大越凛太朗【hopeful④】
アマツヒ以外で最も注意すべき相手は京都二歳ステークスの勝ち馬ブルーミーティアだろう。短期免許で来日中のヨットーリへの乗り替わりもあり、競馬新聞などを眺めても二強に割って入るならこの馬という見方は強い。他にも同レースで差の無い二着を演じている南関所属の磯上・サンドアナモリや、アイビーステークスを勝った郷田・ペルリナージュも用心するならば意識に入れておく必要はあるだろうか。芙蓉ステークスのクリス・エヴィーヴァ、新潟二歳ステークスの真戸原・ミッドナイトアワーなどにも印が打たれているが、どちらも東スポ杯で下した相手であり見切っても問題は無い。条件戦の勝ち上がり組はエリカ賞を勝ち上がっている笹山・キッコウミカヅキなどが目に付く程度。
ハナを切るのは2番のペルリナージュが本命、或いは13番のスギノリュウジョウも狙いに行くかも知れないが枠順を考えれば行かせる方が自然だ。前半一〇〇〇のラップに十一秒台が複数並ぶような早めの展開になれば二馬身から四馬身程度の差、十二秒台が並ぶスローになればそれ程の差を空けずに二番手集団が追走となって、恐らくアマツヒはこの集団に位置取る。他に有力馬で前を選びそうなのは1番のブルーミーティア、7番のエヴィーヴァ、8番のキッコウミカヅキ辺り。対して後方を選ぶのはサンドアナモリ。鞍上の磯上は南関の騎手で俺がサークルを離れていたここ一年の間に中央でも乗るようになったらしい。情報は少ないが追える騎手として売り出しているようだし、乗り馬も中央の二戦とも後方からの競馬をしているからほぼ間違いない。解りにくいのはミッドナイトアワーで、普通に考えれば前目を選ぶはずだが、鞍上の傾向を考えると有力馬を徹底マークして一発を狙う可能性もある。対象をアマツヒとレラのどちらにするかで位置取りも変わってくるだろう。
いずれにしても前目に有力馬が集まる事が予想され、加えて中山の短い直線を考えれば、四角の終わりまでにアマツヒからコンマ五秒、四馬身以内のポジションを確保するというのがプランの骨子。レラであれば今の中山でもラスト二ハロンを二十二秒台でまとめる事は十分に出来るからしっかりまくれる差だ。
――と、数時間も競馬新聞とにらめっこした末の結論は、ヨットーリ・ブルーミーティアが多少気になるものの、実質的には総司・アマツヒとの一騎打ちになるという、何とも解り切ったものだった。
レースシミュレーションをしていたらふと腹が減り、食堂へ行こうとすると廊下でばったり邦彦さんに出くわした。
「メインだけなら余裕あるだろ?」
そうしてゆるい具合に誘われるまま晩酌に付き合う事となり、下らない話をしながら居酒屋気分で呑み始めてから小一時間も経った頃だったろうか、ふと気配を感じた方へ向くと総司だった。
「お邪魔しますね」
一時期の疎遠な感覚はどこへやら、すっかり知り合いといった感じで気安く話しかけてくる。
「何だ、それだけか」
総司のトレーを覗き込むように邦彦さんが言う。
「五十一キロの鞍があるんですよ」
「そういう鞍は若手に回してやるもんだ」
「僕がその若手騎手ですってば」
聞いていて思わず苦笑してしまった。確かに競馬会の分類上は若手騎手なのだろうが、リーディングジョッキーが若手扱いというのも妙な話だ。
「これくらいは乗れる身体にしとかんと。若い女の子乗る時にも困りますから」
冗談めかして言う総司にそれ以上は諦めたのだろう、
「なら、酒はダメか」
邦彦さんは少し残念そうに言う。
「明日が終わったら付き合いますよ」
改めて見てみると、総司のトレーには炭水化物の類が一切乗せられていない。汁物に鶏肉や野菜のアラカルト、地獄の競馬学校時代を思い出してしまいそうな献立だ。
「あ、気にせずやってください。慣れてるんで」
俺に向けて総司が言った。邦彦さんは今更遠慮する間柄ではないということらしい、言われるまでもなく当然のように酒を舐めている。
「そうさせて貰う……それと、ご馳走さん。お祝い貰ってるぞ」
こちらも妙な遠慮はせず、ビール缶を揺らしながら礼を言っておく。大きなレースを勝った騎手が調整ルームに寄贈する振る舞いの酒であり、今の冷蔵庫には先日の有馬で勝った総司からのお祝いが詰まっている。
「いえいえ、大越さんが出てこなかったお陰で勝たせて貰えましたんで」
「良く言うよ」
「いや、本当に……彼はずっとエトゥピリカの二番手扱いでしたけど、最後の有馬で主役になれましたから、良かったです」
