3:ささやかな野望
久しぶりに親友の晴菜と外で会ってから、朝子は夕方に帰宅した。いつものように真っ直ぐにリビングに向かって顔を出すと、まどかが食卓の上で野菜の下ごしらえをしていた。
「ただいま」
「おかえりなさい、朝子ちゃん。晴ちゃんは元気にしていた?」
「うん。溌剌とバイトの鬼になっていたよ。今日もこれからバイトなんだって」
彼女の手の中でくるくると皮を剥かれてゆくジャガイモを眺めながら、朝子は珍しい光景だと食卓へ歩み寄る。
「まどかさんが食卓で準備をしているのって、初めて見る気がする」
彼女は常に嬉々として台所に立っている。朝子の目には、食材に触れるための神聖な場所であるかのように映っていたのだ。
「初めて?言われてみればそうかもしれないわ。キッチンの方が、手際がいいものね」
もちろんゆったりと食卓の椅子に掛けて、手先だけを器用に動かしている彼女もとても和やかに見える。朝子はキッチンから包丁を持ってくると、同じように食卓について彼女を手伝うことにした。
卓上に並んだ野菜を手にとって、包丁を向ける。まどかは「ありがとう」と顔を綻ばせてから、物憂げに深く息をついた。彼女らしくない仕草が気になって眺めていると、心なしか包丁さばきが気だるげに見える。
「どうしたの?まどかさん」
「え?どうしたのって?」
彼女は全く心当たりがないという様子で朝子を見た。
「気のせいかもしれないけど、だるそうに見えるから」
朝子が言い当てると、彼女は困ったように笑う。
「きっとね、朝方や夕方が涼しくなってきて、体調が気温差に戸惑っているみたい」
「あ、それはわかる気がする」
日中は厳しい暑さが続いているが、日暮れは秋の気配を漂わせている。朝子はちらりと風巳が米国へ戻る日も近いと考えてしまう。けれど、この一夏の思い出が独りきりの日々を乗り越える糧になるのだと思い直した。
「朝夕はすごく涼しくなってきたもんね」
「そうなの。おかげで少し風邪っぽいけれど。でも、大したことないわ」
まどかは何でもないと微笑むが、朝子はすぐに思い至ったことがあった。思わず指折り数えてみる。兄の帰国からも二ヶ月が過ぎたのだ。計算はあう。
今度こそと期待に胸がはやるが、前回の誤解のこともあるので先走るのを戒めた。
あまり露骨に窺うのもどうかと思い、朝子は遠まわしに確かめてみる。
「風邪っぽいって、咳が出たりクシャミが出たりするの?」
まどかは朝子の思惑に全く気付かない様子で素直に答えた。
「ううん。少し熱っぽくて、だるいかなって。それだけよ」
予想通りの答えに、朝子は思わず「おめでただよ」と声をあげそうになって、何とか飲み込む。
「えーっと。あのね、まどかさん。つかぬことをお伺いしますが、月の巡りは順調ですか」
出来るだけ先走りそうになる気持ちを抑えて尋ねると、まどかは思いがけない質問だったのか「え?」と呟く。器用に動かしていた手元を止めて、朝子を見つめた。しばらく静止画像のように身動きもせず、ただ二人で見つめ合っていたが、やがて彼女の中で大きな発見があったようだ。澄んだ眼差しを大きく見開いて、信じられないことに気付いたように口元に手をあてた。
「――そういえば……」
朝子は思わずガタンと派手に椅子から立ち上がってしまう。
「本当に?まどかさん、それって今度こそ赤ちゃんが出来たのかもよ」
明らかになった事実に戸惑っているまどかを置き去りにして、朝子は食卓を離れようとする。
「とにかく、お兄ちゃんに報告しなきゃ」
「だ、駄目。朝子ちゃん」
喜び勇んで兄の処へ駆け出していこうとすると、朝子は強く腕を掴まれて引きとめられた。
「駄目、駄目なの。絶対に教えちゃ駄目」
まどかの剣幕に押されて、朝子はうろたえつつも頷いた。
「とにかく座って、朝子ちゃん。これは、まだ絶対に二人だけの秘密よ」
「え?う、うん。だけど、どうして?」
再びストンと食卓の椅子に掛けて、朝子は彼女を窺がう。
「あたし、明日実家へ戻って、お母さんと病院へ行ってくるわ」
「え、あれ?お兄ちゃんは?せっかくこっちに戻ってきているのに。二人で行かないの?」
まどかはふるふると首を横に振る。
「晶って、医療に関わる資格を持っている人でしょう?病院へ行く前に打ち明けたら、恐ろしいことになると思うのよ」
彼女が思い描いたのだろう成り行きを想像するのは、朝子にはたやすい。たしかに、兄は全くの専門外であるくせに、まどかをからかう絶好の機会だと知ったかぶりをするかもしれない。いや、絶対そうするに決まっている。
喜びに満ちた場面に立ち会えない兄を気の毒に思ったが、全てはこれまでの行いが悪いせいだと、朝子もあっさりまどかの意見に賛同した。
「でも、本当の理由はそんなことじゃなくてね」
彼女は悪戯っぽく笑って朝子に教えてくれた。
「実はね、野望があるのよ。自分の旦那様に何にも知らせずに、ある日ご馳走を作っておくの。ご馳走の理由もはぐらかしながら食事を始めて、最後にホールケーキを出すのね。その時に打ち明けるっていうのが、あたしのささやかな野望なのよ。驚く彼の反応を見てみたいのよね」
まどかはうっとりと夢を語ってくれるが、朝子としてはその野望が成功する確率は低いと思われた。あの何事にも敏い兄が、気がつかないはずがない。もしかするといつもより飾られた食卓を見た瞬間に言い当ててしまうかもしれない。
「まどかさん、その野望には無理があると思うな。お兄ちゃんはすぐに気がつくと思うんだけど」
朝子のもっともな意見を聞いて、まどかは珍しく不敵な笑みを浮かべた。
「あたしもそう思って諦めていたんだけど。でもね、大丈夫だと思うのよ。とっておきの秘策があることに気がついたの」
「え?本当に?」
「ええ。その秘策がある限り、絶対に悟られないわ。あたし、自信があるもの」
あまりにもはっきりと胸を張る彼女を見ていると、朝子も心強い気がする。成功するような気がしてきた。あの兄が驚く光景なんて、滅多にお目にかかれないのだ。妹として、朝子も素直に楽しみだった。
「でも、まどかさん。秘策って?」
朝子が何気なく問うと、彼女は唇に人差し指をあててみせた。
「それは秘密、と言いたい処だけど。……そうね。きっと朝子ちゃんには、風巳君が教えてくれるわ」
「風巳が?」
一体まどかの秘策と風巳がどのように繋がるのだろうと、ますます朝子には想像がつかなくなる。まどかは何かを思い出したのか、楽しそうに笑っている。
「そうよ。今夜辺り、きっと風巳君が教えてくれると思う」
「そうなんだ?じゃあ、秘策については風巳に聞こうかな」
まどかの自信を考慮すると、それはかなり有効な手段なのだろう。もしかすると、風巳も何らかの役割を担っているのかもしれない。
「きっと、おめでたいことって、続くのよね。……だけど、本当かしら」
まどかはそっと自分のお腹に手を添えて、瞳を閉じている。たしかな診断が下らなくても、そんな仕草を眺めているだけで、朝子は間違いがないだろうと思えた。
兄とまどかの想いの証。
朝子はまどかの幸せそうな笑顔を見て、心の中で祝福をおくった。