1:招待状
階下に風巳がいる。そう考えるだけで、朝子は一刻も早く目の前の課題を片付けようと気合が入る。
途切れそうになる集中力を奮い起こし続けて三時間あまり。
「これで完璧」
朝子は出来上がった課題を読み直してから、思わず呟いてしまう。締め切りの迫っていた課題が二つ片付いたのだ。課題地獄の考査期間に、おかげで少しだけ余裕が生まれた。
すぐに自室を出て、朝子は風巳が寛いでいるリビングへ向かう。階段を下りて小走りに廊下を進んでいると、リビングから彼が出てきた。
「あ、朝子。ひょっとして休憩?」
「うん。課題が一段落したから」
朝子が駆け寄ると、風巳は「良かった」と嬉しそうに笑う。
「風巳と一緒にいたいから、頑張って片付けちゃった」
素直に打ち明けて笑うと、風巳の顔が一瞬で朱に染まる。
「ど、どうしたの?風巳」
驚いて目を丸くしていると、彼は赤くなった頬を両手で押さえたまま、とんと背後の壁にもたれた。
「……朝子ってさ、時々ものすごい攻撃をするよね」
「え?攻撃?」
「うん。悔しいから、お返し。抱きつき攻撃」
彼の腕に抱きすくめられて、今度は朝子がうろたえる。
「わわ、風巳。降参、降参」
二人でふざけあうのがくすぐったい位に照れ臭いのに、嬉しくてたまらない。朝子は彼に甘えたくてたまらない自分を感じた。満たされると、どれほど渇望していたのかを思い知る。恥ずかしさを打ち破る勢いで、彼に触れていたいという思いがこみ上げてきた。
「本当に、風巳がいるんだね」
「今頃になって、しみじみと噛みしめられても」
苦笑する彼に、朝子はためらわず腕を伸ばした。
「だって、触れるんだもん。私も抱きつき攻撃」
「うわ、ずるい」
思い切り彼にしがみついて、胸に顔を押し当てる。体温と一緒に鼓動が響いてきた。身を寄せたまま目を閉じる。
「風巳だ、本当におかえり」
「―――……」
無邪気に喜んで、朝子はひたすら彼の存在を確かめる。けれど、風巳からは仕返しどころか、何の反応もない。不思議に思ってそっと仰ぐと、彼は再び顔を真っ赤に染めて「降参」と小さな声で呟いた。
反応がないというよりも、どうやら朝子の思いがけない不意討ちに固まっていたようだ。
「――あの、さ、朝子。それ以上力いっぱいくっつかれていると、その、……俺、おかしな気分になる、から。ほんとに、降参」
辛うじて踏みとどまっている彼の告白を聞いて、朝子の顔にも一瞬にして熱がこもる。同時に、彼の照れた仕草があまりに愛しくて、思わず笑ってしまった。
二人で顔を見合わせて笑っていると、玄関で物音がしてまどかが廊下に現れた。どうやら近所に買い物に出ていたらしく、手に小さな袋を提げている。
「おかえりなさい、まどかさん」
風巳が迎えると、彼女は「ただいま」と微笑んでから、二人を見て不思議そうに首を傾けた。
「どうしたの?二人とも、廊下で立ち尽くして」
「課題が一段落したから降りてきただけ。まどかさんは、買い物に行って来たの?」
「ええ。カスタードクリームを作ろうとしたら、牛乳と卵が足りなくて……」
言いながら、彼女は何かに気付いたのか、口元を手で押さえる。
「まどかさん?」
「――あたし、牛乳だけ買って戻ってきちゃった」
「ええ?」
彼女は自分の頭を軽く小突きながら「うっかりしていたわ」と肩を落とす。
「最近、なんだかぼんやりしているのよね。もうっ、あたしったら」
どうやら彼女はシュークリームを作っていたらしい。今から買い足しに行くのも時間がかかるということで、三人はそのままリビングに入った。
「そういえば、はい。戻ってきた時にポストを覗いたら、朝子ちゃんに手紙が来ていたわ」
