茂尻ちせ【ふらふら②】
お昼寝明けの午後、厩舎へ顔を出すとブルゾンを引っかけて慌てた風に飛び出して来た臼田先生と鉢合わせした。
「どちらに?」
すれ違いざま声を掛けると余程に慌てていたようで、二、三度口をパクパクさせてから「ワタナベ先生が指導にいらしている」と早口になって言う。
臼田先生がこんな風に有難がるのだからきっと将棋の関係なのだろう。
私にはサッパリ解らない趣味だけど、トレセン内の将棋好きは意外なほどに多い。前に大越さんから聞いた話では「騎手が厩舎を回って営業していた頃の名残なのかもしれない」なんてぼんやりした分析を聞かされたけれども、本当の所はわからない。
ともかく、臼田先生は無類の将棋好きで、競馬命な先生が珍しくイレ込んでいる大事なものだから、意地悪く引き留めるのは気が引ける。
「お気を付けて」
短く見送りの言葉をかけると、大層嬉しそうに臼田先生は駆けて行った。
臼田先生が外出する時は私が電話番をする事になる。他の厩務員さんは担当の馬の面倒を見ているけれども、私の場合は呼んでも無いのに大越さんが来るだろうから、レラの世話から手を離せてしまうのが主な理由だ。
そしてやっぱり、今日も大越さんは【カツオ君を野球に誘う中島君】みたいな感じでやって来て、当然の如くレラに鞍を付けて出て行った。行き先は聞いていないけどいつもの事だから誰も気にしない。
寄せられた目撃情報では特に目的も無くトレセンのあちらこちらをぐるぐるふらふらしているらしい。引綱を付けずに散歩していたなんていうのは序の口で、森林馬道で昼寝をしていたなんて噂まである。犬の散歩でもリードくらいは付けるのだから、彼らの場合は本当にただ友達と遊んでいるだけだ。
レラが嫌がれば止めるけど、どうやらレラも大越さんが来るのを当たり前な風に待っているところがある。かなり妙な習慣なのに、レラにとっても【中島君から野球に誘われるカツオ君】と同じくらいに、日常の一コマであるらしい。
私は留守番なのに大越さんは一緒に行く。考えてしまうとやっぱり少しちくちくして、寝藁を敷く手が荒くなった。
馬房での作業を終えてから電話番がてら事務作業をしていると来客があった。
戸越しに聞いた「ごめんください」という声は若い男性のもので、少し関西訛りが滲んでいる。出入りの業者さんには心当たりがなく、栗東の人が訪ねてくるという話も聞いていない。
緊張しながらも出来る限りの笑顔を作って戸を開けると、黒皮のジャケットが視界一杯に入って来た。
競馬関係者には珍しい、見上げるような高い身長。
突然現れた壁に驚きながら、視線を上向きにスライドさせると、
「うひゃッ!」
と、変な声が出た。
「うおッ……や、驚かせたみたいで、すんません」
驚いた私に驚いたらしい、鎬さんは背を折り畳むように勢いよく頭を下げた。
心臓がうるさいくらいにどっくんどっくん鳴って、呼吸が乱れる。
あの、鎬総司さんだ。
一般向けのテレビ番組でも天才騎手として何度も特集されていて。
某有名ファッション誌が企画した結婚したい男性有名人ベスト10に競馬村から唯一ランクインして(しかも人気アイドルとかを抑えて堂々三位)。
競馬場に来る女性を一人で数十万人増やしたとも言われていて(競馬会発表)。
高校で私をいじめていた人達も、普段は競馬をバカにしているのに鎬総司にだけは憧れていた。
つまりは競馬界のスーパースターである鎬総司さんだ。
その鎬総司さんが、目の前にいる。
頭の中身が場外ホームランのような勢いで吹き飛ばされてまっしろけっけになってしまった。心臓が壊れてしまいそうなくらいの鼓動を打ち鳴らし、振動で癇癪玉が打ちあがった時みたいに身体が震える。
