3:過去と憶測3
風巳はこちらを見て不安そうな眼差しをしている朝子に気がついた。どうやら彼女も最悪の結末を思い描いてしまったのだろう。
けれど、その結末へ至るためには、幸いなことに動かすことの出来ない事実があった。
その事実が覆らない限り、それはただの推測に過ぎない。
ほとんど手をつけていない料理を眺めて、風巳は気持ちを整理するように吐息をついた。自分がこれから透に問いかけることは、打ちひしがれている彼を更に追い詰めてしまうのかもしれない。
透の屈託のない溌剌とした気性は、出会ってからの時間が短い風巳にも判る。見た目の派手さと正反対の純朴な性格。一途で前向きな透を、一瞬にして絶望に突き落とす何かがあったのだ。彼が我を失うくらいの、深くて暗い衝撃。
「吉川君は、さっき自分が殺したって言ったけど、……あれはどういう意味?」
風巳の中には透を殺人犯だと考えるような思いはない。きっと透は何らかの事情に対して、ひどく責任を感じている。その思いがあんな台詞になって語られたのだと、風巳はそう捉えていた。
透は問いにはすぐに答えず、座卓に肘をついて頭を抱え込む。打ち明けることをためらっているのか、混乱していて整理がつかないのか。風巳には見極めることができなかったが、しつこく詮索せずに彼が語り出すのを待つことにした。
茶碗に盛られたご飯はすっかり冷めている。風巳は箸を動かして、黙り込んでしまった透の傍らで、ただ黙々と料理を口に運んだ。
朝子も食欲があるとは思えない様子で、ゆっくりと料理を噛み締めている。
透は抱えていた頭をあげて箸を手に取ったが、またすぐに置いた。
「どんなふうに考えればいいのか、よくわからない」
小さな声が告白する。
「そんな筈がないって思っているのに、それしか考えられないんだ。信じているのに、でもそんなふうにしか考えられなくて。それを確かめることも怖くて。全部、俺のせいなんだ。俺が仕掛けたようなものだよ。……不安でたまらないのに、どうしたらいいのか判らない」
置いた箸に添えられたままの指先が、小刻みに震えている。風巳は自分の中に芽生えた推測が、透の中にもあるのだと気がついた。
それが現実であったのなら、彼にとってはこれ以上の悲劇はない。彼が絶望して我を失うのも、祥子と想いを通わせたことを悔いるのも、無理はないだろう。
これまでの成り行きが、最悪の結末へと向かっていく。
風巳は思い描いた成り行きを口にすることに抵抗を感じてしまう。言葉にすればそれが真実になってしまうような気がして怖かった。
それでも真実はその成り行きを辿らないはずなのだ。発表された死亡推定時刻がアリバイを立証してくれる。覆せない事実がある限り、成り行きは繋がらない筈だった。自分を落ち着かせるためにそう言い聞かせて、風巳は透の不安を形にした。
「もしかして、間宮祥吾の事件について心当たりがある?」
透はわずかに肩を震わせた。
「彼を死に至らしめた犯人に、心当たりがあるんだね」
ゆっくりと顔をあげて透は風巳を見る。向けられた眼差しの奥に、再び身震いするほどの絶望を見た気がした。酷な台詞だと挫けそうになったが、風巳は続ける。
「吉川君は祥子さんを疑っているんだ。彼女が吉川君の怪我の原因を知っていたと知って、そう思ってしまった。吉川君を襲う間宮祥吾を許せなくて、彼女が犯行に及んだのかもしれない。そう思えて仕方がないんだ。そうだろう?」
言い当てられて彼は張り詰めていた何かが緩んだのだろう。全身から力を抜いて、力なく頷いた。
「……うん、当たり」
朝子は祈るように両手を組み合わせて、透を見守っている。さすがに祥子を信じていない彼を責める気にはなれないのだろう。否定したいのに出来ないのは風巳も朝子も同じなのだ。拭っても拭っても染みが現れて広がってしまう。
しばらく重い沈黙に満たされていたが、朝子が気を取り直して事実を示した。
「だけど、間宮祥吾が殺された頃、祥子さんは私達と一緒だったよ。他の誰が祥子さんを疑っても、私達には信じられる事実がある。それに吉川君の話によると、間宮祥吾は祥子さんにとっては恩人で、お兄さんかもしれないんだよ」
「うん。俺もそう思うよ。吉川君と同じくらい、彼女にとっては大切な人だったんじゃないかな」
励ますように訴えると、透は低く笑った。自身を嘲笑うような笑い方だった。
「アリバイなんて、ないよ」
「――え?」
風巳は鼓動が大きく打つのを感じた。車の荷台で見た彼の仕草が蘇る。
「俺だってそう思って安心していたんだ。だけど、わかってしまった。祥子にはアリバイなんてない。でも、証拠はあるんだ」