まどかはソファに掛けた朝子に、一通の手紙を差し出した。朝子はすぐに差出人を確かめて、「あっ」と声をあげた。
「風巳、これ見て」
隣に座った風巳にも知らせると、彼も声を上げる。
「一条司って、あの一条?高校の時の?」
「きっと、そうだよ。だけど、私に手紙なんて。風巳にならまだしも、どうしたんだろう」
風巳が見守る隣で、朝子は丁寧に封を切った。
一条司。高校時代、音大付属校へ転校していった友人の一人である。
白血病を乗り越えた幼馴染と共に、きっと彼は自らが望んだ世界で活躍しているに違いない。
当時の光景を懐かしみながら封筒を開くと、中には手紙と、チケットらしい紙片が四枚入っている。
「これって」
彼が転校する前に残した言葉が、朝子の中に蘇ってきた。風巳も思い出したようで、頷いてくれる。
朝子は手紙に目を通してから、すぐに隣の風巳に便箋を差し出した。
一条司の筆跡は、繊細な文字を綴っている。彼の幼馴染である林香織も、便箋の隅に一言を記していた。
それは朝子にと言うよりは、当時彼の背中を押して、再び音楽の世界に向き合わせた風巳に宛てた手紙なのかもしれない。
朝子から風巳へ届くことを信じたのか、あるいは誰かに二人のつながりを聞いたのか。
手紙には近況と、彼らの通う大学が主催している音楽会の経緯が書かれていた。同封されていたのが、その招待券である。彼らの通う音楽大学は、著名な楽団を持つ学院なのだ。
一条司はピアニストを目指していた。
楽団と共演の舞台に立つということは、既に実力を認められているということだろう。
公演は楽団のある本拠地だけではなく、各地を回る大掛かりなものらしい。
幼馴染と共に、一条司は夢を形にしたのだ。
手紙はその報告を兼ねているに違いない。
「すごいな。だけど、あんな些細な約束を覚えていてくれたなんて、嬉しいかも」
「うん。一条君、本当にこんな大舞台に立つんだね」
二人で送られてきた招待券を眺めていると、まどかがキッチンで紅茶を入れて運んでくれる。彼女はカップを乗せてきたトレイを胸に抱えたまま、朝子が手にしているチケットを覗き込んだ。
「オーケストラの公演に、二人の友達が参加しているの?」
「うん、高校のときの」
朝子が経緯を話すと、まどかは素直に司のことを讃えてくれる。
「それって、わりと有名な楽団よね。この日程なら風巳君もこっちにいるから、二人で楽しめるわね」
「だけど、チケットは四枚あるよ。……お兄ちゃんって、次はいつ帰ってくるの?」
「それが、まだ判らないみたい」
まどかは残念そうに、吐息をつく。
「そっか。お兄ちゃんが戻ってきていたら、まどかさんと四人で行けるのにね。だけど、もう二ヶ月近く、あっちに行ったままだね」
「ええ」
「いい加減、一度戻ってきたらいいのに。まどかさんが寂しいって言えば、絶対にすぐ帰ってくるよ」
「朝子ちゃんてば、晶は遊びに行っているわけじゃないのに」
「だって、こんなに美人で可愛い奥さんを放っておくなんて」
兄に対して悪態をついていると、風巳とまどかが可笑しそうに笑う。
「朝子は本当にまどかさんの味方だね」
風巳は紅茶を飲みながら、まどかが出してくれたクッキーを齧った。まどかが思い出したように、溜息をつく。
「紅茶のお供にと思って、シュークリームを作っていたのに、なんだか残念」
「いいよ、まどかさん。これも美味しいし」
クッキーを頬張っている風巳の隣で、朝子もまどかが入れてくれた紅茶のカップに手を伸ばした。彼女は朝子の要望どおり、丁寧にロイヤルミルクティーを作ってくれたのだ。
「シュークリームは明日のお楽しみだね」
「そうね」
朝子は手にしていたカップに口をつけた。
