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優駿  作者: 尾和次郎
33/77

大越凛太朗【hopeful⑦】

 開くと同時に半馬身も身体が前に出ているような抜群のスタート。同じく好スタートを切った五番の総司・アマツヒとそれを追うように二番郷田・ペルリナージュが内から伸びて行くのを眺めつつ、無理に抑えることはせずにレラの気持ちに任せて走らせる。

 スタート直後の坂を上り切ろうかという所、スタンドの歓声を掻き消すように派手に蹄を鳴らしながら八枠の二頭が外から押っつけて行き、内からも一番ヨットーリ・ブルーミーティアと七番クリス・エヴィーヴァが前目を志向してポジションを押し上げると、俺達は七番手で落ち着いた。

 正面スタンド前の直線を越え上り勾配の第一コーナーへ入って行く。インに二頭分ほどの隙間が綺麗に空けられているが前にいるのはヨットーリとクリスなのだから明らかに罠だろう、下手に手を出せば閉じ込められて競馬が終わる。元より最後は外へ持ち出す予定であり埒から三頭分離れたラインを選ぶ。

 前を見ると、七馬身程の距離を開けてようやく先頭がペルリナージュへ切り替わり、アマツヒが二番手に下がった所だった。総司の作戦か、それとも単純にかかっただけなのかは定かでないが、ペルリナージュにしてみればアマツヒに引っ張られた形になっている。

 早過ぎる。殆どのジョッキーが直感的にそう感じるペースだった。

 下手をすればテンの三ハロンが三十五秒を切るペース、どこかで息を入れるにせよこのまま進めば前半一〇〇〇を五九秒台前半か五八秒台まであるラップを今の中山で叩き出すのはいくら何でも無理があるはずだ、と普通は考える。

 他の騎手も皆承知しているようで積極的に追う馬は出ず、その結果前二頭と馬群が完全に分かたれた状態で下りの第二コーナーへと進んでいく事になった。

 先頭を行くペルリナージュをガイド役に見立て、その一馬身後方を長手綱で悠然と進むアマツヒはかかっているようにはとても見えない。そこから五馬身ほど離れてブルーミーティアとエヴィーヴァが並び、一馬身後に八枠の二頭を挟んで俺とレラが続く。俺達の外には十一番磯上・サンドアナモリが張り付くように追走しておりその更に外に四番館川・ホクヨウアーツ、サンドアナモリの後方には六番真戸原・ミッドナイトアワーと八番笹山・キッコウミカヅキが隊列を作っている。

 そうして状況を理解すると自分の判断の遅さに腹が立った。

 考える事は皆同じ。前を行く二頭が早すぎると見切って後方の俺達にマークを絞ってきている。

 だが、しかしだ。

 ――アイツがそんなヘマするはずねえだろう。

 誰へ向けるともなく腹の底で吐き捨てた。

 鎬総司という騎手は絶対にペース配分を間違えない。コンマ一秒すらも正確に刻んでいる事で有名な彼の体内時計がそうしたミスを決して許さない。故にああして折り合いがついている以上、このペースも彼らにとっては十分に許容範囲なのだ。

 そして当然、そんな事は他の騎手も織り込んでいる。その上でなおもこちらを選んだという事は【潰れるほどでは無いにせよ早すぎる事は間違いない】とタカを括ってレラを最大の仮想敵に据えたという事だろう。俺達からしてみれば前を行くライバルには楽をされ挙句自分達は周囲を固められて外に出すのも一苦労、全く以て面白くない展開だ。

 第二コーナーを抜けても状況は変わらなかった。各馬とも下りで勢いが付き過ぎないよう慎重なコーナーワークで進み、馬群は僅かにすら乱れない。

 前を行く二頭は流石に一息入れているようで、距離にして一馬身程度は詰まったようにも見える。こちらの集団もヨットーリとクリスの主導で巧くペースダウン出来ているようであり、仕掛け所を間違えなければ脚があがってしまうような事にもならないだろう。

 向こう正面で残り一〇〇〇のハロン棒を通過した直後、緑帽子の山﨑さんが馬鹿みたいに大きな声で叫ぶ。

「楽に行かせ過ぎや!」

 中段よりやや後方を行っている俺達ですら一分を少し切っているような感覚なのだから、前を行く総司達は五十八秒台が出ていても不思議ではないだろう。明確なハイペースと言って良い展開のはずだが、これが他でもない総司自身の手によって作られた流れである以上勝負がヤツのプラン通りに進められていることもまた事実であり、そうなれば誰かが玉砕覚悟で鈴を付けに行かなければならない。そしてそれはもう一頭の人気馬である俺達の仕事だと、山﨑さんは言っているらしい。