「あの……中へ、どうぞ。今お茶を用意しますので」
散らばった思考をかき集めてお客様用の対応を引っ張り出すと、上手く取り繕えたのだろうか、鎬さんはおずおずと顔を上げてお邪魔しますと微笑んだ。
その微笑みがヤバい、眉間にズキューンと興奮剤を打ち込まれたような動悸に襲われてしまうくらいヤバい。要するにめっちゃ格好いい。
またも場外ホームランにされてしまいそうな思考を必死に繋ぎ止めて応接用の椅子に通す。お茶の用意をするだけなのに手が震えてしまい、音が鳴らないようにするので必死だった。
「あ、コーヒーでしたか?」
「いやいや緑茶で。好きなんですわ、ほっこりしますから」
椅子に座った鎬さんは、少し落ち着かない風に辺りをきょろきょろと見渡してから、やがて私を見ると視線を止めた。
そうしてじっと見つめられると、深い意味なんて少しも無い事は解っていても勘違いしてしまいそうになる。頭がフットーしそうなんて表現を何かで見た記憶があるけど今の私は正にそれだ。でもとても幸せだから、本当に沸騰して死んでしまっても良いかも知れない……なんて、思考がまともに働かない。
「カムイの馬主さんですよね?」
「ひゃい!」
上ずってバカみたいに大きな声が出てしまい、余計に恥ずかしくなる。
「普段から厩舎に来てはるんですか?」
「あ、はい。牧場はもう閉めたので、やることがなくて」
「ああ、牧場の話は雑誌で拝見しました」
世間話が始まると意識が会話にいってくれたので、却って手元は落ち着いた。
いつものように入れたお茶を買い置きの少し湿気たおせんべと一緒に出すと、鎬さんはひょうきんな風に手刀を切った。
私の反応を伺うように上目遣いに覗いて来て、自然と頬が綻ぶとそれを見てほっとしたような表情になったから、こういう状況に慣れているらしかった。
ずずず、とおじいちゃんのような音をわざとに立ててお茶を一口啜ってから、「実は、レラカムイを見せてもらいたくて伺ったんです」と簡単に言う。
「連絡も無しに失礼かとも思ったんですけど、近くに用事があったので」
「用事……あ、ローズクイーンですか?」
「そうそう。さっきまで貞廣先生の所で打ち合わせしてました」
今年のオークスを勝ったローズクイーンは鎬さんのお手馬で、四軒隣の貞廣厩舎に所属している。今週末のエリザベス女王杯に関する事だろう。
「で、終わってから臼田先生がご近所だって事をふと思い出して……新馬戦が強烈だったから、出来ればゆっくり見せて頂けないかなって」
そうして鎬さんはおもむろに胴上げの仕草をした。【一緒にやったの覚えてるでしょ?】とその視線が言っている。わざわざそんな風にしてみせる鎬さんがとても可愛らしくて、吹き出してしまった。
「騎手の人たちがあんなにアットホームな感じだと思わなくて、驚きました」
レラのデビュー戦で胴上げした時、検量室からわらわらと湧いて出た一団に鎬さんが控え目に混じっているのを見て、私は迷わず手を挙げた。ぶっちゃけ大越さんを胴上げしてあげたかった訳ではなく、鎬さんに近付きたかったから手を挙げたのだ。
私が手を挙げたら何故か他の馬主さん達も手を挙げたからもみくちゃにされてしまったけれど、胴上げは楽しかったし、もみくちゃにされながら近付いた鎬さんは、レラとは違う、男の人の良いにおいがして、とても幸せな気持ちになれた。大越さんも少しは役に立ってくれると、正直思った。
「いつもはあそこまでじゃないですよ。あの時は特別、大越さんの復帰ですし」
「大越さんが? そんなにして貰える人なんですか?」
御世辞か冗談か、どちらにしても本気では無いだろうと笑って流したら、鎬さんが大きな咳払いをした。