「――っ」
一口含んで、思わず口元を押さえてしまう。吐き出すのも行儀が悪いので、何とか飲み込んだ。甘めに作られた、優しい味を想像していたのに、口内に広がったのは予想外の味。
「どうしたの?朝子」
「朝子ちゃん?」
二人の声を聞きながら、朝子はクッキーを齧って、とにかく口直しを試みた。大きく息をついて、心配そうにこちらを眺めているまどかを仰ぐ。
「あの、まどかさん。これ、砂糖と間違えて塩を入れてない?」
「え?」
風巳は面白がって一口飲むと、「うわ、本当だ」と笑っている。まどかが「きゃあ」と小さく悲鳴をあげて、「ごめんなさい」とすぐにカップを奪い取る。
「本当にごめんなさい。すぐに入れなおすから」
朝子が声をかける間もなく、彼女はすぐにキッチンへ向かってしまった。まどかの慌てた背中を見ながら、風巳が「疲れているのかな」と呟く。
「誰が?」
「まどかさんが。……日中の暑い時も、よく庭に出て手入れしているし。単に夏バテなのかな。――それとも、何か気掛かりでもあるとか」
「気掛かりって?」
朝子が身を乗り出すと、風巳は「例えば」と続けた。
「晶がいなくて寂しいとか。浮気を心配しているとか。だって、俺が戻ってきてからも、さっきみたいにうっかりしている場面が多いからさ」
「そういえば、そうだね。……寂しいっていうのは、あるかもしれない」
朝子も風巳が不在の日々、時折、寂しさに苛まれてしまうことがある。自身の思いに捕らわれて、当たり前の日々が苦痛になるのだ。そんな時はいつも通りに振舞っていても、どこか気持ちが散漫なのだろう。周りへの配慮を欠いて、ささやかなミスを犯してしまう。
「俺もね、朝子に会えなくてもどかしくなる時が、たまにある。そういう時は、いろんなことが空回りするから。……まどかさんも、そうなのかもね」
些細なことのように、風巳が離れている日々の物思いを口にする。朝子は彼が同じように、会えない日々の寂しさに苛まれているということに驚いてしまう。
「風巳もそんなふうに思ったりするんだ」
思わず呟くと、彼は拗ねたような顔をして朝子を見た。
「それってどういう意味?」
「だって、風巳は充実した生活に満たされて、憂鬱になったりしないと思ってた」
「がくっ」
肩を落として、風巳がうな垂れる。朝子は戸惑って、更に墓穴を掘る。
「だから、いつでも前向きに割り切って、些細なことで悩んだりしないのかなって」
「あのね、そんなわけないでしょ」
思いきり抗議の眼差しを向けられて、朝子は自分の中に在った彼の虚像が砕けるのを感じた。もしかすると、彼も闇に捕らわれる瞬間があるのかもしれない。
きっと、あるのだろう。
風巳は大きく息をついて、真っ直ぐに朝子を見る。
「俺だっていろいろ考えるし、悩むよ」
「……うん」
朝子はふと、帰国前に届けられた手紙を思い出した。
彼が伝えようとしている、何か。
こんなに屈託のない彼を前にしても、朝子はするりと微かな不安が忍び込むのを感じる。最悪の展開が脳裏をかすめて、確かめることにためらいが生じた。けれど、このまま有り得ないことを危惧して、独りで抱えている方がずっと苦しい。
風巳を信じていない自分の弱さを感じることが、たまらなく厭わしかった。
「あのね、風巳」
自分の内にある弱さに気付かれないように、朝子はしっかりと彼を見つめる。
「そういえば、手紙に伝えたいことがあるって書いてたよね」
「……あ、うん」
まだ核心に触れることは何も聞いていないのに、風巳は困ったように、ふっと視線を逸らした。明らかに狼狽している。朝子は不安が重くなるのを感じたが、挫けずに続けた。