 乗せられるつもりは毛頭無い。ペース自体は間違いなく早いのだから素直に競馬をすれば前を行く馬に辛い展開である事には違いないのだ。

 総司が何を企てていようともレラには真っ向から打ち破る能力がある。俺はレラを信じて小細工せずに乗れば良い。

「大越!」

 恫喝めいた山﨑さんの煽りはあくまで無視、六馬身前方の黒と黄色の勝負服を目印にして進めていたが、残り八〇〇地点で急激にレースが動き始めた。

 焚き付けられても動かない俺に業を煮やしたのか、外目を回っていたホクヨウアーツが行くと、九番山﨑・プラハノアオゾラがこれに引きずられるようにして速度を上げ、更にこの二頭にコースを消されることを嫌った他馬もやむを得ず追随する。一頭の仕掛けが雪崩のように連鎖してレースは一気にうねりを上げる黄土の濁流へと変質した。

『俺も――』

「――まだだ」

 ハミを取って行きたがる素振りを見せたレラの手綱を軽く絞る。

 他の連中は動かざるを得なくなったから動いたのだ。

 前へ行ったアマツヒを捕えるにはアマツヒを他の馬諸共圧倒する末脚で急襲するか、はたまた早めに動いて叩き合いに持ち込まなければならないが、後方に控える俺達よりも瞬発力に秀でた馬は他にいない。前と後ろの両面を有力馬に塞がれているにも関わらず着拾いではなく勝ちだけを狙う、袋小路に陥ったようなやむを得ない仕掛けなど本来なら有り得ない展開だが、ホクヨウアーツ鞍上の経験の浅さが止められない流れを作り出した。

 だが、俺達はそうではない。メンバー中最速にしてアマツヒすらも軽く凌駕する瞬発力を持っている俺達には焦る必要などまるで無い。

 最低限の流れに沿うようにじわりと速度を上げると、第三コーナーの中腹に差し掛かる頃には馬群が外側へ膨れる形で一層密集し、先頭との差は詰まったが順位は最後方まで落ちている。

 他の仕掛けが早すぎる。

 周囲を見渡すとじっと堪えたのは並走しているサンドアナモリとやや前方に位置していたエヴィーヴァくらいなもので、この二頭はレラについて行ければ勝ち負け出来るという意識で競馬をしているらしい。

 先頭を行くペルリナージュがハイペースに耐え切れず最終コーナーの入口で潰れた。あっさりアマツヒに先頭を譲るとそのまま滑り落ちるように後退し、渦を巻く勢いで迫る後方集団に遠からず飲み込まれるだろう。しかし彼を飲み込む後続も仕掛けが早かったことは明白。

 レースの臨界点は眼前に迫っている。

 頃合。

 手綱を介してレラに合図を送ると待っていたと言わんばかりの勢いでハミを取った。頼もしさを覚える手応えに逸る気持ちを抑えつつ、勢いが付くと同時に影が射し始めた例の走法を矯正するタイミングを計りながら、前を行くエヴィーヴァの一頭分外に残っていたラインを目指して手綱をやる。

 その時、突如押し始めたサンドアナモリが被さるようにコースへ入って来た。

 見られていたにしても反応が早過ぎる。磯上の野郎、着拾いを目指すどころか勝つつもりで競り合いに来ている。

 多少強引でも間を割ってやろうかとも思ったが、前へ出た磯上は俺の思考を読んだかのように、接触しそうな勢いでエヴィーヴァに馬体をピタリと併せてみせた。無理に寄せられたクリスは怒った風に母国語で何かを叫んだが、磯上は狼狽えた素振りもなく、ゆったりと手綱を構え、冷静に鞭を右手へ持ち換えながら、後方のこちらを窺うような視線を向けてくる。

 ――お互い様で、後ろにいる方が外を回そう。

 視線に気付いた刹那の間にレース前のやり取りが脳裏をよぎり、おあつらえ向きに空いていたサンドアナモリの左側一頭分のスペースへ向け意識の埒外で手綱をやった――瞬間、襲ってくる激烈な違和感。

