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パスカルの賭け  作者: 那須野里見
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第三話 【神使世界】

第三話 【神使世界】



まずいことになった。史上最大のピンチと言える。かつてこれほどの危機に瀕したことがあっただろうか、いやない(反語)。


「そういや次体育だっけか、久しぶりじゃね?」

「B組は今年プール無いらしいね。でもって男子はバスケだってさ、外コート集合だって」

「はぁ!? マジかよ。贔屓だろ……」

「はいはいおつかれー」


週始めの月曜日、教室の空気は朝からどことなく浮ついていた。

机にかじりついて勉強するより、体を動かす方が楽しいのはどこの学生も変わらない。

また最近の花咲市の気候も関係していたりする。

蟹江学園のある花咲市は二つの山脈に囲まれた盆地で、冬は豪雪地帯でありながら夏はニュースになるほど気温が高くなる。

梅雨に入った六月、例年より気温の高い日が続いている花咲市の上空は今日も朝から灰色の雲に覆われていた。すっきりしない梅雨空にならうように、教室はジメジメと肌にまとわりつくような不快な湿気に満ちていた。


普通科目以外、特定の授業が持ちまわり制の蟹江学園は、音楽や美術などの芸術、あるいは情報、体育といった授業が時期によっては1か月半~2か月ほど無かったりする。

本格的な夏の到来を前に学園はプール開きを迎え、サイクルの変わり目で体育のコマを得た我が2-C組はめでたくその初陣を飾ることとなった。


しかし体育の内容がプールと聞いて少し喜んだのもつかの間、頭の中では「指定水着の説明なんて受けてたかな」なんて疑問が広がっていた。


「泳ぐのはいいんだけど、髪パサパサになるのが嫌だよね」

「わかる。しかも乾かす時間もくれないし。尻尾パサつくとうがーってなる」

「あたし今日パスだわー」

「マジ?」

「肌荒れるし。今月お小遣いピンチなの」

「乳液高いよねー」


等々、思い思いに口をついて出る小話が尽きないのはやはりみんな少し浮かれているからだろうか。

なんとなく流れに乗れなくてまごまごしていると、周囲の女子達がぽんぽんと制服を脱ぎ始めた。

ファスナーを下ろす音、ブラウスを脱ぐ衣擦れの音、脱いだ制服をたたむ音。様々な音の饗宴に香水やら化粧水やらハンドクリームといった人工的な香りが加わり、女子達の濃密な匂いが徐々に混じっていく。どうしてか石鹸やシャンプーのようにフローラルで清潔な香りが広がり、埃っぽかった教室は途端に華やいでいく。


まぁここまでは分かる。想定の範囲内というか、体育と聞いては覚悟の上だった。

どうしたって心臓は高鳴る。けれど『日頃の訓練』の賜物か、出来るだけ意識しないよう、目に入れないよう背を向けることは思いのほか簡単なことだった。


「ったく女子は文句ばっかだなー、こっちはこのクソ暑い中走り回らされるってのに」


(――!!?)


「汗だくで近寄んないでよ? 暑苦しいんだから」

「誰が。おい行こうぜ」

「うっわなんかムカつく」


(――!?!?!?)


ブラウスを脱いで惜しみなく白い肌を晒しながら、鮎川さんが悪態をついていた男子に軽口を叩く。『男子』に。

他の男子達も手早くジャージに着替えると次々に教室を後にしていく。

『年頃の男子と女子が一緒に着替えている』という異様な空間を異様と認識している人は誰一人いない。誰もがいつも通りで、例えば露骨に女子の着替えを目で追ったり、意味もなく騒ぎたてたり、気にしない素振りをしつつもちょっと横目で追ってどぎまぎしているような人もいない。

