大越凛太朗【皐月賞前段⑨】
宮代明はゆったりとした後部座席で足を組んで構えており、俺がシートに腰を据えると運転手へ短く声かけて車を出した。
「急に悪かったね」
「いえ、こっちもちょうど有り難いタイミングでしたから」
「失礼ついでに少し電話させてくれ」
いかにもたどたどしい操作で液晶に触れる宮代明は、そこら辺にいる年相応の、或いは年齢の割に老け込んだ印象すら与えるオッサンでしかない。
「ああ、今拾った。飛行機の時間は……またそったらはんかくさいことして、話せる時間を作れって言ったべ。そっじゃ早過ぎる、七時台の便があっべさ、ああ、ああ――」
方言丸出しの宮代明など以前は想像すらできない絵面だったろうが、今なら目の前の光景を自然と受け入れることができる。まあこんなもんだろう、このオッサン相手ならそう思える。
「――せばやっとせ、切っぞ」
そうして、いかにも面白くなさそうなしかめ面で通話を切った。
「娘さんですか?」
「じょっぱりこきでしょうもない」
正確な意味は解らないがニュアンスは伝わる、そんな珍妙なやり取りに笑いを堪えていたら、携帯に有紀からのメッセージが入った。
『十九時の便を取ります、時間まで父と食事でもしてください』
やりとりを真横で聞かされていた身としては、今度こそ苦笑が漏れてしまう文面だ。
『有り難くご馳走になります』
気を使った訳では無いが、多少の同情も手伝ってそんな文面を返しておいた。
車は静かにスタンドから遠ざかっていく。車道から見上げた場内と仁川駅を繋ぐ専用通路には観戦を終えて引き上げていく観客の姿があり、それはどこか祭りの後の寂寥感のようなものを感じさせた。桜の見頃を過ぎた仁川は夏までの短い休暇に入る。
俺は自分から口を開かずに相手の言葉を待った。短い付き合いだが、宮代明という男は無駄な社交辞令よりも沈黙を喜ぶタイプである事は理解している。
「一昨日、君の事で記者が来た」
二つ目の信号を待っている時に、宮代明はそう切り出した。
「どちらのです?」
「週刊誌の、何だったか、よく知らないんだが、ほれ、何とかっていう、よく芸能人の浮気やら何やらを書いてる、あるだろう、そういう雑誌が」
いかにもフワフワした表現だが思い当たる記憶はあった。要するにあの男が宮代にも突撃取材を敢行したのだろう。しかし宮代に取材する意図は解らない。
「何を聞かれました?」
「婿養子に取るのかって聞かれたんだが、その気はあるかい?」
「へえ、婿養子ですか」
合いの手を入れる感覚で言葉を返したが、声にしてから疑問符が浮かぶ。
「誰を?」
「君を」
「いや……何でですか?」
あまりに突拍子もない話の展開に思わず素になって問い返すと、逆に宮代明は何かが腑に落ちた時のように小さく頷いた。
「良くは解らないが、君と有紀が男女の仲で、今回の依頼にはそういう背景があった、という記事を書きたかったようだね」
取るに足らないジョークを聞かされた時のようなすっかり気の抜けた笑い顔で言うが、聞かされた俺はたまったものではない。無防備な後頭部をハンマーで思いっきりブッ叩かれたような衝撃に襲われて眉間を押さえる。
「昔からの馴染みにそちら絡みの人間がいてね、相談したらその程度の話なら記事にさせないというから安心して良い。大体、そんなくだらない理由で馬を任せたと宣伝されたらこっちはすっかり営業妨害だ」
話の内容に対して呑気過ぎる宮代明の態度が余計に眩暈を加速させる。三半規管は常人よりも鍛えられているはずだが、車酔いを疑うほどに視界が揺れている。
「車止めるかい?」
薄暗く回る視界の中で見かねた風な声が届いた。
「いえ、大丈夫です」
それから暫く、ぐるぐる回る視界が落ち着くことを祈りながら目元を揉んでいると、その声は今までよりも幾分遠慮しているようにも聞こえた。
「後から変に伝わるのも嫌だから今伝えておくが、その記者曰く【君を婿養子にしようと考えている我々】は、君が育った家庭の事情についても知っているのかと、そういう話も聞かされた」
油断すればどこかへすっ飛んでしまいそうな不安定な意識は落馬した直後の感覚と似ていた。痛みがないだけ今の方がマシなのか、しかしひょっとすれば痛覚に訴えられた方がマシな状況とも思える。痛みもないままに、眠るように静かに、自分の身体が虫食いになっていく様を見せつけられて、そうして最後にはすっかり空っぽになってしまうような、そんな気持ちの悪さ。