「力の要る馬場に滅法強い感じの、本当に良い馬だったよ。今日ちょっと歩いてみたけど、よくあのコース走らせようと思ったな」
「あれね、馬が自分で選んだんです。僕は少し外に出そうと思ったんですけど、このままでええって」
「へえ」
「最後の最後でようやく彼と通じ合えた気がして、嬉しかったです。ウイニングランの拍手が本当に気持ち良かったですよ。長いことヒール扱いでしたけど、最後の最後に応援して貰えたから、きっと彼も幸せだったんじゃないかな」
一仕事終えた後のように、安堵の息を吐きながら一頭の馬を語る総司を見ていると、たまたまでもちせとは本当に気が合ったのだろうと思った。
「個人的にはヨーロッパに挑戦して欲しかったな、あの馬は」
そんな事を邦彦さんが言った。
「それは俺も思ってましたね。アレだけ力のあるタイプなら洋芝でも、何ならダートも走れたんじゃないかって気がする」
俺が同意すると総司も確かにと頷く。
「それ、実際に藤井先生の中では初戦をダートでおろす計画もあったみたいですよ。ただ、クラブの方からやめろって言われたみたいですね……クラシック狙えるって会員に触れ込んでしまった手前、気軽にダートを走らせる訳にいかなくなったんでしょうけど」
「なんだそりゃ……それだから素人は」
自然と口を出た言葉だったが、どうやら余計な苛立ちが混じっていたらしい、邦彦さんからいつもの調子でまあまあと窘められてしまう。
「滅多なことを言うな、馬主さんあっての競馬だ」
邦彦さんが正しい事は当然解って入る。だが、つい先日訪れたあのんまい棒に唾を吐いたお嬢様の残像が脳裏を過ぎるとどうしたって腹が立つのだ。
「ま、正直な話をすれば言いたいことは解るがな。それでも、お前や臼田先生みたいなやり方は例外だよ」
邦彦さんは御大の名前を引き合いに出して、茶化すように話を流した。
それから下らない居酒屋話に興じていたが、食事を終えた総司がそろそろと席を立つ。
「何だよ、もう寝るのか。これからが面白いのに」
「汗取りせないかんって言うたでしょ。そっちも、酔っぱらいは大概にした方がええですよ」
「やかましいわ、ガキの癖しよって……ちゃんと歯ァ磨けよ」
「はいはい、お休みなさい」
邦彦さんと身内さながらの気の置けない会話を繰り広げてから俺に軽く頭を下げて、総司は食堂を出て行った。
「そういや、兄弟弟子なんですっけ」
後姿を見送りながらつまみを口に運ぶ。
「形式上はそうなるな。ただまあ、そういう時代でも無いからな、先生と話し合ってアイツはさっさとフリーにさせた」
「で、邦彦さんは鎬先生の弟弟子にあたると」
「だな……だから、俺にとってのアイツは弟弟子ってより兄弟子の息子だ。俺がアンちゃんやってた頃に生まれて、古い厩舎だったから、俺がオムツ替えてやった事もあるよ」
天下の笹山邦彦にオムツを替えさせた騎手などそういないだろう。調子よく笑ってみせると、邦彦さんは酒の肴を定めたらしい、酔いも手伝った風な穏やかな笑みを浮かべながら話を振ってきた。
「ところでアレ、最近女が出来たみたいだな」
「らしいですね、サブから聞きました」
こういう時は敢えてとぼけた反応をした方が語る方は調子が出るものだ。
「お陰でこっちは大騒ぎだ。石山のオッサンなんて気が早いから、鎬厩舎まで樽酒抱えて来たって総一郎さんが呆れてたよ」
「何ですかそれ」
樽酒を抱える石山調教師の姿を思い浮かべると笑いを堪え切れなくなったが、邦彦さんは大真面目な風を装って続ける。
「そりゃお前、こっちの人間にしてみりゃ孫が彼女作ったようなもんだからな。古い人間は皆でお祝いムードだよ。相手の子は苦労するぞ、ありゃ栗東中挨拶回りするハメになりそうだ」
「ま、あの鎬総司と付き合えるならその程度は安いモンでしょ」
「なんだ、随分と買ってくれているんだな」
何気ない一言を自分の事のように喜ぶ邦彦さんを見て、その背後にある人間関係が透けて見えてくるような気がした。総司はこういう恵まれた世界で育てられたのだろう。
「小さい頃の総司ってどんなだったんですか?」
「割と大人しい感じではあったが、まあ普通だ。友達と遊ぶよりも馬といる方が好きだったみたいで、大体いつも厩舎に来てたから自然と馬乗りも覚えてな。
ただ馬乗りに関しては生まれた頃から本当に抜群のセンスを持ってた。流石アニさんの息子って感じで、一つ教えたら勝手に十を実践出来るくらい、中学入る前でも軽い調教なら任されるくらいの腕があったよ」
