い祝福をもらいながらホームベースを踏んだ。
代打逆転サヨナラ優勝決定満塁プロ初ホームラン
これがどん底から這い上がった男の残した結果だった。