「そんな……」
朝子がうろたえていると、透は無造作にポケットに手を突っ込んだ。取り出した物を、コトリ、コトリと座卓の上に置いた。
照明を弾く煌めきが二つ。朝子が小さく声をあげた。
「これ、こっちの。祥子さんがしていたペンダントのトップ、だよね」
「そうだよ。俺がプレゼントした」
教えられて風巳は見覚えがあるトップの正体にたどり着いた。たしかに、彼女の襟元で煌めいていた記憶が蘇ってくる。
けれど、もう一つは見覚えのないものだった。袖口を飾るカフス。翡翠で作られたそれは、美しい緑色で艶を放っている。
男物の装飾品。祥子の持ち物ではありえない。風巳は唇をかんだ。透に訊かなくても、カフスの持ち主は想像がつく。まるで悲劇へと導く道標のように、それは祥子の持ち物であるトップの隣で輝いている。
「吉川君、このカフスに見覚えがあるの?」
朝子の問いに、彼は迷わず頷いた。
「これは、間宮祥吾の持ち物だ。彼のお気に入りだったのか、何度か見たことがある。緑が鮮やかでよく覚えているんだ。間違いないよ」
「――そんな」
言葉を失いかけた朝子は、再び何かに気がついたらしい。続けて彼に問う。
「だけど、これだけじゃアリバイが崩れる説明にはならない。それに祥子さんは今朝、車で荷物を運ぶって言っていたんだから。それで吉川君に車を借りたんでしょ?ペンダントトップはその時に落としたのかもしれないよ」
透は悲しそうな顔をして答えなかった。それ以上自分を追い詰める事実を語りたくなかったのかもしれない。たしかに朝子の語る理屈では、間宮祥吾の持ち物が落ちていた理由が明らかにならない。
朝子が縋るように風巳を見る。彼女はどうにかして祥子へ矛先を向ける嫌疑を晴らしたいようだったが、残念ながら風巳には応える術がない。
祥子のアリバイが崩れる方法にたどり着いてしまったからだ。
「朝子。これは俺の推測だけど。もしもの話だけど。死亡推定時刻にズレがあるのかもしれない」
「どういうこと?」
「俺も何かで読んだことがあるだけなんだけど。死亡推定時刻は、その環境の気候や温度が考慮される筈なんだ。真夏と真冬では当然時間差ができる。――吉川君の使っている配達車は、死体の温度を変えることができるよね」
「よく、わからない」
「あの晩は、この夏の最高気温を記録する位暑い一日だった。夜も熱帯夜で暑かったよね。人が死んでから体が冷たくなるまでの環境を変えれば、死亡推定時刻は変わる。暑い処に放置されていれば体が冷えるまでに時間がかかる。でもそれを冷蔵すれば短縮される。死亡推定時刻を早めることができる」
「じゃあ、実際はもう少し遅い時間に殺されたということ?私達が帰った後に犯行に及んで、冷蔵車を使って外へ運び出したって、そういう理屈?」
「……そうかもしれないし、違うかもしれない」
風巳は断定することを避けた。そうでないことを信じていたかったのだ。そうでなければ透が救われない。自分の罪悪を拭うために祥子を求めた結果、間宮と透の間に確執が生まれた。その不穏な成り行きは祥子にまで影響を及ばして、最終的に透を守るために彼女が殺人を犯す。恩人だと慕い、兄であったのかもしれない者を、自ら手にかける。
それが真相であったのなら。透の中に刻まれる罪悪感は計り知れないだろう。
全ての元凶は自分なのだと、自身を責めるのも無理はない。
風巳は押し黙ってしまった透を窺う。彼は目元を手で押さえて、何とか気持ちを立て直そうとしているようだった。
「吹藤君、結城」
彼は全てを吐き出して覚悟を決めたようだった。翳りに彩られた強い眼差しがあった。
「メチャクチャな話、聞いてくれてありがとう。俺、祥子に電話するよ。……それで、全て解決するよな」
「――うん」
風巳は朝子と頷いてみせる。今まで語り合ってきた憶測が、全て笑い話になればいい。
透が自身の携帯を手にしたとき、以前聞いたことのある着信音が鳴り響いた。きっと祥子からの連絡に違いない。風巳は俄かに緊張が高まっていく自分を感じた。
強く鼓動を感じながら見守っていると、透が画面を開いた。彼の手が震えていることに気がついたが、彼は画面を眺めたまま凍りついたように表情を変えた。
「吉川君、どうしたの?」
朝子の余裕のない声が響く。
「祥子さんから?」
彼の中を突き抜けた衝撃を悟って、風巳は咄嗟に彼の携帯を覗き込んだ。
受信したメールは短い一言だった。
――透。今までありがとう、さようなら。
力を失った彼の手から、ゆっくりと携帯が床に落ちる。ゴトリという落下音が、まるで何かの終焉を示すように、重く響いた。