「馬乗りの技教えたのは邦彦さんなんですよね? 鎬先生から邦彦さんを経由して総司に技術が繋がったって、何かの雑誌で読みましたけど」
「技なんて大層なもんじゃないよ。そもそもそんな環境だから、敢えて教える事なんて何もなかった……ただ、アイツは俺が総一郎さんから教わった直系だって事を知っていたから色々聞きに来たんだろうけどな」
邦彦さんは酒を舐めながら、当時の事を思い返すようにゆっくりと語る。
「そういえば、どうして総司は鎬厩舎に入らなかったんですかね? アイツがデビューした年にはもう開業してたのに」
話の流れで、前々から思っていた素朴な疑問を口にすると、邦彦さんは少し困った風に笑い、やがて手にしていたコップを一気に呷ってからだった。
「総一郎さんなりの愛情だよ。本物の騎手を育てる為に余計な甘えが入ったらいけない。そう考えていたんだろうさ」
「そういうもんですかね」
「気になるか?」
「そういう訳でもないですけど、良い親子関係なんだろうなと思ったので」
問答が成立しているか怪しいところだったが、互いに酒を入れているお陰で細かい所で引っかかる事は無い。それからは淡々と、酒を呑みながら下らない話を続けた。
邦彦さんとの晩酌をお開きにしてから呑んだ分の汗を絞りに風呂場へ向かうと、一人先客がいるようだった。顔を合わせたくない複数の騎手の顔を浮かべながら恐る恐る洗い場に足を踏み入れるも、ところが人影は見えず、どうやら奥のサウナに籠もっているらしい。
どこかホッとしながら身体を洗い、湯船に浸かってぼんやりしていると、サウナのドアが開き、熱気と共に姿を現したのは総司だった。足元がふらついているように見えるのも気のせいではないのだろう。シャワーで雑に汗を流すと水風呂へ沈むように浸かる。
「もしかして、あれからずっと入ってんのか」
その異様な雰囲気に気圧されながら声をかけると、その時総司はようやく俺の存在に気が付いたようだった。
「どうも、なかなか落ちてくれんのですわ」
身体の熱を無理矢理冷ましながら、総司は言う。
「今何キロなんだよ」
「さっき計った時は49.4でした」
「そんだけ落としてりゃ乗れるだろ」
「出たら水も飲みますし、多少鉛入れて調整する位が理想なので」
視線を宙に彷徨わせながら語る総司を見ていると、真摯な姿勢に感心するというより危うさを覚える。
無理をしてぶっ倒れるくらいなら、斤量なんていざとなれば二キロ超過までは許容されると考えてしまえば良いのだ。連発すれば勿論騎乗停止を食らうが、そもそも総司クラスの騎手が無理をしてまでハンデ戦の軽量鞍に乗る必要など無いのだから、一度警告を食らったら以降は注意して乗らないようにするだけで良い。少なくとも俺が総司の立場なら、これほどまでに骨身を削らなければならないのなら、そう考える。
「身長、一六九だっけ」
「それ、サバ読んでるんですよ。本当は一七一です」
「少し鞍を選べよ。鞍を拾える新人にも感謝されるし、自分も無理する必要が無くなる、万々歳だ」
「まだまだ、僕はそういうのは早いです」
総司は取り合おうともせず音を立てて水風呂へと潜り、俺にはおおよそ一分程度としか感じられなかったがもしかすればそれは一分丁度だったのかもしれない、そんなルーティンめいた行動を数度繰り返してからサウナの中へ戻っていった。
「ま、良いか」
仮にぶっ倒れてもこちらとしては儲けものだ。ヤツの調整具合を気にかけてやるほどこちらに余裕がある訳では無し、自身の調整に集中しようと気を取り直して浴槽から上がり、サウナルームへと入る。
暖色に染められた室内は水分が一瞬で蒸発しそうな熱に覆われている。総司は部屋の隅に足を組んで座っている。俺は少し距離を取った場所に座り、顎を引いて目を閉じた。静かに呼吸を整えながら肌を伝う汗を感じていると、暗闇の向こうから、付き合わんでも大丈夫ですよ、と総司の声がした。
「付き合いじゃないからな、倒れても助けねえよ」
そう答えると、口内に入り込んできた空気は焼けたように熱い。
「でも、汗取りなんかしなくても斤量は余裕でしょ」
「減量以前の精神集中だよ、汗かくと雑念も消えるからな」
「プレッシャーですか?」
「ところで、喋るの辛くねえか。喉が熱い」
「相手してくださいよ」
