表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/61

2:直筆の楽譜2

 室内に足を踏み入れるなり、親友の晴菜はるなは歓声をあげる。誰に対しても初対面の戸惑いがない彼女は、素直にはしゃいでいた。

 ここにたどり着くまでのマンションの仕様を裏切ることなく、室内も完成されている。訪れた四人がちっぽけに見えるほど、リビングが広い。穏やかな色合いのなのに、華やかな印象がある。


「どうぞ、座って寛いでいて下さい。とにかく、何か飲み物でも淹れますね。食事も用意してあるんですけど」


 祥子しょうこが傍らに据えられた開放的なキッチンへ入っていくので、朝子あさこも晴菜と「手伝います」と後を追いかけた。

 恐縮する祥子の傍らで器を取り出しながら、朝子はぐるりとリビングを見回す。向こう側の一角に、立派なグランドピアノが陣取っていた。壁面には楽器の入っているのだろうケースが、ずらりと立て掛けられている。中には箱に納められず、むき出しのままでヴァイオリンやギターが置かれている。


 いかにも音楽家の部屋という感じがした。たしかに普通の乗用車では、これらの楽器を移動させることは出来ないだろう。

 朝子は楽器を眺めているだけで嘆息が出る。

 風巳かざみはすすめられた大きなソファには掛けず、室内を向こう側へ進んで、楽器に歩み寄って熱心に眺めていた。まるで何かを探しているような仕草にも見える。


 朝子は大きなソファに挟まれたテーブルに紅茶を乗せた盆を運んだ。ティーカップを並べていると、晴菜が自身のバイト先で調達してきたケーキを持ってくる。


「私、ここのお菓子大好き」


 祥子は打ち解けた笑みを浮かべて、キッチンから出てきた。彼女が用意してくれていた夕食は少し後回しにして、とりあえずお茶の仕度が整う。


「風巳、お茶にしようって」

「ああ、うん」


 朝子が部屋の向こう側に立っている彼に声をかけると、肩が一瞬驚いたように上下した。風巳は手に紙片を持っており、少し迷ってからそれを手にしたままソファまで歩み寄ってくる。


「これ、祥子さんが書いたの?」


 隣に座った彼は、向かい側の祥子に紙を差し出した。朝子は晴菜と一緒に興味津々と覗き込む。それは直筆の楽譜だった。思いつくままを書き留めたようで、お世辞にも丁寧なものとは言えない。晴菜が思ったままを口にする。


「じゃあ、作曲とかやっているんですか」

「それは、……違うの」


 迷いを振り切るように、彼女は答える。朝子が楽譜を手にしている風巳を見ると、彼は吐息をついた。


「じゃあ、この楽譜は祥子さんが書いたものじゃないんですか」


 朝子はどこかで胸騒ぎを感じた。風巳の質問を誘導尋問のように感じるのは気のせいだろうか。彼は何かを導き出そうとしている。そう思えて仕方がなかった。

 祥子は真っ直ぐに風巳を見つめ返して、小さく笑った。


「気がついたのね」


 祥子にはうろたえている様子がない。傍らの透は風巳から楽譜を取り上げて、じっくりと眺めている。風巳は降参したように頷いた。


「そこに書かれている曲は、この前の公演で間宮祥吾まみや しょうごが披露した新曲によく似ているから。似ているっていうか、同じ曲ですよね」

「――え」


 とおるが凍りついたように動きをとめて、風巳を見た。あまりの狼狽ぶりに、晴菜が「どうしたの?」と声をかける。朝子にも彼の驚愕の理由がわからない。透は取り繕うように、頭をがしがしと掻いた。


「……その、吹藤君って、楽譜が読めるんだ」


 呟くように言って、透は付け足すように「すげーな」と続ける。楽譜が読めることがそれほど驚きに値することなのかと、朝子は可笑しくなった。祥子以外には音楽に縁のない透ならば、無理もないのかもしれない。実際、朝子も風巳が初めてピアノを弾いた時には驚いたのだから、そういうことなのだろう。

 ただ驚いている透とは違い、祥子は微笑んだまま頷く。


「たしかに、それはこの前聞いた間宮祥吾の新曲よ。私、彼の楽曲が好きで。だから、それも思わず記憶を辿って書き起こしてみたの」

「すごい。簡単にそんなことが出来ちゃうんだ」


 ケーキの皿を手に持ち上げたまま、晴菜は祥子に尊敬の眼差しを送っている。


「私も小さな頃にピアノを習っていたけど、やる気のない子どもだったからすぐにやめちゃったな。もう少し続けていれば良かった。絶対音感も中途半端だから、和音になると聞き分けられないんですよね」


 晴菜は手にしていた皿を置いて、透から受け取った楽譜を眺めている。ひたすら「いいなぁ」と羨望していた。祥子は口をつけていたティーカップを置いて立ち上がる。


「とりあえず一曲披露してみようかしら」


 彼女は一つだけ身近に置いてあったケースから、ヴァイオリンを取り出した。どこか愛おしそうな仕草が、楽器への愛着を物語っている。手入れの行き届いた楽器は艶やかに輝きを放つ。

 ソファからは離れた位置に立ち、彼女はそっと絃を置いた。ゆっくりと滑り出す動きに合わせて、濁りのない音色が響く。切ないけれど、甘い音だった。


 朝子はすぐに懐かしさに捕らわれる。高校時代に良く聞いた間宮祥吾の曲だ。悲しいくらいに美しい旋律が、祥子の奏でる音に彩られて、いっそう胸に迫る。

 楽譜を必要とせず全てを暗譜している。間宮の楽曲を愛しているというのは、伊達ではないようだった。


 目の前のケーキに手をつけることも忘れて、四人は調べに聞き入ってしまう。

 やがてゆったりと音が消え落ちると、朝子は思わず拍手を送った。他の三人も同じ感動を与えられたらしく、惜しまず手を叩く。

 祥子は思いがけない喝采に恥ずかしそうに会釈をして、もう一度楽器をかまえた。奏でられる旋律が穏やかな波となる。こんなにも間近で聞いているのに、音は心地良く迫った。


 朝子は胸に抱えている危惧を忘れて、聴き入ってしまう。祥子は続けて二曲を披露してから、喝采に沸くソファへ戻ってきた。

 美しい調べに満たされて、朝子はひとときだけ透の身に起きた事件をすっかり忘れていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