大越凛太朗【hopeful①】
いつもよりは少し遅いがまだ陽も出ない時刻、厩舎を覗くと当然のように朝カイバの準備は出来ていた。作業主が起き出した時間を想像すると休日という概念が音を立てて崩壊しそうだが、当人からしてみればむしろそうしなければ落ち着かないという事なのだろう。
微笑ましさと悲哀が三対一くらいで混ざり合った複雑な感情に苦笑しながら、レラの馬房へ向かうとやはりちせが眠っていて、部屋主のレラは少し窮屈そうにしながらも甲斐甲斐しく自らの腹をちせの枕として供している。
「邪魔なら起こしちまえよ」
『ちせは良いんだ』
「G1出走週の大事な身体だぞ、解ってんのかね」
『朝からうるさいヤツだな、どっか行けよ』
馬栓棒に寄りかかりながらからかってやると、レラはちせを抱きかかえるように身体を丸めて、聞こえないフリを決め込んだようだった。仲の良い姉弟が昼寝をしているような光景は眺めていて気分が悪くなるものでも無いが、ちせの事を考えれば起こしてやるのが人情なのだ。
「満足したら起こしてやれよ。今日は友達と買い物行くんだとさ」
掃除道具を用意しながら伝えてやると、聞こえていなかったはずのレラから素早い返事が届く。
『友達って誰だ?』
「安心しろ、総司じゃねえよ。宮代って女だ、渋谷だか原宿だかに行くんだと」
『別に、ちせが楽しいなら誰でも良いけどさ』
いかにも聞き分けの良いフリをしてレラは言う。
「散々拗ねてた癖に、よく言うぜ」
ちせが総司と連絡を取り合うようになってから、レラはわざと人を困らせるような態度をとる事が増えた。他の人間が気付いているかはともかく、少なくとも俺には解る。それは自分の母親を独占したがるクソガキと同じ反応だ。
ちせの携帯をわざと咥えて床に落としたり、総司の名前を聞くだけでその場で足を突っ張って動かなくなったり、厩舎にちせの姿が見えないと落ち着きが無くなったり、そういう子どもじみた独占欲を堪え切れずにいるようだった。
『大体、お前が余計な事するからだぞ』
「良いじゃねえか、コイツだって人並みに恋愛くらいしたいだろ」
とは言え、けしかけた俺自身ここまで上手い具合に話が進むとも思っていなかったというのも本当だ。先々のことを考えて、世間一般の女子らしい経験の一つでも積ませてやれれば御の字程度の感覚で送り出したのだが、ここ最近では暇さえあれば四六時中携帯をいじってやり取りをしているし、厩舎にいても何となく上の空になっている場面が増えたように思う。サブから聞いた話では総司の方も何となくそんな感じになっているようで、トントン拍子で話が進んでいる事は間違いないだろう。そしてそういうちせの浮かれ具合を見ていると、俺もレラが拗ねる気持ちを理解出来ない訳ではない。
だがそれでも、それで良いのだ。
「コイツは人間だからな。お前らより長生きするし、馬の子どもは産めないよ」
言っている自分でも無茶苦茶だと思うような内容だが、しかしそれが全てだ。寿命を考えればレラはちせより先に死ぬだろうし、レラの子どもが何百頭生まれたとしてもちせを助けてやれる訳ではない。将来を考えれば、たとえレラと過ごす時間を減らしてでも、他の人間といる時間を増やした方が良い。今までの生活があまりにも異常だったのだ。
納得したのかはたまた不貞腐れたのか、レラはそれきり黙り込んでしまった。
俺もする事が無くなり、ぼんやり馬房の中の一人と一頭の様子を眺めていたが、数分としないうちに、寝藁を散らしてちせがむくりと起き上がる。
「おはよ」
「ああ……おはようございます」
「迎えに来て貰うんだろ。一回帰って、ちゃんと支度しとけよ」
ちせは曖昧に頷くと、レラの腹をくしゃくしゃに撫で回してから、のそのそと馬房を這い出た。俺の脇を通り過ぎて行く時一声も無かったのは、寝起きという事もあるのだろうが、きっとそれだけでは無い。
東スポ杯以来、どうにもちせとの関係がギクシャクしている。挨拶程度なら自然に交わすし仕事に支障が出るようなことも無いが、行動の一つ一つが少しずつ噛み合わなくなった。自然と声を掛ける事が出来なくなり、話す前に一々考えるようになってしまっている。
「金はあるのか?」