我慢しているとか隠しているとかあるいはホモ()とかそういった次元を超越しているというか。


強いて言うなら――『無垢』


互いの性について知らない、あるいは意識しない小学生ならこうなるかもしれない。

しかしながら当然歳相応の知性は皆身についているので、奇声を上げたり無闇矢鱈に走り回ることもない。


「いややっぱりおかしいでしょ……」

「鯉登さん着替えないの? 時間なくなっちゃうよ」

「へ?」


もう何がなにやらと頭を抱えていると唯屋敷さんが怪訝そうにこちらを窺っていた。

くりくりと大きな瞳はやや蒼みがかっていて、その端正な顔立ちにとてもよく映えている。綺麗だなーなんて思いながらふさふさの白毛を纏った三角耳を目で追う。恐らく無意識なのだろうが、時折ピクッと小さく跳ねる様は見ていて愛らしい。

唯屋敷さんも着替えの途中だったらしく、スカートははいているがブラウスは身につけていなかった。

返事に詰まっていると「どうしたの?」と唯屋敷さんは小首を傾げた。その拍子に下着に包まれた豊かな双丘がふるんと揺れる。淡いピンクだった(何がとは言わない)。


「あ、えーと……体育の説明聞いてなかったかもって思って。それで誰に聞いたもんかと。ほら、みんななんかもう着替えてるし声かけづらいというか」

「うわ、そうだったんだ。海老名先生ゆるいからなぁ。たぶん忘れてるね、それ」


あはは、と屈託なく弾ける笑顔が眩しい。


「やっぱりですか」


どれだけ記憶を掘り返しても分からないはずだった。


「まぁ本当は、体育委員である美樹が先週のホームルームで周知すべきだったんだけど――」


『美樹』とは鮎川さんのことだ。

唯屋敷さんは鮎川さんの方をちらりと見やると、困ったような何か諦めているような微妙な苦笑いを浮かべた。


「うちの学校って、委員会の活動とか何故か疎かになっちゃうんだよね。美樹がどうこうっていうより、先生含めて誰も深く気にしないというか。なーんかそういうの適当になっちゃうんだよね。困ったら、困った時に考える、みたいな」

「な、なるほど……おおらかというか大雑把というか……」


しかしそれでいて学園に必要なモラルが乱れているかというと勿論そうではない。それはここ一ヶ月過ごしただけでも分かる。当たり前の、ごく普通の学園として機能している。

唯屋敷さんもサボりたいとか、ただ単に楽をしたいとかそういうよこしまな理由でこうなっているわけではないと言う。


「でも私も気付いてあげるべきだった。ごめんね」


唯屋敷さんは謝ってくるが意図的に教えてもらえなかったわけじゃないことは理解している。唯屋敷さんは器量が良いだけでなくその性格もあって友達も多いが、何も自分だって唯屋敷さんとしか話せていないわけじゃない。


何かあればクラスの誰かが教えてくれる『だろう』――

転入生にはきっと誰かが教えている『だろう』――


そんな油断が重なって今に至るわけだ。


「いや気にしないで、聞かなかった自分も悪いんだし」


まぁ最初だし、見学者もそれなりにいるみたいだから変に目立つことはない。と思う。


「うーん……でもやっぱりごめんね」

「うん。――あとさ、ついでにもう一つ聞きたいんだけど……」


さっきから心臓は吐きだしそうなほどバクバクとうるさい。


「なに?」

「更衣室って工事中か何か?」

「え? いやそんなものないけど?」


そう答えながら事もなげにブラジャーのフロントホックを外した。


「わーーー! まだ男子いるから男子が!」

「わっ」


もうなりふりなんて構っていられない。『なんとしても思いとどまらせないと』と良心だけを精一杯振り絞って唯屋敷さんを止めようとその手を掴もうと腕を伸ばす。

瞬間、ふにゅっとした柔らかい感触が手のひらからどうしようもないほど込み上げてきた。

慣れないブラジャーの生地の感触と、何とも言えない柔らかなぬくもり。すべすべの肌は洗いたてのシーツを百倍柔らかくしたよう。思わず「あ、柔らかい……」と破顔しそうになるのを寸でのところでこらえきった。


邪念を振り切り、教室内へ視線を向ける。

男子はそのほとんどが着替え終えて出て行っていたが、それでもまだ数人が休み時間の雑談に沸いていた。

しかし、クラスの人気者であり、当然男子からも良い声しか聞かない唯屋敷さんが胸をはだけるその瞬間を迎えても、彼らは毛ほども興味を示さない。たまたま彼らがむっつり(失礼)とかそういう次元じゃないほど日常そのものの空気に満ちていた。


