1:過去と憶測1
「さっきから、何の話をしているんだ」
まるで辺りの闇を払うかのように、よく通る声が響いた。風巳の目に映る光景が、一瞬にして夕闇の澄明さを取り戻すような錯覚がする。
結城邸の門柱に重心を預けるようにもたれて、晶が腕を組んでこちらを見ていた。いつからそこに立っていたのか、風巳は声をかけられるまで全く気がつかなかった。
「物騒なことを口走っていたけど……」
晶は恐れる様子もなく、三人の前まで歩み寄ってくる。
「一つ聞き捨てならない間違いがあったので、訂正しておくよ」
いつも通りの悪戯めいた笑みが場違いに見える。透は彼に肩を叩かれて、咄嗟に涙を拭った。涙の名残がある眼差しをあげて、戸惑った顔で晶を見ている。
「俺と朝子はね、本当の兄妹だから。こんなに麗しい兄妹愛を見ても、おまえには偽者に見えるのか。おかしいな」
「お兄ちゃんが嘘くさいからだよ」
素早く朝子が突っ込みをいれている。
彼女にとっては条件反射のようなものだが、その評価があまりに手厳しいので風巳は思わず笑ってしまう。
「おまえね、少しくらい賛同しろよ」
「麗しい兄妹愛とか気持ち悪いことを言い出すからでしょ。自業自得なの」
目の前のやりとりが痛快だったのか、透も笑みを取り戻した。小さく肩を震わせて、堪えきれずに笑っている。さっきまでの重苦しい雰囲気が嘘のように和んだ。
気持ちを立て直すためなのか、透は深く息をついてから朝子を見る。
「たしかに、二人はどこから見ても兄妹だよ。俺、失礼なことを聞いたな。ごめん、結城」
「え?私は気にしてないよ?」
「いや、待て。俺は風巳と繋がりがあるという意見がものすごく嫌だ」
突然矛先を向けられて、風巳は「え?」と晶を眺める。
「どうしてだよ、晶。妹の彼氏なのに」
「え?誰が?」
晶は眉をしかめて風巳を見ている。朝子が「もうっ、お兄ちゃん」と声を高くしていた。透はすっかり調子を取り戻して傍らで笑っている。
風巳にも晶の意図は理解できるのだが、自分に対する邪険な扱いについてはワザとではないかと疑いたくなった。
張り詰めていた空気が緩んだことを見極めたのか、晶が門扉に手をかけながら透を振り返った。頃合を見計らったように、玄関の方からまどかが顔を出す。彼女の声を聞きながら、晶が透に笑みを向けた。
「さて。落ち着いたところで、晩飯の時間になったみたいだな」
透はようやく晶の思惑に気がついたようだった。何らかの衝撃に追い詰められて我をうしなっていた事が恥ずかしくなったのか、瞬く間に顔が朱に染まる。深さを増す青い闇の中でも、見分けがつくくらいに顕著だった。
透の動揺の移り変わりを感じて、風巳は肩の力を抜く。同時に、撒き散らされていた断片がはじめとは違う情景を描きはじめていた。
「あの、俺、色々と失礼なことを言って……」
「ん?ああ、そんなことは誰も気にしていないし。あとのことは俺に関係ないからどうでもいいけど」
晶はあっさりと透を突き放してから、朝子を見て笑った。
「妹と風巳は放っておけないらしいから。三人でゆっくりと飯でも食えば? 腹が減っていると碌なことを考えない」
朝子と風巳に成り行きを託して、彼は結城邸へ戻る。きっと自分が透の世界に踏み込むことを戒めたのだろう。風巳は一部始終を思い返して、晶らしいやり方だと苦笑する。
透は自分を見失うほどの動揺からは立ち直ったようだが、翳りは依然として付きまとっていた。
彼の中を駆け抜けた衝撃。それが間違いなく透に傷跡を残しているように感じた。
突然芽生えた絶望の正体。恐ろしいほどの不安をもたらすもの。
ゆっくりと自分の中を巡り始めた考えを振り払うように、風巳も明るい声を出す。
「吉川君。寄って行きなよ」
地面に置いていた箱を抱えて、風巳が彼を促した。朝子も有無を言わせずに透の背中を押している。
「一緒にご飯食べよ」
透は一瞬、泣き出しそうに目を閉じたが、ゆっくりと頷いた。
「うん、ありがとう。……二人に、聞いてもらいたいことがある。俺の思い過ごしだったらいいんだけど」
素直に胸の内を打ち明けて、透はまたちょっと笑った。哀しそうな笑顔が痛々しい。朝子は気合いを入れるように「よし」と呟いて、大きく門扉を開いた。
夕飯の食卓は晶とまどかの気遣いで、三人だけの食卓になった。二階にある風巳の部屋まで料理を運び込んで、俄かに据えられた座卓を中心に三人で向かい合っている。
箸を手に取ってみたものの、透は胸が塞いでいるのか料理が喉をとおらないようだった。二日酔いのブランチの時よりも食が細くなっている。
こちらから彼の話を聞くのがためらわれて、朝子はただゆっくりと箸を進めていた。
「……何から話せばいいのか、よく判らないけど」
透は茶碗を片手に俯いたまま、そんなふうに切り出した。朝子は箸を止めて彼を見る。風巳も先を急かすことはせず、静かに見守っているようだった。
「俺はずっと、祥子には足長おじさんみたいな存在がいるんだと思っていた」
「足長おじさんって……?」
どんなふうに話が繋がって行くのか、どんなふうに理解するのが正しいのか、朝子にはよく判らない。とりあえず祥子に経済的な援助をしている者がいるということだろうか。透は目の前の二人の疑問に答えるように続ける。
