3:直筆の楽譜3
祥子は間宮祥吾の曲を全て暗譜しているようで、朝子達のリクエストにも快く応じてくれた。雑談を織り交ぜながら、楽しいひとときを過ごしていると、時刻はいつの間にか九時を回っている。
朝子は時計を見て、もうそんなに時間が経っていたのかと驚いた。ここを訪れたのが七時過ぎで、既に二時間が経過している。誰もが同じ感想を抱いたようだ。祥子が慌てて「食事にしましょう」と立ち上がった。仕度が遅くなったことを詫びながら、キッチンへ入っていく。
朝子は晴菜と再び「手伝います」と後を追いかけた。
祥子の用意してくれた料理を並べながら、朝子は彼女の颯爽とした後姿を見る。普段の仕草には甘い女らしさが感じられないが、ヴァイオリンを構えたときは別人のように優美だった。作られた料理もやはり繊細に飾られている。
嫂であるまどかと比べると対照的な印象があるが、質の違う魅力に溢れていた。飾り気のない仕草に、時折現れる柔らかな所作が甘い。朝子は何気なく仕度をしている祥子に羨望の眼差しを向けてしまう。
ソファに挟まれたテーブルには、既に食事の用意が整っていた。一つのテーブルでは事足りず、新たなテーブルを付け足して、食卓が出来上がっている。
既に箸をつけている三人を眺めながら、朝子は給仕に徹している祥子に声をかけた。
「祥子さん、何か手伝うことがあったら言ってくださいね」
「ありがとう。だけど、もう大丈夫」
祥子は「結城さんもどうぞ」と言い掛けて、不自然に言葉を詰まらせた。二人のいるキッチンからソファのある位置を見渡すのはたやすい。それでも少しだけ距離と隔たりがあった。
「結城さん」
祥子は言葉を探しているのか、何かに迷っているように目を伏せた。ゆっくりとした瞬きの後に、もう一度朝子を見つめる。
「透の怪我は、彼の不注意が原因じゃない。違う?」
「え?」
「そうでしょう?」
朝子は思わず身を硬くしてしまう。どんなふうに答えればいいのかわからなかった。祥子は翳りのある眼差しに、苦しげな笑みを浮かべる。
「ごめんなさい。あなたを問いただしているわけじゃないの。私は、……知っているから。透は誰かに狙われているの」
彼女の不安が、まるで朝子にまで伝染してくるようだった。
「祥子さん。でも、吉川君はバイトの怪我だって」
思わず暗い気持ちを拭おうとして、朝子は気休めにもならない理由を示した。祥子は小さく笑った。哀しげで暗い笑みだった。
「透が友達に私を紹介してくれるなんて、思いもよらなかった。もしかすると、彼は結城さんに助けを求めるかもしれない。――その時は、どうか透をお願いします」
突然の依頼に、朝子は戸惑う。彼女の真意を測りきることができなかった。それは本来祥子の役割である筈なのだ。自分が変わりを務められるようなものではない。
彼女は答えることの出来ない朝子の思いを察したのか、また小さく笑った。
「私はあまりこちらにいないから、彼が心配なの。……私が、ずっと傍にいられればいいのに」
最後の呟きが、祥子の本音だと思えた。朝子は笑顔を取り戻して頷いてみせる。
「友達として力になれるなら、私も嬉しいです。吉川君とは、昔なじみだし」
「昔なじみ?」
彼女は初めて聞くといった感じで、首を傾げた。
「はい。小学校の同級生なんですよ。大学で偶然再会して」
「そうだったの」
祥子は驚いていたようだが、ふと何かを思い出したように朝子に質問する。
「じゃあ、もしかして結城さんって、透の秘密の力を知っている女の子かしら?それを聞いて、すごいって言ったことがある?」
朝子が頷くと、祥子も何かを得たようにゆっくり頷いた。
「そう。……それでなのね。結城さん、私がいなくなっても透ことをお願いね」
朝子は一瞬、まるで二人に永遠の別れが約束されているような気がしたが、すぐにそうではないと思い直す。彼女の示す不在は、遠距離で会えない日々を示している筈なのだ。
わずかに引っ掛かりを感じながらも、朝子は快く「はい」と頷いた。
離れている日々にも、相手を想っている気持ちはよく判る。素直に二人を応援したかったし、幸せになってほしかった。
何らかの経緯を抱えているのだろう二人の前途が、朝子には自分達の未来を映しているように思えてならない。
遠く離れた二人。
胸にわだかまる罪の意識。
透と祥子はきっと負けない。朝子は強くそう言い聞かせた。
「さぁ、結城さん。私達も」
「あ、はい」
颯爽とした足取りで、祥子がキッチンを出た。後ろを追いかけてソファへ向かいながら、朝子は吐息を漏らす。
祥子の悲しげ微笑みが鮮明に刻まれている。わずかな不安が、密やかに嫌な予感を覚えさせた。