大越凛太朗【皐月賞前段③】
『――そんなに心配しなくても大丈夫だっての』
散歩を終えて帰って来た厩舎で馬房へ戻す途中、反抗的な態度で吐き捨てたレラにカチンと来たので言い返す。
「大丈夫じゃねえから言ってんだよ。とにかく、道渡る前は車が来てなくてもちゃんと止まれ。幼稚園児でも知ってる常識だっつーの」
『俺は馬だよウッセーな、ほっとけ』
「そうかい、そういう態度なら明日からは引き綱付けるからな」
これが必殺の言葉になる事は解り切っていた。案の定、言った途端にレラは太々しかった態度を改めて、ちらりちらりと首を傾げるようにこちらの様子を伺う素振りを見せる。扱い易いヤツだ。
『解った、止まる、止まれば良いんだろ……一々細かすぎるんだよ、バーカ』
すっげえ小声でボソッと付け足してくる辺りが正真正銘のクソガキである。
「何か言ったか?」
『別に、何も』
「本当に可愛げがないよね、お前。馬なのに」
『お前に言われたくねえよ』
そうしてレラを馬房に収めてから馬栓棒をくぐって外へ出ると、振り返った拍子に目が合うので自然と別れの挨拶が口を出る。
「んじゃ、お休み」
『おう、また明日な』
そんな風にいつも通りのくだらないやり取りをしてから事務室へ顔を出して御大に作業を上がる報告をするのが日常の流れなのだが、今日に限っては簡単な報告で済ませる訳にはいかなかった。有紀から打診された件を相談しなくてはならない。
厩舎に所属している立場である以上御大は俺の雇用主であり、雇用主の意向を無視して他所からの依頼を受けるような真似は出来ない。近頃ではよその馬に乗る事に制限をかけられた事は無く、むしろ積極的に後押ししてくれている風ですらあるが、今回ばかりはなんといっても相手が相手だ。
御大が毛虫の如く嫌っている宮代グループからの、しかもこの前の小倉の時とはケタが違うG1レースの騎乗依頼であり、更に更にグループトップの宮代明から直の依頼となれば事情は天と地ほどに違う。
実のところ、ちゃぶ台をひっくり返すみたいないつもの勢いで【断って来い】とか言って七面倒臭い思考は全部蹴飛ばして結論を与えてくれるのではないか、なんて思いも、密かにあった。大きなレースに乗れることは確かに有り難いが、週末にレラから離れなければならなくなることを考えると中山で乗る方が気楽にも思えてしまう。
そうして事務室を覗くと御大はいつになく神妙な雰囲気で煙草を咥えており、無言のまま顎をしゃくって椅子へ座るように指示してくる。どうやら御大の方も俺を待っていた風であり、何かしらの用があることは間違いなさそうだった。
もしかしたらもう話が通っているのかも知れない。そんな風に考えながら腰を下ろすと、間は空かなかった。
「久保田さんから連絡があった」
一瞬頭の中が真っ白になったが本当に一瞬のことだ。すぐに気を取り直して視線を返すと、御大は、俺でないと気付かない程度に、普段より煙草をふかすテンポがほんの少し早まっていて、やはり気を使わせてしまっていた。
「何かありましたか?」
久保田は児相の頃から面倒を見て貰っていた弁護士で、俺が施設を出て騎手になり向こうが独立して事務所を構えてからも、家族との関係を整理する上で世話になっていた。父に関する手続きが必要になった時だけ連絡が入る、そういう関係だった。
「医療刑務所って場所に移されたそうだ……末期ガンなんだと」
「そうですか」
自分でも驚くほどに何の感慨も無かった。耳に入った情報はニュースで聞く知らない犯罪者の死刑判決と大して変わらないものに思われた。
「案外何も感じないもんですね」
正直な感想を隠さずに口に出す。
「ならそれで良い」
御大は緊張した態度を崩さずに言うと、そこで一度深く大きく煙を吐き出してから続けた。
「手紙が届いているそうだが、どうする」
「手紙?」
「刑務所の方で、そういう受刑者には、その、関係がある人間に手紙を書く事を勧めるんだそうだ。せめて遺骨を受け取るくらいには関係を戻せるようにとか、そういう意図らしい」
