第五話-Part3 【見えざる手③】
第五話-Part3 【見えざる手③】
――翌日。今日も体育がある。バスケかプールか、気持ちの上では両方に備えなくちゃならないから連日続くと少し疲れるなぁ、なんていうのは贅沢な悩みかもしれない。
「月ちゃん一緒に行こっ」
パッと着替え終えた(脱ぎ終えた)叶が声をかけてきた。叶の隣に並んでいた鮎川さんが「やっほー」と手を振る。
「うん。ちょっと待って」
「あ、それゴーグル? もう用意したんだ」
「昨日叶に言われたからね。駅前行ってきた」
そっかーと柔らかく笑う唯屋敷さんはいつも通り明るい。
「『叶』だって。いつのまにやらすっかり仲良くなっちゃって……お姉さん寂しい」
鮎川さんが「よよよ」とわざとらしくしなを作る。
「何言ってんの。あ、さっちゃんも呼んできていい?」
「うん、もちろん」
笑顔で大鶴さんのところへ駆けていく唯屋敷さんの背中を見送ると鮎川さんの顔が僅かに曇る。
「……鮎川さん?」
「うん? 何?」
窺うように声をかけるとぱっと花が開いたようにその顔は明るさを取り戻した。
「いや、なんか浮かない顔してたから」
「そんなことないよ♪ ってか叶は名前なのにあたしだけ『鮎川さん』って他人行儀じゃない?」
「それは……まぁ、そうかも」
「美樹でいいって。あ、『ミキ☆(キラッ)』って可愛く呼んでくれてもいいよ」
顔の前で手を横にしてピースを作る。ぱちりとウインクされた瞳からは本当に星が出そうだった。
「『美樹』でお願いします……」
鮎川さんがあははと屈託なく笑うと、横で止められた髪がフリフリと揺れた。少し強めに茶色がかった髪の色は地毛らしく、ヘアピンで頭の形に沿うように留められた前髪はその根元まで同じ色をしていた。
いたずらっぽいつり目がゆるやかに弧を描く。すっと通った鼻梁にぷるんと肉厚な薄紅色の唇。グロスで艶やかに光る口元からは、獲物を仕留めるやけに尖った犬歯がちらり覗いていた。
こうして近くで見ると鮎川さんの顔立ちはとても可愛らしく愛嬌がある。美人の周りには美人が集まる定めなのだろうか。
「おまたせー——って二人共なんだか楽しそうだね」
「そりゃ楽しいよ。鯉登さんかわいいからね」
くふっと口元に手を当てながら笑みを忍ばせる様になんとなくレヒトの姿が重なった。
(別に似てるわけじゃないんだけどな)
艶やかな髪の上でぴこぴこと愛くるしく動く三角耳と、レヒトの大ぶりなウサギ耳はその存在感からして異なる。授業を受けている時など、ふとした際に見せる真剣な面もち叶は"美人"と形容することを憚らないけれど、同じく"美人"と形容されるレヒトとはやっぱり雰囲気が違う。
そういえば結局あれから一度もレヒトの所へ行けていない。一ヶ月も経つと、神の使いを名乗るレヒトとの邂逅は夢だったのではないかとさえ思うが、目の前で揺れるケモ耳としっぽ達が妙な現実感を突きつけていた。
大鶴さんを交え、四人でどうでもいいようなことを笑いながらプールへ向かう。初夏が過ぎ、本格的な夏の前にわずかに訪れる暖かくて柔らかい陽射し。眩しすぎるくらいのそれを手で遮ると遠くの空には灰色の雲が広がり始めていた。
◇
「うーん、なんて勿体ないことを……」
人けの無い静まり返った校舎をペタリペタリと歩く。上履きを濡らすのがいやだったので裸足のままだ。変なの踏みませんように。
あらゆる意味で悲鳴を上げたくなる消毒と冷水シャワーを終え、いざプールに入ろうとしたところでゴーグルを落としてしまった。落とすだけなら良かったんだけどそのまま軽く踏みつけてしまい、コンクリートと我が足に挟まれたゴーグルはピキッとささやかな悲鳴を上げてグラス部分が割れてしまった。
小さなヒビ程度だけれど部分が部分だけにそのまま使うのは怖い。幸い付け替えできるものなので教室にある替えグラスを取りに戻ることにしたのだ。
出すのがめんどくさかったためにパッケージのままバッグに突っ込んでおくというものぐさっぷりが功を奏するとは。
外に出ると再び消毒槽と冷水シャワーをくぐらなければならないので叶や美樹達は「それならゴーグルなんて要らない」と口を揃えたが、ゴーグルで視界をぼやかせないと色々保てないので取りに戻らないという選択肢は無かった。
「でもこれ、なんかちょっと変な恥ずかしさがあるかも」
