1:帰国
吹藤風巳が日本に帰国したのは、朝子と再会を果たした日の早朝だった。国際便のフロアで、彼は大きなスーツケーツを転がすこともなく、肩から薄っぺらな鞄を斜めがけしているだけだった。周りではスーツケースを転がして、広い通路を去っていく人影も少なくない。
風巳は帰国のために荷物をまとめる時間を惜しんで、ともかく間に合うぎりぎりの飛行機に乗った。まるで近所のコンビニへ行ってきますと言う軽装で、停留所からバスに飛び乗るような感覚である。
取る物もとりあえず、彼が慌しく米国を出る羽目になった理由は、彼が在籍している班の課題にある。
そもそも夏期休暇はずっと以前から約束されていたし、日程も決まっていた。それが幸運にも、予定よりも早く与えられることになったのだ。
要するに風巳達が取り組んでいた課題が、想像よりも早い進行を遂げて一段落したのが原因である。それはもちろん喜ぶべきことなのだが、風巳は帰国について一瞬だけ逡巡すると、次の瞬間には行動に出ていた。
今は荷物よりも、とにかく時間が惜しかった。
どうしても必要な荷物は、後で班員や友人に送ってもらえばいい。日本に置きざりにしている荷物だけでも、きっと生活が滞る心配はない。
結果、風巳は大そうな手荷物もなく、関西空港の国際便フロアに立っていた。
突然の決行だったので、今日の帰国は朝子にもまどかにも知らせていない。風巳は朝子の大学が考査期間であることも知っている。帰国の知らせを受けたら、朝子はきっと試験の合間をぬってでも、空港まで迎えに来ると言い出すだろう。嬉しいけれど、彼女が自分の進む道を応援してくれる限り、風巳も朝子の日常をかき回すようなことはしたくない。
突然帰って驚かすのも、それはそれで楽しい。
(だけど、やっぱりまどかさんには連絡を入れるべきかな)
風巳はフロアを見回して時計を探すと、自身の腕時計の時差を修正した。朝もまだ早い時刻である。
(まどかさんなら、起きているか)
残念ながら日本で通じる携帯を持っていないので、風巳は公衆電話を探して歩き出す。その時、また国際便が到着していたのか、少しだけフロアの喧騒が増した。辺りの人々が、同じようにある一点を見ていることに気付いて、風巳も思わず振り返った。
スーツを纏った、凛とした男性が視界に止まる。どこかで見たことのある顔だ。
おそらく楽器が入っているだろう黒いケースが、彼の職業を物語っている。
世界的にも名の知れた作曲家ではなかっただろうか。
古典の名曲をうまくアレンジする手腕は見事で、彼自身の作り出す旋律も美しい。
どこか哀愁を帯びた、切ない旋律が人々を惹き付ける。
(……ああ、間宮、――祥吾だったかな)
年齢はもう三十半ばだろうか。背が高く見栄えのする容貌。風巳が高校生の頃に、彼の作曲した楽曲が流行っていた時期がある。
風巳も知っている曲は多い。
悲劇を乗り越えて奇蹟を奏でる天才。そんなふうに謳われていた記憶がある。世界を虜にした才能とは裏腹に、彼の生い立ちは貧しく悲劇的で、それがまた人々の注目を集めた。
苦境に埋もれることはなく開花した才能。
ただその名声と共に、その複雑な生い立ちに同情を寄せるのか、あるいは単に美貌のせいなのか。一方では、いつも彼を取り巻く女性の影が、マスコミを騒がせていた気がする。
風巳は実物の方が見栄えがすると眺めていると、彼の前に一人の女性が歩み寄る。あまり見ているのも失礼な気がしたが、彼の傍に寄った女性が悲しげに微笑んでいるように見えて、そのまま凝視してしまう。
出迎えにしては、どこか不自然な微笑み方に思えたのだ。
間宮祥吾ほどではないが、女性にして長身で、やはり凛としている。艶やかな黒髪は長くて、癖がない。それでも毛先を梳いているのか、重たくは感じない。
色が白く、伏せ気味の眼差しは一重だろうか。間宮よりも年下であるのは間違いなく、綺麗な女性だった。
風巳が二人を見つめていると、ふっと間宮がこちらを見た。風巳は慌てたが思わず会釈してしまう。間宮は戸惑った様子も、嫌悪した様子もなく、微かに口元に笑みを浮かべてくれた。
その様子に気付いたのか、女性の視線も同じように風巳に向けられる。さすがに風巳は居心地が悪くなって、踵を返した。
通路を早足に過ぎて、下りのエスカレーターに乗る。そこまで離れてからそっと振り返ると、間宮が女性の肩に手を添えていた。親しげな仕草で、二人は恋仲なのかもしれない。
立ち去る間際に向けられた、女性の眼差し。澄んでいるのに、滲み出ていたのは翳りだろうか。どこか後味が悪い気がして、風巳は気持ちを切り替えようと大きく息をついた。
空港のターミナルビルを一階まで下りて、風巳は公衆電話を探す。
もう一度、腕時計で時間を確かめてから、受話器を取った。想像と違わず、まどかの懐かしい声が聞こえてくる。
彼女の驚いた様子に可笑しくなりながら、風巳はようやく日本に戻ってきたことを実感した。