「……あれ? なんで?」

「もー。ほら、月ちゃんも早く。脱ぐだけっていってもプールまでいかなきゃならないんだから、そろそろいかないと」

「いや今日は見学だけって――は? 脱ぐだけ?」


そう。これも疑問の一つであった。誰も水着を手にしていない。

大体、いくら女子同士だけだったとしてもいきなりスカートは外さない。いや中にはいるのかもしれないけど間違いなく少数派だろう。


「よーし、あたしいっちばーん」


高らかに宣言して鮎川さんが駆けていく。


「ちょっと美樹、廊下走らない!」


何人かがその後を追って出ていく。みんなバスタオルを巻いていたが、隙間から見えたその下は確かに全て肌色だったように見えた。


「あ、もしかしてタオル持ってきてない?」

「へ? あ、それは、うん。何も聞いてなかったから」


タオルだけじゃなく水着も何もかも一切ないですが。


「じゃあ――はい、貸してあげる。2枚あるから遠慮しないで大丈夫だよ」


そういってバッグから長いタオルを取りだした。白いタオル生地に小ぶりの向日葵の刺繍があしらってあるそれは快活な唯屋敷さんらしい明るく、可愛らしいものだった。


「あ、ありがとう?」


正直タオルだけあってもと思いながらも、差し出されたものは断りづらいのでなんとなく手を伸ばした。


「暑いからねー。曇ってるっていっても日焼けには注意しないとね」


日焼けよりもっと気にするべきことがある気がするんですがそれは……。


「ほら早くっ。急がないと私が脱がしちゃうからっ、えいっ」

「にゃんとぉ!!!」


半ば強引に下ろされたスカートが足元で絡まり、転びそうになるのを机に手をついてこらえる。空気に直接触れたお尻の辺りが涼しい。


「あ、あぶないでしょ!?」

「――黒か。意外と大胆……しかも結構きわどい――」


抗議の意を込めて視線を投げるものの全く意に介さない唯屋敷さんは、ふむ、と顎に手を当てて何事か考える。

腕を組んでくれたおかげで頂点の桜色は隠れてくれたが、ぎゅっと押しつぶされるように寄せられたソレは、最早暴力的とも言える存在感を放っている。


「あの……唯屋敷、さん? 目がとても怖いんですが」

「もうっ、叶でいいってば。というより、いい加減『叶』って呼ばないと許さないよ! それ!」


抗議を一蹴した唯屋敷さんの手が腰へ伸び、その細い指がむき出しになった下着にかけられる。


「ちょっ! ちょ、ちょ、ちょっとっ!??」

「いいじゃない、おっぱい触ったでしょ? おあいこだよ。それにどうせ脱ぐん、だからっ」


慌てて止めようと手を伸ばすが、唯屋敷さんの手は一足早く下に降ろされた。


「ご無体な~!!!」


ぺいっ、と下着が放り投げられる。


隠すものがなくなった下半身を尻尾を前に回すことでかろうじて守る。こんな時は尻尾も便利だな――


(なんて思ってる場合かっ)


「ひぃっ!」


唯屋敷さんは尻尾を左右にゆらゆらとしならせ、獲物を逃すまいとすり足で距離をつめてくる。そのアーモンド型の猫目が野性的に細められた。


「月ちゃん色っぽいねー、さぁ上も一緒に脱いじゃおうか」

「どこのセクハラおやじですかっ」

「大丈夫、悪いようにはしないから」

「嘘だ……」


思わず後ろに一歩退いた瞬間、両手をわきわきさせる謎の構えを取っていた唯屋敷さんの耳が一際大きくピクンッと跳ねた。


「観念しなさいっ」

「嘘だーーーー!」


爛々と瞳を輝かせながら機敏に突進してくる唯屋敷さんが視界いっぱいに飛び込んでくる。まるで猫がおもちゃにじゃれつく瞬間みたいだな(おもちゃ側から見ると結構怖いんだなぁ……)なんて、冗談みたいにスローモーションになっていく視界には満面の笑みで制服をたくしあげる唯屋敷さんの姿が。

