2:花束
朝子はせっかくだから、駅前まで行ってみようと提案してみた。風巳の推測を否定しながらも、何かが腑に落ちない。本気で透を犯人だと考えたりはしないが、祥子と間宮祥吾の繋がりを無視してはいけないような気がした。
彼らの関係を明かされると、なぜかますます昨夜の祥子の言葉が引っ掛かってしまう。
それに間宮祥吾と知り合いならば、どうして彼女は単なる一ファンを演じるだけだったのかも判らない。
そんなふうに振り返ってみると、風巳が楽譜を見て間宮の新曲だと言い当てたときの透の動揺も不自然な気がしてくる。
高校時代の友人である一条司が招いてくれた公演でも、思い返すと気になる場面がたくさんあった。透は祥子と間宮祥吾の繋がりを知っていたのだろうか。
一つ一つ記憶を辿っていると、朝子は公演で舞台に立っていた間宮祥吾の姿にたどり着く。これまでに発表された彼の楽曲は、朝子も素直に好きだった。高校時代の思い出には、少なからずその旋律が刻まれているような気がする。
自身の中に得体の知れない引っ掛かりがあることも確かだが、間宮祥吾の死を悼む気持ちも素直に込み上げてきた。
彼の生み出す繊細な旋律は心を打つ。その才能が失われたことは惜しい。
「私も事件に興味があるし、せっかくだから現場にお花を供えたいな」
風巳は朝子の誘いに驚いたような顔をしていたが、すぐに気持ちを察してくれたようだった。
「うん、そうだね。ここからだと近いし」
風巳も思うところがあるのか快く頷いてくれた。二人が出掛ける身支度を整えていると、キッチンで夕食の用意をしているまどかがこちらを向いた。
「どうしたの?二人とも。今から出掛けるの?」
「うん。現場へ行って献花でも添えてこようかなって」
風巳が答えると、まどかがキッチンを出てこちらにやって来た。
「そうね、たしかに冥福を祈りたいわ」
「うん。事件にも興味があるし。まどかさん、何か買い物があればついでに寄ってくるけど」
「ううん。いいわ。……車で行くの?」
朝子は風巳と顔を見合わせる。駅前までは徒歩で半時間足らずの距離だ。時計を見ると五時半を回った処で、空はまだ明るいが焦がすような陽射しは緩んでいる。
「駅前に止めるのも大変だから歩こうかな。朝子と二人なら楽しいし」
「うん、私もその方がいい。散歩デートだね」
二人で結論を伝えると、まどかは「二人らしい」と微笑んだ。夕食までには戻ると言い残して、朝子は風巳と外へ出る。
昨日に引き続き今日も蒸し暑い。駅へと続く道程を歩いていると、近道できる公園にさしかかった。車では向こう側へ出ることが出来ないが、徒歩なら何の問題もない。朝子は迷わず近道を選んで、園内を通り抜けることにした。
砂利の敷き詰められた道を挟むように、青々と茂った落葉樹が並んでいる。風巳と他愛のないことを話しながら歩いていると、広場のような一角の片隅に、一台、二台とわずかに車が停められていた。
朝子はその中に見慣れた車体があることに気がつく。
白い塗装の上に小さく社名の入った配達車だった。透がバイトに使用している車である。風巳も気がついたようで、二人は思わず車の前で歩みを止めてしまった。
「吉川君が使っているのと同じ車だね。彼が停めているのかな」
朝子は思わず付近に人影を探すが、彼らしき人影はなかった。
「うん、ナンバーも同じだと思うけど。でも違う配達員の人が使っている可能性もあるし」
昨夜は祥子のマンションまで、透はこの車で風巳達を送ってくれた。晴菜がバイト帰りに直接マンションへ行くということだったので、二人だけ彼に送迎してもらったのだ。
お中元の時期はまだ続いているらしく、透は昨日も迎えに来る直前まで忙しく配達していたらしい。風巳達を迎えに来た時は、空になったにも関わらず荷台がまだ冷凍庫のままだと笑っていた。