「祥子の両親は既に亡くなっていて、いないんだ。彼女が経済的に恵まれているとは思えないから。だから、彼女が音大へ進むだけの学費がどこから出ていたのかとか、ずっと不思議だった」
朝子は透の示唆する足長おじさんの正体が、間宮祥吾なのだろうかと考えたが、言葉にはしなかった。
「だけど、親戚の人が面倒を見ているのかもしれないよ」
風巳がもっともな意見を述べると、透はかすかに横に首を振る。
「それは、考えられないな。彼女の両親はかけおち同然で一緒になったんだ。自分勝手に家を出た人間の娘を、親戚が快く面倒を見るとは思えない」
それは祥子に聞いた事実なのかもしれないが、朝子は何かが釈然としない。
「どうして吉川君がそんなことを知っているの?」
「……祥子の父親、篠宮良一って言うんだけど。その人は昔、俺の実家の工場で働いていたんだ」
突然繋がった意外な事実に、朝子は思わず身を乗りだしてしまった。
「え?祥子さんのお父さんが?」
「そう。うちみたいな小さな工場にはもったいない位よく出来る人で、親父なんかは本当に頼りにしていたらしいよ。俺はまだ幼くて、当時はよく判らなかったけど。でも良一おじさんのことは覚えているし、娘が一人いるらしいって言う話も聞いたことがあった」
「じゃあ、祥子さんと出会ったのは偶然なんだ」
透は自嘲的な暗い笑みを浮かべた。
「偶然、とは言えないな。当時は娘がいるらしいって知っていただけだし、祥子に会った事もなかったけど」
「だから、それって偶然じゃないの?」
透は首を振った。自分をごまかすように汁物の器に口をつけてから、真実を教えてくれる。
「結城は俺が小六で転校したのは知っているよな。その理由も」
「え?うん。噂だけど、工場がすごく儲かって、新しい事業が成功したとかなんとか。そんな話は聞いていたけど」
「うん、それはほぼ正解だよ。親父と良一おじさんが技術的な特許を取ったらしい。それが金のなる木だったらしくて、会社は躍進した。だけど、良一おじさんがうちを辞めたのも、その頃だったと思う。越してから、俺はおじさんを見なくなった」
「せっかく成功したのに?」
「そう。ずっと不思議には思っていたけど、何か事情があったんだろうなって。当時は深く考えることもなかった」
「――当時は?じゃあ、その後に深く考える出来事が、……起きたとか?」
風巳が問い返す。透は「するどいな」と苦笑して頷いた。
「実家に、ずっと匿名の手紙がきていた。俺がその手紙に気付いたのは高校生になってからだけど。内容は親父に対する恨みと言っていいと思う。言い回しは丁寧だったけれど、あれは間違いなく恨みの手紙だった」
透ははぁっと大きく息をつく。
「手紙には、良一おじさんが亡くなった経緯が事細かに書いてあった。仕事が成功して、俺の親父は利益を独り占めにした。親父に追い出された良一おじさんは、その後全てに悲観して、自殺したと書いてあった。おじさんの奥さんは、俺の実家が工場だった頃から、ずっと体が弱くて入退院を繰り返していたんだ。俺も両親とお見舞いにいったことがあるから覚えている。今考えれば、莫大な医療費がかかっていたと思うよ。きっとそれまでにも、ものすごく借金を抱えていたんだと思う。それなのにうちを追い出されて、おじさんにはなす術がなくなった。結果として、先に奥さんが亡くなって後を追うようにおじさんも逝ってしまった。俺が二人の死を知ったのは、その手紙がはじめてだったんだ。ものすごくショックで、両親に問い詰めた。親父達は何の言い訳もしなかった。全ての経緯も二人の死も知っていたのに。……あれは、衝撃だったな。信じていた何かが砕け散った感じがした」
「でも、ご両親にも何か事情があったのかもしれないよ」
「人の命よりも優先する事情って何?……俺には理解できない」
透が両親とうまくいっていないと語った経緯は、きっとここに根ざしているのだろう。朝子はかける言葉を失って、彼の苦しげな表情から目を逸らした。
彼はその一件で両親への信頼を見失ってしまったに違いない。重い沈黙を破るように、風巳が口を開いた。
「それで、吉川君は残された一人娘、祥子さんの行方を追いかけたの?そして出会った。だから、偶然じゃないっていうこと?」
透は両親への憤りを胸にしまい込んで、傍らの風巳を見た。
「うん。良一おじさんの実家は地元の名士だったらしい。でも、奥さんはピアニストを目指す苦学生で、酒場で弾いて学費を稼いでいたって聞いたことがある。二人の結婚は許されず、かけおちしたって。おじさんが照れくさそうに惚気ていたことがあったから。……だから、娘の祥子が今更親戚を頼るなんてことは出来ないと思った。たとえ頼っても平穏な生活環境じゃないだろうなって。そう考えたら、どうしているのか気になって。せめて幸せだったら、俺も救われる気がした。ものすごく自分勝手な解釈で嫌になるけど。でも、苦しくて……」
たしかに、祥子と透の出会いは偶然だったとは言えないだろう。複雑な事情の上に、透が望んだから成ったのだ。朝子は何ともいえない気持ちに襲われる。
透が祥子にたいして抱えていた罪悪感の在処。
償わなければならないと語っていた理由を明らかにされて、朝子は唇を噛んだ。