「その伝えたいことって、何かなって」
自身の中に芽生えた憂慮を隠して、何気ない質問のように問いかける。
「それは――」
きっと風巳が、全てのわだかまりを拭ってくれる筈なのだ。彼の屈託のない言葉が、すぐに朝子の微かな不安を莫迦な妄想にしてくれる。
してくれるはず、だった。
「ごめんね、朝子。それは、まだ言えない」
彼は打ち明けてくれなかった。拭われない不安が、ひそやかに闇を呼ぶ。朝子は知らずに剣呑な表情をしていたのだろう。風巳は取り繕うように笑った。
「いや、別に、大したことじゃない、……こともないけど。その、順序があるというか、心の準備というか……」
朝子はすでに、風巳の言葉の半分も聞き取れていない。あまりに狼狽する彼につられて、自分の抱いた危惧をごまかすように、ただ笑ってみせた。
「いいよ、風巳。ちょっと思い出して聞いてみただけだから」
「あ、うん」
彼の困ったような仕草が、不安をかきたてる。朝子は何かを振り払うように、話題を切り替えた。わざと対面キッチンに立っているまどかの方を見る。
「お兄ちゃんも、早く帰ってきたらいいのに」
「そうだね」
風巳も気を取り直したらしく、同じようにまどかの方を見た。
「まどかさんって、態度に出さないから。その分、晶がそういうことに敏くて、傍にいるときはうまく舵をとっているけど」
朝子は不安をやり過ごして、風巳と向かい合う。彼がここにいる、その満たされた想いだけをたしかめた。
「お兄ちゃんって、そんな気遣いの上に行動が成り立ってるのかな。――ただ、からかっているだけじゃなくて?」
「俺はからかっているだけじゃないと思うけど」
「そうなのかな」
「どっちにしろ、まどかさんの場合、晶が戻ってこないとどうにもならないよね」
「うん」
朝子はもう一度、まどかを振り返った。揺ぎ無く兄を想い、信じている強さ。
もし彼女が不安を抱えているのなら、それは自分のように弱さを表しているのだろうか。
兄が不在のまま、二カ月近くが過ぎている。
風巳が言うように、彼女が寂しさを募らせていても不思議ではない。
「ね、朝子」
呼ばれてから、ふわりと風が動く。朝子は風巳の腕に捕らえられていた。不意打ちに焦ってみても、抱きすくめられて身動きがとれない。彼の体温を感じると、甘い痛みが毒のように巡って、涙が出そうになった。
「俺、何か嫌なこと言った?」
「え?」
「だって朝子、変なんだもん」
見透かされて、ますます泣き出してしまいそうになる。朝子は懸命に堪えて、明るい声を出した。
「変なのは、風巳に会えて嬉しいから」
「う。――それって、また攻撃?」
風巳の吐息が耳元に触れる。それくらいに近い。
自分に向けられた、優しい気配。
それだけで。
胸に巣食う闇が、ゆっくりと晴れてゆく気がした。
世界中にたった一人、彼だけが不安を拭い去ってくれる。
――彼が伝えようとする、何か。
まだ語ってはくれないけれど、朝子は不安に移ろわず、信じていようと瞳を閉じた。
彼に傷つけられる未来など、ありえない。
こんなふうに、触れられる距離にいてくれるだけで心強いのだから。
朝子はようやく、いつもの自分を取り戻した。
自分の中にある不安が影を潜めると、まどかの置かれた立場が気になってしまう。
「やっぱり、お兄ちゃんが憎いかも」
「え、晶が?」
「うん。まどかさんを独りにしたまま、戻ってこないから」
きっぱりと批判すると、肩越しに風巳がくすくすと笑った。
「本当に、朝子はまどかさんの味方だね」
「うん。だって、お兄ちゃんを好きになって、想い続けてくれたから」
素直に打ち明けると、風巳はぽんぽんと撫でるように、朝子の頭に手を乗せた。