肩からふとももまでタオルで隠れているとはいえその下は何も着ていない。おまけに裸足なのでなんだかいけないことをしているような気分にさえなる。足の裏からひやりと込み上げるタイルの感触も、廊下と肌が直接触れているという背徳心を加速させる要因の一つだった。
しかし実際は裸で校舎を闊歩していたところで、夏とはいえ寒くないか、とか、一応(世間一般の)決まりなんだから服着ろよ、程度にしか扱われない。事実一糸まとわずプールへ直行する猛者もいなくはない。
その感覚、概念は動物の毛皮のそれに近い。体毛が短いから服を着る。夏は汗を吸わせたり陽射しから肌を守るために服を着る。なので、学園にスクール水着は存在しないが恋人を魅せるためのお洒落ビキニや競泳選手専用の高速水着は存在するし、ダイビングスーツや渓流釣りのためのウェットスーツやドライスーツだってある。
「今日はずいぶんと可愛らしいね」
教室の前まで戻ろうかというところで犬養君に出くわした。ちょうど教室の方から来たようだ。
「そうかな? いつもと同じつもりだったけれど」
全然毛ほども嬉しくないが、気持ち悪くもない。男子から『可愛い』なんて言われたら鳥肌ものだろうと思っていたけれど、実際言われてみるとそうでもない。
心と体がバラバラとはいえ身体は女だからだろうか。
「犬養君も忘れもの?」
ドアを引く音はしなかったと思ったので、これから取りに戻るところだったのかもしれない。
「いや、海老名先生に教材の運搬を手伝わされていてね。今戻るところだったんだよ。」
「海老名先生に? 体育なのに?」
2-Cの担任でもある海老名先生は数学教師だ。
「僕は体育には出ないからね。これから戻るのも図書室だよ」
「そうなんだ」
たしかに犬養君は学園指定のジャージではなく制服のままだ。
「じゃあ私は忘れ物取ったら戻るから――」
「今日の放課後空いてるかな?」
「今日?」
横切ろうとした足を止める。
「うん、まぁ空いてる、けど?」
気だるさの抜けない週の前半。たまに羽を伸ばすも悪くないかもしれない。本当は部活のことをレヒトに相談しに行こうと思っていたけど、まぁ〆切りなんてあってないようなものだし。
「良かった。それじゃあ駅前のFellowsで待ち合わせでいいかな」
「駅前? 学園じゃないの?」
Fellowsは花咲市に数店舗構えるコーヒーショップのチェーン店だ。
「ちょっとね。それじゃまた後で」
「あ」
そう言うと犬養君はそのまま階段を上がっていった。三階の図書室に戻るのだろうか。
「まぁいいか」
あまり散財し過ぎるのもあの人に申し訳ないのでほどほどに散財することにしよう。
そんな懐事情を考えながら教室のドアに手をかけると、反対側の前の方にあるドアががらりと開いた。
「え……」
制服のままの女子が数人連れだって教室から出てくる。何やら笑っていたが、こちらに気付くとわずかに顔をしかめて廊下の奥へ消えた。
「なんだったんだ?」
いずれも見たことのない顔だった。正確にはどこかで見たような気はするけど……。
お互いに覚えるような間柄ではないということだろう。気を取り直して席へ戻り、ゴーグルが入っていた箱をバッグから取り出した。
「どうやって替えるんだ? これ……」
買った時は気にも留めていなかった説明書代わりのパッケージ裏は英語で記載されていた。
◇
結局半分ほどの時間になったプールを終え、サボりの対価として手伝わされた片づけを終わらせると、教室に戻ったのは一番最後になった。
ほとんどが制服に戻っている中、なるべく自然体を装って着替える。
しかし、そんなことは誰も気にしていないようで、皆の視線はある一点に注がれていた。
「叶……?」
注がれる視線の先には叶と鮎川――美樹、それに数人の女子が大鶴さんの席の周りに集まっていた。当の大鶴さんは俯いたまま動かない。
話を聞いてみたい気もするけど、野次馬根性みたいに思われても嫌だしな。
躊躇っている内に次の授業を告げるチャイムが鳴り、ばらばらと人が散っていく。叶や美樹も当然それに従い、動かないのは席に座って俯いたままの大鶴さんだけだった。
「何かあったの?」
席に戻ってきた叶にそっと声をかけるが、その大きな瞳に浮かんでいた感情に心臓が鷲掴みにされたように冷たく脈を打った。
「なんでも……なくはないんだけど……」
絞り出された声にも滲むその感情は『怒り』だ。
「…………こんなことならちゃんと私が言うべきだった……」
「叶……?」
「……そうだっ! 月ちゃん確かさっき教室戻ったよね? その時に――」