「誰だって意識しますよ、天才が帰ってきたんだ」
「大越さん、そんなに巧いんですか?」
真剣な表情で語る鎬さんに食い気味に問い返す。
鎬さんという超一流騎手が大越さんみたいな騎手を褒めるとは夢にも思っていなかった。こんな感想を大越さんに知られたら怒るだろうけど、実際夢にも思っていなかったのだから仕方ない。
あの、調教助手なのか騎手なのか良く解らないような生活をして日がな一日レラと遊んでいるだけのおじさんが、鎬総司に褒められているのだ。
鎬さんは仕切り直すように湯飲みに口を付けてから、小さく首を振った。
「巧いって表現とは、違うと思う」
あまりにも真剣に言葉を探していたから、やっぱり下手なんだ、なんて笑い出せる雰囲気ではなかった。何か複雑な存在を説明する時の、言葉を探す為の沈黙だった。
小さく首を傾げた姿勢で、言葉を探しながら、鎬さんの説明は続く。
「たとえば、後方からの競馬をしていて、内と外の二つのコースがある。内の方はギリギリの隙間で、そこに入れたとしても前を捌けるかは解らない。外の方はロスがあるけど、馬混みの危険は避けられる……とする」
ふと私の目を見るから、ドキリとした。
何となく頷いて返すと、鎬さんも安心したように小さく頷いた。
「そういう時騎手は絶対に迷う。どれだけ訓練しても、レース展開を想定しても、一瞬の空白は出来てしまう、はずだ」
「大越さんは迷わない?」
その問いに鎬さんはうーんと大きく唸るようにしてから、二度深く頷いた。
「そうだけど、そんな簡単に言えた事でも無くて……つまり、競馬をしているとそれこそ死ぬ事もあるわけだから、その迷いもある意味必要なリスク管理に繋がっている……と思うんだけど」
気軽に解ったふりを出来る雰囲気では無く、黙って聞く他に私に出来ることは無い。けれども、バラエティ番組のインタビューで見せる笑顔とは違う真剣な表情の鎬さんを眺めていると、身体がポカポカ温まってくる。
「例えばF1のレーサーなんかも似たような事をしているのかも知れないけど、こっちはイキモノだから、自分の意志通りに動くか解らないでしょう。そんなだから尚更、命が懸かった場面で迷わないのは、自分の命を馬にくれてやる位の……そういうの、覚悟って言うんかな。
巧いとか、下手とか、そういう次元とは違う、オカルトみたいな話」
正直、話の内容はまるで解っていない。けれどもそれを話す鎬さんはとても素敵で、ぎゅっとされたくなるような感じだ。
「実際、技術的な事とは違う次元で、大越さんが乗ったら走らんかったはずの馬が走りよるんですよ。もしかしたら大越さんの覚悟が馬に伝わってるのかも知れんって思うくらい、馬が豹変するんです。
リーディングを獲れるとか、能力が高いとか、そういう話とは全然違いますけど、気持ちで馬を走らせるなんてマトモな技術論じゃ語れませんもん。天才としか言いようがないんです」
ぼんやりと眺めていたら、視線がバチッとぶつかった。どうやら話に区切りがついてしまったようで、どうせならもう少し眺めていたかったのだけれども仕方がない。
「大越さん、凄い人だったんですね」
適当に、話の流れに合う言葉を返すと、鎬さんはほっとしたように微笑む。
本当は大越さんの話にそれほど興味がある訳では無かったから上辺の言葉を返す事に心が痛んだけれど、それよりもほっとした表情が素敵だった。
レラと大越さんが散歩に出ている事を伝えると鎬さんは大爆笑だった。ひとしきり笑い終えると、今日は急ぎの要件も無いらしく事務室で待たせて貰っても良いかと言う。
私は勿論頷いて、折角だからと色々なお話をした。
今までで一番嬉しかったレースについて。