ああ……これが走馬灯か――いやそれはちょっと違うか。最早何も言うまいとそっと瞼を閉じる。


でもそれにしても――


どうしてこんなことに……。

『俺』の人生の歯車はどこから狂ってしまったんだろう……。



  ◆



――遡ること一ヶ月。


「えーと、確かこの辺りだったはず、なんだけど」


プリントアウトした地図と周囲の道を何度も見比べる。

街外れ住宅地。閑静というよりは人の気配がなくて寂しい場所。親戚が住んでいるとか、特別な縁でもない限りまず足を向けようとは思わないようなひっそりとした地域。

確かに地図に記載されているとはいえ、本当にこんなところにあるのだろうかと疑念が鎌首をもたげ始めた時、ようやくその細い路地を見出した。


この辺りは何度か通ったが、晴れているのに路地だけは影が降りており、当たりをつけた上で探さなければ気付けないほど意識の死角になっていた。

正直気が進まないほど不気味でもあるが、家と家を仕切るブロック塀や張りだしたトタン屋根、点在するだけで意味をなしていない苔だらけの石畳みなど、人工物が僅かに背中を押してくれた。

直近の状況はどうか知らないが、少なくとも人の手は入っている。それが分かるだけでも幾分マシというものだ。


ブロック塀の隙間を縫うように伸びる路地を進んでいくと、次第に森の匂いが強くなっていく。路地は風の通り道になっている時折風が身体を押した。まるでこの先に待っているものに吸い込まれていくような、そんな気味の悪さを感じるのはきっと薄暗いせいだ。

しばらく歩いても人の気配どころか物音一つない。この隣り合う家に人は住んでいるのだろうか。


そんなことを考えていると鬱蒼と緑が繁茂する山の麓に辿りつき、目的地の印を確認することができた。


――『墨江津大社すみのえのつたいしゃ


深緑色の苔に埋もれた石碑には確かにそう記されている。

拝殿や本殿は丘の上にあるようで、ここから様子を窺うことはできない。けれど――


「どう見ても『大社』って感じじゃないなこれ」


大社とは神社の中でも名高いもの、格式の高い神社だけが名乗ることを許される。出雲大社なんかは誰しも聞いたことがあるだろう。当然、整備はされるし訪れる人だって多い。

石碑の先へ目に向ける。鳥居の朱は剥げ、苔むした石階段は所々森に浸食されている。


「どこまで上がるんだ、これ……」


階段の先を見上げでも終着点は見えない。結構な傾斜だが、相当上るようだ。

文句を言っても始まらない、と意を決して階段へ足をかける。


「ぷわっ………」


見たこともないほど肥えたジョロウグモの巣にひっかかる。子供の手の平くらいありそうだ。

顔についた糸を手で払い落とすと親蜘蛛の周りにいた蜘蛛が壊れていない巣の方へ逃げていく。


「糸太っ……。ちょっとすみませんね」


適当に木の棒を拾い、顔の前辺りをぐるぐるさせて蜘蛛の巣を払いながら進む。

いちいち顔にかかるのは鬱陶しい。どうせ明日には修理は終わっているだろうから気兼ねなく壊していくことにする。


  ◇


「はぁ、……やっと…………着いた……」


蜘蛛の巣だけでなく階段を覆う藪にも阻まれ、苔の生えた石階段は滑りやすく何度も転びかけた。上りきった頃にはひっつきむしやら草の汁やら泥やらでズボンもシャツもボロボロになっていた。張りだしていた枯れ枝で切った頬がジクジクと痛む。

上は簡易的な広場になっていた。十分に開けてはいるが、周囲に深い森が広がっているせいで陽はほとんど当たらず、閉そく感がある。

しかし、雑草に埋もれていると思っていた拝殿へ続く石畳は意外にもしっかりと残っていた。見れば石畳の脇は丸く砥がれた白い砂利で埋め尽くされておりちょっとした庭園のようだった。


