2:彼を護る真実2
「私の両親は、透の両親に追い出されたわけじゃないのよ。母の病は治る見込みがないものだったの。余命を宣告されて父は片時もはなれずに母の傍にいることを選択した。仕事を辞めたのは父の意思で、それだけでも透のご両親には迷惑をかけている筈よ。なのに、透のご両親は医療費も生活費も、全て面倒を見てくれた。今までの父の功績に対して、それが報酬だと惜しみなく私達の一家を支えてくれたわ。母が亡き後も職場への復帰を望んでいた。だけど、父は母の死から立ち直ることが出来なかった。父が亡くなったのは、彼が弱ったからよ。透のご両親には、最後まで面倒を見てもらって本当に感謝している」
「……嘘、だ。だって、両親はそんなこと、俺には一言も」
「透のご両親は、そういう人よ。手を尽くすだけ尽くして、力になってくれた。ずっと、私の面倒も見てくれたわ。私が社会に出て独り立ちして、一人前になるまで。大学の学費も生活費もずっと透のご両親が面倒を見てくれたの。君は良一の忘れ形見だから、せめて幸せになって欲しいって。私はその好意に甘えてしまったわ。――それでもね、きっと透のご両親は父を死なせたことに責任を感じているの。力になれなかったのだと悔やんでいる。だから、一切の弁解をしない」
祥子はそっと佇む透の手を取った。
「透は本当にご両親に良く似ていて、――責任感が強くてね、優しいのよ」
「そんなこと……」
ないという言葉は掻き消えた。透は何かを堪えるように俯いている。
「だから、素敵な両親を持っていると胸を張ってほしいの。これからは、きちんとご両親と向かい合って生きて」
彼女は笑っているが、胸を押さえて深く呼吸する。祥子が一つずつ解き明かす事実は、透を救うための真実だ。彼女は彼の幸せだけを願っている。判っているのに、風巳は得体の知れない不安が大きく込みあげてくるのを感じた。
彼女が間宮に手を下した事実は辛い。彼女の口から聞いても、今でも信じられない気持ちでいる。けれど、透に語りかける彼女には微塵も悪意を感じない。
今目の前で形作られている光景は、穏やかで温かい。
風巳は競りあがる不安が、どこから端を発しているのか掴むことができない。ただひどく、何かが危機感に包まれているように思えた。
「だけど、祥子は俺のために――」
透が示す現実に、彼女は再び首を振ってみせる。
「それも透が責任を感じることなんてないわ。たしかに、透を襲う間宮を放っておくことはできなかった。だけど、それだけが理由じゃないの。私が、彼を恐ろしいと思ってしまったのよ」
「自分の、兄さんなのに?」
「彼と出会うまで、私は自分に兄がいることを知らなかった。間宮の過去が恵まれていないことは、一時期マスコミも騒いでいた。彼が孤児で、施設で育ったというのも事実。だけど、私の前に現れた彼がこれまでの経緯を教えてくれた。母は間宮を生んでから、体を悪くした。病弱な母を抱えて父には成す術がなかったようだったわ。たたでさえ父は一族から縁を切られているのだから、頼る者もない。だけど篠宮の本家は父の子どもを欲した。家の跡取りとして、父から取り上げて篠宮の家に迎えたの。今後一切、親子の名乗りをしないと厳しい条件がついていたけれど、父は承諾した。その方が息子は幸せになれると判断したのね。私の前に現れた時、間宮も両親の想いはきちんと理解していたようだったわ。両親を恨んでいるという様子はなかった。だけど、彼は自分を迎えた篠宮の家とはうまくいかなかった。何があったのかは私にも判らないけれど、父の事で厳しく当たられたのかもしれない。まだ小学生だった頃に家を出て、二度と戻らなかった。篠宮祥一という自分を捨てて、孤児として違う人間になった。そして生まれたのが、間宮祥吾。間宮は施設の園長の姓だと聞いたわ」
「まだ、子どもなのに?自ら全て捨てて、自分の素性も過去も、誰にも明かさなかった?」
