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優駿  作者: 尾和次郎
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茂尻ちせ【ふらふら④】

 鎬さんに携帯電話を届けに来たはずの私は、何故か、見知らぬ幼稚園で男の子をおんぶしている。男の子は人見知りしない子のようで初対面の私を嫌がる事も無く大人しく収まっている。眠たいのだろうか、時折むずがって背に頬を擦り付けてくると、当歳だった頃のレラが思い出された。

「総太君、今日はお姉ちゃんも来てくれたんやねえ、良かったねえ」

 付き添ってくれているベテラン風の先生に声をかけられると嘘を吐く訳にもいかず、曖昧に笑って流す。

 ――京都駅で出迎えてくれた鎬さんは、こちらが恐縮するほど何度も何度も頭を下げてきたので、私も自らの行いに対するやましさから頭を下げ返す形になり、どちらも譲らず数十分謝り合ってから鎬さんの車で出発した。お洒落な外車にでも乗っているのだろうと思っていたら普通の国産車だったり、けれどエンジンをかけたらクラシック音楽が流れてくる辺りはイメージ通りだったり、絶対緊張すると思っていたのに驚くほど自然に話せたり、だった。

 走り出してから五分程した頃に渡したばかりの携帯電話が鳴った。信号待ちの間で通話に応じた様子を見る限りどうやらご家族らしかった。

「無理や。電話届けてくれた人ホテルに送らなあかんって、ちゃんと昨日から言うとったやないか……そんなん解り切った用事なんやから、ハナから厩舎の人に頼んどきゃええやろ……はー、知らんがな……鍋とかそういう問題ちゃうって……もうええよ、解ったから……あい、あい、切るで……ったく」

 幾分不機嫌な声になった鎬さんは、テレビで見る様子とはまるで違う、普通のハタチくらいのお兄さんだった。家族にはそういう姿も見せるのだなと呆気にとられていたら、申し訳なさそうに両手を合わせながらホテルへ送る前に弟を迎えに行かせてくれと言う。

「弟さんいたんですか?」

「今五歳なんやけど、年離れてるから恥ずかしくて。取材もNGにしとるからあんまり言わんといてね」

 本当に恥ずかしいのだろう、私と目を合わせようとしないままちょっと早口になっている姿に、良いものを見たなあ、なんて思った――のがほんの二十分も前のことで、今の私は、職員室に呼び出された鎬さんから預かる形で総太君をおんぶしている。

 幼稚園児とはいえ年長さんにもなるとずっしりとした重みがあり段々と手が痺れてくる。いつもの作業着であれば大した負担では無いけれども、慣れないスカートにカーディガンなんて引っかけている状況では身体が思うように動かせない。

 落ちてしまわないように背を丸めて抱え直していると、心配した先生が総太君に声を掛けてくれた。

「もうええ歳なんやから降りなさい、お姉さん大変や」

 ところが総太君は私の肩を握る指先にギュッと力を込めてしがみ付き、絶対に降りないぞと意思表示する。その様子に気付いた先生はふと苦笑して、甘えん坊やと呟く。

「兄弟でも、お兄ちゃんとは違うもんやね」

「鎬さん……総司さんに?」

 総司さん、と口にするのが何だか妙に照れ臭くて言い直すと、ベテラン風の先生は何かに気付いた風に、私の方を見て小さく頷いてからだった。

「もう十七、八年も前になるんかしらね。私も年食うはずよ」

「総司さんはどんな子だったんですか?」

「大人しくて、賢い子やった。自分から友達の輪に入っていくタイプやなくて、ずっと一人でノートに書きものしとるような子」

 そうして、先生はふと言葉を止めて、私の反応を窺うようにこちらに向いた。

「何を書いてたと思う?」

「さあ……漫画のキャラクターとか、そういうのですか?」

 間違いと知りながら調子を合わせて答えると先生はやはり首を振って、その瞳には子どものような無邪気な悪戯心が透けて見えた。

「馬の名前よ、ひたすら、ノート何冊分も、馬、馬、馬、馬のことばっかり」

「重賞の勝ち馬記録とか、そういうのですか?」

「違う違う、そんなメジャーなのじゃないの。栗東にいる馬の名前、未勝利も条件馬も関係なしに、片っ端から全部書いてあるの。親はこういう馬で、この血統はこうで、この馬自身はこういう性格で、前走のコース取りについて騎手の人はこう話していた……そういう事を延々とまとめてた」