園内には人の気配がなく、誰かがやって来る気配はなかった。風巳が「行こう」と歩き出すので、朝子も後をついて行く。中央に設けられた遊具も、この時刻になると子どもが戯れることがないようだ。
暮れなずむ光景の中に浮かび上がる滑り台やプランコは、どこか寂しげに見えた。
中央の広場を越えてから横道を使って公園を出ると、再び駅に続く道へ出た。目を凝らすと、ようやく向こう側に駅前の広い大通りが見える。道程の半分を過ぎたといった処だろうか。
駅前にたどり着くと、二人は目に付いた花屋で献花を選んだ。朝子が花束を腕に抱えて目的地に到着したのは六時過ぎだった。太陽は低い位置で依然として輝いているらしく、夜の闇はまだ訪れていない。
午前中にテレビで見た野次馬は、既に跡形もなくなっている。現場の検証も終わっているらしく、辺りはいつもの様子を取り戻しているように見えた。耳を澄ませばわずかに駅前の喧騒が聞こえる。
「この辺りは、道を一本入るだけで人通りが全然違うよね」
風巳は辺りを見回しながら呟く。現場のある筋は一方通行だが、道幅は思っていたよりも広い。現場には間宮祥吾の死を悼むように多くの花束が積まれていた。
二人は色とりどりの花束の群れに歩み寄り、その片隅に持参した献花を置く。二人で手を合わせて、しばし冥福を祈った。
やがて風巳が顔をあげて少しだけ周辺を歩く。朝子が振り返るようにして辺りを見ると、祥子の住むマンションが視界に入ってきた。この近隣では高さが際立っており、目立つ建物だった。
今くらいの時刻は丁度帰宅の時間帯なのか、自転車に乗った学生や上着を片手に歩く会社員らしき人影が、まばらに行き交っている。
中には同じように花束を手にやって来て、献花として添えていく人の姿もあった。間宮祥吾の通夜や告別式については、まだ何の発表もない。おそらく式には多くのファンが駆けつけるに違いない。現場の献花が如実にあらわしている。
「この道って、――祥子さんの住んでいるマンションに続いているみたいだね」
風巳が脇を通り過ぎている学生を眺めながら呟く。朝子は彼の隣に立って頷いた。
「もしかしたら、祥子さんもお花を供えに来たかもしれないね」
「……うん」
マンションへと繋がってゆく道を、風巳はじっと眺めている。朝子が同じ方角を見ていると、いきなり背後で聞きなれた声がした。二人で振り向くと、吉川透が屈託のない笑顔で右手を振っている。左手には彼に不似合いな花束を抱えていた。
「吉川君もお花を供えに来たの?」
「うん、まぁね。配達が終わってちょうど帰り道だから、ついでだけど。昼間テレビで見てびっくりしてさ。おかげで今日は一日中、配達車のラジオでニュースを聞いていた」
「わかる気がする。私もずっと続報を追いかけてた」
「だろ?昨夜俺達が集まって騒いでいる間に、まさかそんな事件が起こっていたなんて。ほんとに想像もつかなかったよな」
彼は花束の群れに近づいて手にしていた献花を中央に重ねた。手を合わせて俯いたまま、しばらく身動きしない。
「――すごく、残念だ」
胸の前で重ね合わせた掌を離して、ぼそりと透が呟いた。彼の横顔は何かを悔やむように花束を見据えている。朝子は透が間宮祥吾にそれほどの思い入れがあったのかと意外な気がした。胸の底に沈んでいる引っ掛かりが、水流に煽られるようにゆらりと持ち上がる。祥子と間宮祥吾の繋がりが頭から離れない。それが透にも繋がっている可能性を捨てきれない。
「吉川君も、間宮祥吾のファンだったの?」
彼は驚いたように朝子を見て、焦ったように首を振った。
「いや、その、……祥子がファンだし。だから、残念だなって」
うろたえた彼の様子を、隣の風巳は素直に受け止めたようだった。
