2:一息
結城邸へと続く光景は、すっかり夏の装いをしていた。帰国するたびに、四季が巡っている。それでも覚えのある道のりは、馴染みのある情景として風巳を迎えてくれた。
やがて見慣れた屋根が視界に入ってくる。
連なる家々の中に、ひときわ懐かしい形。
近づくたびに、手入れの行き届いた庭の木々が視野を占める。
裏庭にある桜は既に邸宅よりも背が高く、梢いっぱいに葉をつけていた。門扉の前までたどり着かないうちに、風巳はまどかを見つけた。
彼女もこちらに気付いたようで、遠めにも満面の笑みで迎えてくれるのが分かる。さらに手をあげて、大きく振ってくれた。
「風巳君。おかえりなさい」
「ただいま、まどかさん」
久しぶりに見るまどかは、やはり人を和ませる気配を纏っていた。見た目は圧倒的なくらいに綺麗なのに、なぜか晶のような恐れは感じない。
白百合のような静かな立ち姿に、咲き零れる桜のような微笑み。目にするたびに、素直に綺麗な人だという感想を抱いてしまう。
まどかに出迎えられて、風巳は久しぶりの緊張感が解けていくのを感じた。
見慣れた土地に戻ってきた安堵なのか、彼女が与えてくれるのかは判らない。
「もしかして電話したから、わざわざ外に出ていてくれたの?」
午前中と言っても、既に気温は汗ばむくらいには上昇している。
彼女が家の外に出ていることの意味を考えていると、まどかは慌てて首を振った。
「たまたま庭とか家の周りを掃いていたら、ちょうど風巳君が帰ってきたの」
彼女は「ほら」と言って、門扉に立て掛けてある箒を指差す。
「だけど、せめて朝子ちゃんの代わりにお出迎えが出来て良かったかも。あたしじゃ、期待はずれだろうけど」
悪戯っぽく微笑むまどかは、相手に気を遣わせない。彼女にはそれが自然な振る舞いなのだろう。誰に対しても、どんなときも、たとえ激情に心が苛まれていても、まどかは自身に流されてしまわない。
大人の女性だと思う。朝子が憧れてしまうのが、よく分かった。
不安定に揺るがない、何かがある。
だからこそ、晶を侵食していた絶望的な闇を払うことができた。
いつか自分も、朝子にとってそんな存在になれる日が来るだろうか。
「まどかさんに会えるのも、嬉しいよ。帰ってきたっていう気がする」
屈託のない思いで笑うと、まどかも笑ってくれた。
「風巳君は、戻ってくるたびに大人っぽくなっていくわ。早く朝子ちゃんに見せてあげたい」
そんなふうに言われると、風巳は何だか照れくさくなってしまう。自分ではさして変わったつもりはないし、変わっているとも思えない。
まどかや晶の前に立つと、自分は高校時代と変わらず、まだまだ幼いのだと思える。
「そう、かな。別に前からそんなに背が伸びたわけでもないのに」
「そういうことじゃないのよね。朝子ちゃんも、どんどん綺麗になっていくし。風巳君に早く見てほしいわ」
「うん。それは早くお目にかかりたいな。だけど、朝子は大学が考査期間だよね」
「ええ。今朝もレポートの提出とかで出掛けていったけれど。風巳君が電話で言ったとおり、今日の突然の帰国はちゃんと内緒にしてある」
「ありがとう、まどかさん。朝から動揺させるのもどうかなと思って。だけど、考査期間に戻ってきたのは浅はかだったかな」」
「絶対にそんなことないわ。朝子ちゃんなら、それをパワーにいっそう頑張るわ。ところで、風巳君。荷物は?」
まどかが不思議そうに大した手荷物のない風巳を見る。
「あ。俺ね、ものすごく焦って飛行機に乗ったから。これだけ」
「ええっ?そうなの。あ、もしかして、早く朝子ちゃんに会いたくて?」
言い当てられると、自分でもどうしようもないくらいに顔が熱くなる。まどかは優しい眼差しでこちらを見て、控えめに笑っていた。
「風巳君らしい。……たしかに荷物なんて、ここにも一揃い残っているから、それでいいわよね」
「……うん、まぁ、そう思ったし」
手土産が後から送られてくるのもどうかと思ったが、今更どうにもならない。まどかに詫びると、逆に気を使わせてごめんなさいと申し訳なさそうにされた。
「風巳君、ご飯は食べた?お腹空いてない?」
まどかは門扉に立て掛けていた箒を手にして、風巳を振り返った。
「機内で少し食べたけど、そう言われると空いているかも」
素直に答えると、まどかは嬉しそうに笑って門扉を開けた。
「良かった。実は少し作っておいたの。今――」
彼女はそこで何かを思い出したのか、「あっ」と声をあげて庭を抜けて玄関まで走る。風巳も気になって後を追いかけると、扉を開けた途端、焦げ臭い匂いが鼻を刺激した。
まどかは小さく悲鳴をあげて「絶対に焦げてるわ」と言いながら、廊下を走ってキッチンへ向かったようだ。
風巳にもだいたいの予想はついたけれど、リビングへ入ると、奥の対面キッチンでまどかががっくりと肩を落としていた。ダイニングまで来た風見に気付くと、困ったように笑う。
「どうしたの?まどかさん」
「オーブンでパンを焼いていたんだけど」
まどかはガチャンと鉄板を持ち上げて、見事に黒い塊になった残骸を見せてくれた。
「焼け方が足りなくて、時間を延長したことを忘れていたの。あたしったら、ぼんやりしているわね」
彼女はそのまま鉄板を流しへと持っていく。大きな溜息をついて、自分の頭を小突いていた。
「せっかく、焼きたてのパンをご馳走しようと思っていたのに、ごめんなさい。――お米も炊いておいて良かった。すぐに用意するから」
風巳が食卓につくと、彼女は盛大に料理を並べてくれる。少し作っておいたというような献立ではないことは確かだった。
勢い良く料理を口にしながら、風巳はキッチンでオーブンの鉄板を洗っているらしいまどかを見た。彼女がそんなふうに失敗することは滅多にない。
そこから導かれる真実にたどり着いて、風巳は温かい気持ちに満たされる。
きっとまどかは、自分がこの邸宅に到着する時間を見計らっていたのだろう。偶然を装いながらも、出迎えるために外に出ていた。
何かに気を取られてしまうと、何かを忘れてしまうのは仕方がない。
自分を迎えてくれる、温かな場所。
まどかの料理を口にしていると、風巳は改めて戻ってきたのだと強く感じた。鉄板の後始末を終えた彼女が、食卓へやって来る。
「風巳君、食べ終わったら、大学へ行ってみる?晶の車はそのままだし」
箸を止めずに、風巳は彼女を仰ぐ。うーんと唸ってから、結局頷いた。
「うん。とりあえず早く朝子を見たいかな。邪魔にならないように、こっそり行ってみる」
「今日は課題の提出だけの筈なの。ただ、図書館で調べ物があるとか言っていたけど」
「じゃあ、図書館で遠めに眺めていようかな」
朝子に関する予定が決まると、それだけで居ても立ってもいられない気持ちになった。素早く食事を終えると、風巳は車の鍵を受け取って、すぐに邸宅を出る。
会えると考えるだけで、胸の詰まるような思いに苛まれる。
苦しいくらいに恋しい。この餓えを癒せるのは、世界にたった一人。
愛しい人。
焦がれて止まない対象。それは、朝子だけなのだ。