「良かった。これ以上汚くしなくて済みそうだ」


それにしても本当に綺麗に整備されている。近くの住民が手入れしているのだろうか。

通ってきた獣道寸前の入り口には人が通ったような形跡は全くなかった。


(整備された入り口があるならそっちに回れば良かったな)


やや重い息を逃しているとそれは突然訪れた。


「汚いとはまた随分な物言いではないか」

「えっ?」


自分以外に人がいるなんて、ましてその透き通るような声色は明らかに若い女性のものだったから更に凍りついた。

周囲に人の気配はなかったけど、もしかして別の入り口からちょうど人が来たのだろうか――そう考えながら声のした方へ振り向いたがそこには誰もいなかった。


「えっ……」


たしかに人の声がしたような? 周囲を見渡すが人影どころか鴉の一羽もいない。


――まさか幽霊? そんな馬鹿な。


ぞわぞわと背中に嫌な感覚が走る。

息を切らしていたからだけではなく、喉が張りつくように乾いて声が上手くだせなくなる。

幽霊なんて信じていないし、仮にいたとしてもこんな昼間から悪さはしないと普段なら鼻で笑うところだ。


「ぁ……」


境内の入り口に置かれた狛兎こまうさぎと目が合う。


(まさかね)


「ふぅ……。気のせいだな、気のせい」


丘を上ったとはいえ、山はまだまだ上に続く。上がってくる時の陰鬱とした気配が不気味だったから勝手に脳が音を変換したのかも。きっと木々が風でざわめいたとか、たまたま蹴ってしまった小石の音が反響したとかだろう。