――三年前の桜花賞。自身の初G1タイトルを史上最年少クラシック制覇として達成したこと。
学校には行かないの? と鎬さんに聞かれた。
――高校に通っていたけれども周りと合わなくて辞めてしまったのだと私は答えた。私が虐められた理由の一部は鎬さんにもある事を冗談めかして話したら、ジョシは怖いなあ、と一緒に笑ってくれた。
デビュー戦はどんな感じだったか。
――四年前の阪神競馬場第1回3日目土曜日第三レース三歳未勝利・ダートの一八〇〇。二番人気の馬に乗って二着だったけれども悔しい思い出のようで、やり直したいレースだと何度もぼやいていた。
当歳の頃のエトやレラがどんな子供だったのかと、鎬さんに聞かれた。
――二頭ともとても優しい子だったけれども、エトの方が腕白だったと私は答えた。エトの名前は生まれる直前にエトゥピリカが飛んできたから、レラの名前はとても気持ち良い風が吹いた日に生まれたから、二頭ともお祖父ちゃんが名付けた事を一緒に伝えた。
どうして騎手になろうと思ったのか。
――他の仕事に就くことを考えたことが無いから解らないと鎬さんは答えた。そっちだって牧場以外で働くなんて考えてなかったでしょ? と聞き返されて、私も納得した。
映画を見たりゲームをしたりはしないのかと、鎬さんに聞かれた。
――映画は、言われてみれば映画館に行った事は無いし小さい頃にテレビでトトロを見た記憶くらいしかない。ゲームもあまりやった事は無い。私が正直に答えると、鎬さんはそら勿体ないわと言った。
「映画館なんて行く暇無かったし、テレビでやるのは夜遅くて寝ちゃうもん」
「うーん、まあ、確かに」
「九時以降のテレビは見ないから、バラエティはともかくドラマはさっぱり」
「ならゲームとかは?」
「ゲームは、単純にやった事無い。やったら面白いのかな」
「俺は好きだよ」
「どんなのやるんですか?」
「スマホのとか、あとはジョッキーになってダービー目指すゲームとか」
「そんなゲームあるんだ」
「あるある、結構良く出来てる」
「鎬さんがやっても楽しいんですか?」
「コントローラーの言う通りに動いてくれるから、現実逃避にはなる」
ちっとも楽しそうに聞こえないので私は笑った。
「最新作が今年の八月に出てさ、去年までの登録馬が再現されてるんだよね」
「へえ、じゃあローズクイーンとか、レイカウントとかも」
本当にゲームが好きなのだろう、私が話に乗っかると、鎬さんは嬉しそうに大きな動作で首を縦に振った。そうして、じっと私の瞳を見つめるようにしたので、不意に冷静にさせられる。
冷静になると、顔が燃えそうになる。めちゃくちゃ格好いい男の人とこんな風にお話している状況に、ひどく舞い上がってしまう。
「エトゥピリカもいるよ、ダービーも勝った」
真剣な瞳だった。私は、話の内容がゲームのことである事なんかもうどこかに飛んで行ってしまって、ただただその瞳に吸い込まれてしまっていた。
「ゲームでは、鎬さんが乗ってるんだ」
鎬さんは首を横に振る。
「レイカウントで勝った、ゲームでは勝てたよ」
浮かれていた頭をガツンと思い切り殴れたみたいな、そんな気持ちになった。たかだかゲームの話だと解っていても、鎬さんの言葉が何故だかとても冷たく聞こえる。
「ひどいなあ。どうして乗ってくれなかったんです?」
「たかがゲームなんだけどさ、なんかこう、気持ち的にね」
「ゲームくらい良いじゃないですか」
「うーん、まあそうなんだけどさ」
しつこくなってしまったと後悔しても後の祭りだ。鎬さんは困った風に苦笑して、心地よく繋がっていた会話がぎこちなくなってしまった。
失敗したなあと悔やみながら、時間はぼんやりと過ぎて行く。