「本職の騎手でもそこまでやってる人いないですよ」

「でも、あの子はやってた。多分、お父さんとか、周りの人がやっているのを見たんでしょうね。私、あんまり気になって、どうしてそんな事をしているのか聞いた事があるの。他の子とボール遊びせんの? って、聞いたの」

「何て答えたんですか?」

 私を覗き込む瞳に応えるように促すと、先生は思い出し笑いを浮かべながらだった。

「馬達が頑張っとるのに僕だけ遊ぶのはいかん、って。五歳の子が、大真面目な顔してそう答えたわ……本当に、馬に乗る為に生まれてきた子なんやろねえ」

 そんな話を聞いていたら、用事を終えたらしい鎬さんが職員室から小走りで戻ってきた。

「すんません、お待たせしました」

 そう言って私の背中から総太君を受け取ろうとすると、総太君は指先に思い切り力を込めて離れようとしない。あまりにも粘るので鎬さんは呆れてしまい、こなきじじいかと小声でツッコミを入れる程だった。

「車まで行くだけだし、このままで良いですよ。眠いんでしょうから」

「それなら、すみませんがお願いします。先生、またね」

「はい、またね。お嬢さんも、またね」

 気さくな風に手を振る先生へ頭を下げてから、隣の駐車場まで並んで歩いた。

 そうして車に乗り込もうとした段で事件が発覚した。

 車に乗せる為にどうにか総太君を引き剥がすと、なんとビックリ、私の背中が涎まみれになっているらしい。総太君が引っ付いている間は体温で気付かなかったけど、引き剥がしてから風が通ると確かに妙にひんやりしたので、余所行き用のカーディガンがべっちょりと濡れているのは間違いなかった。総太君が離れようとしなかったのはこれが理由でもあるのかもしれない。

「バカ野郎、お前何しとんねん!」

 鎬さんが声を荒げると総太君は怯えてしまい、また私の後ろに隠れる。

「いい加減にしろやコラ!」

 怒鳴りながらむんずと総太君をひっつかみ引き剥がそうとするけれど、総太君は先ほどよりも強い力で私の足にしがみついてきたので、引っ張られたスカートがぎゅうぎゅうと妙な音を立てている。下手をしたら服の方が破れそうな勢いだった。

「あの、服、伸びちゃうので」

 私が言うと冷静になってくれたらしい、スッと力が抜けたのが解る。

「本当にすみません……総太も、一回離れろ。これ以上お姉さんのこと困らせたらあかん」

 諭すように言われると、足にしがみついていた力が抜けて、

「ごめんなさい」

かなり気にしているのだろう、今にも泣き出しそうな弱弱しい声だった。

 わざわざ好んで涎まみれにする訳がないのだから不可抗力というやつなのに、そういう子どもに謝られるのは却ってこちらの心が痛む。

「ちゃんと謝れるの、偉いね」

 総太君の頭を撫でてみると堪えていたものが溢れ出たように泣かせてしまい、何か悪い事をした訳ではなくとも居た堪れなくなった。

「ともかくこのままって訳にはいかんから、少し待ってて」

 鎬さんはそう言うと、私達から少し距離を取ってどこかへ電話をかける。

 私は、どうにか泣き止んでくれないだろうかと願いながら、レラを撫でる時のように力加減を工夫したり、撫でる場所を変えてみたりしながら、総太君の頭をよしよしと撫でていた。

「――普通のクリーニングでええんかな? ……いや知らんけど……そんなん却って迷惑やろ……せやけど……まあ、なら本人に聞いてみる」

 ふと、鎬さんが振り返り、ひどく申し訳なさそうな表情で私に尋ねた。

「親が、茂尻さんにお詫びをしたいからウチに連れて来いと言うとるんですが……大丈夫ですか?」

 いえいえ申し訳ないから結構です――と、一度は儀礼的に断ることも忘れて、気付いた時にはコックリと頷いていた。



 立派な門があるけれど特別豪勢な訳ではなく、かと言って吹けば飛ぶようなトタン小屋でももちろん無い、普通の日本家屋だった。不動産屋のふりをした鎬さんが冗談めかして語ることには【トレセンのゲートまで自転車で三分】というのが最大のアピールポイントらしい。

「今でもチャリ通やねん、僕」

 車をガレージに収めながら鎬さんはそんな風に言った。トレセン内での移動を考えれば自転車通勤可能というのは大きなアドバンテージであり、それだけで競馬村的には一等地の物件だ。

