2:直筆の楽譜2
室内に足を踏み入れるなり、親友の晴菜は歓声をあげる。誰に対しても初対面の戸惑いがない彼女は、素直にはしゃいでいた。
ここにたどり着くまでのマンションの仕様を裏切ることなく、室内も完成されている。訪れた四人がちっぽけに見えるほど、リビングが広い。穏やかな色合いのなのに、華やかな印象がある。
「どうぞ、座って寛いでいて下さい。とにかく、何か飲み物でも淹れますね。食事も用意してあるんですけど」
祥子が傍らに据えられた開放的なキッチンへ入っていくので、朝子も晴菜と「手伝います」と後を追いかけた。
恐縮する祥子の傍らで器を取り出しながら、朝子はぐるりとリビングを見回す。向こう側の一角に、立派なグランドピアノが陣取っていた。壁面には楽器の入っているのだろうケースが、ずらりと立て掛けられている。中には箱に納められず、むき出しのままでヴァイオリンやギターが置かれている。
いかにも音楽家の部屋という感じがした。たしかに普通の乗用車では、これらの楽器を移動させることは出来ないだろう。
朝子は楽器を眺めているだけで嘆息が出る。
風巳はすすめられた大きなソファには掛けず、室内を向こう側へ進んで、楽器に歩み寄って熱心に眺めていた。まるで何かを探しているような仕草にも見える。
朝子は大きなソファに挟まれたテーブルに紅茶を乗せた盆を運んだ。ティーカップを並べていると、晴菜が自身のバイト先で調達してきたケーキを持ってくる。
「私、ここのお菓子大好き」
祥子は打ち解けた笑みを浮かべて、キッチンから出てきた。彼女が用意してくれていた夕食は少し後回しにして、とりあえずお茶の仕度が整う。
「風巳、お茶にしようって」
「ああ、うん」
朝子が部屋の向こう側に立っている彼に声をかけると、肩が一瞬驚いたように上下した。風巳は手に紙片を持っており、少し迷ってからそれを手にしたままソファまで歩み寄ってくる。
「これ、祥子さんが書いたの?」
隣に座った彼は、向かい側の祥子に紙を差し出した。朝子は晴菜と一緒に興味津々と覗き込む。それは直筆の楽譜だった。思いつくままを書き留めたようで、お世辞にも丁寧なものとは言えない。晴菜が思ったままを口にする。
「じゃあ、作曲とかやっているんですか」
「それは、……違うの」
迷いを振り切るように、彼女は答える。朝子が楽譜を手にしている風巳を見ると、彼は吐息をついた。
「じゃあ、この楽譜は祥子さんが書いたものじゃないんですか」
朝子はどこかで胸騒ぎを感じた。風巳の質問を誘導尋問のように感じるのは気のせいだろうか。彼は何かを導き出そうとしている。そう思えて仕方がなかった。
祥子は真っ直ぐに風巳を見つめ返して、小さく笑った。
「気がついたのね」
祥子にはうろたえている様子がない。傍らの透は風巳から楽譜を取り上げて、じっくりと眺めている。風巳は降参したように頷いた。
「そこに書かれている曲は、この前の公演で間宮祥吾が披露した新曲によく似ているから。似ているっていうか、同じ曲ですよね」
「――え」
透が凍りついたように動きをとめて、風巳を見た。あまりの狼狽ぶりに、晴菜が「どうしたの?」と声をかける。朝子にも彼の驚愕の理由がわからない。透は取り繕うように、頭をがしがしと掻いた。
「……その、吹藤君って、楽譜が読めるんだ」
呟くように言って、透は付け足すように「すげーな」と続ける。楽譜が読めることがそれほど驚きに値することなのかと、朝子は可笑しくなった。祥子以外には音楽に縁のない透ならば、無理もないのかもしれない。実際、朝子も風巳が初めてピアノを弾いた時には驚いたのだから、そういうことなのだろう。
ただ驚いている透とは違い、祥子は微笑んだまま頷く。
「たしかに、それはこの前聞いた間宮祥吾の新曲よ。私、彼の楽曲が好きで。だから、それも思わず記憶を辿って書き起こしてみたの」
「すごい。簡単にそんなことが出来ちゃうんだ」
ケーキの皿を手に持ち上げたまま、晴菜は祥子に尊敬の眼差しを送っている。
「私も小さな頃にピアノを習っていたけど、やる気のない子どもだったからすぐにやめちゃったな。もう少し続けていれば良かった。絶対音感も中途半端だから、和音になると聞き分けられないんですよね」
晴菜は手にしていた皿を置いて、透から受け取った楽譜を眺めている。ひたすら「いいなぁ」と羨望していた。祥子は口をつけていたティーカップを置いて立ち上がる。
「とりあえず一曲披露してみようかしら」
彼女は一つだけ身近に置いてあったケースから、ヴァイオリンを取り出した。どこか愛おしそうな仕草が、楽器への愛着を物語っている。手入れの行き届いた楽器は艶やかに輝きを放つ。
ソファからは離れた位置に立ち、彼女はそっと絃を置いた。ゆっくりと滑り出す動きに合わせて、濁りのない音色が響く。切ないけれど、甘い音だった。
朝子はすぐに懐かしさに捕らわれる。高校時代に良く聞いた間宮祥吾の曲だ。悲しいくらいに美しい旋律が、祥子の奏でる音に彩られて、いっそう胸に迫る。
楽譜を必要とせず全てを暗譜している。間宮の楽曲を愛しているというのは、伊達ではないようだった。
目の前のケーキに手をつけることも忘れて、四人は調べに聞き入ってしまう。
やがてゆったりと音が消え落ちると、朝子は思わず拍手を送った。他の三人も同じ感動を与えられたらしく、惜しまず手を叩く。
祥子は思いがけない喝采に恥ずかしそうに会釈をして、もう一度楽器をかまえた。奏でられる旋律が穏やかな波となる。こんなにも間近で聞いているのに、音は心地良く迫った。
朝子は胸に抱えている危惧を忘れて、聴き入ってしまう。祥子は続けて二曲を披露してから、喝采に沸くソファへ戻ってきた。
美しい調べに満たされて、朝子はひとときだけ透の身に起きた事件をすっかり忘れていた。