気を取り直して拝殿の前まで進むと、これまた意外なことに拝殿の造りもかなりしっかりしている。賽銭箱だって綺麗だ。


「鈴も綱も全然風化してないな」


綱を引っ張ってガラガラと鈴を鳴らしてみる。綱を握った手が多少ベタつくが野ざらしにしてあるものなのでこれくらいは当たり前だろう。


「当然でありんしょう。手入れはちゃんとしていんす」

「っ!?」


再び女の人の声が背後でしたが、なんとなく予期していたのですぐさま振り向いた。

しかし、やはりというか境内には誰もいない。


「怖っ!!」


なんか薄暗いし、風は冷たいし、神社はボロ――くないけど、


「怖いわ!」


よし、帰ろ。

そう一歩踏み出した時、ふと視界の隅を白い影が横切った。

思わず目で追ってしまったのが間違い。本当にさっさと帰ればよかったんだ。


「……兎?」


石畳から少し外れた砂利の上に兎が座っていた。白い塊の中にぽつんと浮かぶ赤い眼がじっとこちらを見据えている。

入り口にある狛兎は石だから灰色(というかほぼ黒ずんで真っ黒)だったが、こちらは真っ白で離れていても分かるほどモフモフで柔らかそうな毛並みをしている。


「不細工な顔だな」

「いやいきなり失礼だろ――――は?」


――しゃべった。


「そりゃしゃべるさ」


驚きを見透かしたように兎は平然と答える。

その口元を凝視するが、動いている様子はない。怪しさ全開の最早怪異と言っていいレベルの物体だが、気付けば一歩、また一歩と吸い寄せられるように兎に近づいていた。


「人間は久しぶりでな。思わず興が乗ってしまいんした」


やはり口元は動かない。時折パチパチと赤い瞳が瞬きするが近づいても逃げる様子はない。

テレパシー。そんな俗称が脳裏をよぎった。


「ふふ、怖がりんせんか。見た目よりも肝がすわってありんす」


いやかなり不気味だけど――そう返そうとした時だった。


「手数だが、ま、よい。ちょうど時間が来んした」

「あ……」


全身をぬるりとした違和感が包む。温いお湯の中にゆっくり沈んでいくような、はっきりとしない感覚の覚醒。それはここ二週間の間で何度か感じたものと同じものだった。

その最初は職員室帰りの学園の廊下。

違和感は世界をひっくり返すようにうねりを伴って引いていく。

全身をさわさわとまさぐられるような感覚に、思わず鳥肌が立つ以外に弊害はない。弊害はね――


軽い眩暈を覚えて視界がぐらつき、乾いた目を瞬きで潤している間に世界は反転を終える。

風が流れ、頭の後ろ辺りの髪の毛が軽く引っ張られるようにさわさわと揺れるのが分かる。たぶん『今回も』後ろで束ねてあるんだろう。


「あー」


思わず零れた嘆息は音が高いし柔らかい。他人が聞く自分の声と自分に聞こえてくる声は差異があるというけれど、これに慣れるのはもうしばらくかかりそうだ。

帰りどうしよう。あの藪の中をこの格好で突っ切るのはちょっとなぁ……。

鴉の羽のように黒いひらひらがついたワンピースをつまみ上げる。なまっちろくなった腕や細い腰も十分驚いたものだけど、シースルー気味の裾からちらちらと覗く白いふとももが目に毒だ。


「なんでは随分可愛らしいの。くふ、これでは悪戯も色々捗りそうじゃの?」

「あ……」


さっきまで兎がいた場所には銀色の髪の女が立っていた。どこかあどけなさを残した顔立ちは年下にも見えるが、もし学生の姉がいたらちょうどこれくらいだろうなと思う。すらっとした長身がそう感じさせるのかもしれない。

月のように淡い銀色を放つ頭の上には大ぶりな兎の耳が乗っかっていた。銀光の中にピンクが鮮やかに映えている。右側の耳は中ほどから手前に折れて、女が笑うのにあわせるようにぷらぷらと小刻みに揺れていた。


「もっとも――」


くつくつと笑っていた女はいたずらっぽく目を細めると、自分の胸を抱えるように持ち上げてみせた。ボリューム豊かなふくらみが腕の中でむぎゅっと形を変える。


「こちらはまだまだのようじゃがの」

「なっ――」

「おや、怒るのかぇ? それは失敬。純真な『乙女』心を傷づける気はありんせん」


そういいつつ、悪戯っぽい笑みは絶やさない。

たしかにそこだけはほとんど変わらないような気がしている。視線を下に向けるとミュールサンダルのつま先まではっきり見えた。まぁ、触ればつぼみのような柔らかさは微かにあるんだけど。


「ま許せ。ただの悪ふざけだ」


女は悪びれる様子もなくそう云い放つ。


「いや、いいです。自分でもふざけていると思うので」


この状況はともかく、これだけの変化なのに違和感くらいしか覚えが無い。驚くことは勿論驚くけど、認識と意識の差がほとんどない。多くの人がそうであるように、外見から予想される範囲でしか意識が働かない。

たとえば今の自分の裸を鏡で見てもなんとも思わない。胸がちょっと小さい(発展途上な)ことに不満を覚えるくらいだ。


「驚かないのか?」


笑みを消した女がそう零した。

腰まで伸びる銀髪を左右に揺らしながらゆっくりと歩いて来る。


なんとなくだけど予感があった。

こうなることを心のどこかで期待さえしていた。


女は目の前で止まると、鼻先が触れそうなほど顔を近づけた。長い睫毛に彩られた赤と黒が混じったような瞳がじろりと見つめてくる。こちらの頭の中を覗いているような、そんな気がさえするほど強い意識を感じる眼。

ぱちり。女が瞬きをするとその睫毛がふれたような気がした。


「なんだ、つまらない。オレに見つかるような人間は大体が面白そうな厄介毎を抱えているもんだが」


気が済んだのか、女は背を向けると賽銭箱の上に腰を下ろした。


「十分厄介毎だと思うんですけど」

「厄介かどうかは問題じゃない。つまらないのが問題なんだ。おかげで演じる気もとんと消え失せた」


「はぁ……」と盛大に嘆息する姿を見ていると、何もしていないのに悪いことをしたような気になるのはさすがに考え過ぎだと思う。

改めて見ると女は黒のノースリーブのタンクトップにデニムのホットパンツという非常にラフな格好をしていた。さっきまでは艶やかな着物姿だったような気がしていたが、気のせいだったのかもしれない――気のせい?


(そんな気のせいがあるだろうか?)