挙句に出て来るのがこんなセリフでは自己嫌悪しかない。これじゃあまるで援交オヤジだ。言われたちせも、当然、怪訝な表情で俺を見る。
「普通にありますけど」
「いや、ほら、重賞勝って懐あったかいし、宮代さんと行くなら高い店だろうから、小遣いでもやろうかと」
しどろもどろになっている自分を意識すると本当に情けなくて涙が出そうだ。
だが、ギリギリで救われたのはちせが笑ってくれた事だろう。
「それを言うなら私は大越さんの二十倍くらい貰いましたよ」
呆れた風ではあったが、ようやく笑顔が見れた事にホッとする。
「そりゃそうだな」
競馬の賞金は馬主八割に調教師が一割で残りを騎手と担当厩務員が半分ずつという配分になる。ちせの場合はこの他に生産者賞などもあったはずだから、家を一軒建てられるくらいの額面は貰っているはずだ。
小遣いをくれてやるどころか俺よりも高額所得者である事に気付かされるとダサかった発言が輪をかけてダサく感じられ、そうして男としての尊厳が底を打つと却って肩の力が抜けた。
「スマン。楽しんでこいって言いたかった」
頭を掻きながらそう言うと、ちせはようやく破顔して、行ってきますと返してくれた。
月曜の簡単な掃除と飼い付けを終えてから、レラの馬房に上がり込んでタブレットを弄っていたら、家主が首を伸ばして画面を覗き込んできた。
『何見てんだよ』
「昨日の有馬、お前も見るか?」
『つまんなそう、別に良いや』
「総司出てるぞ」
『負けた?』
「勝った」
『余計見る気失せた』
レラは面白くなさそうに吐き捨ててそっぽを向く。
「本番でつまんない事考えないでくれよな」
『走る時にそんな余裕ねえよ』
「それは結構、安心したよ」
馬群を縦に捉えたパトロールビデオで各馬の位置取りを眺めていると、どうやら内埒沿いの馬場がかなり痛んでいるらしい事が解った。第四コーナーからゴール前の直線にかけては特にひどい状態のようで、どの騎手も内埒から二頭分のスペースをわざわざ空けて走らせている。芝が剥げて茶色い地面まで見えてしまっているのは傍目にも明らかだったが、こうまで露骨にインを避けている以上は画面に映り切らない土の抉れ具合も相当なものなのだろう。
そんな馬場状況の中悠々と内埒沿いを進んでいくのが総司騎乗のレイカウントだ。レイカウントとはエトのダービーや菊花賞で勝負したが、蹄の厚い典型的な道悪巧者であり、この時期の中山のような力の要る馬場に滅法強い印象がある。今回も道悪を苦にしない特性が他馬が避けるコース取りを可能にしており、そうして余裕を持って前目を進むことで中盤の貯金を重ねて最後まで勝ち切るという王道の競馬だった。
「やっぱ強いな」
素直な賛辞が口から漏れると、そっぽを向いていたはずのレラが口を挟んできた。
『ダービーで勝ってる相手だろ』
「菊では負けたよ」
『事故じゃねえか』
「ともかく強いモンは強い。位置取りを選ばずに前目で競馬が出来るってのはそれだけでも武器だ」
『そんなの俺だって出来る』
「出来るだろうけど、させる気は無い」
謎の対抗意識を出して来たレラを受け流しつつ第一コーナーまで場面を戻して位置取りを再確認する。前半一〇〇〇の通過は一分一秒三と標準的、先頭は古馬中長距離路線をリードしてきたイリュージョンスター、半馬身後方の二番手に今年の菊花賞馬であるグラッドアイが追走しているが競ってペースが上がる風では無く落ち着いてしまっている。そこから三馬身程離れて三番手集団は六頭一団となっておりレイカウントはここの先頭、他には前年の有馬を勝ったサンダーオブファントムや秋天を勝ったフラワーシャワーなども固まっている。三番手集団から二馬身後方にまた五頭の集団がありここの有力馬はエリザベス女王杯を勝ったローズクイーン辺り、その更に後ろに二頭を挟んで最後方からは三歳にしてジャパンカップを制した今年のダービー馬ニルヴァーナ。