「――そう。間宮と出会ったときは、素直に嬉しかった。両親を亡くして、もう身内と呼べる人がいないと思っていたから」
「うん。わかる」
透が頷くと、祥子は哀しそうに眼差しを細めた。息苦しそうに深く息をついた。
「ただ、彼は私の両親の過去について色々と誤解している節があって。それだけは私の言葉にも耳を貸さなかった。逆恨みだと判っていたけれど、私はいつか判ってくれる日がくると信じていた。……だけど、あの時、気がついてしまったの。間宮の心がとても歪んでいることに。彼は自分を苦しめたもの全てに、復讐がしたかったのよ」
祥子は右手を伸ばして、ブランコの鎖を強く握り締めた。
「あの夜、みんなが帰ってからすぐに間宮が訪れてきた。きっと、みんなが帰るのをどこかで待っていたのかもしれない」
鎖を握り締めている手に力がこもっているのが、風巳にも判る。さすがにその一夜のことを語るのは辛いのだろう。祥子は鎖から手を離すと胸を押さえる。自分の犯した罪と向かい合うことが恐ろしいのか、とても苦しげだった。
「透の怪我かひどくなっていくことには気がついていた。間宮の嫌がらせはどんどんエスカレートしている。敵の息子である透が私の傍にいることが、本当に許せないみたいだったわ。彼なりに私のことを心配しているのだと思っていたけれど、彼のやり方があまりにも目に余るから。あの夜にやめてと訴えた。間宮は自分のしていることを、私が気付いていないと思っていたらしくてうろたえていた」
「やっぱり、――俺のせいで」
透が苦しげに呟くと、祥子は「違うわ」と遮る。
「私はね、こんな事件がなくても透と別れるつもりでいたの。透は過去の罪悪感から私のことを気遣って、とても大切にしてくれた。私は透のその気持ちに甘えて、本当のことを打ち明けずにいたわ。透が真実を知ったら、私への想いを失ってしまうかもしれない。そう思えて、怖くて言えなかった。それがとても苦しくて、いつも透に会うと切なくてたまらなかった」
「そんなこと、俺はそんなこと関係なく祥子を好きになったんだ。今更何かを知ったって、気持ちが変わったりしない」
「――そうね。そんなふうに信じられたら良かったのに。私は臆病で結局逃げることしか考えていなかったんだわ。だから、透に対する間宮の仕打ちを理由にして、透に過去の真実がばれてしまう前に別れようと思ったの」
「独りで、……決めるなよ」
「そうね。ごめんなさい、透。だけど、臆病者で卑怯な私に、神様はきちんと罰を下したのかもしれない。あの夜、間宮にもそう打ち明けたの。透とは別れるから、もう彼を傷つけるようなことはしないでほしいって」
透は俯いたままの祥子を、じっと見つめている。
「私のために間宮が悪人を演じるのも、透が傷つくのも嫌だと訴えた。だけど、彼は笑って聞き入れてくれなかった。私はずっと間宮に騙されていたの。はじめて、彼の本心を聞かされた」
「本心って?」
「間宮は妹の私の幸せを願っているわけじゃなかった。ただ、自分を不幸にした人間を苦しめてやりたいと、そう言ったわ。自分の恨みをはらすために、透を痛めつけていたのだと。間宮は透の両親に向けても逆恨みの手紙を送ったと笑っていた。嫌がらせに、何度も、執拗に送り続けたと、楽しそうに打ち明けた。それで透が両親と仲たがいしているのも知っていて、自業自得だと罵る。彼は怨みにだけ突き動かされ、生きてきたのかもしれない。私に優しかったのも全て演技で、間宮は自分を捨てた両親のことも怨んでいたのよ。その両親の元で大切に育てられた私が、憎くてたまらない。それが彼の本心だった。どうして自分だけが見捨てられて、おまえは違うのかと責められた。――悪夢を見ているようだった」
「……そんなことが」
