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1:決意表明1

 風巳かざみに与えられた夏期休暇は、およそ二ヶ月だった。九月末日までが母国に滞在していられる期限である。朝子の通う大学は十月の初日が後期の開始なので、風巳はあらかじめ休暇の日程をそのように仕組んでおいたのだ。


 こちらに滞在している間に色々なことを体験したが、休暇は無事に堪能できたと言ってもいい。

 この一夏で自分の中に燻っていた罪悪や葛藤とも、ようやく向き合えるようになった。全てを払拭することは叶わないけれど、きっとこれからは過ぎた出来事を振り返って悔やむばかりではないと思える。


 迷ったのなら、励めばいいのだ。自分を信じていられるように。

 二ヶ月あまりの夏季休暇は多くの収穫をもたらし、朝子あさこと過ごす日々も充実していた。

 楽しい一時は瞬く間に過ぎ去って、休暇は残すところあと一週間である。

 風巳は結城邸の自室で鏡の前に立って、ようやく手に入れた機会を無駄にしないようにと気合いを入れていた。


 こちらで過ごした日々は、切ない事件を見守ったりもしたが、常に朝子が傍にいる満ち足りた空気に包まれていた。

 本来ならば不満などあるはずがない。

 本来ならば。


 二ヶ月近くこちらに滞在しながら、風巳には思い切りやり残していることがあった。

 実はまだ果たされていない野望が残っている。

 野望。それは朝子の兄であるあきに決意表明すること、である。

 これまでを振り返って、風巳は既に彼の嫌がらせが始まっているのではないかと半ば本気で考えてしまう。


 風巳の休暇中も、結城邸の主であり、朝子の兄である晶は多忙を極めていた。はじめは不思議に感じることもなく悠長にかまえていたが、さすがにあと一週間の猶予しか残されていないとなると風巳もぼんやりしていられない。


 そもそも晶の勤務先である研究施設は英国にあるのだ。そう考えてみると彼が母国である日本に戻ってきても慌しく動き回っているのは解せない。

 最近は一日、二日と日時が消化されていくたびに、風巳は晶がわざと自分を避けているのではないのかという猜疑心に取り付かれてしまう。


(――さすがに、気のせいかな。いや、だけど晶なら充分有り得るし)


 風巳は鏡を眺めながら、襟元で器用にネクタイを締めた。自分の決意を示すために、まず身だしなみを正しておく必要がある。

 これから彼に重大な決意を語るのだ。

 どんな些細なことで晶に突っ込みを入れられるかわかったものではない。


(どうして、こんなに気が重いんだろ)


 風巳は大きく溜息をついてから、沈んでいきそうな気持ちを無理矢理盛り上げる。勢いよくスーツの上着を手にとって羽織ると、覚悟を決めて部屋を出た。


(はじめから弱気って言うのはよくないよね)


 自分に言い聞かせて一階に下り、ためらわずにリビングの扉を開く。室内にあった筈の人影を見つけられず、風巳は高めていた気合いが空振りするのを感じた。


「どうしたの?風巳君。これからお出掛け?」


 リヒングの向こう側にあるダイニングの食卓で、まどかが本を片手にこちらを向いて驚いたような顔をしている。


「ううん。これは単なる決意表明の証」


 風巳は自分の格好をそんなふうに例えて、まどかに晶の所在を尋ねた。


「晶なら、書斎にいると思うけれど」


 出掛けたわけではないようだと、返ってきた言葉に安堵しつつ、風巳は心の中で舌打ちをする。リビングならまどかもいるので心強いと思っていたのだ。書斎を訪れるとなると、彼と二人きりになるのは避けられない。