「ただいまー」

 鎬さんが玄関を開けるとまず総太君が家の中へと駆けていき、鎬さんは当たり前に続けて入って行くので、私は恐る恐るその後に着いて入った。

 居間に通され、促されるままソファに座っても、落ち着かない。

「緊張しとるの?」

 着替えのジャージを差し出しながら、からかうように鎬さんが言った。

「それはそうですよ、いきなりお邪魔するんですし」

「こっちのお詫びで呼びつけとるんやから、堂々としとってよ」

「そもそも、私友達の家とか行った記憶が無いんですよ」

「嘘やろ、マジか」

「だって隣の家まで五キロくらいあったし、気軽に人の家なんて行けませんよ」

「さすが馬産地」

「北海道舐めてたら死にますよ」

「ちなみに、ウチの斜向かいは邦彦さんの実家やで」

「邦彦さんって、笹山騎手ですか?」

「うん、あの人の家もずっと栗東。最近は関係者でも京都とかに家持ってる人が増えたし、邦彦さんももうこっちおらんけどね……と、せや!」

 鎬さんは不意に思い出したように立ち上がるとドタドタと音を立ててどこかへ走って行った。その間に涎で濡れた上着を脱いで、借りたジャージに着替えておく。

 そうしていると幼稚園服から着替えてきた総太君が戻って来て、私の膝の上で携帯型のゲームを始めた。画面を覗き込むようにしながら、ゲームについてあれこれと尋ねているうちにまたドタドタと音が鳴って、鎬さんが戻ってきた。その手には数冊の古ぼけたアルバムが抱えられている。

「写真ですか?」

 鎬さんは私の隣に座り、総太君を押しのけるようにして、悪戯っぽい笑顔でページをめくると、病院でお母さんに抱えられている赤ちゃんが映っている。

「これは僕が生まれた時」

「はあ」

「んで、これ。僕を馬に乗せてくれとるんが邦彦さん、当時は若手騎手」

「あ、本当だ。若い」

「コッチはトレセンの夏祭りの時かな……ほら、サブさんおるやろ、大越さんの同期の、この前胴上げ一緒にやった」

「あー、あのうるさい人、本当だ」

「そうそう、うるさい人。ホンマ当時からクッソうるさくてさ、あの人も栗東出身……あ、コースケやんコイツ。福原康介って解る? 栗東の騎手で、小中と競馬学校が僕の一つ下で、一緒に通っとったの」

「皆知り合いなんだ」

「こっちは馬に乗せて貰った時の写真で、特にこれなんて一番の宝物。その年のダービー馬なんや」

「嘘、ほんとに?」

「河田先生の所の馬やったんよ。親父が河田厩舎に所属してた関係で、昔から厩舎に遊びに行かせて貰ってたんやけど……九歳の時、特別に乗せてくれた」

「九歳にして既に風格ありますね、騎乗姿勢が素人じゃない」

「小学校入る前から、毎日乗せて貰ってたもん。中学の頃からは調教も乗せて貰ってた」

「お父さんと映ってる写真は無いの?」

 どの写真も関係者の人が一緒に映っていたけれども、家族で映っている写真が一枚も無かったので聞いてみると、鎬さんは大袈裟に肩を竦めてみせながら「騎手やってた頃の親父はほとんど家におらんかったから」と、愚痴ともつかない口調で言う。

「でも、凄いですねこのアルバム。お宝画像ばっかり」

「競馬関係者にこれ見せたら、少なくとも絶対一つは笑いがとれる」

 ニコニコしながら写真を解説してくれる鎬さんは、自慢気だけれどもイヤミには感じなかった。たとえば小さな子供が自分の宝物を見せてあげている時のような、相手を楽しませたいという裏表のない可愛らしさがあった。

 この人は、騎手や、厩舎の人間や、馬主や、競馬記者なんかがひっきりなしに訪れる家で育ったから、そうした大人たちと関わる中で彼らに喜ばれる立ち振る舞いを学んだのだろう。それはきっと小さい頃からの、積み重ねたつもりも無いくらいの、彼にとっては生活そのものだったのだろう。

 そうして彼は、競馬に必要とされる技術の中でもおよそ最上のものを、息をするように、自然と周囲の人間から学んできたのだろう。

 鎬総司という人間がある種の宿命を背負って生まれてきた事に気付かされると、目の前の青年の無邪気さは、同時に途方も無く恐ろしいものに感じられるようになった。

 それは彼が、私やレラにとって打ち勝たなければならない敵として存在しているからなのだろう。

 私たちが倒そうとしている相手は、競馬界に望まれた英雄なのだ。



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