「私が間宮のために尽くすのは当たり前だと嗤う。両親の代わりに一生をかけて償えと。私の持つ全ての物は、兄である自分の物だと主張した。私は素直に彼を慕って曲を書いてきたけれど、間宮の想いはそうではなかった。それくらいの償いをして当然だと云った。間宮が幸せになることを望まないのは透だけではなくて、自分を捨てた両親の娘である私も一緒だったの。彼は私を絶望させるためにも、手段を選ばない。いずれ透に事故死でも仕掛ければ、私が絶望して気が晴れるかもしれないと、そんなことまで言った。はじめに彼がうろたえたのは自分の仕打ちがばれたことではなくて、私が透と別れてしまうと復讐が果たせなくなる。その一心からだったと悟ったわ」
「莫迦な、たった一人の妹なのに。どうしてだよ。……そんなの、狂ってる」
祥子は俯いたまま、力なく頷いた。
「私が透と別れても、私が誰かと付き合うたびに、間宮はその相手を傷つける。そうして私に復讐を続けると言った。透と別れても何の解決にもならないが、勝手にすればいいと。 彼は私を復讐のための生贄のように捉えていて、生涯手放す気はないと笑った」
彼女は再び胸を押さえて、呟くように伝える。
「――私を手放す気はないと、間宮の腕が伸びてきた。恐ろしくてたまらなかった。彼は、信じていた実の兄に襲われる気分はどうだと、私を組み敷いて笑っていた。当然、抗う私と間宮で、もみ合いになったわ。無我夢中で、気がついた時には、……彼は、動かなくなっていた。その後は、透も想像がつくわね。それが、真相なの。――だから、透のために、……手を、下したわけじゃないわ。私は、私を守るために、……罪を、犯したの」
彼女の言葉が不自然に途切れている。風巳は眉を潜めて、じっと祥子の様子を窺ってしまう。最悪の一夜を思い返して恐れているだけでは、説明のつかない何かがある。
「――祥子?」
透も違和感を覚えたらしく、ハッとしたように彼女の肩を掴んだ。祥子は苦しげに胸を押さえて、浅い呼吸を繰り返している。風巳は咄嗟に二人に駆け寄った。彼女が手にしていた小さな缶が、地面の上に落下して転がる。勢いよく中味があふれ出して、土の上に染みが広がった。
「祥子さんっ」
風巳が駆けつけると、祥子は透に笑みを向けた。
「ごめんなさい。私が、透を巻き込んだ」
「そんなことない」
「透に出会えて、――とても、楽しかった」
彼女の白い手が、そっと透の頬に触れた。彼はその手に掌を重ねて握り締める。
「祥子……?」
「――幸せ、だったわ」
「ありがとう」と告げて、するりと彼女の白い手が滑り落ちた。
浅い呼吸が止んで、微笑んだまま彼女はゆっくりと瞳を閉じる。力を失った体がぐったりと透の腕に寄りかかった。風巳は転がった缶を眺めて、自分の迂闊さに舌打ちをする。
危機感の元凶がやっと形になったのだ。
彼女は飲料水の中に毒物を混ぜていたに違いない。
「莫迦野郎、祥子っ。……おいっ」
透が血相を変えて彼女の頬を叩いている。
「祥子さんっ」
悲鳴のような朝子の声が響く。風巳はすぐに救急車の手配をした。こんな状況に陥ってしまっては、他に成す術がない。ひたすら手遅れにならないことを祈ることしか出来ない。
祥子は真相を語りながら、最後まで透を守ろうとしていた。
透の心を。彼が何ものにも捕らわれることがないように。
風巳は唇を噛んで、透の腕に抱かれている祥子を見る。
間宮の殺害は、仕組まれていた犯行ではなかった。冷蔵車が死体を冷やしたことも、ただの偶然だったに違いない。祥子には死亡推定時刻を捏造するような意図はなかったのだ。ただ恐ろしくて、目の届かないどこかへ運び出したかったのだろう。
彼女は自身の犯した罪を隠蔽する気などなくて、自らの命をもって罪を償おうとする。たとえ手に掛けた者が、自分を裏切っていたのだとしても。
「祥子っ」
透の悲痛な叫びが園内にこだまする。
静寂を揺るがす叫びが、深い闇を引き裂くように響き渡った。