ガラリ――無遠慮な音を立てて教室のドア開くとついで教師が入ってくる。
――昼休みに。
そう言って叶は前を向いた。
◇
それから大鶴さんの後ろには下卑た笑みを貼り付けながら付いて回る男子生徒が現れるようになった。
放課後となった今も大鶴さんの席の前でわざとらしく座ってたむろしている生徒もいる。見慣れない顔もいるので他のクラスの男子も来ているようだ。
――下着泥棒。
叶はそう言っていた。プールから戻ると大鶴さんの席から下着がなくなっていた。ジャージに着替えることも進められていたけれど、目立つことを嫌った大鶴さんはいつもと変わらない制服のままで過ごしている。
「さっちゃん、一緒に帰ろ」
叶が大鶴さんの肩を軽く叩いて笑顔でそう告げた。同時に席の前でたむろしていた男子達が顔をこわばらせて散っていく。
背になっていて見えないが叶に睨まれたのだろう。端整な顔立ちの美人に睨まれると男としては結構怖かったりする。
分かるわー、と一人遠くで頷いていると大鶴さんが叶の申し出を断ったようだ。
用事があるからと散って行った男子達を追い掛けるように教室から出て行ってしまう。
「なんで!?」
思わず一人で突っ込んでしまった。てっきり心細さや恥ずかしさから固まっていると思っていたのに。
叶は追い掛けようとするが、美樹達に止められている。そういえば女子も真剣に寄り添っているのは叶だけだ。美樹や叶と特に親しい何人かの女子も遠巻きに見つめているだけ。彼女らがとても優しく、友達やクラスメートをないがしろにするような人達じゃないことは転入してきたばかりの自分が一番良く知っている。
「大鶴さ――」
「鯉登さん」
呼び止めようと思わず立ちあがろうとしたしたところで机の前に立ちはだかった影にそれは阻まれた。
「犬養君……」
「話があった友達がバイトで呼び出されたみたいでさ。時間が空いたみたいなんだ」
待ち合わせじゃなくて一緒に向かおうよ。犬養君は事もなげに告げてくる。その肩ごしに入り口の方を見やるが、大鶴さんは見当たらなかった。
叶の姿も無くなっていた。追い掛けたのだろうか。
「う、うん。でもちょっと今は」
「大鶴さんことだろう? それなら尚更僕についてくるのが良いと思うけど」
あまりに涼しげに放たれた言葉に思わず目を見開いた。
「何か知ってるの?」
「まあ、ね。たぶんだけど唯屋敷さんよりも知ってるかも」
「……」
「場所変えようか。とりあえずFellows辺りで。先に昇降口に行ってるよ」
犬養君が教室から出ていくと美樹が小走り気味に寄って来た。
「なになに? 犬養と遊びにいくわけ?」
「遊ぶというか、なんか話したいって。何かしたの?」
純粋な疑問に首を捻っていると、美樹はうーんと眉間にしわを寄せた。薄茶色と白の混じったしっぽがちょいちょいと宙に弧を描く。
「いや犬養ってさなーに考えてるか分からないというか、誰かといるのあんまり見たことないし。ぶっちゃけあたしらもよく知らないからさ。さっちんのこともあってちょっと心配というか」
美樹は大鶴さんのことをそう呼んでいる。さっちゃんと大して変わらないが美樹本人はこだわりを持っているらしい。
「駅前行くだけだし大丈夫だとは思うけど」
「うーん。ならいいんだけど……。そうだ、あたし家が駅前に近いから何かあったら連絡して」
叶も拾って駆けつけるからとその白い歯が零れた。
◇
Fellowsコーヒーは元々はドイツで人気を博したコーヒーショップだ。フランスのカフェオレ、イタリアのエスプレッソとカプチーノ、トルコのウインナーコーヒーのように、ドイツ決まったコーヒー文化を持たないがその分色々な国からそのコーヒー文化を取り入れ、様々な飲み方を楽しんでいる。そんな雑多性が同じく雑多な文化を持つ日本人の嗜好をくすぐったのか、時間帯によっては席を取ることも難しいほど人気がある。しかも何の因果か血迷ったのか、お世辞にも都会とはいえない花咲駅前に国外フランチャイズ1号店を出店している。
ほどほどに混み合う店内はコーヒー豆の香りがふらふらと漂っている。全席禁煙のため学生には嬉しい反面、あの人(母)のようなヘビースモーカーには差別だと舌打ちされている。
「いつもここなんだ」
そう言って犬養君が確保した席は2階の窓に面したカウンター席。張りだした柱の影になっているため、端に並んで座れば周囲からはちょっとした死角になる。
「私もよく来てたけど気付かなかった」
