4:絡み合う断片1
祥子のマンションを出たのは深夜だった。十二時を少し回ったくらいの時刻だったと、風巳は記憶している。食事にアルコールが登場してからは、五人でゆっくりと呑みながらとりとめのないことを語り合っていた。
風巳は以前の宴会での惨状を教訓にして、今回は呑むことよりも食べることに重点を置いてみた。どうやら透にも同じ意識があったようだ。二人の食欲魔人な活躍で、祥子の用意してくれた数多の料理が、最終的には綺麗に片付けられていた。
日付が変わり、帰宅することになると祥子はわざわざタクシーを用意してくれた。おかげで朝子と二人で結城邸に戻るのには、三十分もかからなかったと思う。
朝子は大して呑んでいなかったが、もともと強い体質ではないのかもしれない。家にたどり着いても酔いのせいでぐったりとしていて、そのまま就寝したようだ。
晶とまどかが不在の結城邸はどこかひっそりとしていて、風巳もすぐに寝台に横になった。帰国してからは身の周りを整えてくれる環境に甘えきっている。最近の生活を振り返ると、朝早くに起きた記憶も数えるほどしかない。風巳はこの際、規則正しい生活を取り戻そうと、目覚ましを早い時刻に合わせて目を閉じた。
気を引きしめた成果なのか、翌朝の目覚めは悪くなかった。風巳は簡単に身支度を整えると、陽射しが強くなるまで周辺を走ってみた。心地よく汗を流して帰宅すると、外に出る前はひっそりと静まり返っていた邸内に人の動く気配があった。
風巳が汗を拭いながらリビングに入ると、奥に位置する対面キッチンに朝子が立っている。彼女はすぐに風巳に気がついて、笑顔で迎えてくれた。
「おはよう、風巳」
「おはよ」
キッチンからは何かを炒めている香りが漂ってくる。風巳はその匂いにつられるように、ダイニングから食卓を越えてキッチンを覗いた。
「風巳、やっぱり外を走ってきたんだ?昨夜の今朝で元気だね」
朝子はフライパンを片手に、しみじみと感嘆している。
「昨夜は戻ってからすぐに寝たし。最近はちょっと甘えすぎで、たるんでいたからさ」
「そうかな。……それにしても、すごい汗だね。とりあえず何か飲む?」
フライパンから手を離して、朝子は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。素早くコップに注いでから手渡してくれる。風巳は「ありがとう」と笑って、一息に空けた。
喉の渇きが癒されると、今度は空腹を自覚する。
忙しなく動いている朝子の手元では、料理が形になりつつある。
「美味しそうだね、それ」
「あ、うん。朝ごはんだよ。もうすぐできるから」
「じゃあ、俺はその間に汗を流してくる」
風巳は浴室へ向かいながら、昨夜の朝子に感じた気掛かりは思い過ごしなのかと考え直す。今朝の朝子はいつも通りで翳りは見られない。昨夜は途中から祥子の演奏を聞いて、下を向いていたのだ。たしかに祥子の奏でる音は哀愁に満ちている。俯いた朝子の表情はよく判らなかったが、どこか苦しげに見えた気がした。単に酔いが回って、けだるげに見えただけだろうか。
汗を流してから再びリビングへ戻ると、一続きになっているダイニングの食卓には、既に朝食の用意が整っていた。
「あ、風巳。ちょうど良かった。食べよ」
「うん、ありがとう」
朝子の笑顔は明るい。さっきまでの憂慮を忘れて、風巳は甘い想いに捕らわれる。朝子と二人きりの朝。ささやかな光景なのに、まるで未来を映しているような錯覚がする。そんな発想を照れくさく感じながら、風巳はいつもの席についた。
二人で食事を始めると、今朝は向かい側に掛けている朝子が、じっとこちらを見ている。風巳の中で再び昨夜の気掛かりが蘇ってきた。
「どうしたの?朝子。やっぱり昨夜、何かあったの?」
感じたままを問いかけると、朝子は驚いたように目を丸くする。
「風巳は何でもお見通しだね」
「やっぱり何かあったんだ?途中から様子がおかしいって思っていたからさ」
「……うん。どう表現したらいいのかわからないけど」
朝子は祥子と二人きりで交わした会話を克明に教えてくれた。風巳の中にも、なんと形容すればいいのか判らない思いがわだかまる。
祥子の抱える不安。
透の危機を知っていても、何もできない立場を悔やんでいるだけだろうか。
離れた日々を不安に思う気持ちは風巳にもある。けれど祥子の懸念は、もっと大きな闇を抱えているような気がした。誰にも語れない密やかな理由。それが何を表しているのかは、風巳にはわからない。解き明かす手掛かりがない。
透と祥子に関わる、何らかの影。
きっとそれは、少しずつ朝子を巻き込んでいるに違いない。そんなふうに思えて仕方がなかった。覚悟を決めていたものの、風巳は頭を抱えたくなる。
「朝子が力になるって決めたなら応援するけど。……でもね、俺にも一つだけ絶対に譲れないことがある」
「譲れないこと?」
「うん。俺にとっては、朝子が一番大事なの。吉川君も祥子さんも、もう他人じゃないけど。朝子が巻き込まれて危ない目にあったり傷ついたりするのは、絶対に駄目。それだけは譲れない。……俺だって、ずっと傍にいられるわけじゃないから、すごく不安なんだ」
大袈裟に捉えすぎているのかもしれない。そう考えてみても、透が襲撃を受けて怪我を重ねていることは事実なのだ。公にすれば立派な傷害事件になる。その矛先が朝子にまで向かないと、風巳にはそこまで楽観することはできない。
「だから、朝子。それだけは絶対に約束して」
朝子は考えすぎだと笑うかもしれない。風巳が彼女の反応を待っていると、朝子はゆっくりと頷いた。
「うん。わかった。……そうだね。私の考えが足りなかったみたい。とても浅はかだった。風巳の気持ち、考えていなかったね」
「そんなことはないけど。――ただ俺が、大袈裟に考えすぎているだけかもしれないし」
「ううん。実際、吉川君は怪我をしているんだもん。私、自分が出来ることと出来ないことは、きちんと考える」
風巳の思いを、彼女は正しく受け止めてくれたようだった。
「ありがとう、朝子」
真っ直ぐにぶつけた不安を、朝子はしっかりと見つめてくれる。
懸念すべき要素が、全て払拭されたわけではないけれど。
それでも朝子が一人で危険を冒さないことを約束してくれたのだ。
風巳は自然に笑うことが出来た。
「だけどね、俺もこっちにいる間は精一杯のことをする。朝子を応援するからね」
「うん。心強い。ありがと、風巳」
朝子の笑顔が曇らないようにと、風巳はそっと胸の内で呟く。誰だって友人の不幸など望まない。透と祥子のこれからが平穏であるように願ってしまう。
風巳はこの時、あえて胸に広がりつつあった暗い予感から目を逸らした。けれど、事態はこの後、その予感を後押しするような展開を迎えることになる。