 力の抜けた手綱、右手に持たれた鞭、本能的に感じ取った死臭。

 思考を落とし直感に全てを委ねた。

 レラの呼吸に合わせて左前を鞭で撫でる。自然なブレーキング代わりに走法を矯正しながら右の鐙に体重をかけ、敢えて馬上のバランスを崩す事で進路を一気に右へ。最内埒沿、誰も通らない荒れ地へ寄せる。

『何してんだよ!』

 レラが怒った風に叫んだ。説明している暇はない。言葉ではなく手綱を握る指先に信じてくれと思いを込める。

 最終コーナー中間、残り四百のハロン棒を横目に見ながら荒れ放題の最内を押して押して這い上がる。ここに来てこのラインを選ぶ騎手がいるとは思っていなかったのだろう、脇を通り過ぎる一瞬でクリスにコースを閉められるような事も無く、コーナーを曲がり切ると開けた真正面に壁のような坂がはっきり見えた――と同時に左後方のコーナー出口付近から複数の怒声が上がる。だが相手をしている暇はない。青帽子、黒地に黄鋸歯形の勝負服と紫色の靴下は前方四馬身の位置にハッキリと捉えている。

「行くぞッ!」

 呼吸を合わせ、今までのどの鞭よりも激しく風を切って打つ。レラは言葉ではなく、その身に宿したエネルギーの奔流で応える。俺が振り下ろした撃鉄はレラという雷管を叩き、俺達二つの命を火薬の代わりに弾かせる。荒れた足元はその苦難ごと踏み砕くように、脚を使い切った後続は遥か彼方へ置き去りに、一直線に道を切り開く風となって眼前で輝く太陽の喉元へと突き進む。

 アマツヒは紛れもなく強敵だった。外を回せなかった誤算も大きいが、それを抜きにしても、レラをここまで追ったのは初めてのことだし、正直に言えば想定以上に粘り込まれている。

 だがしかし、それでも脚色の差は歴然だ。

 坂を迎えてラストは一ハロン、内を大きく空けたラインを取るアマツヒの内から、一馬身半の差を一完歩ごとに詰め寄っていく。このまま行けば半馬身程差し切った所がゴールになるだろう。

 押し通しで感覚が薄れた腕に喝を入れ、歯を食い縛りながらレラを押す。

 坂の頂上でアマツヒをかわし、俺は確信した。ただ前だけを見て追っていたから隣にいる総司の表情は解らないが、アマツヒの鼻先が俺の視界から消えかけていたから間違いでは無いだろう。

 残りは一〇〇を切り、それも純粋に速度勝負となる平地。こと瞬発力勝負になればレラが負ける要素は無いし、何より、このハイペースを前で進んだアマツヒには最早繰り出す脚が無いはずだ。

 ――勝った。

 そう思ったのは一瞬。だが、その一瞬だった。

 突如、左方向から巨大な壁のようなプレッシャーが押し寄せてきた。馬上の俺すら感じたのだからレラなどはその数十倍の圧を感じただろう。大地を抉り、周囲の障害を薙ぎ倒しながら迫り来るその壁は、俺とレラを内埒の間に挟んで押し潰すかのような迫力で突撃してきた。

 ほんの一握、だが確かに、俺達は竦んだ。

 既に脚を使い果たしたと思い込んでいたアマツヒが蘇り身体をぶつけてきたのだ。乱されて僅かに内に寄れた、その一歩先がゴール。

 ハナ差、しかし差し切られた事は瞬間に解った。


 ゴール板を過ぎてから第一コーナー手前まで流して進む間にふと振り返ると、三番手以下は六馬身以上も離れていたようだった。直線だけで随分と千切ったものだと思うが、それだけ二頭の力が抜けていたのだろう。力の足りていない馬などはゴール直後に止まってしまう姿も見られ、とても二歳戦とは思えない地獄絵図の消耗戦だ。

 着順掲示板を見ると一着二着は空白、審議の青ランプも点灯している。ホッとしたような気になり、それがまた腹立たしい。向こう正面で脚を止めた総司は自分たちの勝ちを疑っていないのだろう、ウイニングランの為に残るつもりを隠していない。

