4:約束の証
夜が更けた頃、風巳はベランダに通じる窓が叩かれる音を聞いた。すぐに相手を察してカーテンを開くと、朝子がベランダに立っている。
「どうしたの?朝子」
風巳は窓を開けて慌ててベランダへ出た。朝子は既に寝間着に着替えていたが、何の警戒心もない無防備さで笑っている。
「外がね、涼しくて気持ちがいいよ。星も綺麗だし。風巳にも教えてあげようと思って」
夜空を見上げると、たしかに煌々と輝く星が視界に入ってくる。
「本当だね」
彼女の隣で同じように星を眺めながら、風巳は少しだけ緊張している自分を感じた。
「だけど、ちょうど良かった。実は、今から朝子の部屋へ行こうと思っていたんだ」
まだ心の準備が完了していたわけではないが、彼女に気持ちを伝えるには、絶好のタイミングだといえる。思い切ってそんなふうに切り出すと、朝子は「うん」と知っていたかのように頷いた。
「そうじゃないかなって思って」
「え?どうして」
わずかに動揺したが、風巳はすぐにこれまでを振り返って合点がいく。休暇に入る前に送った手紙でも示唆していたのだし、戻ってきてからも何度か予告めいたことを伝えた。いくらそういうことに疎い朝子でも、今回ばかりはさすがに気がついたのかもしれない。
「あれでしょ?まどかさんの秘策」
「え?」
思い切り違う方向へ舵をとられた気がして、風巳は戸惑ってしまう。どうやら朝子はいつもの疎さを、依然として発揮したままのようだ。風巳が大切なことを告白しようとしていることには全く気付いていないらしい。
朝子の言う秘策が何のことか判らず、とりあえず話の成り行きを窺うことに徹した。こちらから詮索しなくても、朝子は一通りまどかとの間に起きた出来事を語ってくれる。成り行きを聞き終えて、風巳は思わず声をあげた。
「まどかさんに子どもが?本当に?すごい、やったじゃん」
彼女に子どもが出来たことは、風巳も素直に祝福したい。晶とまどかの血を引くのならば、幼少時は天使のように可愛らしいだろう。楽しみな気持ちが込み上げると同時に、風巳はまどかの示す秘策についてすぐに思い至った。
たしかにそういう仕掛けならば、晶はまどかがおめでたであるとは気付かないだろう。飾られた食卓を全く別の意味に捉えるのは間違いがない。晶を欺くためには、最高の舞台が出来上がる。
風巳はそこまで考えて、素直にまどかの秘策に協力したい思いに駆られた。いつも上手にいる晶に対して、一矢報いる絶好の機会にもなる。
「なるほど。それって名案かも」
呟いてから、興味深げに自分の顔を見ている朝子と向かい合う。
「ね、風巳。秘策って何?」
「うん。今から教えてあげるよ」
思っていたよりもずっと自然に、風巳は切り出すことが出来た。
「手紙に書いたよね。朝子に伝えたいことがあるって」
「え?うん」
朝子は話の展開が意外だったのか、戸惑いがちに頷いた。風巳は気を引き締めるように、息を吸ってから、ためらわずに気持ちを言葉にした。
「朝子。――大学を卒業したら、俺と結婚してほしい」
全く予想もしていなかったのか、朝子は大きな瞳で食い入るように風巳を見つめたまま、身動きしない。あまりに真っ直ぐ見つめられて、風巳はカッと頬が熱くなるのを感じた。思わず目を逸らして、照れ隠しのようにくしゃりと髪をかきあげる。ごまかし様がない位に顔が火照っていた。
「その、ものすごく唐突だとは思うけど、本気だから。考えてほしいんだ。まだ二年近くあるのに気が早いと思うかもしれないけど、俺は朝子との約束を形にしておきたかったから。我儘だって、判っているけど」
体中が心臓になっているのではないかと思うくらい、風巳は鼓動が強く打っているのを感じていた。火照りが全身にまわって、血が沸騰しそうなくらいに熱い。
自分の気持ちを全て訴えても、依然として朝子は沈黙を守っている。風巳はおそるおそる朝子に視線を戻して、言葉を失った。
彼女は立ち尽くしたまま、ぼろぼろと涙を零して、声を殺して泣いていた。手の甲で涙を拭うようにして、顔をおさえている。
「あ、朝子」
風巳は思い切りうろたえて、咄嗟に至近距離まで歩み寄った。朝子はしゃくりあげながら呟く。
「……私なんかで、いいのかな」
「え?」
「わたし、何の取り得もなくて、……普通の女の子だよ。それでも、風巳のお嫁さんになれる?」
「なれるよ」
思わず声が高くなる。風巳はすぐ我に返って、彼女に伝えた。
「なれるとか、なれないとかじゃなくて。――うまく言えないけど、俺は朝子じゃないと駄目なんだ。朝子だけが、欲しい。だから、俺のお嫁さんになって」
強く訴えると、彼女は細い腕を伸ばして風巳に縋りつく。風巳の背中にまわした両腕に力をこめて、深く頷いた。
「……夢、みたい。嬉しい」
「朝子」
縋りついて来た身体を受け止めて、風巳は強く彼女を抱きしめた。愛しさが激しい波となって打ち寄せる。ずっとこんなふうに、自分の想いを形にする日を夢見ていた。
わずかに腕の力を緩めて、風巳は彼女の髪に唇を寄せる。
そのまま耳に、頬に、そっと口づけた。朝子は濡れた瞳で、くすぐったそうに笑う。風巳は込み上げた気持ちのまま、彼女を引き寄せて唇を重ねた。一瞬、驚いたように彼女の身体が震えたが、更に小さな体を支える腕に力を込めた。
揺ぎ無い想いを確かめるような長い口づけの後で、風巳はそっと朝子の左手をとった。
「これ、約束の証だから」
彼女の薬指に、曇りのない輝きが宿る。朝子は「うわぁ」と声をあげてから「綺麗だね」と、はにかんだように笑った。
「風巳、ありがとう」
「それは俺の台詞だよ、朝子」
夜空に煌めく星よりも、澄明な輝き。その濁りのない石のように、いつまでもこの想いが澄んでいられるように。
二人は寄り添うようにベランダに立って、しばらく晴れた夜空を眺めていた。