向こう正面の下りから徐々にレースが動き始めた。最後方を進んでいたニルヴァーナが集団の外から被せるようにして進出を始めるとそれを見た後方集団も速度を上げ始める。極端な馬場状況のせいもあって後方集団は第三コーナー時点で大きく外に膨れる形を取り、対照的に先行集団は穏やかに先頭との距離を詰めていく。そんな中で極端に内を突いたのがレイカウント、他の馬が直線へ向けて外へと追い出していくのを横目に一頭だけ埒沿いを走り抜き、直線を向く頃には逃げていた二頭を内から悠々とかわしていた。直線でも荒れた馬場に伸びを欠くような弱さは見せずに完勝、二着にグラッドアイ、三着にはイリュージョンスターと逃げ粘りの展開で、大外を回らされた追い込み勢は揃って不発となった。
『何でだよ、前で走れた方が強いんだろ』
何故か苛立った風になりながらレラは言う。引退する相手に対抗意識を燃やしてどうするとも思うが、この場合、意識しているのはレイカウントではなく総司なのかも知れない。
人間相手に張り合おうとするサラブレッドに苦笑しながら、俺は答えた。
「お前やエトが全力で走れるのは本質的に中距離までだよ、前目で走らせたらクラシックはもたない」
『え……そうなの?』
「これについては大マジだ。俺とテキの間で散々話し合って出した結論だから、多分間違ってない」
自分の適正距離を聞かされて驚く馬ってやっぱりどこかぶっ飛んでるよなあと思いつつ、俺は続ける。
「クソみたいにイカレた調教で鍛えてるんだから菊だろうと春天だろうと距離をこなす事は出来る。でも、ダービーを前目の競馬で押し切るのは無理だ」
エトでダービーを勝つ為にどうすれば良いか――この問いに対する俺とテキの解答は単純明快で、二四〇〇のコースでマイル戦をやることだった。極論を言ってしまえばスタートから暫くは適当に流して自分の適正距離に入ってからヨーイドンで勝つという、ただのそれだけだ。
それでもエトは勝つ事が出来た。言ってしまえばそれだけの能力があったし、それに耐えられるだけの鍛え方をした。そして、それはレラも全く同じであるはずだ。
「とはいえ、このレース見てるとな」
不発に終わったとは言え、後方から狙ったニルヴァーナも決して弱い馬では無い。三歳にしてジャパンカップを制した実力派の追い込み馬は総司を鞍上に迎えた王道競馬のレイカウントと対比する形で、ホープフルステークスにおけるレラ対アマツヒの仮想レースと見る事も出来る。
即ち、今の中山の馬場状態を考えれば、この有馬の結果はそのまま今週末のホープフルステークスにも繋がりかねない。
『じゃあ、どうすんだよ』
「さて、どうすっかね」
『俺、負けるのやだぞ』
「へえ……何で?」
『解らないけど、アイツに負けるのはやだ』
馬もレースに勝ちたいなんて思うのか――なんて事を一瞬期待してしまったが、要するに総司に負けたくないだけらしい。勝ち負けなんてどうでも良くてただ母親を独占したいだけの、クソガキの理屈だった。
昼の三時を少し回って夕飼の支度を始めた頃、表からエンジン音がしたので出てみると、およそ臼田厩舎には不釣り合いなド派手な深紅のスポーツカーが停まっていて度肝を抜かれた。まかり間違っても御大が乗るような車では無いし(そもそもそんな金は無いはずだし)こんな車に乗るような趣味人の厩務員がいたような記憶も無い、となれば考えられるのは……と思いを巡らせ始めたタイミングで、突然、車のドアが空へ持ち上がるように開いたのだ。
車のドアと言ったら横に開くものだとばかり思い込んでいた一般庶民の俺にとっては正しく驚天動地の事態であり、機械生命体のようにドアを開いてみせた深紅のスポーツカーはひょっとすれば意思を持って俺を威嚇しているのではないかと身構えると、降りてきたのは見慣れたちせだった。
「お前かよ……お帰り」
という事は車の持ち主は噂の宮代の御令嬢なのだろう。パドックで数度見かけた程度だが、確かにイメージ通りではある。
「夕飼の支度まだですよね、私がやりますから」
「今日は俺がやるから良いよ。宮代さん放っておく訳にもいかないだろ。大仲でお茶でも出してゆっくりして貰えよ」
言い合っていると今度はもう片方のドアがやっぱり空へ向けて持ち上がって、やっぱりその様は一般庶民の俺には馴染まなかった。なんというか、ドアが開くだけなのに一々心臓に悪い気がしてしまうのだ。
降りてきた宮代の娘は開口一番こう言った。
「お気遣いは結構です、お茶を飲みに伺った訳ではありませんので」
そして俺は確信する――あ、この女嫌いだわ。