しかし、これでようやくあの記者の意図が解った。つまり、俺が色恋営業で宮代に取り入ったというストーリーを仕立て上げ、そこへ繋げる形で父のことを書き立てたかったのだろう。再逮捕された際の余罪にはその手の詐欺などもあったらしいから、俺が知らないだけで記事に出来るだけの材料があるのかも知れない。
「申し訳ありません」
やっとの思いでそう返すと、宮代明はすっぱりと言った。
「良い年をした大人が親にこだわるな、みっともない」
それからおもむろにパワーウインドウを開けると、懐から取り出した煙草に火を点けてから吸うぞと告げる。
「時間はあるし、少し昔話でもするか」
それから、宮代明は少しずつ話し始めた。
セリや愛馬会といった経営の話題からはじまり、愚痴交じりに語られた有紀に関する話題では近頃のクラブオーナーとしての仕事ぶりから大学や高校時代の話、更に遡って競馬学校を目指していた中学以前の話から小学校に入る前の幼児期まで延々と続いた。
その時々に、さながら一冊の本に挟んだ栞のように、彼が手掛けた馬の名が語られる。きっと彼の頭に入っている年表には、家族の出来事と同列か或いはそれ以上の大きさで、馬の名前が刻まれているのだろう。初めてダービーを勝った時のこと、初めて有馬を勝った時のこと、初めて海外レースで勝った時のこと、そうしたことを、彼の娘が生まれた日や彼の父親が死んだ日と同じことのように語るのだった。
空港に着いてからはラウンジの片隅に場所を変え、お互いが空の手を埋める程度のグラスを片手に話が続いた。話題は既に俺が生まれる遥か昔に遡りいち弱小牧場に過ぎなかった宮代牧場の跡取りがアメリカへ渡った時の話だった。
「中学二年の時だ。うちの馬がジャパンカップデイに走ってな、古い付き合いのオーナーで、将来のためになるからと呼んでくれたんだ。その時のパドックで、えらい驚かされてね」
そこでふと言葉を止めるとこちらへ向き、理由を予想してみろという風な間を置く。
「よほどに強い馬が出ていたとか?」
「まだ始まったばかりの頃だ、大した馬は来ていなかったよ。まあ当時はそれでも勝てなかったんだが」
宮代明はその当時を思い出すような冷笑を浮かべながら灰皿に灰を落とした。そうしてもう一度煙草を咥えると胸を膨らませて息を吸い込み、明後日の方へ向けて大きく煙を吹き出してからだった。
「曳き方が違ったんだ」
「曳き方?」
何か謎かけでもされているのだろうかと考えてしまった。馬を始めたばかりの新人ならともかく、天下の宮代明がパドックでの曳き馬を見て驚いたなどという話は冗談にしか聞こえなかった。
「冗談を話しているわけじゃない」
語調を強めた言葉に緩んでいた意識の糸が張り直され、自然と背筋が伸びる。
「ただパドックで馬を曳いている姿を見せられただけで、自分が馬の事を何も解っていないんだって気付かされたんだよ。当時の私にはそれくらいに圧倒的だった」
そう話す宮代明は、冷笑なのか、怒りなのか、それ以外の何かも混ぜ込んだような、一言では言い表せない複雑な感情が滲んでいた。
「馬をやっていても、強い馬を作ろうなんて意識が無かったんだ。いや、ウチだけじゃなかった、当時の馬産なんてどこも似たりよったりだった。少なくとも、良い馬を作ろうなんて意識、あのパドックで馬を曳いてた外人連中の十分の一も持ち合わせていなかった」
「それで、アメリカに」
「ああ、中学卒業してすぐに行った。その手の話をする度に親にはひどく折檻されたからね、ほとんど勘当だ。
ちょうど農協がアメリカへの視察研修を組む時期に馬を見に来る客がいてね、その人は気に入った馬がいれば手付けで現金を置いていくからそれを拝借して、あとは現地でトンズラだ。アテなんて無かったが、ジャパンカップの時に見た馬の生産牧場に行って、厩で寝ながら働いた」
「それはまた、よく無事でしたね」
どこまで脚色しているのかは解らなかったが、語っている表情は真剣だったから、笑いながら聞くことは出来なかった。グラスを傾けながら相槌を打つと、宮代明は不意に俺の顔を見た。
「まるで事情は違うだろうが、私も、父が嫌いだった」
そうして、そんな風に呟くのだった。