疑問を抱え、沈黙しているうちに女は黒のアームバンドを巻いた腕で足を持ち上げると胡坐に座りなおした。健康的な肉付きのよいふとももが強調され、胡坐をかいたことでホットパンツ隙間が危なかっしいことになっている。


「あの、さすがに賽銭箱の上は罰あたりなんじゃない、ですか?」


その威風堂々とした居住まいはなんだかアウトサイダーな匂いを感じさせるので自然と言葉に勢いがなくなる。


「バチもなにもあるか。ここの住人はオレなんだし」

「えっ……」


まさか拝殿に住んでいるというわけではないだろう。しっかりしているとはいえ人が暮らせるほどの大きさはない。

もしかして……というより、ほとんど確信に近い。


「貴女が『墨江津の神』ですか?」

「ああ」


胡坐から両ひざを抱え、お尻だけを賽銭箱にのせてゆらゆらとゆりかごのように体を揺らしていた女はあっさりとそう答えた。


「正確には神じゃなくて神の使い、『神使しんし』だけどな」


――墨江津大社の神。それは動物の神として挙げられる神様の一人だ。


神やその使いと崇められる動物は世界にも多く存在するが、日本において最も有名なのは『十二支』だろう。

そもそも神とは何か――という定義は別として、十二支など動物の神はアマテラスオオカミやスサノオノミコトなど人格神、いわゆる神様の使いとして日本でも多く崇められている。

たとえば狛犬。あるいは稲荷としても親しまれる狛狐。オオクニヌシノミコトを救ったとされる狛鼠。


――「正確には神じゃなくて神の使い」


目の前の女はそう言った。だけど神様を信奉する人間にとって、神様もその使いも有難いもの、ご利益を賜りたいと思うものに変わりはない。そうして日本では古くから多くの神社が、社が創建されてきた。

この墨江津大社は、兎を神使とする住吉大社の姉妹殿として創建、奉納されている。

しかし、長い時の流れの中で住吉大社だけが記憶に残り、墨江津大社は忘れ去られた。第二次世界大戦時に戦火に焼かれ、本宮含むそのほとんどを焼失。本殿と拝殿は再建造されたものの、現在では記録からも忘却されつつある。


ここまではネット使って調べたこと。ほとんど資料や記述が残っておらず、よもやま掲示板の書き込みを辿ってかき集めたような情報ばかりだ。その書き込みも今探すともう存在しない。まるで意図して隠匿されているかのようだった。


更に信じられないことに、ネコ耳モードになるとネットから『墨江津大社』の名前そのものが消える。自分自身の意識からも希薄になっていくので、紙に地図を印刷し持ち歩くことで記憶の保持、想起を促した。同じ市内にあるはずなのに一週間探し続けてようやく辿りついたのが今日だった。