「風巳君。決意表明って?」

「あ、うん。朝子との関係をきちんと形にしておきたいと思って」


 素直に伝えると、まどかはパッと顔を輝かせた。手にしていた本を置いて、胸の前で手を組み合わせている。


「あたし、俄然応援しちゃうわ」

「そう思ってタイミングを計っていたのに、失敗したみたい。……書斎か。それでも今日を逃すと取り返しのつかないことになりそうだし」


 「気が重いな」と肩を落とすと、まどかは小さく笑う。


「大丈夫、大丈夫。だけど家の中で決意表明するのに、どうしてスーツに着替えたの?」

「え?こういう時って、やっぱり身だしなみを正して臨むものじゃないの?」


 まどかは何かを思い起こしているのか、指先を口元にあてて考える仕草をしている。


「たしかに、晶があたしの両親に挨拶に来てくれた時は、そうだったかもしれない」


 思い出に浸る彼女が、それだけで幸せそうに見える。風巳はさぞ非の打ち所のない光景だったのだろうと容易に想像がついた。


「だけど、風巳君の場合、今更そんなに畏まる必要はないと思うけれど」

「――そう、かな」

「うーん。でも、悪いことじゃないと思うわ。風巳君らしいかも」


 まどかの笑顔が、少なからず風巳の勇気を奮い起こしてくれる。


「とにかく、当たって砕けるしかないですよね」

「晶の次は、朝子ちゃんよね。あたし、二人にお祝いのご馳走を作るわ」

「ありがとう、まどかさん。……では、行ってきます」


 改めて覚悟を決めると、風巳は踵を返す。「頑張って」という声援を背にリビングを後にした。





 深呼吸をしてから、風巳は書斎の扉をノックした。まるで決戦開始の合図のように思える。いつもより高く打つ鼓動が、体中を支配しているようだった。

 それほど待たされることもなく、扉はすぐに開かれた。出てきた晶は風巳を見とめると、驚いたように一瞬だけ目を見開いた。


「なんだ、風巳か。どうしたんだ、おまえ。出掛けるのか」

「いや、そうじゃなくて……」


 まどかと同じような反応をされて、風巳はどう答えていいのか分からなくなる。戸惑っていると、彼は書斎の扉を大きく開いた。


「とりあえず、入れば?」


 風巳を室内に招き入れて、彼は扉を閉ざす。何かを警戒している様子もなく、晶は風巳をソファへ促した。風巳はソファにかけながら、書斎の隅に設えられた机で視線を止める。設計図のように見える書類が、さっきまでの彼の様子を物語るように無造作に開かれている。彼が多忙に振る舞っている理由が、そこに記されているように見えた。

 どうやら風巳のことを避けるために、邸宅に寄り付かなかったわけではないようだ。


「さてと、それで?」


 晶は向かい側に座って、真っ直ぐに風巳を見る。


「あの……」


 この機会を逃す手はないと判っているのに、風巳はどんなふうに切り出せばいいのか迷ってしまう。単刀直入に朝子が欲しいと訴えるには、まだ時期が早いような気がした。


「このあいだ海に遊びに行った時、晶に聞いてもらいたいことがあるって言ったよね」


 ようやく糸口を見つけて切り出すと、晶はすぐに思い至ったらしく「ああ」と頷いた。風巳がその後に続く言葉を探していると、彼は指先だけを組み合わせた手を眺めているのか、じっと俯いている。


「それを、今聞いてもらおうと思って」


 おそらく晶は既に風巳の語ろうとしていることに気がついているのだろう。軽く組み合わせただけの長い指先が、わずかに震えているように見える。

 俯いたままでは、真っ直ぐに落ちかかる前髪に隠れて、彼の表情を窺うことができない。


 風巳は無言の圧力を感じて息を呑んだ。彼から見れば、風巳などまだ幼くて頼りなく映っているに違いない。莫迦なことを言い出すのだと、晶は既に苛立っているのかもしれない。

 それでも、風巳は逃げることは考えていなかった。たとえ彼の逆鱗に触れても、それだけでは自分の決意を曲げる理由にはならない。


「朝子のことなんだけど」


 思い切って伝えようとすると、彼が「くっ」と小さく声を漏らす。肩を震わせて何かを堪えているようだったが、それは一瞬のことですぐに弾けた。


「――わ、悪い、もう限界」


 晶は耐え切れないという様子で、「おかしい」と呟いて涙を浮かべて大笑いしている。彼の逆鱗を覚悟した風巳にとっては、何が起きたのか理解できない。

 状況を把握できない風巳に、晶は笑いながら指摘した。


「もしかして、それでなのか」

「何が?」

「何がって。どうして、……どうして俺と話をするのに、いちいち着替えているんだ」


 晶は「笑い死ぬ」と訴えて、ひたすら爆笑しつづけている。


「こ、これは、だって俺にとっては重大な話だから」


 改めて指摘されると途轍もなく恥ずかしくなる。頬を朱に染めて訴えると、晶は「いや、悪かった」と手をあげて詫びる。それでもやはり可笑しくてたまらないらしく、笑いをかみ殺しているのか肩が小刻みに震えていた。


「人が思い切り真剣に臨んでいるのに」


 まさかそんなことが晶の笑いのツボを捉えるとは思いも寄らなかったが、皮肉なことに息を呑むほどの緊張感は消えうせてしまった。

 風巳はすっかりいつもの自分を取り戻して彼を睨む。


「いや、本当に悪かった」

「晶、まだ顔が笑ってる」

「いや、まさかそんな受け狙いで来るとは思わなかったから」

「狙ってないよ、もうっ。どういう神経なんだよ、それ」

「だから、さっきから謝っているだろうが」


 彼は笑いをかみ殺しながらも、なんとか気を取り直したようだった。笑いすぎて酸欠になったのか、深く息をついてから風巳を見た。笑みを浮かべたままの顔に嫌悪感はなく、思いのほか優しげな眼差しを向けられる。

 爆笑を誘ったものの、真摯な姿勢については評価してくれているのかもしれない。


「話を戻そうか。朝子のことについて?」

「うん」

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