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3:図書館

 朝子の通っている大学には、何度が出入りしたことがある。駐車用の敷地と、大学の正門にはそれぞれ警備員らしき人影があるが、きちんと用件を話せば容易に出入りを許された。

 これといって迷うことも咎められることもなく、風巳かざみは敷地内にある図書施設へ向かう。考査期間ということもあり、学生が構内のあちこちで輪を作っていた。試験の山や出来について、熱心に語り合っているようだ。


 年も背格好も自分とさして違いのない男子学生を見ていると、風巳は自分もここの学生だと言い張れば通用するのだろうと思えた。立ち入りの許可を得なくとも、きっと誰も不審には思わない。

 学科も多岐に渡り、学生数も二千人を上回る学院で、全ての学生を知っている人間がいる筈はない。


 そう考えると、図書館でいちいち司書に身分や理由を話す必要性があるとも思えなかった。

 当たり前の顔をして館内へ入ると、風巳は違う理由で緊張が増してゆくのを自覚する。あれほど会いたくてたまらなかったのに、いざ間近まで来てみると、これから与えられる悦びへの期待が溢れすぎて、苦しいくらいだった。


 図書館は国内の大学にしては、かなりの規模を誇っている。自習用に作られた一階は、中央が天井までの吹き抜けになっていた。その空間を取り巻くように、各階がドーナツ状のホールとして上へ連なってゆく。


 陽光に満たされて、館内は明るい。

 風巳は隅のほうから一階を見渡したが、朝子の姿はなかった。出来るならば課題の調べ物をしている彼女の邪魔はしたくないので、風巳は気付かれないようにこっそりと眺めてみたかった。先に朝子に見つけられることだけを懸念しながら、ゆっくりと階段を上がる。


 二階をぐるりと回ってから、三階へ向かうと、聞きなれた声がすぐに風巳を捕らえた。静寂に紛れてしまいそうな小声なのに、きっとどんな騒音よりも怒声よりも、風巳に響く声。それは彼にだけ刻まれた印のように。

 彼女の声だけは、聞き逃さない。


「晴菜、何か良い資料でも見つかった?」

「うん。何冊かあったよ」

 まだ姿は見えないのに、風巳はそれだけでこみ上げてきたものが、胸いっぱいに詰まる。

 立ち塞がるように整然と並んだ書架。一棚隔てた向こう側に、気配がする。

 一瞬、全ての配慮を忘れてしまいそうになった。飛び出していきたい衝動を堪えて、風巳は書架にもたれて、休息するように両手を組み合わせた。目を閉じて、ただ向こう側にある気配に触れてみる。


「朝子は何か文献見つかった?どう?」

「うん。私も何冊か見つけた」

「じゃあ、一階へ下りてまとめようか」

「そうだね」


 声が近づいて来て、風巳は慌てて書架に挟まれた通路に身を隠す。本棚の合間から、一瞬だけ立ち去っていく朝子の姿が見えた。


(――まどかさんが、言っていたとおりだ)


 二人は風巳が上がってきた階段から、下へと降りていったようだ。風巳は一瞬で刻み込まれた彼女の姿を思って、深く吐息をついた。

「……びっくりしたかも」

 思わず呟いて、再び本棚に背を預ける。

 まるで人形のような色白の横顔。

 童顔で、どこか幼い無防備さはそのままなのに、凛とした表情に漂うのは、甘さだろうか。

 少女のままでは、決して身につくことのない仕草。


 風巳はもう一度大きく呼吸をして、書架にもたれていた体を起こす。吹き抜けから一階を見下ろすと、片隅で席につく朝子の姿が見えた。

 遠めに眺めていても、わかる。

 変わらず華奢な体躯なのに。細い手足がすんなりと伸びて、明らかに所作が柔らかい。

 出会いを繰り返すたびに、少女の殻を脱ぎ捨ててゆくように。

 もし許されるなら、出来ることなら、ずっと傍にいて眺めていたいのに。

 自分でも我儘だとわかっている。けれど、こんなふうに彼女の変貌を突きつけられると、どうしようもなく気持ちが乱れてしまう。


 風巳は動揺をやりすごすと、もう少し彼女のことを眺めやすい場所へと移動を試みた。

 二階まで下りると、三階よりも遥かに朝子がよく見える。こちらから眺めやすいということは、向こうからも見つけられやすくなる。

 二階を半周ほど回って、見つかりにくく、それでいて一階を見下ろしやすい場所を確保した。朝子の様子が、三階で眺めていたときよりも克明に映る。ただ文献を片手にノートを取っているだけの仕草が、この上もなく微笑ましい。


