5:絡みあう断片2
風巳達が朝食を終えた頃、数日ぶりに晶が帰宅した。まどかも一晩だけ留守にして、どうやら一緒に戻ってきたようだ。
キッチンで朝子と並んで片付けを手伝っていると、まどかがこちらを見て笑う。
「なんだか、新婚さんみたいで可愛いわ」
無邪気な発言に、隣の朝子は即座に顔を火照らせている。風巳がそんな日々を想像していると、晶が嫌な笑い方をしながらまどかの隣に立った。
「新婚?あー、むりむり。風巳はそんなに簡単にゴールインできないから」
「どうして?」
三人が興味を引かれて彼を見ると、晶は楽しそうに思惑を口にする。
「それは、やっぱり障害物があった方が色々と盛り上がるだろ」
「障害物って?」
まどかが不思議そうに彼を仰いでいる。朝子は眉間にシワを寄せて兄を見つめていた。
「それは俺が完璧に演じてやるよ」
「もうっ、そんなの演じなくていいよ」
声をあげる妹を無視して、晶は風巳を見る。
「楽しみだな。どんなふうに挨拶に来るのか。まぁ、その前に破局してなきゃいいけど。……俺としては頑固親父風にテーブルをひっくり返すのが理想かな」
「そんなのお兄ちゃんがやりたいだけでしょ」
朝子の全否定の叫びには気付かない様子で、まどかも乙女回路を発揮して想像しているようだった。
「じゃあ、さしずめ晶の台詞は「出直して来い、馬鹿者」みたいな感じかしら。あたしは影で二人の慰め役をするお母さんがいいな。「お父さんは寂しいのよ」とか言っちゃたりしてね」
「もう、まどかさんまで面白がってる」
拗ねる朝子に、まどかは楽しそうに笑いかけている。風巳は突然振られた話題に固まっていたが、そっと吐息をついた。晶は兄として、あるいは保護者として、どこまでも人を肴に楽しむつもりらしい。
どんな確執よりも、風巳にとっては彼に告げる一言が、最大の難関であるのかもしれない。想像すると恐ろしい気がしたので、風巳は深く考えることを放棄する。
食器を片付けてキッチンを出ると、晶がリビングのテレビをつけた。何か番組を探しているのか、忙しなくチャンネルを変えている。
「何か面白いテレビでもやっているの?」
傍らまで歩み寄って声をかけると、彼は諦めたようにリモコンを置いた。
「駅前で事件があったようだから。もしかしたら中継でもしているかと思ってね」
「事件って?」
晶はようやく上着に手をかけて脱ぎ捨てながら答えた。
「帰ってくるときに駅近くで警察車両が止まっていたんだ。野次馬もすごい数で、通行もままならない位だった。現場はまだ道の奥まった処みたいだったけど」
「へぇ、大きな事件っぽいの?」
「……さぁ、どうだろうな」
彼も詳しくは判らないようで、それ以上を語らない。
駅周辺で起きた事件。
風巳は胸に一筋ヒヤリと何かが刺さるような悪寒を感じる。世間を騒がせるような大きな事件に、何かが繋がるわけがない。判っているのに、掌に冷や汗を握っていた。
晶の上着をまどかが受け取っているのを眺めていると、突然玄関の方から慌しい気配がやって来る。
風巳は鼓動が高くなってゆくのを自覚した。何か嫌なことが起きる前兆のように、廊下を駆けて来る足音を不吉に感じる。
「こんにちは。お邪魔してます」
よく通る声が、事後承諾で訪問の挨拶をする。朝子の親友である室沢晴菜だった。昨夜は招かれた部屋で、今日も朝早くからバイトだと話していたはずだ。風巳が時計を見ると正午まで、あと半時間しかない。
どうやらバイトが終わってからの寄り道らしい。
彼女はうっすらと額に汗を浮かべて、活き活きと語ってくれる。
「駅の近くですごい事件があったんですよ。知ってます?」
晶は晴菜にも帰ってくるときに見た光景を語った。彼女は「それです」と声を高くする。
「晴ちゃん、何か詳しいことを知っているの?」
「もちろん。バイト先から近かったから成り行きで」
彼女の情報に耳を傾けながら、風巳は自身の動悸を感じていた。朝子も固唾を呑むようにして、食い入るように親友の顔を眺めている。
「死体が見つかったみたいですよ」
「え?人の?」
まどかは咄嗟に口元に手を当てて驚いている。
「それって、殺人事件?」
「いえ、さすがにまだそこまでは判らないけど」
晶が身元を尋ねると、彼女は的確に答えてくれた。
「それがね、あの作曲家の間宮祥吾だっていう話で。まだ警察も完全に身元の確認を取れているわけじゃないのかもしれないけど、そんな声を聞いたから」
「間宮祥吾って、あの?」
著名な人間の名が出て、晶も驚いているようだった。風巳は既に自分の鼓動がうるさすぎて、周りの話し声を遠くに感じる。
少しずつ、何かが、風巳の荒唐無稽な予感を形にしようとしている。
何とか落ち着きを取り戻そうとする風巳の隣で、朝子と晴菜の声が響く。
「祥子さん、大ファンだったのに。哀しむだろうね」
「うん。本当にびっくりだよね。でも、どうして死んじゃったんだろう。しかもあんな処で」
事件の話題から、間宮祥吾の才能を惜しむ会話へと繋がってゆく。風巳の中には、鮮明に蘇る光景があった。
朝子の知らない、祥子と間宮の繋がり。
いっそうのこと、空港で見た光景が白昼夢ならば良かった。知らなければ、こんな戦慄を覚えることもなかったのに。風巳は大きく息をついて、何とかいつもの自分を取り戻す。
考えすぎだと、改めて思いなおした。
まだ幾つかの断片が、たまたま符合を揃えただけなのだ。単なる偶然と、自分の思い込みに過ぎない。思い込みで幻想を描いている。
自分が危惧するような出来事へ繋がってゆく筈がない。
「本当に残念だね、風巳」
何も知らない朝子が振り返る。風巳はただ頷いた。
自分の思い込みが描き出すのは、きっと間違いだらけの構図なのだ。
言い聞かせてみても、風巳は胸に込み上げる戦慄を止めることができなかった。