「祥子さん、間宮祥吾の曲がものすごく好きだもんね。今頃、本当に落ち込んでいるだろうね」
透は頷いて苦笑を浮かべている。会話を続ける二人を見ながら、朝子は風巳の大袈裟な妄想を責められないなとこっそりと反省する。
他愛のない言葉、ささやかな仕草。透はいつも通り屈託のない笑顔で現れたのに。
祥子と間宮祥吾の繋がりを聞いてしまったからだろうか。
どうしても、全てが彼らに関わる何らかの事情に繋がるのではないかと、そんなふうにとらえてしまう。偏った眼差しを向けてしまう。
朝子は吐息をついて、気持ちを切り替えようと軽く自分の額を小突く。
「でも、結城に会えて良かったよ」
透はいつも通りの愛嬌のある笑顔を朝子に向けた。屈託のない様子には翳りが見えない。朝子の内にわだかまっていた気掛かりが、彼の笑顔によって拭われる。もし万が一彼らが何らかの形で事件に関わっていたのなら、透はこんなに無邪気に笑っていないだろう。
彼の真っ直ぐな心根では、周りを騙すことなどできないに違いない。だからこそ、これまで透が見せた動揺や翳りが引っ掛かるのも確かだが、今朝子の目の前にある彼の笑顔は本物だった。信じられる気がした。
「俺、これから結城の処に行こうと思ってたんだ」
「うちに?どうして?」
「だって、結城の兄さん達に何にも礼をしていないからさ。お礼を届けようと思って。ほら、この前話していた公園があるだろ。あそこにバイトの車を停めてあるんだけど、荷台に品物を乗せてあるんだ」
「あ、じゃあ、やっぱりあの車は吉川君が使っていたんだ」
「と言うことは、二人も公園を通り抜けてきたわけだ。駅前って駐車が鬱陶しいからさ、ちょっと距離はあるけど丁度いいんだよな」
「へぇ。だけど、お礼なんて別にいいのに」
「そんなに大した物じゃないんだ。田舎のばあちゃんが果物とか野菜を送りつけてきたから、どちらかと言うとお裾分けかな。俺がこんなだから、いつも心配しているんだろうけど」
「吉川君って、おばあちゃんっ子?」
朝子が微笑ましくなって尋ねると、透は苦く笑った。
「うん。一緒に過ごした時間は短いけど。俺、……両親とはうまくいってないから。ばあちゃんに泣きついたことがあってさ、それからかな。何も言わずに話を聞いてくれるし」
透の溌剌とした気性からは、両親との確執など想像もつかない。朝子は意外な気がしたが、祖母を慕っている透の様子は簡単に思い描くことが出来た。
「そっか、吉川君の処って複雑そうだね。でも相談できるおばあちゃんがいて良かった」
「うん。それは本当に救われてる」
彼は両親のことについては語らない。きっと家の事情に対しては、祖母以外の助けを必要としていないのだろう。朝子は詮索することを避けて話題を戻す。
「だけど、吉川君にも祥子さんにも気を遣わせちゃったな。お兄ちゃんの趣味で振り回して、こっちがお礼しなきゃいけない位なのに」
朝子が真顔で言うと、透は声をあげて笑う。
「結城のところって兄妹で仲がいいよな。でも、兄貴に対してすごく辛口で面白いよ」
透の言葉が核心をついていたのか、隣では風巳も同じように笑っていた。
「二人とも帰るのなら、また配達車で送るけど。って言っても、公園までは歩かなきゃいけないけどな」
朝子が風巳を見ると、彼は頷いた。二人は彼の申し出に従うことにして、歩き出した透の後について行く。朝子はそっと花束に飾られた場所を振り返った。
故人の冥福を祈ると共に、事件の解決を願う。
胸の片隅で何かが警鐘をならしているような気がしたが、朝子は思い過ごしだと心の耳を塞いだ。この後、急激に展開する真相が疑いようもなく透を追い詰めてゆく。そんなめぐり合わせを知る由もなく。
想いは時として、誰かを守るために何かを傷つける。
正義など、どこにもありはしないというように。