 一人で和やかな気持ちに満たされて、風巳はひたすら階下の朝子を眺めていた。

 しばらく熱い視線を送っていると、背後でふと人が立ち止まる気配を感じた。ただの通りすがりだろうと、風巳は気にも留めず一階を眺めたまま振り向かなかった。

 朝子の様子に気を取られながら、ふと我に返ると、まだ背後に人の気配がする。一向に立ち去る気配がない。

 さすがにおかしいと緊張したが、この状況下では、明らかに自分の方が怪しいだろう。在学生ではなく、部外者だとばれてしまったのか。あるいは、一人の女子学生に魅入っている姿が怪しかったのかもしれない。

 しれないと言うよりも、明らかにおかしかったに違いない。


 風巳はあらゆる憶測を抱きながら、それでも何気ないふりを装ってゆっくりと振り向いた。

 視界に飛び込んで来たのは、金髪を逆立てた、いかつい青年の姿。日に焼けた肌には、たしかにその明るい髪色が映える。派手な学生だと思ったが、彼はぽかんと風巳を見たまま立ち尽くしていたようで、視線があうと我にかえったのか、戸惑ったように身動きをして頭をかいた。

 見た目と違い、金髪の青年の眼差しには愛嬌がある。警戒心や敵意は感じられず、風巳はとりあえず胸を撫で下ろした。

 こんな所で、ストーカーだとか不審者だとか言われて、連れ出されてはたまらない。


「あの、何か……?」

 お互いに戸惑いながらも、気まずい間に耐えられず、風巳は思わず問いかけてしまう。彼は頭をがしがしと掻いて、照れくさそうに頭を下げた。

「いえ、別に。その、ものすごい光が見えたから、……や、あの、何でもないです」

 彼は目いっぱい動揺している様子で、要領を得ない。もう一度頭を下げると、何が恥ずかしいのか真っ赤に紅潮した顔を隠すように、くるりと踵を返した。そのまま脱兎のごとく、どこかへ立ち去ってしまう。


 風巳は呆気に取られていたが、ともかく部外者であるとは気付かれなかったようだと安堵する。

 気を取り直して一階に目を向けると、さっきの青年が姿を現した。朝子のいる席は長机で、彼はその机の端についた。おかげで風巳には彼の姿もよく見える。

 成り行きで眺めていると、派手な身なりの青年が、おもむろに風巳のいる二階を見た。思い切り視線があってしまい、風巳がうろたえていると、彼はそのまま視線を朝子の方へ向ける。


 風巳はぎょっとした。

 やはりずっと朝子を見つめていたことに、気付かれていたらしい。

 朝子と青年が同じ学科の知り合いだとすれば、自分の存在が彼女にばれてしまうのも時間の問題になる。

 焦って、すぐにその場から身を翻す。とりあえず一階から目の届かない二階の奥へと隠れた。簡単には吹き抜けに臨める位置には戻れそうにもない。


 仕方なく本棚の間を彷徨うと、どうやら二階には医学関係の書籍と福祉関係の書籍が集められているらしい。

 風巳は面白そうな本を手にとって、しばらく時間を潰してみた。

 半時間くらい時間が経ってから、再び吹き抜けに面した場所へ向かう。さっきまで朝子のいた席を見ても、彼女の姿が見えない。見渡せるだけ探しても、一階に朝子の姿を見つけることは出来なかった。朝子の親友の姿も消えているので、おそらく図書館を出て行ったのだろう。もしかすると、課題のまとめが一段落したのかもしれない。


 それならば、もう物陰に潜んで様子を眺めている必要もない。後を追いかけて、一緒に帰途につくだけである。

 風巳は気になって、こちらを見た派手な身なりをした青年の姿も探してみるが、彼もいなくなっていた。

 一階まで下りて、改めて見渡すが、三人の姿はなかった。


 朝子達と青年。

 あの三人が知り合いで一緒に出て行ったのか、単に偶然なのかは判らない。

 どちらにしても、彼女が帰途につくのならば、もう隠れている理由はない。邪魔をしたくないという配慮も、朝子を応援しているこだわりも、一瞬にして弾け飛ぶ。

 抱き続けた願いだけが、風巳を支配した。


(見失ってしまったけど、どこに行ったんだろう)


 腕時計を見ると、時刻は一時前になっていた。


(――正門で待っていれば、会えるかな)


 朝子は突然の再会に驚くだろうか。それとも、喜んでくれるのだろうか。もしかすると、あの青年から話を聞いて、予想しているのかもしれない。

 あらゆる憶測が駆け巡るが、どんな想像も自身の気持ちに上塗りされていく。

 会いたいという、ごまかしきれない衝動。

 想いに突き動かされて、風巳は図書館を出た。

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