ようやく消えると思ったら遺骨の処理ときたもんだ。目の前に示された死の滑稽さに乾いた笑いが溢れると肩が揺れた。
「参っちゃいますね」
「読むも読まんもお前次第、少なくとも法的な義務は無いそうだ」
ノータイムで読まないと答える事が出来れば楽だとは理解している。それでも言えない。口先でそんな風に答えた所で、心の中には重く臭いヘドロのような澱みが残ってしまう事を知っているから、何も言えない。
結局俺は父の子だ。記憶も、肉体も、法も、考えれば考えるほどに、世界の全てが、俺があの父親の息子である事実を突き付けてくる。
「死んだら読むかもしれませんし、読まないかもしれません」
だから保留、もしかしたら俺が死ぬまで終わらないかも知れない保留。幸いな事はもう二度と父と会わなくても済む事だ。時間だけはある。しかし、或いは不幸なのかもしれない。
俺がそんな風に答えると、御大はそれまで固くしていた表情をふっと緩めた。
「解った。久保田さんにはそう伝えておく」
「ご迷惑をおかけします」
「承知の上だ。ひとまず区切りも付きそうだしな」
色々な面倒が見えてはいるが、それでも敢えて区切りと言い切る。いかにも御大らしいし、そういう人だからこそ、殊に家の事に関しては有り難い。
「何歳から施設に入ってたんだったか」
短くなった煙草を灰皿に擦り付けながら、御大は呟くように言った。
「小学校の頃ですけど、年は多分十歳とかですかね」
「で、施設から競馬学校に入って、そのまま十八からはこの厩舎か」
「まあ、そうですね」
「何だお前、こんな厩舎で過ごした時間が人生で一番長いのか」
突然そんな事を言ったかと思うと声をあげて豪快に笑い始めた。
「こんなって、自分の厩舎でしょうに」
反応に困って眉をひそめる。
御大はひとしきり笑うと、満足した風に深く息を吐き、それからじっと俺の目を見て言った。
「宮代から依頼があっただろう」
こちらから切り出すつもりの話題ではあったが、相手から言われる事は想定していなかった。唐突な展開に戸惑っていると、御大は新しい煙草を咥えて火を点けながら続けた。
「本人から連絡があったよ」
「本人って」
「そりゃ宮代明だよ」
御大はいかにも当たり前のようにその名を口にしたが、俺からすれば青天の霹靂である。不倶戴天と思われていた二人がこうもあっさりと連絡を取れる仲だとは予想していなかった。
「アッサリ言いますけど、何か繋がりあったんですか?」
「昔、アイルランドで一緒だった事がある」
「アイルランド?」
「今はどうだか知らんが、俺が厩務員やってた頃はそういう技能実習があったんだよ。競馬会が金を出して若手の厩務員を向こうの厩舎で勉強させる制度だ。それで向こうに行ったらヤツが牧夫をやっていた」
渋い表情で腕を組み、鼻から煙を吹きながら御大は言う。友人関係でない事は即座に解るが、かと言って心底から嫌っているのとも違うような、言うなれば腐れ縁のような、そんな語り口調だった。
「ともかく、お前を貸して欲しいんだと。野郎が珍しく俺に断り入れるって事は、まあ、それなりに本気で依頼してんだろう。でなきゃわざわざお前に頼む理由が無い」
「はあ、そうなんですかね」
御大が言う事は尤もで、わざわざ反宮代の代表格である臼田厩舎に所属している俺に依頼を出している時点でそこには何かの意図がある。ただ空いた鞍を埋めたいだけならば他に幾らでも楽な依頼相手がいるはずなのだ。
解るはずのない理由を頭の片隅でぼんやり考えていると、御大が言った。
「受けろよ。こんなチャンスそう無いぞ」
「え、いや……いやあ、良いんですか?」
予想と正反対の事を言われるとすっかり狼狽してしまった。反対しない事は有り得ると思っていたが、まさか御大の方から積極的に勧めてくるとは欠片も考えていなかった。
「良いもクソも無いだろ。手前の将来を考えた時にこの依頼を受けない選択肢があるってなら好きにすりゃ良いが」
まさか断る気なのかと言わんばかりの表情で御大は言う。
すっかりアテが外れるとがっくり肩が落ちて溜息が出た。結局、面倒な選択は自分で決めるしかないのだ。