「知るか……プレッシャーって言うならお前こそどうなんだ。アマツヒ、宮代の最高傑作なんだろ、万が一にもヘグッたら何されるやら」
「プレッシャーはありますけど、それも幸せな事ですよ」
「奇特なヤツ」
「そう考えられなきゃ巧くなれませんから」
「もう十分巧いだろ」
「まだまだです」
呟くように答えた総司からは妙な謙遜も卑屈さも感じる事は無く、彼が本気でそう考えているからなのだろう。
「目標とか、あんの?」
「何のです?」
「ダービーとか、天皇賞とか、それこそ凱旋門勝ちたいとか」
「ああ、そういう事なら、世界中のレース全部勝ちたいですけど」
「それ以外には?」
「単純に、巧くなりたいです」
「もう少し具体的に言えよ」
「そんなん言われても」
「例えば、オリヴィエ・モローみたいになりたいとか。ジェローム・ビアンキとか、今来てるジョルジョ・ヨットーリとか、日本人ならそれこそ邦彦さんとか、やっぱり鎬総一郎だ、とか」
「そういう意味ならヨットーリですね。邦彦さんはまだまだ勉強させて貰ってますけど……親父はそのメンバーに並べると浮きますよ」
「そうかね、俺からしてみりゃ同レベルのレジェンドだけど」
顔中に張り付いた汗を手で払いながら言うと、それまで淡々と返って来ていた総司の言葉が止まった。
だからといって相手にせず、俺は自分の考えを少しずつ伝えた。長距離戦におけるペース配分の妙、周りの裏をかく仕掛け、綿密に計算されたコース取り。その一つ一つについて具体的なレース名を上げながら語ってみせる。
「お前はそういうのを直接聞けるんだから、やっぱり羨ましいけどな」
素直な言葉を並べたのだったが、総司からの反応は芳しくない。
「そうだとしても圧倒的に超えなければダメな相手ですよ、もう終わった時代の騎手なんだから」
意固地になっているようにも見える総司の反応が面倒臭くなり、
「親が何でも、馬に乗れればそれで良いって事か」
茶化してやると、総司はムッとした風にこちらを向いた。
「そういう大越さんの親はどうなんですか」
「俺の親?」
「そうですよ、俺の家の事ばっかり不公平じゃないですか」
隠そうともしないフルチンを見せつけるように、仁王立ちをして総司は言う。しばらくその御立派なイチモツを眺めているとふとちせの芋顔が浮かんできてしまい、果たして大丈夫だろうかと、その生々しいイメージに眩暈を覚える。
「そういえば大越さんの御実家って厩舎関係じゃないですよね、馬産とかですか?」
「そもそも競馬と無縁の家だよ。ただし母親は父親に愛想つかして出て行ってから消息不明。父親は児童虐待で捕まって、その後に強盗と傷害事件起こしたらしいから、多分今はどこかの刑務所……まあそんなだから話しても面白い事なんて何も無いけど、それでも聞きたいか?」
至って平静に答えるのがキモで、むしろ笑い飛ばしてやる位の方が楽なのだ。相手の方が深刻に受け止めてしまうとその後気を使われるのが却って面倒臭くなる。
総司は想像の数百倍はヘビーな話を聞かされて戸惑っているようだったが、やがておずおずと首を振った。俺は汗でダラダラになった顔を手で拭いながら、深く深く頷いて言う。
「だからさ、親が何でも、馬に乗れればそれで良いんだよ」
脱衣場で身体を拭きながら総司に体重を尋ねるとどうやら目標値までは落ちたらしい、ホッとしたような息を吐きながら、これで寝る前に水を飲めるなどと危うい発言を漏らしている。
「お前が乗れなくなったら、アマツヒってクリスなのか?」
パンツを履きながら尋ねると、視線を向けた訳ではないが総司が固まったのが解った。
「へ?」
「だから、お前に何かあった時の代打。まさかサブ使う訳ないだろうし、その為だけにモローやらヨットーリを呼びつける訳にもいかないだろ」
シャツに頭を通してから脱衣場の鏡を通して見ると、フルチン姿のリーディングジョッキーはその場で固まっていた。
「宮代のやり方なら、少なくともお前の手元に戻ってくる事は無いと思うぞ」
追い打ちがてらに言いながら、ドライヤーのスイッチを入れる。沈黙の脱衣場に騒がしいブロー音が鳴り響いて暫く、やがて総司ははっとしたように口元を抑えた。
「もう少し肩の力抜けよな……ほんじゃ、お先に」
言い残して風呂場を出ると、背後から馬鹿みたいに大きな声で、おやすみなさい、と叫ばれた。まあ、やっぱり、嫌なヤツでは無いのだろう。
色々あって遅れました。
大分落ち着いたので元通りのペースでやれるように頑張ります。