「審議、付いてるぞ」

「僕らじゃありませんよ。後ろです、コーナーで何かあったみたいですから」

「普通に考えれば最後のアレだろ」

「当たってませんよ。絶対に、進路にも入ってないし、当たってもいません」

 真っ直ぐ俺の目を見返しながら言い返す総司には、それだけの自信があるという事なのか。あまりにも真っ直ぐすぎるからぶん殴ってやりたくなる。

「お前ら何してんだ」

 声に振り向くと、邦彦さんだった。

「どうなるかは解らんがひとまず検量室行け。ウイニングランなんて無理してまでやるもんじゃない」

 それ以上総司を見ることはせず、その場を離れて検量室へと向かった。

 花道から覗き込む観客の視線を感じながらカンカン場へ馬を入れようとすると、御大と斎藤さんは二着の場所に陣取っていた。

「審議ですよ」

 馬上から睨み付けるようにして言うと、御大は特大の溜息を一つ吐いてから、

「どこでもいいからさっさと降りろボケ、殺すぞ」

本職も真っ青なドスの効かせ方だ。

『良いからさっさと降りろよ、俺は巻き込まれたくねえ』

 レラまで面倒臭そうに言うので、俺も仕方なくその場で降りる。

 腹帯を外していると御大が近寄って来て、ぶん殴られるかとも思ったが労うように背を叩かれた。

「最終コーナー、内に行ったのは良い判断だった」

 命令に背いた事を許すと言ってくれているのだろう。

「すみません、それは勘でした」

「当てた勘ならそれで良い。磯上の野郎が大斜行やらかしやがった、外回した馬は全滅だ」

 検量室の中を指しながら言うのでその方向を見てみるといつも以上に険悪な雰囲気が漂っており、磯上が吊し上げを食っているようだ。

「審議は二件、その件と最後の直線だ……どっちにせよ、お前は良くやった」

 外した鞍を抱えていると、もう一度送り出すように勢いよく背中を張られ、その痛みに顔を引きつらせながら検量室へ向かう。

 御大は滅多に騎手を責めない。

 日常では他人をボロクソの犬畜生みたいに扱うイカレ調教師だが、騎乗ミスでもなければ、レース結果を騎手に押し付けて八つ当たりするような事はない。

 ドアの隣にちせが立っており、お疲れ様でしたと頭を下げられた。

「悪かったな、審議になって」

「そんな事は良いんです。無事に回って頂けたので、ホッとしました」

 ちせは本当にほっとしたような笑顔でそう言った。きっとレースの勝ち負けなんてオマケ程度にしか考えていないのだろう。礼を言い終えると、さっさとレラの所へ駆けて行き、斎藤さんから引綱を預かっている。

 改めて、変な馬主だと思う。

 だが、良い馬主なのだ。

 だからこそ、俺はレラを勝たせなければいけなかった。

 検量室へ入るなり強烈な怒声が耳に突き刺さった。館川君が磯上の胸ぐらに掴みかかっており、止めようとする騎手もいないらしい。競馬会の職員が館川君を宥めようとしているが、この調子では裁決委員からの注意でもなければ止まらないだろう。なにせ周囲の騎手ほぼ全員が暗黙の裡に館川君の行動に理解を示している。

 俺は無言のまま喧騒の脇を通り抜けて秤に乗った。

「――テメエみたいな下手糞は中央に出て来るんじゃねえよ、クズが」

 館川君が言った。

「君にそこまで言われる筋合いは無いな。大体、巻き込まれるのが嫌なら大越みたいに内を回せばよかっただろう」

 秤に乗っていた俺に気付いたのだろう、開き直った風な磯上が言ってのけると室内の視線がこちらに集中する。

「関係無いだろ、巻き込むな」

 自身に言い聞かせるように、出来るだけ静かに秤から降り、集団から距離を取る。そうして俺の直後に戻って来た総司が検量を終えてから、関係している一同が揃って裁決室へと移動した。

 ――もしも芝の状態が良い外を選べていれば、こんな審議にせずとも、余裕で差し切っているはずだった。

 ――ハイペースの結果俺達にマークが集中する事を想定出来ていれば、ハナから最後方の展開を選ぶことも出来たはずだった。

 ――最後の一瞬まで気を抜いていなければ、寄せてきたアマツヒに乱される事無く耐えられていたかも知れなかった。

 パトロールビデオの映像がスタートから流される間、俺はそんな事を延々と考えていた。

 それから、どんな受け答えをしたのかはよく覚えていない。

「――本レースは到達順の通りに確定とします」

 裁決委員の宣言は、いつもと変わらない、静かで穏やかなものだった。


来年の番組表でホープフルが有馬の週の土曜になったらしいので、そのうち、もしかしたら、本編中時系列修正するかも知れません。

ファン心理を考えるとその方が自然ですし、次年度以降もそれでやる気がするので、有馬の方が先に来てる世界観がレア過ぎて変になりそうという理由です。

その場合はご了承ください。

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