「隣が一人用小さいテーブル席だからね。誰も好んでは座らないね」
そう。何故か隣に置かれているテーブル席はクッション付きのイスではなく、背もたれもない丸イスが置かれているだけだ。他が埋まってでもない限りお尻が痛くなるので座ろうとは思わない。
まさかその奥にさらにカウンター席があるなんて。
「満席になることはほとんどない。けれど、空席が目立つほど空いているわけでもないからお店も気にしない。この程良い人気のおかげかもね」
目を細めて無防備に顔を綻ばせる様はまるで子供のようで、学園で受ける印象とは大分違うなと思う。
男子にしては長い頭髪の上にはまるっこい耳がぺたんと被さっている。クマの耳が倒れたようなそれは何の動物か分からない。
「そういえば犬養君ってしっぽ見えないね」
腰の辺りを見やるが制服のスラックスからは何も生えていない。
「ああ、そこを気にするとは。やっぱり鯉登さんだね」
はは、と涼しく笑われ、なんだか変なことを聞いてしまったのかと顔が熱くなった。
「え、いや、なんかちょっと気になっただけで。なんか変だった?」
「いや、何も。ただまぁ答えるのはやめておこうかな。今度唯屋敷さんにでも聞いてみると面白いんじゃないかな」
「う、その反応だと本当になんか変なこと聞いた気になってくる。……」
叶の名前が出るとそもそもの用件を思い出す。こんな呑気にお茶してる場合じゃなかった。
「そういえば大鶴さんのこと何か知っているみたいだったけど」
見知らぬ女子達が教室から出ていく前に犬養君が現れた。あのタイミングで遊びに誘うような話を振ったのは時間稼ぎをしていたと考えられなくもない。
『いや犬養ってさなーに考えてるか分からないというか、誰かといるのあんまり見たことないし。ぶっちゃけあたしらもよく知らないからさ。さっちんのこともあるってちょっと心配というか』
美樹の言葉が脳裏をかすめる。
「ああ、それは――」
ぐっと軽く身構えると犬養君は窓の外に視線を流した。店の前に流れる人波を目で追っている。
「ちょうどいい。ほら、あれ」
「? ――あれって……大鶴さん?」
一体何なのかと指された方を見る人波の中に学園の制服を着た集団がいた。ざっと見て5、6人。制服姿の集団が歩いている。私服の男と話をしている男子もいるからその周りを含めると結構な数になる。その全てが男で女子の制服姿の大鶴さんはひどく目立つ。大鶴さんは誰とも会話せず俯きがちに歩いている。
「どうして大鶴さんがっ」
「ここにいると結構見るんだ、彼女」
「え」
釘付けになっていた視線が店内へ戻る。
「今日は数が多い方だけど、大体は男達といる。どこに向かっているかも大体分かる。この時間だとこの先のゲームセンターだろうね」
別に大鶴さんがどんな友達を作ろうと自由だ。異性の友達だっていてもおかしくはない。
「……でもあれは」
とても健全な集団には見えなかった。
人を見かけで判断するなとは言うが、10人いたら10人が関わりたくないと思うような風体だった。
「唯屋敷さんはたぶん大鶴さんの普段を知らない、と思う。鮎川さんは知っているはずだけどね。僕がここから見ているだけだったけど、鮎川さんはあの中から大鶴さんを助けようとしていたから。でもそれは叶わなかった。あの取り巻きがそうさせなかったというより、大鶴さんが鮎川さんを拒絶したように僕には見えたよ」
「嘘……」
言葉も出ないとはこのことか。
「ここは街の様子がよく見える」
「……どこに行ったの?」
「うん?」
「大鶴さんはどこに行ったの?」
「まぁ気になるよね。でも助けようとかそういうのはやめた方がいいと思うよ。これは鯉登さんが気に病むことじゃない、仕方ないことなんだ。僕が言いたかったことはそれだけ」
気にならないといえば嘘になる。でも助けようとか、あんな人づきあい止めさせなくちゃとかそんな義憤に駆られてるつもりもない。
『…………こんなことならちゃんと私が言うべきだった……』
強いて理由を挙げるなら「叶」か。
怒りを堪え、苦々しく吐露された感情。あんな叶――唯屋敷さんは初めて見た。
唯屋敷さんを「叶」と慕う自分も、唯屋敷さんの優しさに救われた俺も、あの人のあんな顔は見たくない。
(なんか初めて一体になった気がする)
(やめてよ。なんか気持ち悪いよソレ)
「鯉登さん?」
「犬養君、ちょっとお願いがあるんだけど――」
第五話-Part4へ続く、