「しかし地図の印刷か。そんなことでよく辿りついたものだ」

「どういう意味ですか?」

「そのままの意味だ。貸してみろ。そこにあるだろ」


指差されたフリルポケットを探り、四つ折りの紙片を渡す。


「そもそもこんなものが残っていること自体がいびつだ」

「わ……」


女は地図にふーっと息を吹きかける。

息に吹き上げられインクやメモとして書きこんだ文字達が宙空へと飛び出し、霧散していく。

やがて真っ白に還った紙も粉雪のように塵となって空へ溶けていった。

きらきらと光を反射させて消えゆくそれに目を奪われていると、女が抑揚のない声で呟いた。


「レヒト」

「え……」

「名前だ。住吉三神一の座『底筒男命そこつつのおのみこと』の神使代理を引き受けている」

「代理……?」


神様に代理なんてあるのだろうか。


「そ」


レヒトは事もなげに頷くと賽銭箱から降りた。


「元は主神ペルンに仕えるただの使い魔だ。日本に馴染みはない。興味は尽きないがな」

「ペルン……?」

「知らないか? ココは信仰も薄いし無理もないが――」


冷笑を貼りつけてレヒトは続ける。

それが無知を嗤っているのか、無名を自嘲しているのかは分からなかった。


「――お前みたいな流れ者の始末をつけるために派遣された監査官みたいなものだ。謂れは大した意味を持たないから、今はオレが神使ってだけ覚えてくれればいい」

「つまり偶然じゃないんだ」

「そういうこと。飲み込みが早いやつは嫌いじゃない」

「始末って言ってたけど、それってどういう―――んっ!?」


何かが口に押しつけられた。それがレヒトの指であることが分かったのは人の話し声が耳に届いた後だった。


――誰かがこちら向かって来ている。


それもかなり大勢だ。無意識に耳が遠くの音を拾おうと躍動する。

少しして境内に現れたのは制服姿の学生の集団だった。詰襟の男子生徒に、野暮ったい紺色のスカートとブレザーを着た女子生徒。同じ姿をした学生達はその耳と尻尾をはしゃがせながら次々と上ってくる。まるで修学旅行生が神社巡りをしているかのようだ。


そんな馬鹿な。あり得ない。

あの獣道をあんな集団が上がってこれるはずがない。


「それがあり得るんだよ、ほら」


にやりと笑うレヒトが顎で拝殿を示す。


「――!?」


拝殿の前には夫婦と思しきお年寄り二人が賽銭を投げ込み鈴を鳴らしているところだった。

変化はそれだけではない。拝殿の背後には荘厳な社が出現していた。何重かの屋根を持つ塔もいくつか見える。深かった森は切り拓かれあちらこちらに動物をかたどった石像や石碑が並んでいて、その周りは多くの人と――猫や犬、兎といった動物でにぎわっている。動物は放され、思い思い自由に過ごしている。


その喧騒が耳に届いた頃、レヒトは指を離した。


「もうそろそろか」

「……いったいなにが……」

「あら、偉いわねぇ」


目を白黒させていると、人の良さそうなお婆ちゃんが柔らかな笑みをたたえながら挨拶をしてきた。

垂れた耳が白髪の中に埋もれている。


「わっ、え、えっと何が、でしょう……?」


隣にレヒトがいるので気が気でない。幾らネコ耳モードに入っているとはいえ、銀髪をたなびかせるレヒトは目立つ。

しかし、お婆ちゃんは気にする様子もなく笑った。


「何がって拝殿の掃除をしていたんだろう? 若いのに大したもんさねぇ」

「え?」


気がつくと足元には水の入ったバケツとブラシ、雑巾などが置いてあった。


「あ、あー、えーと……そう、なんです。ちょっと綺麗にしてあげたいなって思って、あはは」

「猫だの犬だの兎だのそこらじゅうにおるから掃除も大変だべな。でもそんな小綺麗な格好で一人でやることじゃねぇべさ。若いんだから、そういうのは年寄りに任せるもんだ。どれ、あたしに貸しなされ」

「え? いやでも」


掃除用具には大社の保全部の名前が書いてあった。いつ持ちだしたんだっけ。


「だいじょうぶ、疲れたら片づけは他の人に頼むがら。まあ最後までやってしまうんだげどな」


あっはは、と陽気に元気に笑うお婆ちゃんに圧倒され、半ば奪い取られるように掃除用具を引き渡す。

なんだか良く分からないけれど、とりあえずその場を離れ遠巻きに様子を窺う。

お婆ちゃんが掃除を始めると、自ら手伝いを申し出たり、周りのゴミ拾いを始める人まで出始めた。その後ろをひっついて回る猫や兎がなんだかシュールだ。


「一体どうなって……」

「くふ、ありがたーい神様がいる社じゃからの」


声に振り向くとレヒトが満足そうに頷きながら笑っていた。


「レヒト! あ、そうだお婆ちゃんにレヒトが怪しまれないかって思ってて――あれ?」


記憶があいまいだった。いったいいつから私はここにいたんだっけ?


「ほれ、ちゃんとしんす」


ぱっとレヒトが腕を伸ばし、その指が口に押しあてられる。


「あ……マジかよ……」


どうして――

今のいままで自分が女であること違和感を覚えていなかった。ついさっきまでレヒトと話していたはずなのに。


「性別まで異なるのは珍しい例だがな。ここはお前のもう一つの意識が迷い込んだ――」


――神使世界しんしせかいだ。


そう言うとレヒトはくつくつと喉の奥で笑った。




第四話へ続く――、

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